島津飛翔記   作:慶伊徹

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三十一話 織田信長への答案

 

 

八月二十一日、申の刻。

真夏故に天高々と昇る灼熱の太陽。

戸次道雪は黒戸次に腰掛けながら静かに嘆息した。

簡易的な机に置かれた絵地図を眺める。

大友勢の真正面に布陣する黒く塗られた複数の凸は、島津義久と島津忠棟が率いてきた島津本隊を示していた。

三刻前に到着した後、直ぐに根白坂付近に着陣。

18000という兵力もさる事ながら、決戦に向けて用意したと思われる武器の数と質は尋常ではなかった。

間者による報告は以下の通り。

鉄砲2000丁。どれ程の金銭を用いて買ったのか。

国崩し10門前後。どんな巨城を落とすつもりなのやら。

軍馬など数えるのも馬鹿馬鹿しくなった程だ。

島津家は今回の合戦に御家存亡を賭けているのだと否が応でも理解した。そして、この決戦に勝利すれば九州平定すら夢幻の話ではないのだと信じていることも把握した。

嗚呼、と羨ましく感じるのは筋違いだろうか。

島津勢は現当主である島津義久自ら前線に出ている。その反面、大友軍の陣に宗麟の姿はなく、本来副将である筈の戸次道雪が臨時で全体の采配を振るっていた。

そして、敵軍の動きに頭を悩ませていた。

 

「忠棟、貴方は何を考えているのですか……」

 

根白坂に陣を構える島津軍は典型的な魚鱗の陣。

中心が前方に張り出して両翼が後退した陣形である。三角形の形を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。底辺の中心に大将を配置。そちらを後ろ側として敵に相対するのが通例と言えよう。

戦端が狭く、遊軍が多くなり、また後方からの奇襲を想定していない為に駆動の多い大陸平野の会戦には適さないという弱点を有する。

しかしーー。

山岳や森林、河川などの地形要素に囚われることなく陣構えを構築できる。更に全兵力を完全に一枚の密集陣に編集するのではなく、数百人単位の横隊を単位として編集する事で、個別の駆動性を維持したまま全体としての堅牢性を確保できる強みがあった。

連続的なぶつかり合いによる消耗戦には強いものの、両側面や後方から攻撃を受けると混乱が生じやすい。

つまり敵軍に包囲されやすい陣形を選んだのだ。

 

「完成された鶴翼に魚鱗で挑むなんて」

 

対する大友軍は、谷瀬戸川と高城川の間にある平野にて鶴翼の陣を敷いた。

両翼を前方に張り出しており、Vの形を取る基本的な陣形である。中心に大将を配置。敵軍が両翼の間に入ってくると同時に翼を閉じる事で、そのまま包囲して殲滅するのが目的だ。

無論、有効性と反比例した危険性も兼ね備えている。

敵軍にとってしてみれば中央を守護する兵士が少なく大将を攻めやすい。その為、両翼の部隊が包囲するまで持ち堪えなくてはならない。

故に中央部を厚くする必要があった。

今回の場合だと、初戦に勝ったが為に厚くせざるを得なくなった。

 

「田北殿を焚きつけて、釣り野伏でしょうか」

 

初戦にて島津家久の軍勢を一蹴した田北鎮周。

親指武蔵と恐れられていた新納忠元を負傷させて武功を挙げた田北鎮周は、島津兵など弱卒なりと陣中で鼻息を荒げた上に、此度の決戦に際する一番槍を他の誰にも譲らなかった。

高城への付け込みを禁ずるという命令にも大層不服だったようで、軍議の最中であるにも拘らず、諸将の前で喧嘩でも売っているかのように小馬鹿にしてきたぐらいである。

望み通り先陣を切らせる事にした。

鶴翼の前面にある突進した白い凸は田北鎮周の部隊だ。数にして4000。高城川を挟み、島津勢と真正面から睨み合う場所に布陣中である。

彼の気勢を考慮すれば戦の趨勢は自ずと見える。

我先にと島津軍に突っ込み、わざと退却する島津軍にホイホイと誘われて無策な追撃。そして釣り野伏による反撃を食らって壊滅と言った具合か。

 

「なら、私はその裏をかくだけです」

 

田北隊の後方に控えるは6000の戸次道雪隊。

右翼を任されているのは4000の田原紹忍隊。

左翼に置かれているのは4000の佐伯惟教隊。

戸次道雪は絵地図に手を置く。

意気込む田北鎮周に悪いが、島津勢の囮になってもらうつもりだ。釣り野伏を食らった田北隊が壊滅しそうな時に、満を持して開いてある鶴翼を大きく閉じる。要は釣り野伏返しである。

当然、簡単には行かないだろう。

しかし素早く包囲殲滅するには最適手だ。

 

「けど、相手は島津の今士元。これだけで勝てるなど有り得ない。何か切り札を隠している筈ですがーー」

 

変わらず財部城に陣を構える島津義弘。

3000の兵を率いる鬼島津への抑えとして、松原の陣には臼杵鎮続を大将とした6000の兵を置いてある。

そして高城に篭ったままの島津家久。新納忠元と共に約2000の兵力を温存している侮れない敵だった。

彼らに対抗する為に野久尾陣には志賀親度率いる5000の兵を、高城北東に敷いた本陣には軍師たる角隅石宗と6000の兵を残している。

数に物を言わして形成した盤石たる布陣。

戸次道雪本来の統率と武勇を発揮すれば必ず勝てる戦だ。

それでも違和感が付き纏う。

今士元の策略に嵌まっているような気がする。

見落とした部分は無いか。

島津勢にとって逆転の手は無いのか。

考えろ。考える事を止めると敗北に繋がる。

相手は戦国の鳳雛。

油断など髪の毛一本許されないなど自明の理だ。

それから絵地図を眺めること一刻、遂に敗北の一手を見つけ出した戸次道雪は嬉しそうに微笑んだ後、悲しそうに少しだけ眦を下げた。

 

「……見つけましたよ、忠棟」

 

貴方が必勝だと確信した策略を。

もしもこのまま決戦に及んだら大友軍は敗北必至だった。後詰として置いた本陣を抜かれ、後方から怒涛の如く攻め込まれたら流石の戸次道雪でも戦場を支配する事など不可能となろう。

無論、道雪の考え過ぎという線も残っている。

さりとて昨今の状況を鑑みれば充分に有り得る話だ。

 

「だから貴方は初戦に敗北したのですね」

 

先日未明に勃発した初戦。

島津軍は敗北して、大友軍は勝利した。

最初は田北鎮周を暴走させる事が目的だと推測した戸次道雪だったが、今ここに至って漸く真の目的を理解した。

つまり、島津忠棟が狙っているのはーー。

 

「此処、ですか」

 

戸次道雪が右手に持つ軍配で指し示すのは、5000の兵士で高城を包囲する志賀親度率いる『野久尾陣』だった。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

同日、未の刻。

味方の布陣が完了してから一刻ほど経過した。

根白坂全体に配備された島津兵は15000だ。

周囲は伏兵を用意するのに必要な木々で覆われている。釣り野伏を仕掛けるに充分すぎるお膳立てが整ってあった。

俺は床几に腰掛けながら絵地図を注視する。

 

「大友軍は鶴翼の陣、か」

「でも、大旦那の目論見通りになってるねぇ」

「無論よな。その為に義弘様たちに苦汁を飲ませたのだ。手筈通りに事が運ばぬようでは叱責だけで済むと思えぬ」

 

傍らに控えるは股肱の臣たる三太夫。

対する俺は腕組みしながら快活に笑った。

昨日未明に行われた寡兵での奇襲作戦。

義弘様と家久様、忠元殿にわざと敗けろと指示した結果、お三方は俺の想像以上に巧く敗北して下さってくれた。

そして、見事に最善の状況を作り出した。

 

「田北鎮周め。見事に釣られおったぞ」

「島津兵弱卒なりって陣中で叫んでるらしいよ。今度は島津本隊も鎧袖一触にしてくれようぞとかなんとか」

「ふむ。忠元殿に手傷を負わせた事で際限なく増長してくれたようだな。これなら釣り野伏も容易く完遂できるであろうがーー」

 

脳裏を過るのは大友軍の副将。

史実だと常勝不敗を体現した名将たる戸次道雪。

総大将である筈の大友宗麟が懸城で祈りを捧げている今、雷神が軍配を握っていることは確定事項である。

故に釣り野伏は読まれていると考えるべきだ。

陣中の諸将を完全に統制できない不利。初戦に勝利したからこそ浮かれてしまう脳筋武将。戸次道雪なら、この二つを見事逆手に取ることも視野に入れないと敗北必定だろうな。

 

「オレも田北鎮周隊は囮にするね」

「であるか。釣り野伏で壊滅寸前の田北隊を見棄て、両翼を閉じることで大規模な釣り野伏返しを行うとみて間違いなかろうて」

「弘女将さんも6000の兵力で睨まれてる。家女将さんも高城に篭ったままだから、このままだと敗けちゃうかな」

「白々しい物言いよな、三太夫」

 

敗北など認めない。

決戦に向けて策を練り続けた。

大友家に対して調略を仕掛け続けた。

俺が掴むのは勝利の二文字だけである。

 

「野久尾陣を率いるは誰ぞ?」

「志賀親度だね。兵力は約5000かな」

「調略の程は如何だ?」

「もう一ヶ月も前に完遂してる。内応は確約済みだよ。戦端が開かれた瞬間に寝返ってくれるって書状にも書いてあったでしょ?」

「お主が戯けた事を申すからよ。家久様と志賀親度で本陣を抜いて、6000に増やした義弘様の部隊で松原の陣を壊滅させれば、此方の大勝利は疑うべくもない」

 

四方八方に散らせた十数人の忍衆。

その報告を元に書き込んだ詳細な布陣状況にほくそ笑む。

本陣には角隅石宗率いる8000が布陣中。

戸次道雪隊の背後を守護する形となっている。

色々な意味で非常に邪魔だ。

同じく松原の陣も目の上のたんこぶである。

義弘様のいる財部城を抑えている上に、戸次道雪隊の背後から奇襲したとしても即応できる形を取っていた。

義弘様が壊滅に追い込んでくれれば大助かりなんだが、確実性のない希望を当てにして策略を組むなんて論外と言えよう。

家久様と義弘様は足止めだけで構わない。

何れにしてもーー。

志賀親度の内応が確かなら一安心だった。

 

「でもよ大旦那。志賀親度の裏切りに気付かれてたらどうすんのさ?」

 

小首を傾げる不幸忍者。

確かに敵は戸次道雪である。

此方の調略に気付いてる可能性は高い。

だがーー。

慌てることはない。

大友宗麟の不在は大き過ぎた。

 

「確信は無いが疑っているやもしれんな。だとしても証拠が無ければ追及もできぬ。忘れてしもうたのか、三太夫。戸次道雪はあくまでも副将ぞ」

 

むしろ裏切りに警戒したからこそ、わざと野久尾陣に志賀親度を置いたとも考えられる。

例え本当に島津家に内応したとしても、角隅石宗が指揮する本陣で食い止められるからだ。両翼、もしくは松原の陣に配備して裏切られたら目も当てられない。大友軍など容易く崩壊するだろう。

まぁ、なんにせよーー。

俺の狙う『本命』は別にある。

 

「首尾は如何に?」

 

小さな声音で問い掛ける。

三太夫は直ぐに俺の意図を察したようだ。

わざとらしく肩を竦めてから小声で返答した。

 

「上々。作戦通りだって」

「重畳至極なり」

「大旦那は何で川上の旦那を選んだわけ?」

 

嫌ってなかったか、と付け加える三太夫。

人柄としてなら嫌悪感などない。

俺の貞操を奪おうとする久朗の趣味嗜好に、只ならぬ恐怖心があるだけだ。アイツだけだぞ、俺を押し倒してでも犯そうとしやがったのは。

だとしても久朗は優秀な武将だ。

知勇兼備の将として史実でも名を残している。

今回の決戦で勝利を決定付ける『鬼札』に選んだのも、川上久朗の適性から判断したわけだしな。

 

「嫌いとは誇張表現よ」

 

友人としては好きだ。

同性愛云々に関しては無理だ。

久朗に限らず、男と寝るなんて不埒ですから。

 

「ふーん、じゃあ好きなんだ?」

 

ほーう。

喧嘩売ってるのかな、この軽薄忍。

 

「……お主、どうも休みはいらぬようだな?」

「あっーー。ごめんなさいごめんなさい!」

「まぁよい。だが、失言の分は取り返して貰うぞ」

 

途端、三太夫は顔を顰める。

端正な顔立ちに拘らず口を尖らした。

 

「うげっ」

「兼盛殿に2000の兵を与える。そのまま根白坂の左側に待機するように伝えてくれ。所謂、遊撃隊と言ったところか」

「2000か。大盤振る舞いだねぇ」

「仕方あるまい。予備の策を絶えず用意しておく事こそ勝利の近道である故な」

 

了解、と軽い返事と共に姿を消した三太夫。

これで事前にやるべき事は終了した。

兵站の確保、調略の完遂、布陣の徹底。

必勝の策略通り、無事に事は進んでいる。

俺は床几から立ち上がった。

高城川の向こうに広がる大友軍の兵士たち。

奴らを薙ぎ払い、九州統一の足掛かりとする。

そして目指すは天下統一だ。

義久様と夢見た未来、直茂と約束した将来。

そしてーー。

雪さんに対する恩返しとして天下静謐を達成しよう。

 

「戸次道雪、遂に黒星が付くぞ」

 

明日、始まるであろう決戦に想いを馳せた。

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

同刻、尾張国清洲城。

二ヶ月前に今川義元を破った織田信長。

桶狭間の戦いと呼ばれる奇跡の大逆転勝利から、戦国の世を終わらせようとする彼女の時代は幕を開けた。

今川義元を屠った後、一月足らずで尾張全土を掌握。三河にて独立を果たした徳川家康と同盟を組んで東からの脅威を取り除いた。

織田信長の狙いは尾張北方に広がる美濃である。

美濃は東海道と中仙道が通るだけでなく、北国街道を押さえられる位置にあった。更に尾張と美濃に、北近江と越前の一部を押さえると日ノ本を完全に分断する事が出来る。

そして肥沃な濃尾平野が広がっている。

この為、史実だと斎藤道三が美濃を制する者は天下を制すると嘯いたのだ。実際、織田信長の躍進は美濃を平定してから始まったとも言えよう。

だが、織田信長は美濃国を攻めあぐねていた。

斎藤義龍に姫武将としての才覚は無いとしても、美濃三人衆という優秀な家臣団が活躍するお陰で遅々として美濃攻略が進まずにいたのだ。

このままでは拙いなと焦燥感を覚えた信長だったが、つい先日見つけたばかりの面白いサルが美濃国からとんでもない者を連れてきた。

 

「サル、下がれ」

 

百姓から出世した木下秀吉。

織田信長からしたらサル同然の女。

威圧的に告げると、木下秀吉はそそくさと走り去った。

天真爛漫な明るさと小生意気な立ち回り。柔軟な発想と確実な実行。日ノ本でも珍しい部類で有能さを発揮する部下だが、未だ経験不足は否めなかった。

ーーまぁ、サルなどどうでもよい。

織田信長は眼前にて座り込む姫武将を眺めた。

今にも逝ってしまいそうな儚げな雰囲気を纏う一方で、世の無常を知るからこそ全てを看破する眼力も備えている。

成る程、これが『今孔明』か。

織田信長は気楽な口調で話しかけた。

 

「お前、私の元で働きたいようだな?」

「ええ。秀吉さんの紹介ですが、半兵衛さんも信長様の天下取りをお手伝いしたいと思って馳せ参じました」

「成る程。だがな、半兵衛。今孔明と呼ばれるお前だが、その知略を裏打ちする物がなければ家臣として召抱える事はできんぞ」

「道理ですねぇ。半兵衛さんとしては直ぐにでも美濃攻略に掛かった方が良いと思いますけど」

 

日向ぼっこにも感じられる暢気な声。

だが、竹中半兵衛には何故かしら焦りがある。

 

「ほう。何故だ?」

「南から恐ろしい者が来るからですよ」

「南から、か。それは島津家の事だな?」

「おぉ。流石は信長様ですねぇ。半兵衛さんも同じ意見ですよ。あの家は必ず九州を統一して上洛しようとするでしょう」

 

今孔明は絶対の自信をもって断言した。

発展著しい島津家。

今現在、日向にて大友家と決戦に及んでいる。

情報を重んじる織田信長は、九州の覇権を賭けた争いにも当然の如く着目していた。だからこそ島津家は危険だと認識できた。

だが、竹中半兵衛は何を判断して危険だと思ったのか。

ーーいや。

恐ろしい者とは誰の事を指しているのか。

 

「半兵衛よ、恐ろしい者とは誰を指す?」

 

気になって問いかける。

織田信長も僅かだが気になっている男がいた。

もしも同一の人物を口にしたのなら、竹中半兵衛の知略を認めてやろうとさえ思った。

 

 

「島津忠棟。島津の今士元。半兵衛さんと対極にある存在な気がして、だからこそ恐ろしく感じてしまいますねぇ」

 

 

この問答から織田家の躍進が始まった。

竹中半兵衛重治は織田信長の家臣となる。

直ぐに美濃攻略に取り掛かった今孔明の才覚によって、僅か一年程度で美濃国を平定することになった。

 







本日の要点。

1、大友軍は鶴翼の陣。

2、島津軍は魚鱗の陣。

3、竹中半兵衛、織田信長の直参となる。

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