モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。 作:rairaibou(風)
モモナリがヴァイオリンを習うことに決めた一週間後。
再びタマムシ郊外の別荘を訪れたモモナリは、小脇に抱えてきたその楽器ケースを、ご機嫌に彼らに提示した。
「買っちゃった」
無邪気にそういう彼が雑にそれを開いてみせたのを見て、ミヒロと青年は心の底から驚いた。
「これを、買ったんですか?」
ミヒロと青年は、その経済的状況から見る目が肥えているとは到底言えないであろうが、少なくとも楽器の良し悪しであったりとか、例えばショーウィンドウからそういうものを覗き込んでうらやましがるような欲望から、彼のそれが、楽譜を読むことすら出来ないような素人が手にして良いようなものであるとは到底思わなかった。
「初心者が買うには高すぎる……」
「そう? じてんしゃ三台分くらいだったよ」
改めて、ミヒロは目の前の男がプロでしのぎを削るトレーナーだということを認識した。彼が母から送られ愛用しているそれより、二倍以上の価値があるだろう。
「一応、楽譜は読めるようにしてきたんだよ」
モモナリは得意げに懐からプリントを取り出し広げた。
「ええと……ラ……ミ……レ……ド……」
青年はその姿に絶句した。先週は傲慢な男だと思っていたのだが、今週は、ただの阿呆なのではないかとすら思える。
「これをどう弾くかがわからないんだよなあ」
モモナリは、いかにもそれが自分のものであるかのように、否、たしかにそれは彼のものなのであるが、とにかく彼はそのものの価値など知らぬと言ったふうに、そのヴァイオリンを手にした。青年がハラハラしたのは言うまでもない。
「それじゃあ今日はそれぞれの音の出し方を練習しましょう」
「そうだね、頼むよ、音が出せるようになれば、少しは家での練習も楽しくなりそうだ」
「家でも練習してるんですか?」
「当然、寝てるときと飯食ってるときとバトルしてるとき以外は練習だよ」
ミヒロと青年はそれをちょっとした冗談だと感じ、それでも彼のヴァイオリンに対する熱意に対して笑いを漏らした。
☆
更にそれから一週間後。同じくタマムシシティ郊外。
「少し弾けるようになったんだ」
モモナリは練習の成果を披露しようとヴァイオリンを構える。ミヒロと青年はその姿勢にも少し言いたいことがあったが、とにかく話を先に進めてみる。
「まあ聴いてみてよ」
ところがだ、見るからに美しいそのヴァイオリンから奏でられるその音は、まるでガラスをひっかくような不協和音であった。
ミヒロと青年は顔をしかめ、ソファーに座っていたゴーリキーは鳥肌を、オニドリルは更に鳥肌を極め、もう何も見たくないといったふうに顔を手と羽で覆っていた。
「やっぱりまだまだ練習不足で、君みたいに良い音は出ないんだよね」
とうのモモナリはその音の異常さにあまりピンときていないようだった。彼はその『まだまだ先生には程遠いけどそれなりに頑張ってるでしょ?』というスタンスの表情でミヒロを見るのだ。
「ええと」と、ミヒロは反応に困った。
それもそのはずだ、そもそも彼はヴァイオリンにおいて、そのような音を出したことがない。
「誰かに聴いてもらったことはあります?」
ミヒロの苦悩に気づいた青年が助け船を出す。
「ああ、家ではゴルダックがよく聴いてくれるんだよ、だいぶ気に入ってくれてるみたいで、いつも聴き入ってる」
そう言うと彼は「ほら、こんなかんじに」と、ゴルダックを繰り出した。
驚くことに、彼がモンスターボールに手をやったことに、ミヒロと青年は気づくことが出来なかった。
現れたゴルダックは、一瞬だけゴーリキーとオニドリルを見やった後に、その場に座り込む。
そして、不意に始められたモモナリの『演奏』に対して、再び顔をしかめるミヒロ達を尻目に、ゴルダックは座り込んだままに手を組み、目を閉じたのだ。
おそらく楽譜の一部が終わるまでであろうが、モモナリの『演奏』はしばらく続いた。その間もゴルダックが取り乱すことはなく、じっとしている。
やがてその『演奏』が終わった後、「ね?」と得意げにゴルダックとミヒロとを見比べた。
「ううん」と、ミヒロは唸った。
これは、どう考えても、このガラスをひっかくような音を都合のいい妨害音としてそれに負けぬ瞑想を極めているだけのように見える。
ミヒロは不思議に思った。
モモナリは、それこそポケモンの機敏に対して自分なんかよりも遥かに敏感なはずだ。ならばどうして、モモナリはそれに気づかないのか。
得意げなモモナリを眺めて、ミヒロは気づいた。
モモナリには、自らが出している音が『不快』であるということの認識がないのだ。
その認識がないから、まさかゴルダックが自分の『演奏』を『不快』に思っているとは思わない。
彼の致命的な音楽センスが、この悲しいすれ違いを生んでいたのだ。
「ええと」と、ミヒロはどうすればいいのか悩んだ。
不思議な感覚であった。
☆
「どうして君が呼ばれたか、わかっているかね?」
その初老の男は、対面に座るモモナリに対して、少しばかり強めた声で言った。
だが、モモナリはその強めた声に気づくことなく、首をひねりながら答える。
「もうひとり子供がいるんですか?」
「馬鹿なことを言うな」
男は怒鳴りつけることだけはなかったが、それでも、モモナリ相手に鼻を鳴らしながら叩きつけたその言葉は、彼をよく知る人間が聞けばたちまちにモモナリの身を案じてしまうような、そのような力のあるものだった。
だが、やはりモモナリはそれに気づかない、尤も、気づいたからといってへりくだるようなことはないだろうが。
「私は息子に君の技術を教えろと言った、息子にヴァイオリンを教われと言った覚えはない」
モモナリは少し驚いてそれに答える。
「どうして知ってるんです?」
「別荘の近隣住民から苦情があった。『あの酷いヴァイオリンの音はなんだ』とな」
その言葉に、モモナリは更に驚いた。
「ちょっと待って下さい、まさか俺のヴァイオリンが『酷い音』だって言うんですか?」
「そうとしか考えられんだろう」
「だってミヒロくんもヴァイオリンを弾くじゃないですか」
「それこそ馬鹿なことを言うな」
男はそれについてさらに何かを告げようとしたが、少し表情を険しくして一つ咳払いをした後にモモナリを睨みつける。
「とにかく、君がヴァイオリンを弾いていることはわかっている」
モモナリはそれに憮然としながらも、否定はしなかった。
更に男が続ける。
「なんのつもりだ?」
「なんのつもりも何も、あなたと同じですよ」
「私と?」
「あなたが俺の技術を欲しているように、俺もミヒロくんの技術を欲している。ただそれだけ」
はっ、と、男はそれを鼻で笑った。
「君のような男がヴァイオリンの技術を欲しているだって、まるでくだらない話だ」
「くだらなくはないでしょう、現に俺はどうやらヴァイオリンを上手には弾けないらしい」
「くだらないさ、あのような女々しい趣味に、一体何の価値がある」
「俺は女々しいとは思いませんけどね」
モモナリは憮然とそう返した後に、一つ身を乗り出して男に問う。
「もしかして、あなたは美しいことに価値がないと考えるタイプで?」
「全く価値がないことだとは思わんさ、美しい女を何人も侍らせることは、男のステータスでもある。だが、所詮は女のものだ、強さには関係がない。男が身につけるものではないだろう」
「妙なことを言うなあ」
モモナリはまるでわからないといった風に頭をかいた。
「俺は楽器のことはよくわからないけれど、美しい音色を奏でるには才能と努力が必要でしょう、俺が持っているものとは違うでしょうが、それは立派な強さですよ」
そして、彼はじっと男と目を合わせながら続けた。
「あなたと一緒でね」
男は、モモナリの言うことを一瞬理解できなかった。
女々しいと切り捨てるように、彼には音楽の経験などなく、演奏することのできる楽器も限られているだろう。
だが、モモナリのその言葉が、なんとなく、自らの尊厳を攻撃しているものであることは、彼の優れた人生経験から理解できていた。
「どういうことかね?」
声質を変えながら、男は問うた。
モモナリは音の声質が変わったことを理解しつつも、とくに表情を変えることなく答える。
「よくわからないけど、クロサワさんがあなたと付き合ってるということは、あなたも何らかの形で『強さに変わるもの』を持っているということなんでしょ? そういうところが、ミヒロくんと同じだと言うんです」
「私が、少しヴァイオリンの心得のある子供と同じだと?」
「俺から見ればね……いや、厳密に言えば違うけど」
モモナリは次を告げるために息を吸い込んだ、お前は少し変な考え方をしているから、喋りすぎるくらいが丁度いいというクロサワの忠告を、彼は守っている。
「別に俺は、あなたに憧れてるわけじゃないし」
自らを軽んずるその発言に、男は激昂よりも先に困惑の感情を覚えた。この十数年、冗談でも自分にそのような態度を取る人間がいただろうか。
そして、聡明なその男は、モモナリと自らの認識の差に気づいた。
彼はソファーに座り直して答える。
「……君からすれば、私も女々しい人間の一人ということなのかね?」
男は、剛腕とも称される行動力による社会的な成功により、自然と、自らはモモナリのような『チャンピオンロード世代』の領域にいると、ほぼ確信していた。
だがどうやら、モモナリはそうは思っていないらしい。
「別に女々しいとは言いませんよ」と、モモナリは答える。
「ただ、別にあなたは『強いトレーナー』ではない。バッジは幾つ持ってます?」
「四つだな」
「今でもバトルを?」
「いや、もう自分ではやってない。身を守る術はもっぱらボディガードだ」
「ああ、二人ほどいましたよね。あんまり面白い人たちではなかったですけど」
「もう一人増やすべきかね?」
「トレーナーが増えたからと言って強さが単純な足し算になるわけじゃないですよ、現に、彼らが二人でも俺には勝てなかった」
「『チャンピオンロード世代』の意見として……例えば君から自らの身を守ろうとすれば、何が最も効率の良い手段かね?」
モモナリは、背もたれに体重を預けて暫く考える。
「単純に、俺より高い順位のリーグトレーナーをボディガードにするとか」
「それができるなら苦労しないだろう……それ以外なら?」
「争わなきゃいいじゃないですか」
至極、明確な返答であった。
だが、それはモモナリがその男に突きつける最大限の傲慢でもあっただろう。
争うな。
それは、最も一般的な倫理観の中に存在する概念のように思えるだろう。喧嘩をするな、争うな、仲良くしろ。そんなもの、トレーナーズスクールで状態異常を学ぶような子供達でも理解している。
もちろんその男も、その倫理観を理解はしているだろう。
だが、その男は、それがいわゆる建前であることも理解していたのだ。
我を通すことはいわゆるひとつの競争、争いであり、それこそが、その男をその男足らしめているもの。
争うなということはすなわち『逆らうな』と言われているのも同じなのだ。
『自分の身がかわいければ、俺に逆らうな』
つまりモモナリは、その男に向かってそう言い切ったも同じなのだ。
だが、男はその、自分よりも二周り以上年下の若造のそのような生意気な失言に、腹を立てるどころか、異議を唱える気力すら無くなっていた。
「……君たちは、全員そのような考えなのかね?」
それは、誰もが口にしないからこそ忘れられていた。その男が、自分はモモナリと同じ目線を持っていると妄信的に確信できてしまう程度には、その事実を、皆が忘れていたのである。
モモナリは、その質問に小さく笑いながら答える。
「若い子はそうでもないでしょう。大人しいから」
男としてはまだまだ若いモモナリが表現する『若い』とは、つまり自分たちよりも後輩『非チャンピオンロード世代』のことだろう。
「それなら、クロサワくんはどうかね?」
彼は付き合いのある『チャンピオンロード世代』の名前を出した。
気のいい男だった。酒の席を共にし、全身から溢れ出る強者のオーラを惜しげもなく見せつけてくれる男であった。
彼もまた、自らを『捕食の対象』と見なしているのだろうか。
「いやいや」と、モモナリはその問いに首を振った。
「あの人は、優しい人ですから」
その返答に、男はため息を付いた。
ポケモンリーグ一の無頼派、道を歩けば海が割れるように誰もが道を譲るクロサワを捕まえて、優しいなどと表現できる人間が、果たしてどれだけいるだろうか。
「君は、私が思っているよりも随分……飛び抜けているようだ」
モモナリは、その言葉にいまいちピンときていないようで、首を傾げながら、真っ先に思ったことを口にする。
「でも、あなたはミヒロくんをそうしたいんでしょう?」
「……話が、随分ずれてしまったね」
男は再びソファーに座り直して言った。
すでに、モモナリを相手に主導権を握ることは諦めていた。むしろ、それこそが、彼の肩の力を抜いていたのかもしれない。
ある意味で、彼はもうモモナリの前で気を張る必要など無いのだ。
「もう、辞めろとは言わないよ。君は君のできることをやってくれればそれでいい。ただ、教えてほしい。なぜ、あの子にヴァイオリンを習おうと?」
「趣味が欲しかったんですよ。寝ていないときに、暇を潰せるような」
「そういうことじゃない……君ならば、まだ手習い途中の子供ではなく、もっと優れた講師の授業を受けることだってできるだろう? そのほうが効率がいいし、私としても、そのほうが君はよりあの子へ授業に集中できると思うのだがね」
「ああ、そういうことか」
モモナリは少し微笑みながら目を瞑ってそれを回想する。
思い出すのは、ソファーに座るゴーリキー、オニドリル、青年、そして、その音色を奏でるミヒロの姿そのもの。
「彼等が、あまりにも、楽しそうだったから」
☆
「一つ聞きたいんだ」
タマムシシティ郊外、別荘にて。
不釣り合いなヴァイオリンを構えたモモナリは、ミヒロと青年、そしてソファーに座るポケモンたちをぐるりと見回してから続ける。
「俺のヴァイオリンの音って、酷いの?」
その問いに、部屋は緊張感を帯びる。
そりゃ酷いよ、と、誰もが口を揃えて言いたかった。
だが、相手はリーグトレーナー、強さの象徴、かなりヴァイオリンに入れ込んでいるようで、すでにじてんしゃ三台分の投資をしている。
とてもではないが、その真実を伝える気には慣れない。
「ミヒロくんほど綺麗な音が出ているわけではありませんが、まだ習い始めですし、そのようなものですよ」
ミヒロに変わって、青年が助け船を出す。
いつものモモナリならば、それに納得していただろう。
だが、今日の彼は違う。
彼はじろりとソファーに座るゴーリキーとオニドリルに視線を向けた。
半ば睨みつけるようなそれに、ゴーリキーとオニドリルは冷や汗を流しながら気まずそうにそれぞれ同じ方向に目を反らした。
「そうか」と、モモナリはわかりやすく項垂れた。
「ということはあれか、ゴルダックはこの酷い音を瞑想に利用していたということか」
どうやらモモナリの中ですべての現象に合致がいったようだ。
ミヒロと青年がどうやってモモナリを励まそうかと考え、それを実行に移すよりも先に、モモナリがぱっと顔を上げて続ける。
「君のお父さんに注意されたんだ、その酷い音をどうにかしろってね」
「お父様が、ですか」
「そう、ミヒロくんだってヴァイオリンを弾いてるじゃないかって言ったんだけど、馬鹿なことを言うなとすぐに否定されたよ。お父さんも、君のヴァイオリンが上手いことは知ってるんだね」
「まさか」と、ミヒロはその言葉に嬉しそうに微笑みながらそれを否定した。
「本当さ、少なくともお父さんは、君が酷い音を出すとは思っていないようだ」
ミヒロと青年はそれを意外に思った。
少なくともこれまで、彼の父はミヒロのヴァイオリンに関しては無反応、ほとんど無視であったし、モモナリを寄越したように、ミヒロには強さを求めているようだったのに。
「ところで」と、モモナリが続ける。
「コンテストは来週だろう?」
「ええ」と、ミヒロはそれに頷く。
「是非とも、俺もそれを見たいんだが、何とかならないものかな」
「ああ、それなら、多分保護者席が開放されているでしょうから、そこになら入れるはずです……誰も来ないでしょうし、一人くらいなら大丈夫でしょう」
目配せするミヒロに、青年も頷く。
「僕が話を通しておきましょう」
「そりゃあ良かった」
モモナリは満足げに微笑んだ。
そして、彼はミヒロと目を合わせて続ける。
「緊張するかい?」
ミヒロは、おそらく初めてであろうモモナリからのコンクールへの言及に一瞬驚きながらも、強がることなく「ええ」と答えた。
「緊張しますよ」
彼は一つ頷いてから続ける。
「結果が出れば、お父様にヴァイオリンを続けさせてほしいと言うつもりなんです」
「はあ、なるほどね」
「モモナリさんは、緊張したときにどうしていますか?」
その質問は、プロの世界で戦うモモナリに求めるものとして適切のように思えた。
だが、彼は首を傾げてそれに答える。
「さあ、バトルの時はあまり緊張したことがないから」
そう答えたが、さすがのモモナリも、それがミヒロの求めるものではないことは理解しているらしく、一拍おいてから続ける。
「好きなことを、好きなようにやればいいんだよ」
「好きなこと、ですか」
「そうとも、君は楽しそうにヴァイオリンを弾く。君は見るからにヴァイオリンが好きだし、ヴァイオリンを弾くことを疑っていない。それを、そのままコンクールでもすればいい」
ミヒロはそれに頷いたが、その意見は、モモナリにしては珍しく月並みなものだった。
だが、彼はさらに続ける。
「お父さんに認めてもらうとか、そんな事は考えなくていい。いや、そもそも、君がヴァイオリンを続けるために、誰かの顔色を伺う必要なんて無いんだ」
その言葉は、少なくとも先程に比べれば月並みではない。
しかし、とそれを否定しようとしたミヒロを遮って更に続ける。
「君が誰かのためにヴァイオリンを弾く必要なんてどこにもない。君が弾きたいように、君が聴かせたいようにすればいい。バトルに関して、俺はずっとそうしてきた、好きなバトルを自分のためにやってきた。誰かのために戦ったことは殆どない、自分がやりたいときに、やりたいように戦った。そうしたら、いつの間にかこういう立場になった」
モモナリはミヒロの肩を叩く。
「後は、信じろ」
「信じる、何をです?」
「両思いであることを信じろ」
両思い、と、ミヒロは再び首をひねった。
「戦いが強い奴ってのは、戦いが好きで、そして、戦いにも好かれてる奴だ。恐らく、ヴァイオリンもそうだろう。君は君がヴァイオリンを好きであることを信じ、ヴァイオリンが君を好きであることを信じろ。緊張というのは、それを少しでも疑う奴が感じる不安なんだ」
その言葉は強い。だが、誰もが受け入れられる言葉ではないことをミヒロと青年は理解できる。
「もし」と、まるでミヒロの代わりに質問するかのように、青年が声を上げる。
「もし、ヴァイオリンに愛されていなかったときにはどうするんです?」
モモナリはそれにさして考えることもなく答えた。
「何でもできるでしょ、次を探してもいいし、愛し続けてもいい、そんな事は振られてから考えなよ」
やはりそれは、強い言葉だった。
☆
タマムシホール、二階、保護者席。
そこは、ある意味で、参加者本人よりも人生の悲哀に満ちている場所であるかもしれなかった。
「死んだわけでもあるまいし」
その悲哀から少し離れた席にて、背もたれに体を預けながら思わずそう呟く。モモナリにとって、そこはあまり好ましい雰囲気ではなかった。
「ねえ?」と、彼は隣に座る男に同意を求めた。
室内であるというのにサングラスを外さぬその男は、モモナリの言葉に鼻を鳴らしながら「君にはわからんだろうさ」と返す。
「愛する子供のためか、はたまた膨れ上がりすぎた自らのプライドのためか……とにかく彼等の中には、一つの莫大な投資に敗北した者もいるということだ」
「へえ」と、モモナリはその返答を意外に思った。
「気持ちがわかるんです?」
「私だって一人の親であることから逃げられんということだ。妻との間にできた子供には随分と投資したよ……その殆どが無駄と言っても良かったが」
彼がここであえて『妻との間』という言葉を強調したのは、ミヒロがそうではないということを、モモナリレベルの人間にもわかるように配慮したからだろう。
「それなら、どうしてミヒロくんには投資しないんです?」
男は、モモナリのその問いがバトルに関してではなく、ヴァイオリンに関してのものであることを理解していた。
理解しているからこそ、男はそれに対する返答に躊躇しているようだった、そして、モモナリは男の答えを待っている。
男はため息を付いた。普通ならば、これだけ時間を書けた時点で相手が察してその質問を引っ込めるというもの。だが、モモナリを相手に、その理屈は通用しない。
このまま黙り続けていようかとも考えた、しかし、それも無駄だろう。彼は自分がその答えを出すまでそこに居続けるだろうし、それにいらつくことがあれば、答えを急かすように『お願い』してくるかもしれない。普段とは違う、今は自分こそが圧倒的な弱者なのであるから。
「信じられんだろうが、私は芸術に理解がある」
その答えに、モモナリは首をひねった、芸術に理解のあることと、ミヒロに投資しないことは、相反する行為にしか感じないからだ。
「ミヒロくんのヴァイオリンは下手なんで?」
その中からモモナリがひねり出した結論は、その男が、ミヒロのヴァイオリンを評価していないということだった。
それをあえて問うたのは、彼が音楽の良し悪しをわからないからだ。
「まさか」と、男はそれを鼻で笑う。
「いつだったか、初めてあの子の奏でるヴァイオリンを聴いたとき、私はそれに聞き惚れた。そして、それは今日も同じ」
男はそこでやはり口ごもりながらも、続ける。
「もし今日、ミヒロになんの結果も出なければ、芸術に対する冒涜だと私は怒り狂うだろう」
「才能を、認めているんですか?」
やはりモモナリはそれに首をひねる。
「ああ、認めているよ」と、男はそれにすんなりと答える。
「母親譲りだ。軽く、踊るように、いい音を出す」
男は、モモナリが何も返さないことを確認してから続けた。
「それなりの地位を得るまで、私は芸術とは無縁だった。塗り絵を塗ることも出来ず、縦笛で簡単な曲を奏でることも出来ない。そして何より、それを恥だと思っていなかった。私が欲しかったのは力だったから……君はどうかね?」
モモナリはその問いに微笑みながら返す。
「まあ、興味はありませんでしたね」
「そうだろう、いかにもそのようなタイプだ」
男は更に続ける。
「戯れに芸術というやつと触れ合ったのは少しばかり余裕ができてからだった。最初は下らぬ貴族の遊びに付き合う程度のものだったが、やがて、それなりに楽しめるようになった。皮肉なものだが、私にはそれなりに芸術を見る目というものがあったらしい」
男はさらにモモナリに問う。
「優れた芸術とは何かと思うかね?」
「さあ」
「優れた芸術とはね、熱意だよ……もちろん、私がそう思っているだけかもしれないが」
「ますますわからん。そこまで言っておきながら、どうしてミヒロくんにヴァイオリンを辞めろと?」
「もう少し話を聞け……いや、聞いてくれ」
男のその懇願に、モモナリは頬をつく手を入れ替えた。
それを譲歩だと理解し、男は更に続ける。
「いつの時代もそうだが……多くの芸術は生きていけない。私のような立場の人間がよく芸術に触れるのも、言い換えれば、我々こそが芸術を『生かす』立場にあり、芸術家は『生かされる』立場であるからだ」
男はステージ、先程までミヒロたちが演奏を披露していた場所を眺めながら続ける。
「あの子の母もそうだった」
モモナリは、その言葉に少し緊張感を持つ。
「良い音を出す女だった。ヴァイオリンへの熱意と、それに対する献身と、それ故に返される芸術からの寵愛を受けている。そんな女だった。だが、彼女の生活状況はその熱意に釣り合うものではなかった。社会から寵愛を受けるような大層な生まれではなかったのも関係したのかもしれない」
一拍おいて続ける。
「要するに食えてなかったのだ。私が近づかなければ、いずれそのヴァイオリンすら手放すことになっていただろう。尤も、人より体の弱かった女だ、それを手放したところでまともな生活が送れたとは思わんが」
「へえ」と、モモナリは身を乗り出して相槌を打った。彼は社会を知っている方ではなかったが、それでも、その二人の関係をなんとなく推測することは出来ただろう。
「私がヴァイオリン……芸術を女々しいというのはそういうところだ。いかに『うつくし』かろうが、それは所詮『力』に屈するほかない。他人ならともかく、形はどうあれ私の子に、そんな人生を送らせたいと思う親がどこにいる? ましてやあの子は私の血を最も濃く受け継いでいる、この世を強く生きる権利があの子にはあるのにだ」
つまり、男はヴァイオリンというもので身を立てることの困難さを知り、子供にその道を歩んでほしくないということだったのだ。
ようやく男の言いたいことを理解したモモナリは「ふうん」と唸り、一人頷きながら考える。
そして彼は言う。
「でも結局、ミヒロくんのお母さんは、ヴァイオリンの力であなたと出会ったわけなんでしょ?」
男が沈黙をもってそれを肯定するのを確認して続ける。
「それって結局、強かったんじゃないですか?」
少しばかり沈黙。
男はその言葉に僅かな憤りを感じていた。
そのようなこと、この人生の中で考えなかったわけではない。
否、むしろ、彼女についてそう考えることは、そう考えることこそが、彼女のヴァイオリンに対する熱意に対しての救いであった。
だが、男は首を振る。
「人間は、一人で生きていかねばならないのだ。君達のように」
「変なことを言いますね」
モモナリはくああと一つあくびをして答える。
「俺達だって一人で生きているわけじゃない。一緒に戦ってくれるポケモンたちがいて、自分たちの強さを知るために戦う相手がいて、初めて俺達として存在できる。そういう点では、俺達とあなた達は変わらない」
彼はちらりと時計を見やった。結果が発表されるとしている時間まで、あと半時間ほどであった。
「あなたはね、『うつくしいこと』を勘違いし過ぎなんですよ」
一拍おいて続ける。
「『うつくしい』すなわち『弱い』ではないですよ、それは俺が保証します」
もし、それを言ったのが、部下や、街の占い師などであったならば、男はたちまちのうちにそれを笑い飛ばしていたであろう。
だが、それを語るモモナリの口調は鋭く、そして、目は真剣そのものであっただろう。
「もったいないですよ」と、彼は続ける。
「好きで才能もある。それ以上のことなんてありゃしない。少なくとも、苦手なバトルをやらせるよりかはね」
その言葉に「そうか」と、男は頷く。
「バトルの才能はなかったかね。これまでの家庭教師からそのような話は聞いていなかったが」
「才能がないってことはない、頭が良いし、ポケモンの表情にも気付ける。ですが、ポケモンに対して優しすぎるから向いていない。才能がないわけではなくバトルが『苦手』なんですよ」
「そうか」
男はサングラスを外し、ホールの天井を眺めながら続けた。
「そういうとこばかり、母親に似るんだな」
何かを思い出すように頷いて、モモナリに問う。
「家庭教師は、辞めにしよう」
「それが良い」
やけにあっさりとそれを受け入れたモモナリに男は驚く。
「あっさりと受け入れるね。君にとっては収入が減ることになるというのに」
「だって可愛そうでしょ、苦手なことをやらされるなんて、あまりにも気の毒だ」
モモナリはジャケットの内ポケットから少しシワがついてよれた紙切れを取り出す。
「じゃあ、これに一ヶ月分を」
それは、未だに白紙のままの小切手であった。
「これは、君の自由に記入していいと言ったはずだが」
「いやあ、そうしたいんですが、俺はこれの相場がわからなくてね」
「いや、だから好きな額を」
「これはあなたが書くべきだ。この一ヶ月、俺はミヒロくんにそれなりに教えられることを教えた。人間が、技術に払うべき敬意の金額を、教えてほしいんですよ」
恐ろしい提案だな、と、男は寒気に震えるような気分になった。
「少し、時間をくれないか?」
「良いですよ、まあ、結果が出るまでには書いてほしいですが」
☆
「結果、出たんだね」
タマムシホール、一階、ロビー。
小切手を懐に収め、ヴァイオリンケースを小脇に抱えたモモナリは、すぐさまにミヒロを探し出して声をかけた。
もちろんそれは、コンクールの結果を待つ人物に対して配慮のある言動ではない。
「ええ」
しかし、ミヒロはその言葉に緊張感を震わせる事なく、涼しい表情でモモナリを受け入れた。そして、その涼しい表情は、彼がステージで見せていたものと同じだ。
「そうか」と、モモナリは人の群がる壁に目をやり、そして、ある一点でその視線を止め、満面の笑みとなった。
「やっぱり、思ったとおりだ」と、モモナリはミヒロに向かって微笑みながら続ける。
「楽しそうだったもの」
ミヒロがその言葉に礼をいうよりも先に、モモナリはヴァイオリンケースを開いてそれを取り出す。
「それでは、君をお祝いして」
それを構えるまでの動きは素早く、ミヒロはそれを止めることが出来なかった。
次の瞬間、ロビーに響き渡ったのは、まさに『いやなおと』だった。
ロビーにいた面々は、突然のそれに顔をしかめ、それぞれの方法で『不快』を表現する。
それが、下手くそなヴァイオリンであることは皆が理解していただろう。そして、今このロビーには幾多ものヴァイオリンがあるはずだから、それが演奏されることは、まあ常識非常識の観点はともかくとしてありえる。
だが、それが『いやなおと』であることはありえない。少なくともここにあるヴァイオリンたちは、そのような音を出さないことを条件にここにあるのだから。
故に、彼等はすぐにそれがモモナリから発せられていることに気づいた。だが、彼等がポケモンリーグに明るいはずもなく、突然にヴァイオリンから『いやなおと』をさせる彼に対して、恐怖心すら抱いていた。
「どうかな?」
意外にも、ミヒロは他の人間ほどにはそれを不快には思っていなかった。
もちろん慣れもあるだろうが、前に聞いたそれに比べれば、多少の改善があったからだ。
だが、それはあくまでも多少だ。
大の大人が習って出すような音ではない。
「モモナリさん」と、彼はモモナリに微笑みかける。
わかったことがある。
自らに、才能があることを、ヴァイオリンから愛されていることを自覚したがゆえに、理解したことがある。
それは、音楽のセンスのないモモナリが、これ以上これを続けることは、かわいそうだということ。だれかがそれを告げなければならないのだろうということ。
「あなたは、ヴァイオリンが『苦手』です」
否定ではない、嘲笑でもない。それは優しさだ。
「ああ」と、モモナリはそれに頷いてヴァイオリンを下ろす。
彼は、ミヒロがそういうのならばそうなのだろうと、それを受け入れたのだ。
「やっぱりか」
彼はそれを丁寧にケースに収めた。
そして、彼はそれをミヒロに差し出す。
「じゃあこれ、あげるよ」
あまりにもぐいと差し出されたので、ミヒロは、ついそれを受け取ってしまった。
そして、受け取った後に、事の重大さを理解する。
「いや! いやそんな! 貰えません!」
彼はそのヴァイオリンの価値を知っている。こんなものをひょいと他人に、ましてや出会って一月の人間に手渡していいはずがないし、そんな事ありえない。
「いいじゃん、貰っときなよ」と、モモナリはすでに他人事のように言う。
「このままタンスの肥やしになるくらいなら誰かに使ってもらったほうが良いし、誰かに使われるなら、君に使ってほしい」
「だけど」と、ミヒロは珍しく年齢相応のつぶやきを漏らした。
そりゃ欲しい、欲しいに決まってる。
だが、これはあまりにも幸運すぎる。こんな幸運が、まだヴァイオリニストとして半人前の自分にあっていいはずがない。
ぐるぐると混乱する頭の中から、彼は叫ぶように言った。
「サインを!」
首をひねるモモナリに続ける。
「ケースにサインを書いてください! そうすればこれはあなたのもので、あなたはこれを僕に貸してくれるんです!」
支離滅裂な文法であった、それほどにまで、彼は混乱しているのだろう。
だが、モモナリはなんとなくであるがそれを理解できたようだ。
それを理解した上で、モモナリは首を振る。
「サインペン持ってなくて」
「サインペンあります!」
ミヒロはケースを落とさぬようにワタワタしながら、ジャケットの内ポケットからそれを取り出した。名のあるリーグトレーナー相手にサインを求めぬのは失礼だろうと思いながらその機会を失い続けていたそれは、ようやく日の目を見る。
「いやあ悪いね」と、モモナリはそれを受け取り。なんの躊躇もなくそのケースにそれを走らせる。
「最後に書いたのはだいぶ昔だから、崩れているかもしれないけど」
慣れぬ革に何とかそれを書き、珍しく気が利いたのか直接ミヒロの胸ポケットにサインペンを戻した彼は「ああそうだ」とつぶやき、今度は自分の内ポケットに手を入れる。
「これ、ヴァイオリン教室代ね」
すこしシワがついてよれた紙切れをミヒロの胸ポケットにねじ込む。
彼がそれが小切手であることに気づき、その金額を確認するのは、それからもう少ししてからだった。
なぜならば、彼がそれに質問するよりも先に、モモナリが「それじゃ」と手を上げたからだ。
「あ、待ってください!」と、彼を見送ろうとしたミヒロを、モモナリは制した。
「見送りは良いよ。君はもう少しここにいると良い。なに、悪い話じゃないだろうから」
モモナリの視界の隅には、室内だと言うのにサングラスを外さぬ男があった。
☆
「モモナリさん!」
手軽なままにホールを後にしたモモナリに、背後から声をかけるものがあった。
特に警戒することもなく彼が振り向くと、そこにいたのは、ミヒロのヴァイオリンのコーチである青年だった。
「どうしたの?」
「一言、お礼を言いたかったんです」
息を落ち着かせながら、青年が続ける。
「さっき、彼のお父さんから連絡があって、僕はミヒロ君のコーチから外されることになりました」
それにモモナリは「ああ」と返事した。
「お礼って、お礼参りのこと?」
「いえそんな! とんでもない!」
青年は必死にそれを否定して答える。
「今度から、ミヒロくんにプロのコーチをつけると言ってたんです。あの人がミヒロくんを認めたんですよ」
「でも君は収入を失うじゃないか」
モモナリのその言葉に、青年は少しムッとして返す。
「そんなことは微々たる問題です。僕は、ミヒロ君の才能が埋もれないことが嬉しいんです。彼を指導するのに、僕は明らかに力不足だった。僕は彼よりも楽しくヴァイオリンを弾けないだろうから」
「だから」と、彼は続ける。
「だから、どうしても一言モモナリさんにお礼が言いたかった。多分あなたがお父さんを説得してくれたんでしょう」
なるほど、と、モモナリは理解した。
その青年は、勘違いしているのだ。
「お父さんを説得したのはミヒロ君のヴァイオリンそのものだよ、俺じゃない」
「つまり」と、続ける。
「ミヒロ君と、君だね」
「僕が?」
青年はキョトンとしていた。
「そうとも」と、モモナリは続ける。
「彼にヴァイオリンを教えたのは君だ」
青年は、その言葉を素直に受け取ることも出来ただろう。
だが、彼はそれに首を振る。
「僕はほとんど彼に何かを教えたわけではない、彼がぐんぐんと成長していっただけ」
「いいや、あんたは、彼がヴァイオリンを好きでいることを辞めさせなかった。ずっとね」
青年の表情を確認しながら、モモナリは続ける。
「結局、俺は彼にバトルを好きにさせることは出来なかった。だが、あんたは彼のヴァイオリンに対する愛を否定しなかった。才能を、潰さなかった。だからこそ今日がある、俺とあんたと、どちらが良い家庭教師かなんて、一目瞭然だよ。少なくとも、俺はあんたに敬意を払う」
青年は、信じられない、と顔に書いてあるような表情を見せる。
それを見て「はあ」と、モモナリはため息を付いた。
「今更疑うなよ、先生」
彼は青年に背を向け、帰路につき始める。
その背中が小さくなるまで、青年は、モモナリに頭を下げ続けていた。
感想、評価、批評、お気軽にどうぞ、質問等も出来る限り答えようと思っています。
誤字脱字メッセージいつもありがとうございます。
ぜひとも評価の方よろしくおねがいします。
ここすき機能もご利用ください!
質問は作者のツイッターやマシュマロ経由でもOKです
マシュマロ
また、現在連載している『ノマルは二部だが愛がある』もよろしくおねがいします!
今回は見やすくするために空行を多くしていますがどうですか?
-
見やすいので継続してほしい
-
もっと開けてくれても良い
-
前のように空行がないほうが良かった
-
その他(感想などにおねがいします)