島津歳久は知識人である。
幼い頃から貪欲に様々な知識を吸収してきた。
必要な物と不必要な物。それらを多少なりとも取捨選択したものの、家中でも胸を張って意見を口に出来るほどの自負を持てるようになった。
それでも限界を知っている。
才能という高い壁がある事を知っている。
机を挟んで仕事を行う男に、一度と言わず何度も何度も誇りと自信を砕かれた。
名を伊集院総部助忠棟。
麒麟児と呼ばれた二つ歳上の男は、今日も歳久に溜め息を吐かせた。
それは、忠棟の発する何回目か解らない無茶な提案故の物だった。
「金山開発の全権を私に?」
薩摩国で新たに発見された串木野金山。
真幸院の戦いによる恩賞で得た金子を用いて、忠棟自身が厳正に選抜したという金山衆によれば、大規模な鉱山である事は間違いないらしい。
ちなみに、金山衆とは戦国時代から江戸時代の初めにかけて,それぞれの掘り場を持ちながら採金業をしていた山師の集団であり,在地武士団でもあった。
「歳久様が了承なさってくださるのなら」
いずれにしても。
夕暮れに照らされる内城の屋敷。島津貴久の三女に与えられた部屋にて向かい合う男女の姿は相対的であった。
島津歳久は予想だにしない提案に眉を潜めたにも拘わらず、伊集院忠棟は涼しげな表情を保ったまま答えた。
疲れた様子は伺えない。
歳久よりも仕事が多く割り振られている筈だ。
ーー否。現在の所、忠棟は島津家の中で最も仕事をこなしているだろう。砂糖製造、港湾整備、商人接待、軍団編成、遠行外交、その他諸々。それに金山の探索、開発も主導していたのだ。
例え1日に課せられる仕事の量が限られていたとしても、その全てを片付けるには歳久だとしても寝る寸前まで机と向き合う事になるに違いない。
だが、忠棟は夕方となる前には終わらせている。
一度だけ尋ねたことがあった。
どのようにして仕事を進めているのか、と。
すると、忠棟は至極当然のように答えた。
問題点は最初から目星が付いていました、と。
絶句したことを覚えている。
馬鹿げた話だ。参考になど出来るはずもない。
そんな事が可能なのはあなただけだ、と島津歳久は柄にもなく大笑いした。
「あなたが発見した金山でしょう?」
「如何にも。しかし、某が愚考いたしますに、此度の案件を完遂なされるとしたら歳久様を於いて他におりますまい」
尊敬している者に褒められることは甘美である。
一瞬だけ頬を赤く染めた島津歳久だったが、それを気取られないように、敢えて冷たい声音で返した。
「不可解な事を申すのですね。忠棟が主導しなくてどうするのですか。初期の金子もあなたが出したのですから」
「無論、其処は承知致しております」
「ならば何故?」
「万が一、の為で御座りまする」
忠棟は伏したまま淡々と答えていた。
それでも最後に言葉を詰まらせてしまう。
原因は何か。考えてみれば簡単な事である。
島津歳久は直ぐに理解した。
そして、少しだけ胸が痛んだ。
「なるほど。義ねぇの件ですか」
「やはり、歳久様はご存知でしたか」
困ったように苦笑いする忠棟。
その顔をよくよく見てみれば、心身の消耗が僅かながら浮かんでいた。隈も見受けられる。
疲れた様子が伺えないなど嘘八百であった。
人間を観察するのは得意だと自負していたが、まだまだだと自戒を施した歳久は、忠棟と改めて向き直る。
「当たり前でしょう。義ねぇと共にお父様へ献策したのは私なのですから。しかし、その様子だと義ねぇへの返事はまだのようですね」
「然り。何分唐突なこと故」
外堀を埋めるとか、間接的に事を進めるとか。
どうやら覚醒した様子の長女、島津義久は考え付かなかったようである。
肝付兼盛から『千の準備を施す者』だと称された伊集院忠棟をして、唐突な事だったと言わしめた姉の行動力に思わず気圧されてしまった。
「主君から想いを伝えられたのです。何を迷うことがあるのですか?」
「某は義久様に忠義を尽くしております。故に恋仲になろうなど不忠の極み。加え、龍造寺家との同盟に影響を及ぼす事を考慮した次第でありまする」
「それでも、断ることはしなかった」
「矛盾している事は、重々承知致しております」
忠棟は眉を潜め、双眸を畳に下ろした。
真に忠誠だけを誓った相手なら、龍造寺家との同盟を最優先としたのなら、何も考えずに島津義久の告白を断るのが筋であろう。
だが、断りもせず、了承もせず、結果を先延ばしとした忠棟は何かを圧し殺すように吐き捨てた。
迷っているのか。
それとも答えは出ているのか。
どちらにしても後一押しが肝要となろう。
歳久は数瞬瞑目した後、ゆっくりと口を開いた。
「忠棟の気掛かりは理解できます。だからこそ私から申し上げるのならば、それらは余計な考えであるという事です」
忠棟が顔を上げた。
目と目が合う。
交錯した視線が逸れることはない。
「何故、と問うても構わぬでしょうか?」
「義ねぇはあなたの忠義を知っています。あなたの性格を知っています。故にあなたが苦悩する事もわかっていました。それでも恋仲に、正室となる事を望んだのです。その想いは、あなたが義ねぇに抱く忠義と何ら遜色ありません」
「…………」
「龍造寺家に関しても気になさらずともよろしいかと。先方も鍋島直茂を側室とすることで既に合意済み。大友家の脅威に晒されているのは龍造寺家とて同じこと。同盟は成ります」
「分かって、おりまする」
先の一件から五日。
今朝方、百地三太夫が薩摩へ帰還した。
龍造寺隆信が認めた書状には、島津家の要求を呑む事と出来る限り早急に同盟を成したい事が書かれていた。
残りは忠棟の存念次第。
最初からここが最大の難関だと予測していたからこそ、歳久は島津貴久を説得できた日に龍造寺家へ百地三太夫を派遣したのである。
「それでも葛藤しますか?」
質問、そして一拍。
忠棟は言葉を選ぶようにして発言した。
「容易に折り合いがつきませぬ故。それに、義久様が家督を継ぐとしても、某が島津家当主であらせられる方を娶るのは家中から反発を生みましょうぞ」
「その対策は昨日お伝えしましたが」
「御意。策の有用性も現実性も理に適っていると惚れ惚れ致しました。先の一件、加えてその功績をもって家中の反発を抑えようとするのも実に見事かと」
何だろう、この男は。
気落ちしているからか。
人生を左右する悩み事のせいか。
嘘偽りない賞賛の言葉が歳久の胸を貫く。
だらしなく緩みそうになる表情をきつく引き締めた。
何を隠そう、忠棟の褒め称えた策を考えたのは島津歳久だからだ。三洲平定時の戦いぶり、大友宗麟の悪い噂、肥後の情勢などを鑑みた結果、高い確率で成功するのでないかと思い至り、細かく練り上げてから献策したのである。
それは見事、伊集院忠棟の琴線に触れたらしい。
だからこそ次のような台詞を口にしたのだろうから。
「歳久様、教えて下さりませ。某は、実利だけを考慮した上で義久様を正室に迎えてもよろしいのでしょうか」
忠棟は額を畳に打ち付けた。
成る程、あと少しか。
攻勢を掛けるとしたら此処だろう。
歳久は居住まいを正すと同時に、忠棟へ一歩近づいた。
「私なら首を縦に振りましょう。しかし、忠棟。あなたに愛を告げたのは他ならぬ島津義久です。その事を鑑みれば、敢えて聞かずとも答えはわかるでしょう?」
「……御意」
苦しそうに紡ぎだす忠棟。
彼の主君、島津義久は心優しい女性である。
領国の発展を願い、家臣を想い、民を慈しむ。
そして先日の一件により、心に一匹の鬼を飼い始めた。天下を手にするべく修羅を得たのだ。
日の本を統べる事の出来る大器の持ち主となった義久だが、二十年来培われた根幹は不変である。
彼女は変わらず愛を求めている。
一匹の鬼を心に置いた女性は、皮肉にも時同じくして手を取り合ってくれる男性を求めた。
ーー本当に、面倒な主従だ。
島津歳久は心の内で苦笑しつつ、おもむろに嘆息した。
「はぁ。助言を致しても構いませんか?」
「是非に。是非に頼みまする」
「どのように大切な相手だとしても、傷付ける時はいつか来ます。その事を恐れて二の足を踏んでしまえば、相手をより強く、自分自身すらも傷付けてしまうでしょう」
「心に、深く刻み付けておきます」
「そうしなさい。私のようになりたくなければ」
「歳久様?」
最後は小声で付け加える。
忠棟に聞かれぬように。
誰にも己の心を知られぬように。
未だ十五の娘なれど、歳久は先の言葉が真実だと確信している。何故ならば、彼女自身が直に体験した上で得た教訓だからだ。
「なんでもありません。義ねぇの件、遅くとも数日以内に決断なさい。さすれば金山開発の件、私が責任を持って完遂させますから」
我が事ながら甘いと断じる。
実際、島津の今士元は子供のように表情を明るくさせながら三度頭を下げた。
「かたじけのう御座りまする。歳久様に足を向けて眠れませぬ」
「その気持ちだけで充分。早う詳細な情報を」
「はっ。只今お持ちします故、暫し猶予を」
慌ただしく部屋を離れる忠棟。
その後ろ姿を眺めた後、歳久は目尻を伝う涙を拭き取り、新たな書状を用意した。
送り先は龍造寺隆信。内容は同盟の件だ。
あの様子なら結果は自ずと見えてくる。
最初からわかっていた。
島津四姉妹の中で、伊集院忠棟が唯一女性として眺めていた者が誰なのかぐらいは。
だがーー。
無意味と知りながら、もしもの未来を考える。そして自己嫌悪に包まれる。
きっと、これから先、何回も何回も同じ事を考えては後悔してしまう事だろう。
それも良い。所詮は裏方にて励むのだから、未練を引き摺りながら歩む人生も一興である。
だから、だから耐えられる。
「……義ねぇ。私は、これだけで充分ですから」
どうかお幸せになりますように。
▪️
十月十九日、亥の刻。
二刻も前に夜の帳が降りた秋月の照らす深夜。
俺は内城の一角に建てられた伊集院家の屋敷、その縁側にて一人で酒を嗜んでいた。
小姓もおらねば家人もいない。誰に憚ることなく酒を注いでは飲み干し、酒を注いでは飲み干す事を繰り返す。久し振りに酔いたい気分だった。
どうしてこうなったのだろう。
五日前、義久様から告白されてしまった。
愛していると囁かれた上、正室にしてくれと懇願されてしまった。
無論、好意の片鱗は勘付いていた。それでも何かの間違いだと己に言い聞かせた。主君と恋仲に陥るなど不忠の極み。有り得ない。許される筈もない。家臣団の反感を招くこと必定である。龍造寺家との同盟すら破棄となってしまう可能性だってあった。
聡明な義久様がわかっていないはずない。
つまり、それらの事が現実となったとしても、俺と婚姻を結ぶ事を優先したことになる。
まるで悪夢、質の悪い冗談だ。
一日目は仕事に逃げた。
二日目は猫と戯れた。
三日目は恨み節の貴久様と酒を嗜んだ。
四日目は家久様から励まされた。
そして今日、五日目は歳久様から叱責を戴いた。
「そりゃあ、好きだよ……」
主君として、女性として。
誰よりも好ましく思っている。
そんなもん当たり前じゃないか。
三洲一の美女と誉れ高く、艶と張りを兼ね備えた見事な双丘。身分に関係なく接する心優しさを持ち、自然と男を立てられる甲斐性すら兼ね備えた奇跡のような女性だぞ。
少なくとも生前の俺なら二つ返事で了承した。唐突に降って湧いた幸運に酔い痴れ、盲目となってしまったかのように義久様だけを見つめ続ける事だろうよ。
だが、今は違う。
身分もあれば、世間の目もある。
好きという二文字を言葉にするだけでも、数多の高すぎる壁を乗り越えなくてはならなくなってしまったんだ。
本来なら断るべきである。
この告白は内々の事として秘密にする。そして俺は鍋島直茂を正室に迎え、義久様は別の男と婚姻を結ぶ。それが正解だ。島津家の発展と天下取りを考えるなら最善手と言えるだろう。
でも、心の片隅でその選択は間違っていると叫ぶ声も聞こえる。
「でも、それだけじゃどうしようもないだろ」
昼間、歳久様からも言われた。
そろそろ決断しなければならない。
対大友家を見越した龍造寺家との同盟締結に支障が出てしまえば、来年の夏頃を見越した決戦の戦運びが狂ってしまうことに。
此度の決戦だけは何としても勝たなくては。
その為にも主君と家臣の境界を変えず、家臣団と不協和音を生じさせないように努めなくては。
だから、俺はーー。
「覚悟、決めるしかねぇよな」
改めて注いだ酒を一気に嚥下した。
主君である島津義久が望むのは伊集院忠棟との婚約である。例えーー道が細く険しくとも、主君の願いであるなら家臣は応えなくてはならない。
昼間、歳久様から叱責されて気付いた。
大切な人でも傷付けてしまう。
むしろ大切だからこそ傷付けてしまうと。
俺が覚悟から逃げれば義久様は泣くだろう。俺が覚悟を決めたとしても、義久様は苦難の道から泣いてしまうかもしれない。
どちらにしても傷付けてしまうなら、武士らしく前のめりで行こう。
武術はからっきしでも武人としての意地があるからな。
つーかだなぁ。
そもそもな話、俺以外の男があの胸を揉みしだくなど断じて許せん!
「あ……。雪さんはどう思うんだろう」
ふと、二年前に出会った女性を思い出した。
漆を塗ったような艶のある黒髪に、戦場を知らない白魚のような指は柔らかく、義久様に匹敵する美貌を携えた女性は『雪』と名乗った。
商人の娘として発展著しい坊津へ視察に来たと口にした彼女は、生まれつき下半身不随で車椅子で移動していた。
どういう訳か気に入られて、二日目には遂に酒を注ぎ合い、身を寄り合わせてから互いの悩みなどを語り明かした。
その時、雪さんから言われた。
「貴方はこのままだと潰れてしまいます。誰かに肩の荷を譲りなさい」
義久様を天下人にすると誓ったのは俺個人の意志である。誰かに譲ってしまうなど言語道断だと首を横に振ると、雪さんは困ったように笑いながら俺の頭を撫でた。
「困ったお人ですね。なら私が貴方を認めましょう。だから駆け抜けなさい、納得の行くまで」
金勘定しか出来ない餓鬼だと、義久様を惑わす君側の奸だと、島津家を誤った方向に導く莫迦だと特に蔑まれていた時期だったからか、雪さんの激励は今も深く俺の心を勇気付けてくれている。
此処まで直向きに走ってこれたのは、雪さんのお陰でもある訳だ。
堺を拠点としている商人の娘ならいつか会えるだろうか。その時、義久様と婚約できた事の報告と二年前のお礼を述べたい物だ。
「あはは、意外と近い内に会えたりしてなぁ」
なんて事を口にしながら、俺は最後のお酒を呷ったのだった。
本日の要点。
1、島津歳久の激励で忠棟の覚悟固まる。
2、忠棟、雪と名乗る女性と接触済み。
3、ただいま!