そこそこ直接的な表現なのでご注意を。
モモンガとクーゲルシュライバーが異常な現象に巻き込まれてから2日が経っていた。
その日モモンガはメイドや護衛を部屋の外へと追い出し、一人きりの部屋内で大きな執務机に両肘を乗せ手で頭を抱えながら机の上に置かれた一枚の紙を眺めていた。
紙の隣には空の封筒が無造作に投げ出されている。
その開け放たれた口には封蝋が施されていた。すでに砕けてはいるが、この封蝋には蜘蛛を思わせるサインが刻印されていた。
そのサインはクーゲルシュライバーの自室の扉に刻まれている物と同じであり、それはつまりこの封筒が彼から送られてきたものだという事を示していた。
「極秘書類だという話だったが……」
モモンガは今一度、手元の書類に目を通した。
手書きの書類だ。
定規で引かれた美しい線が大小の囲いを形成している。
その囲いの中には、名前、LV、種族、職業といった言葉が書かれていた。
「これはキャラシじゃないか!」
モモンガの言うとおり、それはキャラシートだった。
クーゲルシュライバー自身もキャラシートとして製作しただけあって、
題名に「キャラシートver.1」とデカデカと書かれている。
モモンガはいざという時の為にお互いの能力を把握しておくべきだと考えていた。
今後組むこともあるだろう連携の為でもあるし、この世界に来たことによって変化している呪文やスキルの効果に関する情報も共有しておかなくてならない。
その為にクーゲルシュライバーにお互いの現状について定期的にレポートを出そうと提案したのだ。
その提案を未だ部屋から出てこないクーゲルシュライバーは快く受け入れ、昨日の今日だというのに、こうしてモモンガの許へと至高の41人以外の閲覧を厳しく禁じた封筒に入れられて届けられたのだった。
「いや、見やすいけどさ。なにこのダメージ・ダイスとかACとかいう項目は。空欄になってるがどういう意味があるんだ?いや、それよりもだ」
ユグドラシルには存在しないパラメーターを示すであろう単語に困惑しながらも、モモンガはキャラシートを裏返しそこに書かれている夥しい量の文章を睨みつける。
文章の一番上には「ロールプレイの方向性と各種設定」と書かれていた。
「アルベドの設定テキストを開いたときみたいだ……いや、手書きな分こっちの方がすごいぞ……」
視線が滑りそうになるのを必死に堪えてモモンガは細かく、そして密集する文字群を読み解いていく。
読むだけで正気が失われていくようだ。
昨日は中二病がどうとか言って傷ついていたようなのに、どうしてこうなったのか。それがモモンガにはわからない。
「いや、ユグドラシルでの設定を上手く絡めてるし、別にいいんだけどさ」
そうは言いつつもモモンガは思わずには居られない。本当に大丈夫なのかと。
この設定で演技するの、クーゲルシュライバーさんなんですよ?と。
「土方歳三的ポジションを目指すって、どういう事なの……?」
モモンガは一人なのをいいことに、唸り声を上げながら机に突っ伏した。
「食欲はなくとも、食べ物は食べられる。睡眠欲はなくとも、寝れないわけではない……っと」
魔法の照明により薄暗く保たれた寝室内で、クーゲルシュライバーはメモに検証の結果を書いていた。
「よし。お次は
誰に聞かせるわけでもなく呟くと、クーゲルシュライバーはメイドに運び込ませた巨大な姿見の前に立った。
その体は漆黒の光沢を放つだけで、以前身に纏っていたような緑のオーラを発してはいない。
恐怖される存在であるという評価を崩さないようにと、守護者達との謁見ではオンにしていた<恐怖のオーラⅣ>は今は必要ないと判断してオフにしていた。
クーゲルシュライバーは8本の肢を器用に使って蜘蛛の体の裏側を鏡に映す。
そして巨大な蜘蛛の腹部を凝視する。
正確に言えば頭胸部との境界に近い腹部の上端を、だ。
「うーむ……なんか、蓋みたいなのがある」
見つめる先には確かに黒い小さな蓋のような甲殻があった。
動かすことが出来るだろうかとその部分を意識して力を込めると、静かに蓋が迫り上がり、その下に隠されていた複雑な構造を露わにした。
その光景を複雑な心境で眺めつつ、クーゲルシュライバーはそっと蓋を元の場所に被せた。
「やっべぇ。これ、生殖孔ってヤツだよな?ということは俺、メスなの?」
ユグドラシルではクーゲルシュライバーは男性キャラとして登録をしていた。
また、少しばかり前に口元から生えている触肢を鏡に映して観察してみたところオスの蜘蛛に備わる特徴を発見することが出来た。
昨晩メイドを使って図書館から持ってこさせた蜘蛛の図鑑を読んで得た知識による判定だ。間違いはなかったはずなのに。
未熟だった頃、クーゲルシュライバーはその種族へと進化して当時まだ普通のダンジョンであったナザリックに潜り狩りをしていた。
その時に多用していた
現在も所持しているその
そして、ついさっきそれを発見してしまったというわけだ。
「オスとメスの性器がある。つまり
卵を産み付けるスキルを持っている以上、卵を産める体でなければならない。
しかし設定上は男なのだから、男の機能も無ければならない。その結果が両性具有の体という事なのだろうか?
ユグドラシルではクーゲルシュライバーの外装にメスの性器など付いていなかった。
しかし仮想世界が現実と化した今、それでは無理があったという事なのかもしれない。
「まぁ、いいか。性欲とかまったく感じないし、スキルが使えるなら問題ないだろ」
スキルの使用に交尾が必須だとか、そういう仕様になっていないのであればとりあえず文句はなかった。
「あとで実際に卵を産み付けられるか試さないとな。モモンガさんに適当なの作ってもらおうか」
今後の予定としてメモに「卵を産み付ける、モモンガさんに頼む」と書いてクーゲルシュライバーはペンを置き、寝室を後にした。
「おはようございます。クーゲルシュライバー様」
音もなく寝室から出てきたクーゲルシュライバーに部屋つきのメイドが挨拶をしてくる。
今日初めて出会うメイドの美しい金色の髪の毛を眺めながら、クーゲルシュライバーは擬腕で前脚をゴシゴシなぞりつつリビングとして使用している応接間のソファーに登った。
体が大きすぎるせいで普通の椅子の類に座れないのである。
それを見っともないと感じつつも不便はない。
むしろこうしていると落ち着くとさえ彼は思っていた。
「おはよう。早速で悪いがブラシと、なにかシーツのような物を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
メイドが美しい姿勢のまま静かに移動するのを、人間の時と比べて2倍以上に広がった視界で捉えつつクーゲルシュライバーは
「<甲殻化>解除」
口に出す必要は皆無だがなんとなくでそう呟くと、クーゲルシュライバーの姿が大きく変化する。
ツヤツヤとした黒い甲殻が幾千もの繊維に分解され、次の瞬間には長い毛となって立ち上がる。
クーゲルシュライバーのシャープなフォルムが一変し、モコモコした哺乳類のような印象の輪郭になる。
先ほどまでの姿がジョロウグモとするならば、今の姿はタランチュラに似ている。
ベルベットのような光沢を放つ毛に覆われたクーゲルシュライバーは、擬腕の爪を立てて自身の前脚を擦る。
(あーくそ。なーんか汚れてるような気がするんだよなぁ。別に汚れるような事してないのに)
防御力を向上させる<甲殻化>を解除したのは身づくろい、いや、毛づくろいのためだった。
クーゲルシュライバーはこの体になってからと言うものの、自身の肉体の清潔さに神経質になっていた。
自分で言っている通り、汚れるような事は何もしていない。それなのにやたらと気に掛かるのだ。
その理由を自分なりに考えてみる。
かつて存在したというアシダカグモという徘徊性の蜘蛛は、大層な綺麗好きで頻繁に毛づくろいをしていたという。
種族的には蜘蛛という段階を超越し邪神となったこの体だが、
大本である初期種族はジャイアント・スパイダーという特別な能力を持たない巨大蜘蛛だったのだ。
もしかすると、その習性が未だに残っているのではないだろうか?
そこまで考えたところでメイドが帰ってきた。
「お待たせ致しました。ブラシとシーツをお持ちしました」
「うむ。シーツはソファの上にかけろ。終わったら下っていいぞ、危険だからな」
「かしこまりました」
シーツをソファに敷き終わり、メイドが部屋の隅に移動したのを確認するとクーゲルシュライバーは手にしたブラシで擬腕が届く範囲の体を丁寧にブラッシングしていく。
(あぁ……良い気持ちだ。良い気持ちなんだが、なにか物足りないんだよなぁ。何でだろう?)
微かに舞い上がる自分の体毛の煌くさまを一瞥してクーゲルシュライバーは首をかしげた。
自らの体毛を梳いているのはかなり高級なブラシだ。柔らかな毛先が体毛を傷つける事無くケアしていく。
水で洗い流していないからだろうか?
そう考えるが、クーゲルシュライバーの体毛は水をよく撥く。
水をかけた所で満足いく結果が得られるとはとても思えなかった。
「ふむ……」
クーゲルシュライバーはブラッシングする手を止め、ブラシをジッと見つめた。
その様子に、メイドが不安そうに声をかけてくる。
「なにか、不備が御座いましたでしょうか?」
「いや、そうではない。そうではないが……ん?」
フルフルと瞳を震わせて此方の様子を窺っているメイドを見て、クーゲルシュライバーに閃くものがあった。
「確か戦闘メイド、プレアデスの一員に
「はい。エントマ・ヴァシリッサ・ゼータの事で御座いますね」
「そいつだ。今すぐエントマをここに呼んでこい。勿論、手隙でモモンガから何の指示も出されていないのであればだ」
「かしこまりました」
退室していくメイドを見送りながら、我ながら良いアイディアが浮かんだものだとクーゲルシュライバーは自画自賛する。
蜘蛛の肉体になって、満足いく毛づくろいが出来ないのであればだ。
餅は餅屋である。
毛づくろいを日常的に行っているだろう蜘蛛系モンスターにやらせればいいのだ。
ただのモンスターでは些か不安が残るが、戦闘メイドという役職についているエントマであれば快適に毛づくろいを受ける事が出来るだろう。
(これでやっとスッキリできるな!)
精神作用無効化の影響を受けながらも、クーゲルシュライバーは満足いく毛づくろいへの期待にその心を弾ませていた。
「ねぇねぇシクススぅ。クーゲルシュライバー様はぁ、何の御用で私を呼んだのぉ?」
幼く甘ったるい喋り方で和服風のメイド服を着たメイドが口を動かさずに金髪のメイドに話しかける。
「わからないよ。でも、すぐ来てほしいみたいだったから急がないと!」
「わかってるぅ!わかってるからそんなにひっぱらないでぇ。触覚がとれちゃうぅ」
金髪のメイド、シクススはエントマのシニヨンを掴みながら足早に、かつ上品にクーゲルシュライバーの部屋へと急いでいた。
どれだけ急いでいようとも。今居る場所は至高の41人の生活スペース、いわば神域であるナザリック地下大墳墓第九階層。
メイド如きが走り回り、至高の御方々を煩わせる事があってはいけないのだ。
「到着ぅ。ほらほらシクススぅ、息整えなきゃ至高の御方に失礼だよぉ」
「わ、わかってるよ。すぐ、整えるから」
状況的に出せる最大の速度でシクススはクーゲルシュライバーの部屋の前まで到達していた。
だが、上品に素早く長距離を移動するという行為は、如何にメイドとして訓練されているシクススであっても息の乱れを生じさせるのに十分な運動だった。
それに対しエントマは息一つ乱していない。
これがレベル1のホムンクルスであるシクススと、戦闘メイドプレアデスの一員でありレベル51の蜘蛛人であるエントマの持つ身体能力の違いだった。
隣で息を整えるメイド仲間を、一切動かない能面のような表情で見つめながらエントマは思案していた。
一体なんの御用があるのだろうか?
戦闘メイドである自分が呼ばれるのだから、戦闘に関する用事なのだろうか?
そういえば噂によれば、ナザリックに帰還された至高の御方クーゲルシュライバー様は階層守護者であっても理解の及ばない超が三つ付くほど強力な封印から脱出した影響で体調を崩しているらしい。
もしかすると護衛の為に呼ばれたのかもしれない。封印を施した、謎の敵を警戒して……。
ギチッギチッ。
エントマの顎の辺りから、硬質な何かが擦りあわされるような音が発せられた。
それは至高の御方の一人を拘束し、このナザリックへの帰還を阻もうとした謎の敵に対するエントマの怒りの表れだった。
破られたとはいえ至高の御方を長年にわたり封印する事のできる敵に対して、いくらエントマが怒りを抱きその償いをさせようとしてもそれはきっと犬死に終わるだろう。
それがわかっていても尚、エントマはその敵が姿を現したら戦いを挑むつもりだった。
勝てないからなんだというのだ。死ぬからどうしたというのだ。
至高の御方を苦しめた憎い憎い憎い憎い憎い敵に、僅かばかりでも復讐することができるのならば、エントマは自分の全てを賭けてそれを行う。
我慢なんて出来るはずもないのだ。
「ふぅごめんね。もう大丈夫。行きましょう」
数秒かけて息を整えたシクススの声に、エントマは思考を切り替える。
まだ何の為に呼ばれたのかもわからない状態だ。
今はただ、至高の御方に従うメイドとしてその役目を果たさなければ。
暴力的な思考を雲散霧消させ、エントマはシクススに頷いた。
「来たか」
「はい。エントマ・ヴァシリッサ・ゼータ。御身の前に」
考えていたよりも早く到着したメイド二人を、クーゲルシュライバーは満足しながら部屋へ迎え入れた。
眼前で跪くメイドは、なるほど、ムシツカイの職業に恥じぬ蟲達の集合体だった。
多種多様な蟲が集まって一つの美少女を形作っているその様は、まるで騙し絵のようでもある。
だれがこのような素晴らしい出来のNPCを作ったのか。クーゲルシュライバーは気になって仕方がなかった。
「ふむ。私が思っていたよりずっと見事なメイドだな。エントマ、お前の製作者は誰だ」
「はっ! お褒めに与り光栄です。私の創造主は源次郎様で御座います」
「ほう、源次郎さんか!流石だな!」
懐かしい名を聞いたとクーゲルシュライバーは声を弾ませた。
源次郎。宝物殿の整理を好んで行っていたギルドメンバーだ。
その整頓好きからさぞリアルでも掃除が好きなのだろうと思えば、リアルの自室は汚部屋だというちょっと変わった人だった。
もしかして、汚部屋の住人だからこそ蜘蛛のNPCを作ったのかもしれない。
汚い部屋には付き物の、激しい環境破壊にも耐えてしぶとく繁栄している例のアイツ。
それを狩る存在に源次郎さんは特別な感情を持っていたのかもしれない。
「なるほどな。ふふふっ!エントマよ。お前の姿を見て私は確信したぞ」
「?」
疑問を感じているのだろうか、エントマの頭頂部から生える触覚がせわしなく動いている。
なんたる萌えポイントか。源次郎さんはすごいな。
今は会えない仲間に対し、勝手に蟲属性を追加してクーゲルシュライバーは感動していた。
上級性的嗜好持ちは拘り様もやはり違うな、などと思いながら。
「源次郎さんがこだわりと愛を詰め込んで生み出したお前ならば、私の望みを完璧に叶えることができるとな」
「なっ・・・・・・!」
クーゲルシュライバーの言葉にエントマが変化のない顔のまま、肩を跳ね上げた。
その様子はまるで驚愕しているかのようだった。
事実、エントマは驚愕していた。
しかしその感情はただの驚愕だけではなく歓喜や悲しみなどがごちゃ混ぜになった複雑怪奇なものであった。
だが、それでもエントマはまるで桃源郷の中を漂うような至福を感じていた。
メイドとして褒められ。
誇りを持って明かした自らの創造主を褒められ。
更には創造主が自身に向けていた愛について語られ。
そして深い信頼を寄せられる。
これら全てがこの短期間で、
このような至福がこの世にあってよいのだろうかと不安に駆られるほど、エントマは幸せを味わっていた。
だがいつまでも惚けてはいられない。このいと高き至高のお方に、お返事をしなければ。
「み、身に余るこうえ……」
「よい。それよりも至急お前に命じたいことがあるのだ」
理性を総動員して返事をしようとしたエントマを、クーゲルシュライバーは右の擬腕を掲げることで制止した。
エントマは主人の意思に従い、すぐさま口を閉ざすと大きく頭を下げた。
「どうぞ、何なりとお命じください」
もとよりそのつもりであったが、エントマはその気持ちをより一層強めていた。
たとえ、どんな事を命じられても完璧にこなしてみせる。
大きな愛をもって自分を生み出してくれた偉大なる創造主、源次郎様の名にかけて。
エントマは奮起していた。
「ではエントマ・ヴァシリッサ・ゼータに至高の41人が1人、この私クーゲルシュライバーが命ずる」
「お前が普段やっているように、私の毛づくろいをせよ」
蜘蛛の唾液には強力な殺菌作用があります。
蜘蛛達はその効果を使い体を清潔に保つのです。
つ ま り ?