島津飛翔記   作:慶伊徹

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四十二話 松永久秀から注釈

 

 

一月十四日、卯の刻。

九州全土を巻き込んだ戦端が開かれている頃、摂津国に鎮座する飯盛山城で暮らす武将たちは至極平穏な日々を過ごしていた。

無事に謹賀新年は済んだ。

三好領内に於いて数年、大規模な戦が無かったからか百姓も喜び、堺から各地に荷物を運ぶ商人たちの雰囲気もすこぶる良かった。

順調な毎日、不自由のない生活。

万人から諸手を挙げて賞賛されそうな内政手腕を発揮する三好家重臣、松永久秀にとっては苦痛としか思えない暇な日々であった。

 

「はぁ……」

 

思わず口から漏れる溜め息。

与えられた書院にて、久秀は虚空を見つめた。

憂いを帯びた表情は誰しも息を呑む美しさ。

少女のようなあどけなさを残す容貌だが、腰まで届く薄紫色の髪は彼女が大人の女性である事を示している。

起伏の乏しい身体は生まれつき。しかし、妖艶な仕草から放たれる色香は魔性とすら言える程であり、現に三好家中の男たちを多く虜にしていた。

そんな松永久秀だが、誰もいない書院で珍しく想い悩んでいた。

その原因は机の上に置かれた紙である。

筆を持ち、何か書こうとしても、手が動かない。

先程から同じ行動を繰り返す辺り、無自覚な動作であるのは明白だった。

 

「今更、激励なんていうのも久秀らしくないわね」

 

送り先は九州南端。

今日書き終わったとしても、着くのは七日後か八日後だろうか。堺から坊津まで船を用いたとしても掛かる時刻は変わらないと思った。

そもそも激励の文を送ったとしても、薩摩国へ書状が着く頃には九州の戦乱は終わっているかもしれない。

三洲平定、高城川の戦い、肥後国の接収。

いずれも尋常ならざる速さで戦果を挙げている。

あの男は速さを追い求める癖がある。堺での邂逅時にも確信していたが、時間という物に酷く囚われている節があった。

今回は足元を掬われないといいけど。

 

「そもそも文を送る必要性があるのかしら」

 

あの男が戦に負けると思えない。そう思う久秀。

彼との文の遣り取りは数十回に及ぶ。

お互いに相手を利用していることは自明の理。

その殆どは堺と坊津に於ける船舶の往来数や海上事故の取り締まりの強化と云った貿易に関する内容である。それらから垣間見える正体不明の知性に圧倒された時も少なくなかった。

文官派かと思えば、ここ数年で話題に事欠かないような類い稀な武勲すら挙げる始末。きっと今回も勝つのだろう。龍造寺家、大友家、毛利家の連携を打ち崩し、多大な犠牲を払いながらも島津家の飛躍を決定付けるのだと思う。

そんな久秀の確信にへばり付く一つの違和感。

彼の躍進が止まる。止められてしまう。

確証などない。理由などない。ただの勘である。

だが、一応だけど、同じ茶の湯を嗜む同志に対して警戒するように促すのも、二つ歳上である久秀の役目だと言い訳する。

 

「何で薩摩みたいな田舎にいるのかしら、理解に苦しむわね」

 

南の都だと云っても、所詮は二番煎じ。

本物の京と比べたら月とスッポンであろう。

勿論、久秀自身は薩摩国に赴いた事などない。内城下も見た事などなかった。つまり只の空想である。

だが、京を治めている三好家重臣の久秀にとって幾ら急速に発展しようとも薩摩国は片田舎でしかなかった。

もしも島津家が九州を平定した時は、あの男に薩摩国を案内させるのも一興だろう。そして無理難題を言付けて困らせるのだ。

彼の歪んだ表情が眼に浮かぶ。

楽しみだ。すごく楽しみである。

 

「久秀、いるか?」

 

そんな久秀の妄想を断ち切る声が聞こえた。

襖の奥からだ。姿形は詳しく見て取れない。

それでも聞き慣れた声音から誰か判断できる。

 

「はい。久秀なら此処にいますよ、長慶様」

 

入るぞ、と一言告げる女当主。

三好家の家長にして天下人と称される名君。

松永久秀の主君であり、また理解者でもあった。

 

「どうかなさいましたか、長慶様」

「いや、少し気にかかる事があったからな。評定の前に相談しようと思ったんだが、どうやら仕事の邪魔をしたようだな」

 

すまない、と頭を下げる。

君主らしくない仕草に久秀は笑いそうになった。

表情筋に力を込めながら、改めて三好家当主を眺める。

深い菫色に彩られた癖の無い長髪は腰で綺麗に調えられており、前髪も目の高さですっぱりと切り揃えられている。琥珀色の双眸には知性を彷彿させる輝きが燦々と点灯し、白を基調とした着物を見事に着こなした姿は清楚の一言であった。

可愛いと綺麗が調和している。

起伏に富んだ身体は久秀と正反対。

其方を詳しく見ないようにしながら長慶へ身体を向けた。

 

「お気遣いは無用ですよ」

「文のようだが、誰に送るんだ?」

「薩摩国へ。いつものように坊津と堺の事で」

 

目敏く尋ねる長慶に、久秀は涼しげに答えた。

薩摩国へ。つまり南九州の名門に送る文である。

だが、長慶は楽しそうに破顔した。

一輪の花が満開になるような笑みだった。

 

「成る程、忠棟に送るのか」

 

島津忠棟。

齢十九歳の島津家宰相。

日ノ本に轟く今士元である。

そして、長慶と久秀に負けなかった男だ。

 

「彼は今頃戦場でしょう。もしくは隈本城か。いずれにせよ受け取るのは島津歳久殿だと思いますよ、長慶様」

 

内城にて政務を司る文官。

忠棟が全幅の信頼を置く内政の鬼。

 

「貴久殿の三女だったか」

「はい。長女は義久殿、次女は義弘殿、四女は家久殿。四姉妹全員が優秀な姫武将なのですから恐ろしい限りです」

「全くだ。だが、彼女たちのお蔭で恩恵も得ている。今井宗久と知己を得られたのは忠棟と討論していたからだろう?」

 

もう三年前になるのか。

島津家の面々が上洛を果たしたのは。

十四代将軍『足利義栄』に拝謁、公家の方々に挨拶。朝廷への献金を欠かさない島津家は帝の覚えも目出度く、勤皇の志であると時の関白から褒められたぐらいである。

今思えば、この上洛は小手調べだったと思う。

本命は来年か再来年であろう。再び上洛する筈。

何はともあれ、その時は何事もなく京を散策してから帰っていった。しかし、島津義久の筆頭家老であった『伊集院忠棟』は京の散策に興味を示さなかったらしい。

熱心に堺を見て回っていた彼は、女郎蜘蛛のような松永久秀に捕まってしまうものの、運良く傍にいた三好長慶に助けられるという珍事件を起こした。

 

「否定しません。その後に交渉を行ったのはこの松永久秀ですけれど」

「勿論だ。久秀のお蔭で堺から様々な物資を得られるようになった。有り難いよ」

「いえ、長慶様がおられるからこそ堺も協力的なのでしょう」

 

莫大な矢銭、兵糧、武器弾薬。

堺から献上される物資は三好家の血肉となった。

万が一の事態に備えて蓄えられたそれらは、飯盛山城だけでなく芥川山城にも置かれており、更に倉庫の床を潰したという程だから量は推して知るべしと云えよう。

 

「忠棟は元気なのか?」

「元気でしょうね。九州全土を巻き込んだ大戦など彼にしか起こせませんから。張り切り過ぎて骨折り損にならなければよいのですが」

 

そもそも骨折り損で済めば良いと思う。

相手は肥前の熊に九州探題。そして謀神である。

一度に相手すれば如何な智慧者でも苦戦は必至。

忠棟が何処まで食らいつけるか、何処で講和に持っていくのか。それによって今後の西国に於ける大名の動き方も変わっていくだろう。

 

「心配いらないさ、何しろ今士元なのだからな」

 

長慶は言い聞かせるように頷く。

彼女は島津忠棟を殊の外好いている。

異性ではなく、弟のように見えるらしい。

実の弟である『十河一存』は忠棟を毛嫌いしているけれども。何でも薄気味悪いとか。目の奥が濁っているとか散々な言い様だった。

 

「長慶様は本気で信じているのですか、忠棟の仰った事を」

「九州平定が目的というやつか?」

「はい。彼の野心を見くびってはいけないと思います。島津水軍、御庭番衆、朝廷への献金。様々な面から見ても島津家が上洛を目論んでいるのは明らかでしょう」

 

確かに三年前、忠棟は言った。

全ては島津家による九州平定の為だと。

次の瞬間、久秀は内心で嘘だと断じ切った。

彼女には判った。

同族だからだろうか。

双眸の奥に潜む絶対的な野心を見て取れた。

 

「だろうな」

「気づいていたのですね」

「勿論。あれ程の才能だ、天下を狙いたくても仕方ないさ。九州を平定して、毛利も破れば、私たち三好家とも一戦を交える事になるかもしれないだろう」

 

だが、と一拍。

 

「私には久秀がいる。一存もいる。頼りになる家臣だらけだ。島津家にも負けないさ、きっとな」

 

根拠のない台詞だと久秀は嘲笑おうとした。

実際、三年前の彼女なら哄笑していたに違いない。

そうだとしても今は、何故か笑う気になれなかったのだ。

 

「島津家に打ち勝ち、忠棟を直参としますか?」

「そうだな。忠棟が三好家に加われば鬼に金棒だろう。東国の諸大名も一気に降伏させられるに違いない」

 

思い描くは数年後の未来。

北上してきた島津家と相対する三好家。

決戦の果てに勝利した三好家は島津忠棟を家臣とする。

彼と轡を並べて戦場を巡る。

嗚呼、確かに鬼に金棒だろうと思った。

 

「勿論、今はまだまだです。九州も平定しておりませんから。毛利家、尼子家といった有力大名も多数いますもの」

「尼子家と言えば、久秀に伝えるべき事があるんだった」

「先程の相談したい事ですか?」

「そうだ。山陰にて動きがあったぞ」

 

山陰地方は今、過熱状態にある。

昨年末から雪の降る中、毛利元就率いる20000の軍勢が出雲国に接近した。凍てつく寒さを振り払う強行軍であった。

しかし、尼子義久の度肝を抜くことに成功。

何度か干戈を交えた後、現在は小康状態に陥ったと聞いている。何か切っ掛けさえあれば再爆発するだろう火薬庫。それが現在の山陰地方だった。

 

「動き?」

「毛利勢が軍を引いた」

「九州戦線に介入しようという狙いですね」

「私も同意見だ。しかし、問題は此処からだ」

 

何となく察しが付いた。

松永久秀は逃げ惑う百姓兵を思い浮かべた。

 

「尼子勢が毛利勢の背後を突いたのですか?」

「流石だな、久秀」

「それで、結果はどうなりました?」

 

答えを促すと、長慶は肩を竦めた。

 

「毛利勢の完勝だ。伏兵を用いて包囲殲滅。尼子義久殿は逃げたらしいが、小早川隆景による付け込みによって月山富田城も落ちたよ」

「小早川に?」

「元就殿は吉川元春を連れて九州へ。山陰地方は小早川隆景に任せるようだ。彼が本格的に動き始めた。その辺りについても今日の評定で話し合いたいんだ」

「了解しました。私も何がしか策を考えておきますね」

「頼むよ」

 

そう告げて、長慶は書院から立ち去った。

一人残った久秀は瞑目して考える。

先ずは九州戦線。

次に中国地方の覇権争い。

そして、久秀が脅威だと確信する尾張のうつけ。

 

「…………」

 

三好家は今後どのように進むべきか。

九十九髪茄子を片手に考え続けるのだった。

 

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

一月十五日、巳の刻。

大友宗麟の居城である臼杵城は冷え込んでいた。

それは季節感から来る文字通りの意味でもあったが、大友家の現状を揶揄した表現でもあった。

国人衆や百姓兵、浪人すら総動員した結果、臼杵城下に集った兵士は僅か9500。二年前なら50000の軍勢を動かせていた大友家である。約五分の一となった国力を改めて目の当たりにして誰も彼もが言葉を失った。

それでも希望は失われていない。

絶望に浸るのは早すぎる。勝負は此処からだ。

昨日までの紹運ならば、各諸将をそう奮起していた。

 

「義姉上……」

 

彼女の手にあるのは一枚の書状。

一見すると差出人は無く、宛名も見当たらない。

今朝起きたら襖の隙間から部屋に差し込まれていた。怪しい文である。本来なら一瞥する価値もないだろうに。

だが、紹運は恐る恐る文を開いた。

戸次道雪を失った悲しみ、大友家の存亡を一身に背負う重責から判断力が鈍っていたのかもしれない。

綴られていた文字の筆跡は、間違いなく義理の姉が書いた物だと証明していた。

内容を詳しく読む前に高橋紹運は泣き崩れた。

生きていた、生きていた、生きていた。

敬愛する姉は今も何処かで生きている。

嬉しかった。涙が溢れた。嗚咽すら漏れた。

道雪の痕跡を感じ取るように書状を強く握る。

義姉の生存を疑っていた訳ではない。しかし毎日毎日、実の主君から道雪は死んだのだと洗脳のように言い聞かされれば、強固な確信も次第に蝕まれていくは必定である。

紹運は何度も何度も良かったと呟いた。

目尻の涙を拭いながら噛み締めるように続きを読んだ。

 

「これが本当の事なら、私は--」

 

文に記されていた道雪の現状は以下の通り。

高城川の戦いで囚われの身となるも、大友家で女狂いだと唾棄される存在の島津忠棟に一目惚れされたらしい。島津家に仕えよという説得など聞き流していたようだが、決戦に敗北した大友家の衰退は最早不可避であり、このまま行けば主君の家は戦国乱世の習いに従って滅びてしまう。島津忠棟の側室となれば大友家に一万石の禄を与えると提案され、戸次道雪は誇りを投げ捨てて島津家に屈服したのだと。

当然ながら気付いていたが、大友宗麟は紹運に逆心の兆しありと疑っているとの事。今、寝返りすれば大友家の禄を三万石に増やしてもいいと云う内容すら島津義久の名で書されていた。

 

「おのれ、島津忠棟……!」

 

仇敵、島津忠棟を許す事はできない。

大友家の衰退を決定付けたのに飽き足らず、戸次道雪の身体を貪る様は、高橋紹運の脳内でまさしく悪鬼羅刹を思い起こさせるのに足る所業であった。

沸々と湧き上がる怒り、憎しみ、殺意。

それらを飲み下し、島津家の提案を吟味する。

宗麟とは意見の食い違いから軋轢が生じている事はれっきとした事実だ。平然と罵倒される事も少なくない。さりとて、主君の行動を戒めるのは戸次道雪と高橋紹運の役目でもあった。今更変えられない。

明日にでも大友勢は臼杵城を出立するだろう。

決めるならば今日だ。

島津家に寝返るか、乾坤一擲の勝負に賭けるか。

 

「紹運様、殿が評定の間にてお呼びです」

 

紹運の中で天秤が傾いた瞬間。

襖の奥から甲高い小姓の声が聞こえた。

男にしては高すぎる。女にして低すぎる。

初めて聞く声音だが、紹運は相分かったと返事。

書状を胸の内にしまい込んだ。

即座に立ち上がり、襖を開ける。

膝を付いて紹運を出迎えた小姓にご苦労と声を掛けてから、見慣れた臼杵城内にある評定の間へ急いだ。

 

 

 

 

 

半刻後、評定の間にて血飛沫が飛んだ。

 

 

 

 

 

◼︎

 

 

 

 

 

 

一月十五日、未の刻。

肥前南部にて、島津家久は夜空を眺めていた。

張り詰めた冷気は遠慮なく肌を突き刺し続ける。

だが戦を間近に控えた今、寒さなど感じなかった。

先日十六歳になったばかりの姫武将。しかし島津軍6000の総大将として、龍造寺隆信との決戦を任された有数の軍略家である。

既に諸々の準備は済ませた。

決戦の地は島原の北方にある沖田畷。数年前から忠棟と共に決めていた場所だ。もしも龍造寺隆信が大軍と共に南下してきた時、寡兵で地の利を活かすには此処しか無いと二人で話し合った。

有馬晴信と島津家久による連合軍は、着陣すると即座に畷を封鎖するように大木戸を築く。森岳城には柵を造って防備を強化。徹底的に守りを固めた。

 

「敵は三万かぁ」

 

島津家久は白い息を吐き出して呟いた。

龍造寺隆信は緩慢な行軍で、有馬晴信を見限った国人衆を取り込みながら南下している。最終的に35000の大軍に膨れ上がるだろうと推測されていた。

それでも島津家の勝ちは揺るがない。

必勝の策は用意され、英気は充分に養われた。

 

「源ちゃんの期待に応えないとね」

 

敬愛する島津家宰相から褒められる為、悲願である九州平定を成し遂げる為、史実でも『戦国一の釣り師』と名高い島津家久は、初の総大将という大任に屈する事なく龍造寺勢35000を迎え撃つ。

 

その瞳は九州の先、京を見据えていた。

 






本日の要点。

1、久秀「そういえば、忠棟は久秀があげた黄素妙論を実施しているのかしら?」

2、紹運「義姉上を犯した忠棟、殺す(確信)」

3、隆信「つ、釣ら……。釣られ、釣られないクマよー!(願望)」



※黄素妙論--性の指南書。久秀の注釈付き。




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