島津飛翔記   作:慶伊徹

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二十五話 島津忠棟への危機

 

 

囲碁を知っているだろうか。

2人で行うボードゲームの一種。

白黒で分けられた二種類の碁石を、碁盤と呼ばれる板へ交互に配置する。盤上に置かれた石は、相手の石に全周を取り囲まれない限りは取り除いたり移動すること能わず。知略が物を言う遊びの一つである。

ゲームの目的は単純明快だ。

自らの石によって盤面のより広い領域を確保することにある。

その発祥は古代中国と考えられている。

2000年以上前から東アジアを中心に親しまれてきた文化と歴史を持つ。

それは日ノ本に於いても同じこと。

平安時代から広く嗜まれ、枕草子や源氏物語といった古典作品にも数多く登場する。戦国期には武将のたしなみの一つでもあり、庶民にも広く普及した。

薩摩琵琶は趣味の一つと言える。

だが、囲碁に関しては徹底的に教え込まれた。

そこに楽しさなどなく、嬉しさなど皆無だった。

だとしてもーー。

幼い頃から心身に深く刻み付けられた理由は、祖父が戦略の重要性を誰よりも理解しているからであった。

 

「……うーん」

 

碁盤を挟んで可愛らしく唸るのは島津家久様。

初めてお会いしてから八年が経過した。

今年で14歳を迎える家久様は島津四姉妹の中でお一人だけ別腹の子なれど、家中を笑顔にさせる天真爛漫な性格で皆から可愛がられている。

僅か13歳にして相良征伐の別働隊を取り仕切った能力は筆舌に及ばず。昼夜問わず学問と武芸に心を砕き、片時も無為に過ごさずにいた結果、義弘様や歳久様に匹敵しそうな文武を、小柄で華奢なその身に宿したのである。

さて、囲碁に集中しよう。

盤面を睨んで唸る戦国最強の釣り師。

既に戦局も終盤だ。

黒と白の碁石が盤上を鮮やかに彩っている。

有利なのは俺。不利なのは家久様。

だが、家久様にとって逆転の目はまだある。

わざとその目を残しておいた。

気付けるかどうかが勝負の分かれ目だ。

これは俺なりの激励であり、試験なんだからな。

 

「…………」

 

家久様は盤面を指差しながら目を数える。

俺は戦術家らしい家久様の姿に苦笑しながら、わざと焦らせるように碁石を複数持ってじゃらじゃらと鳴らした。

申し訳無さそうに肩を落とす家久様だったが、何かを決心したように黒の碁石を一つ掴み、盤上に置いた。

 

「これしか無い、かな」

 

そうか。

やはり其処に置くか。

家久様とてまだまだお甘い。

 

「家久様なら其処へ置くとわかっておりました」

 

瞬間、予め決めていた目に碁石を置いた。

 

「あっーー」

 

囲碁は将棋みたく王手など無い。

相手が降参しなければ対局は続く。

しかし、お互いに囲碁の本質を理解していれば話は別だ。多少なりとも戦局を把握できる者ならば勝敗など容易く判別可能である。

つまりはーーこれでまさしく詰み。

家久様にとっての逆転の目は消失した。

 

「家久様は細かい目に拘り過ぎですぞ」

「だって……」

「盤上の隅を奪えたとしても、敵方に中央を盗られてしまえば呆気なく敗北致します。此度の対局通り。まさしく木を見て森を見ずですな」

「うぅぅ。将棋なら源ちゃんと互角なのに」

「囲碁は戦略、将棋は戦術と申しますからな」

 

当代一の戦術家である島津家久。

必ずしも将棋の力量と直結する訳ではないが、確かに家久様は囲碁よりも将棋の方が向いていると思われる。

初手から始まる予想外の連続。中盤にてようやく定石を展開。そのまま終盤に差し掛かった時の読み合いは13歳の限界値を超えている気がするんだが。

このまま成長なさればどうなるのか。

この世界だと島津家は龍造寺家と同盟を結んでいる為、沖田畷の合戦が勃発する可能性は低いものの、家久様ならば大友宗麟や高橋紹運とかを釣ってくれそうで頼もしい限りだ。

 

「囲碁は戦略なの?」

「御意。ご祖父様のお言葉を拝借するならば、碁盤全体を地図に見立てると一層ご理解しやすいとの事」

「将棋は?」

「将棋盤は戦場と心得なされ。最前列に歩兵が並び、一段後ろに飛車角が睨みを利かし、その背後には外側から香車、桂馬、銀、金と置かれ、中央に玉のある様は、まさに合戦の陣構えそのものでありましょう」

「あ、本当だー!」

 

なんたることかな。

気付いてなかったのかよ。

 

「でもでも。源ちゃんの言いたい事がわからないよ?」

 

家久様は盤上を見下ろしながら小首を傾げた。

生粋の戦術家である家久様だが、これからは戦略も学ばなければならない。三洲に加えて肥後南部すら平定した島津家の武将だからこそ、九州全土や日ノ本全土に展開する戦運びまで考慮した上で戦術を用いる必要性が出てきたのである。

大は小を兼ねる。

用意周到な戦略を戦術で覆すことは不可能だ。

要するにーー。

対戸次道雪の為に、家久様の戦略面を出来る限り磨いておくという訳だったりする。

貴久様が了承した事で、家久様の高城派遣は決定済み。

最初に大友の軍勢と干戈を交えるんだから、その場の戦術に固執して無理して欲しくないしなぁ。

 

「小難しい話となりましょうが、どうか眠らずにお聞き下さいますようお願い申し上げておきまする」

 

囲碁や将棋を差した後、家久様はお昼寝する習性を持つからな。誰が身体を揺さぶっても最低一刻は眠りっぱなしとなる。

故に前以て先手を打っておく。

だが、家久様は憤慨したように頬を膨らました。

 

「源ちゃんってば馬鹿にしすぎ!」

「五日前も某の話を聞かなかったのは誰でしたかな?」

「……ごめんなさい」

「素直なのは大変素晴らしい事に御座りまする」

 

鎧袖一触である。

家久様が静かになった所で説明を始めよう。

戦略には七つの階層が存在する。

一番上から、世界観、政策、大戦略、軍事戦略、作戦、戦術、技術。二十一世紀の日本で書かれた書物だから多少の齟齬が出てしまうものの、人類不変の真理に当てはめれば戦国時代にも適用する事ができる。

世界観とは人生観、歴史観、地理感覚の事。

政策とは生き方、政治方針、意思の事。

大戦略とは人間関係、兵站や資源配分の事。

軍事戦略とは戦争の勝ち方の事。

作戦とは会戦の勝ち方の事。

戦術とはツールの使い方、戦闘の勝ち方の事。

技術とはツールの獲得、敵兵の殺し方の事。

この七つの項目を定めておくことが肝要である。

島津家中で当て嵌めてみると分かりやすいかもしれん。

貴久様と義久様が世界観と政策を決定し、俺と歳久様が大戦略と軍事戦略を模索して、義弘様が作戦を編み出し、家久様が戦術を練る事で外敵を討伐せしめるだろう。

無論、俺が政策に口を出す事もあれば、義弘様が大戦略や軍事戦略に異議を申し立てる事も出てくる。その際は充分に献策を吟味して、お互いに高め合っていければ尚良しである。

 

「だから?」

 

遠回しに説明し過ぎたか。

目を点にする家久様に、俺は苦笑いを浮かべる。

ーー戦略の七階層。

教育の行き届いた現代日本でも、一般人には然程浸透していない戦略概念だからなぁ。

戦国時代だと織田信長が卓越した戦略家だった。

たった一人で自らの取るべき世界観から軍事戦略まで掌握した能力は、戦国時代を終わらせる覇者として君臨するに相応しい物と言える。

個人的な意見を述べるなら、織田信長の恐ろしさは未来を見通したとしか思えない数々の戦略を生み出した点にあると思う。

長篠の戦いによる勝因も三段撃ちとかじゃないしな。決戦の場に武田勝頼を誘き出した計略にあるんだよ。

 

「今すぐに軍事戦略や大戦略を視野に入れろとは申しませぬ。家久様の持ち味は卓越した戦術面にあります故に、それを殺すような真似はお控えあるべし」

「でもでも、戦術だけだと戦略に敵わないって」

「まさしく真理。しかしながら、人には得意不得意が御座りまする。五年、十年掛けて戦略面を学んでいくことこそ肝要。家久様に於かれましては此度の話をお忘れなく、胸に留めておくだけで充分かと」

 

それまでの間、俺か歳久様が手助けすればいい。

義弘様も戦術面にばかり偏っていたが、日向国の情勢などを考慮しなければならない佐土原城の城主を経験したお陰か戦略面にも精通し始めた。

島津家は磐石な物になりつつある。

俺はその手助けをしている事が嬉しくて、誇らしくて、少しだけ悲しかった。

 

「源ちゃんが言いたいのは、その場の勝敗だけに執着しないで、広い視野をもって行動しろって事だよね?」

「如何にも」

「うん。わかった!」

 

家久様が元気よく返事する。

高城へ旅立つのは一週間後か。

今日は永禄三年の三月六日である。

大友家との決戦まで残り半年を切った。

これから忙しくなるだろう。

正念場だ。踏ん張らなくてはな。

 

「じゃあね、源ちゃん!」

「金平糖を食べ過ぎませぬように」

「あ、あんまり食べてないってば!」

 

慌てるように部屋から出て行く家久様。

あの様子だと図星だったな。

甘いからなのか相変わらず大人気である。

金平糖とは表面に凹凸状の突起をもつ小球形のお菓子だ。語源はポルトガル語のコンフェイトらしい。カステラや有平糖などとともに南蛮菓子としてポルトガルから西日本へ伝えられたとされており、初めて日本に金平糖が伝わった時期は1546年だと言われている。

ーーあくまでも史実ではな。

この世界だと俺が作りました。

ただの砂糖よりも売れるから驚いたけど、初めて黒砂糖を作るよりも簡単だったぞ。

義久様から太ったかもしれないという相談事を受ける程度には、島津家の中でも広く流通していると思ってくれて構わない。

 

「鍋島直茂にございます」

 

ーーと。

特徴的な冷涼な声音が襖の外から響いた。

直茂が申の刻に俺の部屋を訪ねてくるなんて珍しいな。

太陽が顔を覗かせる内は、義久様を考慮して部屋に近付かないと口にしていたが、喫緊の用事でも出来たんだろうか。

 

「苦しゅうない。入れ」

「はい。失礼いたします」

 

流麗な動きで入室する直茂。

去年から少し出で立ちが変わっている。

俺好みに変貌しつつあるのは偶然だろうか。

それとも誰かの入れ知恵か。

だとしても誰から聞いたのか見当もつかない。

竜造寺隆信、はたまた鍋島直茂による計略を警戒している俺は個人的な情報を漏らした事など一度もないからなぁ。

ともあれ挨拶から入るとするか。

 

「髪、伸びたな」

「気分を一新させるためです」

「着物の色は青系統に変えたのか」

「侍女に勧められまして。似合いませんか?」

「いや、似合うておる。長い髪も美しい限りよ」

「有難うございます。旦那様から戴くお褒めの言葉は、いつも直茂の胸を穏やかな物としてくれます」

 

無表情で淡々と返されてもな。

新春の頃より雰囲気は柔らかくなっているが、さりとて決定的にお互いの心に踏み込めたわけでもなく、俺と直茂の仲は相も変わらず微妙なものとなっている。

義久様だと髪を褒めれば喜んでくれるのに。

直茂の場合は何だろう。

そこまで考えて、ふと気付いた。

直茂の事、殆ど何も知らねぇんだな、俺は。

 

「して、何用だ」

 

話を戻すとしよう。

所詮は政略結婚の相手だ。

不必要に関係を拗らせなければ構わんだろう。

 

「これは失礼致しました」

「構わぬ。早う申せ」

「旦那様、お時間の程を二刻ほど戴きたいのですが宜しいでしょうか?」

 

政務は朝の内に済ませてある。

家久様と約束していた囲碁の対局も終わった。

酉の刻まで暇なのは確かだ。しかし直茂から誘われるなど驚天動地の事態である為、二つ返事で了承などできなかった。

取り敢えず理由を聞かなくてはな。

 

「理由を述べよ」

「はっ。奥方様がお待ちです」

「なんと。義久様が?」

「はい。今後の事について大事な話があるとか」

「委細承知した。案内せい、直茂」

「かしこまりました」

 

この時、俺は気付くべきだった。

何故、小姓ではなく直茂が呼びに来たのか。

何故、前もって二刻と時間を告げたのか。

何故、義久様の事をわざわざ奥方様と呼称したのか。

幾らでも気付ける点は有ったのに!

 

「義久様、島津忠棟に御座りまする」

「どうぞ〜。入ってちょうだい」

「御意。畏れながら失礼致しまする」

 

初めて義久様と顔を合わせた広間。

上座に腰掛ける義久様以外に誰もいない。

物凄く嫌な予感がする。

首筋にチリチリとした痛みが走った。

ヤバい、これは確定的にヤバい事態になる。

そういえばーー。

鍋島直茂と結婚しろと島津貴久様から宣言されたのも、確かこの部屋だった気がするんですけど!

 

「ん?」

 

全身に絶え間なく走る悪寒。

義久様の手前だ。既に取れる選択肢は一つ。

表情だけは落ち着き払いつつ、俺は下座に移動した。

ーーのだが。

何で直茂が義久様の隣に座ってるんですかねぇ!?

 

「さて、やっと始められるわね〜」

「な、何をで御座りまするか?」

 

嬉しそうに口火を切った義久様。

駄目だ。これ本当に駄目な奴だよ。

出来ることなら今すぐ退室したい限りなんだが。

さりとてそんな願望が叶うはずもなく。

義久様の消えた笑みと共に俺の望みも消失した。

 

「勿論ーー」

 

一拍。

 

 

「夫婦会議よ」

 

 

 

 

 

▪️

 

 

 

 

 

同刻、臼杵城下。

肌を突き刺す冷気が陽気に変わる季節。

戸次道雪に与えられた屋敷の一角で、高橋紹運はひたすらに迷っていた。

義姉上を止めるべきか。

それとも望み通り行かせるべきか。

島津家との決戦は八月頃を予定しているが、不測の事態によって明日にでも陣触れとなる可能性だって少なくない。むしろ大いに有り得るのだ。

 

「諦めなさい、紹運」

「どうかお考えを改めてください、義姉上」

「二ヶ月前から準備してきましたから。今更考えを改めるつもりはありませんよ」

 

角隅石宗は反対した。

安易な行動お控えあるべしと。

戸次道雪は日向南侵時の副将に任ぜられている。

ぐうの音も出ない正論だと言える。

だが、主君たる大友宗麟は賛成した。

むしろ推奨したぐらいである。

表向きは島津家の実情を調べてこいと勇ましく口にしていたが、裏向きでは口煩い道雪がいなくなって清々するといった所だろうか。

 

「もしも明日、日向国に攻めるとなったらどうするつもりですか!」

「その時は諦めて帰ってきますよ。安心なさい、紹運。宗麟様とて日向南侵の重要性はご理解しています。島津家との決戦に敗北すれば、その先に待つのは大友家の衰退、あるいは滅亡であることぐらいは」

「私たちと同じ危機感を抱いてると思いません」

「慧眼ですね。私も同じ意見です。だからこそ私が実情を調べてきたら、宗麟様とて考えを改めると思いませんか?」

 

此方も正論ではある。

だが、紹運が察するに本当の理由は違う。

戸次道雪は島津忠棟に執着している。

才能を畏れると共に、その人柄に惹かれている。

三年前に二人に何があったのか。

紹運は詳しく知らない。知ろうとしなかった。

戸次道雪が此処まで島津忠棟を想っていると気付けなかったから。

此処まで本気なのだとわからなかったから。

 

「留守を頼みましたよ、紹運」

「義姉上、どうかお考え直しの程を」

「無事に戻って参ります。ですから、ね?」

「……もう、義姉上の好きになさりませ」

 

可愛らしく微笑む戸次道雪。

紹運はやれやれと肩を竦めた。

そのまま説得を諦めて、黒戸次を押す役割に。

 

「お気をつけて」

「わかっておりますよ」

 

港へ移動する中、紹運は義姉の安全を祈願する。

だが、その張本人は久し振りに会える想い人の事で頭が一杯なのか、ひたすらに南へ視線を向けていた。

 

 

 

「薩摩はもう、暑いのでしょうか」

 





本日の要点。

1、島津家久に戦略を教授。

2、女子会を経た夫婦会議が開かれる。

3、戸次道雪が薩摩へ来襲。

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