島津飛翔記   作:慶伊徹

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四十七話 毛利元就への三矢

 

 

二月二十四日、卯の刻。

甘木一帯に陣太鼓の音が木霊した。

約十日にも及ぶ対陣。合計六万の人数が犇めき合っていたのだ。西国全体を大いに賑わした祭典の終了を知らせる轟音が、朝靄立ち込める中、幾たびも空気を震わせた。

島津軍の先鋒、肝付兼盛隊が上げた物である。

率いる兵は3000。数だけで判断すれば決して大軍と言えないものの、大友や龍造寺との合戦を掻い潜った猛者たちが数多く含まれている。主軸には精強な島津兵も軒を連ね、自他共に認める精鋭部隊であった。

 

「鉄砲隊、前へ」

 

待ち構えるは宍戸隆家勢2500。

大平山の麓に陣取った毛利勢と、甘木一帯に鶴翼の陣を敷いた島津勢の間に川や山と云った天然の要害は存在しない。小石原川は島津勢の背後を流れるのみ、佐田川に関しても甘木東部を奔るだけである。

馬防柵を張り巡らし、内側にて鉄砲隊を構えさせる。200の鉄砲衆が前進。膝立ちとなって息を殺す。

 

「妄りに撃つことは許さぬ」

 

鉄砲は島津家の専売分野では無い。

毛利家も鉄砲の有用性にはいち早く目を付けた。

石見銀山などで得た金銭を活用し、鉄砲の一大生産地である堺から火縄銃や火薬を大量に買い集めた。数にして1000。第二、第三の柵にも同様に鉄砲衆を張り付かせている。

先ずは一斉射撃にて勢いを止めよう。

島津勢の士気を粉砕する事が重要だからだ。

背後には毛利元就の本陣がある。

万が一にも敵の強襲を許せば申し訳が立たない。

 

「なっ……!」

 

直後、宍戸隆家は目を疑う光景に出くわした。

朝靄に隠れていた肝付兼盛勢。

近付くに連れて鮮明に姿を見せる。

濛々と立ち昇る砂塵は見当たらず、鯨波の声は鳴りを潜めていた。静寂を保ったまま宍戸隊に近寄ってくる。

ゆっくりと、確実に。

初めて見る『盾のような物』に身を隠しながら。

 

「あ、あれは--!?」

「落ち着け。隊列を崩すな!」

 

騒ぎ出す兵士を一喝。

周囲を睥睨して、狼狽する兵を落ち着かせる。

初めて見た物に対する畏怖は残っているが、戦う前から潰走してしまうような恐慌状態に陥る事は無さそうだと安堵した。

宍戸は馬上から改めて前方を見る。

竹束を全面に取付けた押車。一言で表すならそれだけだ。二名の島津兵が押している。それが目算して五十個程、平野の只中を突き進んでいた。

島津家が開発したのか。

恐らく鉄砲を防ぐ為の物だろう。

しかし、だ。取り分け分厚くない竹の束で銃弾が止まると思えない。貫通するに決まっている。血迷ったのか、島津忠棟。

 

「伝令兵!」

 

着々と距離は縮まっている。

鉄砲も届く。しかし慎重に慎重を重ねた。

近くにいる伝令兵を捕まえる。何やら島津家が怪しい兵器を繰り出してきたと本陣の毛利元就に伝えたのだ。

承知しましたと走り去る兵士。

やるべき事はやった。宍戸は前方を見据える。

 

「まだだ。まだ引き付けよ」

 

静かな時が流れる。

鉄砲隊は固唾を呑んで下知を待った。

三間、二間、一間半、一間と、竹束を貼り付けた押車の姿形がはっきりと捉えられた瞬間--。

 

「撃て!」

 

号令一下、耳を劈くような轟音が響き渡った。

200の鉄砲が同時に火を噴いたのだ。

さりとて竹束の押車に隠れた島津兵など蜂の巣になると予想した宍戸隆家を嘲笑うかの如く、銃弾は竹束を貫けず、中央に空いてある穴から鉄砲による反撃が飛んできた。

五十の弾丸は鉄砲隊を十数人屠った。

一斉掃射が効かず、思いも寄らない逆撃を食らった宍戸隊は思わず狼狽えてしまう。

その隙を肝付兼盛は見逃さなかった。

押車に隠れていた弓隊が矢の雨を降らせ、間髪入れずに短槍を装備した足軽隊が出現。宍戸隊の鉄砲衆が放つ銃撃などに目もくれず一の柵を押し倒した。

 

「なんと!」

 

押車の数は約五十個。

現れた島津兵は目算ながら400前後。

一つに八人も隠れていたのか。

鉄砲衆と弓隊がそれぞれ一人ずつだとしても、一の柵に取り付いた者は、死をも恐れぬ精強な島津兵300だ。前線は大混乱に陥ってしまった。

最小限の損害のみで第一の柵を突破された。

油断慢心で許される失態を超えていた。

敵の勢いを殺すどころか増長させてしまった罪は重い。だが捨て鉢になるなど言語道断。改めて島津勢を食い止める為、宍戸隆家は死ぬ覚悟を決めて槍を高々と持ち上げた。

 

「慌てるな、敵は寡兵ぞ!」

 

指揮官の獰猛な叫び声に毛利兵も応える。

脚色の鈍っていた手兵たちが、一斉に喊声を上げた。

味方は2500、敵は300。

最初は柵を崩され狼狽したものの、有り余る兵力で押し潰してしまえば一捻りだ。実際、当初の勢いを無くした島津勢は徐々に姿を減らしていく。

多勢に無勢。

少しでも多く柵を押し倒す島津兵だが、それを阻止しようとする宍戸隊によって、最初のような猛勢は時が経つに連れて萎んでいった。

このまま行けば問題ない。

誰もがそう考えた時、肝付兼盛を先頭とした騎馬隊と長槍を持った足軽隊が、靄を掻き消すように宍戸隊へ突撃した。

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

毛利元就が床机を据える場所からだと前線の様子がわからない。無理もなかった。轟音と共に発せられる硝煙が、元就の視界を閉ざしてしまうのだから。

その為、伝令兵が矢継ぎ早に訪れる。

入れ替わり立ち替わり、戦況を報告していく。

 

「申し上げます。肝付勢の勢い凄まじく、第一の柵は突破されまして御座りまする!」

「第二の柵に取り付いた肝付勢に対し、右備・左備も銃撃を開始。敵勢の足を留めておりまする」

「肝付勢の用いた押車は他に見られませぬ!」

 

堅牢に築き上げた第一の柵。

開戦と同時に破られるとは恐れ入った。

少なくとも第一の柵で肝付勢を撃滅する予定だった。故に信頼している家臣、宍戸隆家を2500の兵士と共に置いたのだから。にも拘らず第一の柵は容易く突破され、今では第二の柵に敵勢が取り付いている。

敵味方の陣構えを記してある地図を眺めた。

元就は腕を組んだまま、傍らの吉見正頼へ問いかける。

 

「竹束で鉄砲が防げると其方なら考えるか?」

「正直に申しますれば考えませぬ。鉄板ならいざ知らず、竹を束ねた程度で防がれるのなら鉄砲は必要ないのではありませぬか?」

「それは浅はかという物よ、正頼」

 

毛利勢が不意を突かれた理由は一つ。

竹を束ねた物で鉄砲が防げると考えなかったからだ。

もし次の合戦で同じ手段を使われたとしても対処法は出来上がっている。鉄砲隊を下げて弓隊を前進させるか、押車に隠れている敵勢に長槍隊を突っ込ませれば良い。簡単な事である。

つまり、島津勢は一発限りの不意打ちを成功させただけだと言える。次は決まらない。但し、その一回を見事に成功させた練度は高く評価すべきだろうと元就は考えた。

 

「鉄砲はこれからの合戦を担う兵器。使い所を間違えねば有用じゃ。島津家はやはり一歩抜きん出ておるか」

「口惜しながらそのようでありますな」

「致し方あるまい。次に活かせば良いだけよ」

「御意」

 

恭しく首肯する正頼。

扇子を開け閉めしながら元就は思考を早める。

想定外の突破力を見せた肝付勢とて、第二の柵を押し倒すよりも早く壊滅に近い損害を出して後退するだろう。

後詰に現れるのは梅北隊か、それとも東郷隊か。

この二部隊を中央に引き摺り込んでから鶴翼を閉じる。軍議にて定めた基本戦略だ。右翼に口羽通良隊4500、左翼に吉川元春隊5000を配置したのもこの為である。

釣り野伏せは警戒しろと厳命している。

無駄な追撃は言語道断だと戒めてあった。

先に動いた島津勢が不利なのも自明の理だ。

それでも元就の胸を騒つかせる何かが存在する。

 

「しかし、流石は殿ですな」

 

開戦してから一刻。

元就の予想通りに肝付勢が後退。

前線で采配を振るっていた肝付兼盛も、右腕を負傷してしまい一戦から退いた。代わりに第二の柵へ押し寄せたのは梅北隊3500だった。

弓矢と銃弾飛び交う間を駆け抜け、第二の柵を突破目前まで追い込むも、島津勢の被害は容赦なく膨れ上がっているとのこと。

伝令兵の報告に気を良くした正頼は鷹揚に頷く。

 

「何がだ?」

「飫肥城での謀叛、隆景様による坊津強襲、そのどちらも島津忠棟を決戦に誘き出す計略だったとお見受け致しまするが」

「ほう。よく気づいたな、正頼。褒めて遣わす」

「勿体無きお言葉」

 

一の矢、鎌田政広の謀叛。

二の矢、渡辺長の志布志港上陸。

三の矢、小早川隆景による薩摩奇襲。

一つでも成功すれば島津家の土台を崩せる策略だったのだが、島津の今士元はそのいずれも全て完璧に対処してみせた。

勿論、毛利元就は予知していた。

戦国の鳳雛ならば対応できるだろうと。

だが島津家の本国が危機的な状況にある事は変わらない。国人衆の反発、軍勢の士気を保つ為にも早期決戦に乗り出すことは必定である。

全ては謀神の予定通りに進んだ。

有利な状況で決戦に持ち込めた。後は勝つだけ。

将棋倒しのように崩れるだろう島津家を吸収すれば、最早西国を支配した事と等しい毛利家に敵など存在しない。

長男である毛利輝元に家督を譲っても、有り余る国力で他家を粉砕できる筈だ。元就も安心して隠居できるというものだ。

 

「念には念を入れておくか」

「殿?」

「第二右備へ伝令。桂元重に1000の手勢を率いて、敵左翼にて猛威を振るう島津義弘隊の側面を突けと申し伝えよ」

 

鬼島津こと島津義弘。

武勇だけならば吉川元春すら凌駕する逸材。

信頼できる武将『口羽通良』を右翼へ配置したのも、一騎当千と云える姫武将を最大限に警戒しているからだ。

速やかに敵左翼を壊滅させる。

元就の強い意向を受けて、伝令兵は走り去った。

 

「殿、右備を抜いてしまわれたら前線が……」

「安心せい、正頼。栗屋元辰に1000の兵を預けて右備の補填に当たらせる。問題なかろう?」

「はっ。万事御意のままに」

 

本陣から1000の手勢を連れて、栗屋元辰が第二右備へ駆けて行く。その後ろ姿を眺めながらも元就は思考を決して止めなかった。

仮にだ。島津義弘隊を潰せたとしよう。

島津勢の鶴翼は崩れる。士気も落ちるだろう。果たして戦国の鳳雛とも呼ばれる男が、包囲殲滅される危険性を考慮していないという予測は流石に甘いと断じざるを得ない。

毛利元就ならば何を狙うかを考えた。

直後--。

世鬼政親の次男坊、世鬼政時が本陣に駆け込む。

 

「申し上げます!」

「どうした?」

「島津家久隊が俄かに動き始めた模様、佐田川を沿うように進軍しており、半刻後には吉川隊の側面を衝く由に御座りまする」

 

口早に発せられた情報に、本陣に居る武将たちが軒並み腰を上げた。

 

「なんと!」

「其は由々しきこと!」

「もし側面を衝かれれば如何な元春様と言えど」

 

正頼の台詞に、本陣の空気が重くなった。

別働隊を率いる武将は島津家久。沖田畷の戦いで竜造寺隆信を筆頭に、竜造寺四天王すら尽く討ち取った戦術の鬼才である。

只でさえ毛利勢の左翼は、敵武将『山田有信』により苦戦していた。島津家久に側面を脅かされてしまえば壊走に至るのも時間の問題だろう。

 

「考える事は同じか。真に楽しませてくれる若人よな」

「殿、如何なされますか?」

「皆、落ち着けい。慌てれば敵の思う壺よ」

 

叫んだ訳ではない。

一喝する必要もなかった。

冷静に紡いだ言葉に威厳を乗せる。

それだけで本陣の喧騒は瞬く間に止んだ。

 

「それで良い」

 

一拍。

 

「ようやった、政時。お主の報告が無ければ我らが左翼は総崩れであったろう」

「勿体無き御言葉」

「酷使するようで悪いが、左翼に取って返せ。元春にこう申し伝えよ。其方は3000の兵を持って佐田川沿いにて島津家久を迎撃せよとな」

「殿、元春様を抜けば左翼が抜かれまするぞ!」

「第二陣左備の福原貞俊隊2500を左翼に移動させよ。鉄砲衆も出来る限り連れてな。山田有信隊を押し返すことに尽力しろと下知せよ」

「承知致しました!」

 

走り去る世鬼政時。

島津家久に対処する為とは言え、唐突な陣構えの変更だった。側に仕える小姓も驚いている。下手すれば左翼が抜かれてしまう危険性も有るというのに。

吉見正頼は目を見開き、元就へと問い掛けた。

 

「元春様に3000の兵を預けたのは何故に御座りましょうや。敵は多く見積もっても1000から1500という報せでしたぞ」

「強いて言えば、嫌な予感よ」

「左翼に多く兵を残すべきだと思いまするが」

 

百も承知だ。

例え島津家久の奇襲を防いだとしても、左翼そのものが抜かれれば本末転倒。吉川元春に下した命令も無駄になってしまうだろう。

だが、敵左翼さえ壊滅すれば戦況は一変する。

実際に刻々と毛利勢の有利に移り変わっていく。

後は島津勢を奥に誘い込み、鶴翼を閉じるのみ。

 

「わかっておる」

「なれば--」

「万難を排して勝つ為よ」

 

手段は全て講じた。

事ここに至れば謀略は通じない。

島津忠棟と毛利元就、どちらの軍略が上なのか。

 

「さて。どう打開する、今士元」

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

合戦から二刻経過した。

朝靄は曇天へと変わりつつある。

梅北隊の奮戦もあり、第二の柵は突破。

代わりに被害は甚大だった。毛利勢に与えた損害が500程度に対し、島津勢は既に1500を超える大きな被害を受けている。

堅固に造られた陣地に吶喊しているのだ。

仕方のない事である。

元々予想していた範囲の損害。

士気は高い。戦意も鈍っていない。

一気呵成に残る最後の柵を押し潰す為、既に東郷隊4000とか樺山忠副隊3000も前線に投入したばかりであった。

また中央の激戦に隠れるように、両翼でも共に鎬を削っている。互いに己の鶴翼を閉じようと奮戦しているのだ。

 

「…………」

 

島津本陣は静寂に包まれていた。

各戦場から伝わる報告は全て不利を示す物。

頑強に抵抗する中央だけでなく、右翼と左翼すら毛利家の野戦陣に阻まれて突破できない。先に動いた方が負けなのだと理解していても、島津忠棟なら容易く勝利するという島津兵の期待は刻々と萎んでいった。

 

「申し上げます。毛利勢の反抗凄まじく、第三の柵を押し倒すには後詰が必要との事」

「梅北国兼殿、宍戸隊と交戦中に負傷された由。戦線を離脱されまして御座りまする!」

 

時間が経つごとに増していく被害。

--敗色濃厚。

島津勢の誰しもがそう見た。

島津本陣に緊迫した空気が漂う。

しかし、忠棟は下知を飛ばすでもなく、床机に腰掛けたまま瞑目するだけである。言葉を発した事すら、別働隊の島津家久に敵左翼を突けという下知を与えた時だけであった。

 

「忠棟殿、後詰を送らねば敵の柵を突破できませぬぞ。此処は乾坤一擲の勝負に出るべきかと存じまする」

 

たまらず樺山忠助が進言した。

何しろ実兄である樺山忠副が最前線にいるのだ。落ち着ける訳がない。総大将たる忠棟の下知を待たず、今にでも本陣から飛び出し兼ねない勢いだった。

 

「なりません」

「直茂殿には申しておらぬ」

 

忠棟の側に佇む鍋島直茂。

側室の身でありながら鎧を着て、薙刀も手に持っている。姫武将と思えない凛とした戦装束に圧倒されるも、樺山忠助は目を真っ赤に染め上げて吐き捨てた。

 

「お言葉ながら樺山殿。今、後詰を出した所で如何程の効果もありません。無闇に損害を被るだけでしょう」

「やってみなくてはわからぬ!」

「それに堅固な野戦陣を築いた毛利勢に対し、私たちが不利なのは元より承知。第三の柵を押し倒した後、全面攻勢を仕掛けるのが肝要かと」

「直茂殿は我が兄を見殺しにするご所存か!」

「さにあらず、さにあらず」

「忠棟殿、後詰の下知を。某にお任せくださりませ!」

 

懇願するとは、この時の樺山忠助を指すだろう。

片膝を付いて忠棟を下から覗き込む。

それでも、島津家宰相は微動だにしない。

まるで何かを待っているかのようであった。

勿論、樺山忠助が相対しているのは戦国の鳳雛である。無為無策にて決戦に及んだとは思えない。しかし、このまま実の兄を見殺しにするなど実直な彼にとって我慢できない事だった。

 

「耐えよ、忠助殿」

「忠棟殿……?」

「今一度、耐えよ。さすれば勝つ」

 

どういう事だ、と問いかけようとした瞬間。

 

「申し上げます!」

 

息を切らした伝令が本陣に飛び込んできた。

 

「桂元重隊の奇襲を受け、島津義弘隊壊滅。敵右翼、一気呵成に本陣へ雪崩れ込もうとしておりまする!」

 

愕然とする報告だった。

鬼島津こと島津義弘が敗れる。

即ち島津勢の鶴翼が無価値となった。

壊滅とはどの程度の損害か。義弘様はご無事なのか。敵右翼の総数はどのぐらいか。被害が広がる前に退却する方が賢明ではないかという声すら上がる。

そんな中、島津忠棟は床机を蹴り上げた。

 

「落ち着け!」

 

幕から外へ転がる床机。

静謐を保っていた忠棟の一喝。

崩れ掛かった本陣は、一瞬にして元に戻った。

 

「有川殿、忠助殿。お二方はそれぞれ2500の手勢を用いて、敵右翼の侵攻を食い留めよ。鉄砲衆1000も連れて行け」

「承知仕った!」

「……御意に御座りまする」

 

前以て、本陣の左側には馬防柵を張り巡らしてある。1000の鉄砲衆を効率よく扱えれば、敵右翼の勢いも緩ませる事が可能だろうと判断した忠棟は、更に本陣にて出番を待っていた藤林長門守へ尋ねた。

 

「藤林、吉川隊と家久隊が干戈を交えている場所は知っておろうな?」

「御意。部下から報告が来ており申す」

「重畳至極。鍋島隊を先導せよ。三の矢、その成否を其方に任せる」

「はっ。必ずやご期待に沿ってみせまする」

 

力強く言い切った藤林が音もなく消える。

直後--。

島津勢の本陣後方から複数の狼煙が上がった。

 

「さて。意趣返しと行こうか、謀神」

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

俄かに雨が降り出した。

既に合戦の火蓋が切られてから三刻。

甘木一帯に散乱する両軍の死体が2000に差し掛かろうとした直後、毛利元就が床机を蹴り上げて軍配を振るった。

 

「鶴翼を閉じよ。総攻撃じゃ」

 

第三の柵は未だ健在。

東郷隊と鍋島隊の猛攻を耐え忍んでいる。

島津義弘隊は壊滅。敵左翼を抜いた口羽通良隊5000は本陣に斬り込んでいる。複数の狼煙が上がっている事からも先ず間違いない。

島津家久の強襲を防いだとしても、左翼は一進一退の攻防を続けていた。押しては退いて、退いては押してを繰り返す。

山田有信、どうやら噂に違わない知勇兼備な武将のようだ。流石に島津は粒揃い。それでも数の暴力に逆らえないだろう。

 

「正頼、其方に4000の兵を与える故、左翼の後詰を務めよ。島津勢も本陣が奇襲された事に気づいていようて。士気も落ちておる筈。山田隊を一気に踏み潰し、右翼に負けぬよう鶴翼を閉ざすのよ」

「心得ました」

 

吉見正頼も主君と同意見だった。

口羽通良が島津義弘隊を壊滅に追い込み、本陣の強襲に成功した今こそ勝負時だと見ている。二つ返事で下知を受けるや否や、4000の兵を率いて出撃した。

同時に世鬼一族の者が片膝を突いた。

 

「ご報告申し上げます。吉川隊、島津家久隊を尽く殲滅。左翼に合流する由に御座りまする」

「相分かった。左翼に伝えよ。大攻勢を仕掛けるは今ぞと」

「承知致しました」

 

背中を向けた忍に、元就は待てと言った。

 

「其方の名前は?」

「某の名は霧隠鹿衛門に御座りまする」

「初めて聞いた名前じゃな。政親の部下か?」

「然り」

「ふむ、そうか。引き留めて悪かったのう」

「勿体無きお言葉」

 

白髪の忍が本陣から消えた。

何故名前を問うたのか。

元就にもよくわからなかった。

何はともあれ、左翼も無事に閉じそうである。

 

「今士元も此処までか」

 

正頼が轟かせる馬蹄の音に合わせて不敵に呟いた元就は、小姓に用意させた愛馬に跨るや、毛利本陣を前に進めるように下知を飛ばした。

自らは宍戸隊の後詰を務めるとともに、鶴翼を閉じようとする全軍を鼓舞しようと考えたからだ。

 

「いや、待て……」

 

瞬間、元就は気付いた。

磨き上げた智謀か、長年の経験からか。

何かがおかしいのだと馬上にて首を傾げる。

 

「…………」

 

元就が認めた島津の今士元。

戦国の鳳雛と呼ばれる男の戦運びと思えない稚拙さ。新兵器と思わしき押車も大した戦果を挙げられず、島津家久の奇襲も失敗し、本陣側面に強襲を食らった挙句に包囲殲滅されかかっている現状は、まるで戦下手が総大将を勤めた軍勢のようである。

何かがおかしい。

毛利元就の認めた相手はこんなモノではない。

間断なく放った三本の矢を全て対処し、今も毛利家と決戦に及んでいる島津家宰相がこのような稚拙な敗北を容認する筈がないのだ。

何故もっと早くに気付かなかった。

違和感は有った。不自然な棘も感じていた。

 

「--もしや」

 

合戦模様を最初から思い返した元就。

口から洩れた吐息は驚愕の意を含んでいた。

肝付隊が用いた竹束の押車。第一の柵を犠牲少なく突破する為に用意した兵器なのだと考えた。竹束で鉄砲が防げるという驚愕から、それ以上の可能性を無意識に無くしていたのだと気付く。

初めて見る兵器の有用性。

不自然だった島津家久の奇襲。

そして最大限に警戒するが故に、本陣の兵を少なくしてでも壊滅へと追い込んだ島津義弘の部隊。

全ての点が繋がった。

この謀神が、まさか『掌の上』で踊ることになるとは!

 

「もしやっ!」

 

後方を振り返る。聳え立つは大平山。

生い茂る木々は冷たい風によって揺られている。

その時--。

大平山から騒ぎ声にも似た喊声が上がった。

痩せ細った木々の隙間から見えるのは、丸に十字の文様が刻まれた旗指物。島津家の家紋を翻しながら3000の島津兵は恐るべき勢いで山を駆け下りた。

 

「我こそは島津義久が家臣、島津義弘なり。毛利元就殿の御首級、今こそ頂戴仕る!」

 

先頭を突き進む姫武将。

右翼に壊滅させられた筈の島津義弘だった。

罠だったのだ。全て大平山に陣取る為の策だ。

 

「やりおる」

 

散り散りに壊走したと報告を受けた。

しかし元就は追撃を認めなかった。釣り野伏せを警戒したからでもあり、一刻も早く敵の本陣を強襲する為でもあったからだ。

義弘隊は追撃を受けない事を逆手に取り、壊走するように見せかけて大平山の背後に回り込み、本陣の数が少なくなった段階で鯨波の声を上げたのだろう。

馬を巧みに操り、木々を擦り抜けるようにして駆け抜けた島津義弘は、敵軍へ突入した途端に右手に持つ巨大な槍を片手で振り回す。

青く長い髪を靡かせる様は美しくもあり、また恐ろしくもあった。

何しろ本陣の更に後方に配置しておいた『秋月勢8000』中央を瞬く間に食い破った。毛利元就だけに狙いを定めて我武者羅に突き進んでくる。

 

「念には念を入れて、正解であったか」

 

背後からの本陣奇襲。

様々な合戦の勝敗をひっくり返した軍略である。

警戒して当然だ。高城川の戦いでも用いた戦術を使わない保証など無いのだから。

島津義弘は秋月勢を薙ぎ払うものの、二倍の軍勢に足留めされている。駆け下りた勢いは無くなっていないものの、秋月隊を突破するのに半刻は費やす筈。その前に敵本陣を押し潰せば毛利家の勝利である。

そう判断した元就は間違っていない。

故に、左翼から突撃を仕掛ける部隊を見て、唖然とした。

 

「な、に……?」

 

右翼は本陣に攻撃を仕掛けている。

左翼も大攻勢に転じ、前線を押し上げた。

つまり、本陣の周辺は一種の空白地帯となっていた。

間隙を縫うようにして押し寄せる部隊。数にして約3000。騎馬武者を中心に編成された島津兵は、本陣の防備を固めようとした毛利兵を跳ね飛ばしてひたすらに前へ前へと突き進んでくる。

先頭にて獅子奮迅の活躍を見せる姫武将に見覚えがある。島津貴久の末女、島津家久だった。

 

「成る程、先の忍は島津の者か」

 

背後と側面から島津兵が迫る。

事ここに至って挽回の好機は見当たらない。

敵本陣を崩すよりも早く、味方本陣が総崩れになるだろう。元就の命も危ない。幸いにして北側は空いている。岩屋城へ退却できる筈だ。

 

「退却よ、退き鐘を鳴らせ」

 

元就は歯を食いしばりながら、そう下知した。

 







本日の要点。


1、忠棟「やられたらやり返す。倍返しだ!(迫真)」


2、義弘「相変わらず無茶な注文するよね(満更でもない表情)」


3、秋月「勘弁してください、鬼島津さん(震え声)」


4、久秀「島津が毛利を食うのも勘弁してほしいわね。仕方ないから、久秀が一肌脱いであげようかしら(冷笑)」

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