十月十日、未の刻。
薩摩本国へ帰還してから一週間が経過した。
晩夏の厳しかった薩摩も涼しさがようやく感じられるようになり、昨年と同じく豊作だった故に色濃く実った稲穂を刈り取る民が毎日忙しなく働いていた。
三洲平定を成し遂げた島津家の多忙さも尋常ではない。
薩摩国の内政は順調なんだが、肝付兼続と伊東義祐の治めていた大隅国と日向国の地盤は固いと言えず、国人衆が団結して反乱を起こせば面倒な事になるのは必至である。
その為にも、先の論功行賞があったんだけどな。
俺たちが薩摩へ戻るまでに、歳久様や他の重臣たちと綿密に話し合ったんだろう。少しばかり驚く内容だったが、改めて考えてみると理に適った物だからだ。
肝付城城主に弟君の島津忠将様が。
佐土原城城主にご息女の島津義弘様が。
このお二方に大隅と日向の内政を仕切らせ、尚且つ国人衆に睨みを効かせる役目を与えたのだ。
特にーー義弘様に佐土原城を任せたのは、伊東義祐の援助という大義名分から何時南下してもおかしくない大友家に対する備えでもあった。
「先ずは一言申すか。忠棟よ、大義であったな」
論功行賞も無事に終わった。
正中から太陽が傾き始めた午後二時、俺は貴久様から唐突に登城を命じられる。
嫁取り話かと憂鬱になりながら内城へ参上。七年前、義久様と貴久様に拝謁した一室にて再び頭を下げることとなった。
上座におられる島津貴久様の横で、島津義久様がまさに蕩けそうな微笑みを浮かべている。
なにこの圧迫面接。
今回はご祖父様がいないんですけど。
七年前より信頼されるようになったという事か。
でも油断ならない。
俺は伊集院忠棟。
島津から『逆臣』と罵られた男なんだから。
閑話休題。
貴久様の言葉に恭しく答える。
「はっ。有難き幸せに御座りまする」
「まさか真に三洲平定を成し遂げれるとは」
「殿が肝付兼続の本隊を押し留め、義弘様が三日で佐土原城を陥落させ、義久様が総大将として日向平定に尽力したからでありましょう」
俺は義久様の武功を立てる事を忘れない。
その意図に気付いたのか、貴久様は二度ほど頷いてから口を開いた。精悍な顔付きをしてるから凄く様になっているんだよなぁ。
「その戦絵図を描いたのは他ならぬお主よ。忠倉も申しておったぞ。お主は謙遜が過ぎるとな」
「そうよ〜。源太くんのお陰なんだから」
「なんと勿体なきお言葉」
「しかし、よ。恩賞が金子だけで真に良かったのか?」
貴久様が間髪入れずに尋ねた。
前々から疑問に思っていた事なのだろう。
不義を追及するような圧迫感など微塵もなく、ただ純粋に何故と思っている様だった。
隣で義久様も小首を傾げている。うん、可愛い。
「無論です。私は義久様の一家臣であります故に領地など無用かと。他人に誇れる武勇もありませんので名刀を戴いた所で宝の持ち腐れとなりましょう。なれば金子だけで充分であると判断致しました」
未だ貴久様の陪臣である身。
恥ずかしながら武勇など誇れる欠片もねぇ。
なら自由に扱える金子だけでいい。
腹心と呼んでも過言じゃない百地三太夫。新たに雇った忍衆。何故か護衛だと言い張る東郷重位。大友家との決戦など、大量に使う予定があるからな。
貴久様はやれやれと肩を竦める。
「まったく。欲のない男よな」
「欲に駆られて自分を見失う愚を避けたまでで御座りまする」
「ーーまぁ、良い。本題に移ろうぞ」
「本題、でありますか?」
「源太くんの嫁取り話の事かしら?」
折角濁そうとしたのにさ。
どうして義久様は興味津々なんですかねぇ
俺の嫁取り話なんて聞いてもしょうがないだろ。
むしろ今年で十九歳となった義久様が危機感を覚えた方が良いでしょうに。姫武将なら婚約しても家督を継いだままでいられるんだから。
「当然それもある。だが、先ずはお主の存念を聞こう」
「存念と申されますと?」
嫁取りに賛成か反対かの話か。
なら反対である。
女性に対して興味ないんだよ。
島津家が天下を取れるように、一軍師として東奔西走しているだけで充足感が得られるのだ。主君の命令なら嫁取りも受け入れるしかないけど。
いや、だからと言って男が好きなわけないぞ。
そこは勘違いしないようにして貰いたい。
特に川上久朗。
お前に襲われそうになった事は忘れていないんだぞ、この野郎が。
「肝付城に忠将を置いたことはどう思うか」
予想に反して、至極真面目な問いだった。
にしてもわざわざ聞くことかな。
歳久様たちと話し合って決めたんでしょ。
俺も同じような献策をしただろう。
故に当たり障りの無い言葉で賛同する事にした。
「真に素晴らしいかと。未だ肝付家の残党が蠢く土地なれど、忠将様であるなら見事治められるでしょう。一つ献策させて貰えるならば志布志湾の港を拡大すれば宜しいかと愚考する次第」
「ふむ、堺から坊津へ到る海路の途中に拠点を設けるのだな?」
「御意。加えて、大友家と雌雄を決する際に水軍を用いることも容易くなります故。鹿児島港から赴くよりも時間を掛けずに済むでしょうな」
「あいわかった。忠将にも伝えておこう」
「忝う御座りまする」
志布志湾は大隅国東岸に面した円弧状の湾だ。
有明湾と呼ばれることもある。
既に港は幾つかあるものの、南海航路を通る船の数からしてみると小さ過ぎた。志布志港を拡張すれば、大隅国も薩摩国に負けず劣らず発展するに違いない。その余地は十二分に存在する。
更に志布志港から水軍を出航させる事が出来るようになれば、大友家との合戦時に大層役立つからな。どうにかして間に合わせて貰いたい限りだ。
「では次よ。佐土原城に義弘を置いたのはどう考える」
「英断かと。此度の合戦で最も武功を挙げたお方である義弘様なら、日向の国人衆に睨みを効かせることも、大友家の備えとしても適任であらせられましょうな」
佐土原城を落としたのも義弘様だしね。
その類い稀な武勇から正式に『鬼島津』と呼ばれるようになったらしい。御本人はあまり嬉しそうではなかったが。鬼と呼ばれるのが嫌なんだそうだ。
何はともあれーー。
例え意図しないタイミングで大友宗麟が南下したとしても、義弘様なら島津本隊が到着するまで持ち堪えるだろうからな、うん。
「そうか。歳久もそう申しておったぞ」
「お父さん。涙を飲んで弘ちゃんを送り出した甲斐があったわねぇ」
「……その事は言うでない、義久」
「あらあら〜。ごめんなさいね」
一瞬だけ貴久様が親の顔となった。
仲の良い親子だと常々思っていたが、どうやら義弘様を内城から離すことに苦心したようだ。
今生の別れでもあるまいに。
それに義弘様以外の三人は内城に残る。
もしかしてーー。
義久様が誰とも婚約していないのは、親馬鹿な貴久様のせいだったりするのか?
いやいや、そんな馬鹿な。
御家断絶の可能性が高まるだけなのに、なぁ。
俺の考えすぎだ。
きっと今後の事を鑑みて、義久様の婚約を渋っているだけに過ぎない。果たして誰が良いのだろうか。家臣が島津の婿養子になる手段もあるけど。
「まったく」
ごほん、と咳払い。
貴久様は緩んだ雰囲気を元に戻すように言った。
「これが最後よ。義久を次期当主にすると改めて宣言したのは聞いておろう。今後、鎌田政年のような輩は減ると思うか?」
「減りますでしょうな。義弘様に及ばずとも、義久様とて大きな武功を挙げました上、改めて次期当主であると殿が宣言なされた事で表立った義弘様擁立は無くなると思って良いかと。しかしながら油断は禁物。いずれ家臣の間で派閥ができてしまう可能性は高い事も否定できますまい」
「では如何する?」
「誓詞血判をもって義久様の当主就任を誓わせます。その上で、大友家との決戦で得た武功を携えて当主となられれば大事なく家臣団を統括できると思いまする」
「大友家との決戦、と申したか」
如何にも、と答える。
「どういうこと〜?」
「はっ。伊東義祐が豊後へ落ち延びた事はお二方もお聞きしておられる事でしょう。大友宗麟は伊東義祐を大義名分として必ずや日向へ南侵してきます。毛利家は尼子家と鍔迫り合いしており、大友家は総力を挙げて攻め降りてくると考えて間違いありますまい。即ち、決戦。この合戦で勝利致しますれば九州平定も見えてきましょうぞ」
門司合戦で何故か大友家が勝ってしまった。
戸次道雪と高橋紹運が大活躍したと聞くが、果たしてそれだけで吉川広家と小早川隆景、毛利元就の軍勢を一気に押し返せるのだろうか。
化け物じゃねぇか、戸次道雪。
例に倣って女らしいけど、きっと某女性レスラーみたいな身体つきなんだろうな。
絶対に会いたくない。
滅茶苦茶怖いに決まってる。
雷神の化身、鬼道雪。
どうにかしてこの化け物を北九州に貼り付けときたいんだが、毛利家は尼子家に掛かりっきりだから役立つかわからない。
もしも高橋紹運と戸次道雪が南下してきたら本当にヤバい。下手したら一蹴される可能性だってあるんだ。むしろ五割以上ある。
そのぐらい史実的に見ても凄い武将である。
「であるか。現在どのような策を立てておる?」
大友家との決戦。
貴久様は顔色一つ変えずに口を開いた。
察していたに違いない。
伊東義祐の豊後逃亡、大友宗麟の南蛮狂い。
この二つから大友家の日向侵攻は容易に推察できるからな。
「詳しくは未だ。軍備を再編成し、国力を強化していく他には外交関係なら少しばかり。毛利家と龍造寺家に手を回す必要が御座いましょうな」
有馬家と大友家に挟まれている龍造寺家。
島津家から手を差し伸べれば同盟を組めるかもしれない。同盟にならずとも一時的な協力関係は築けるだろう。
しかし、急がねば大友家に飲み込まれる。
貴久様にそう告げようとした矢先の事だった。
機先を制すように貴久様は身を乗り出し、目を輝かせながら尋ねた。
「龍造寺、と申したか?」
「はっ。龍造寺が如何致しましたか?」
「お父さん?」
あ、嫌な予感が……。
「これは祝着の極み。忠棟よ、お主の嫁取り話なのだが、実はーーーー」
◼︎
西肥前に佇む佐賀城。
龍造寺隆信は腕を組み、思案の海に潜っていた。
恰幅の良い体格と身体から発せられる覇気はまさしく戦国大名に相応しい物なのだが、現状、龍造寺隆信は追い詰められている。
彼の歩みは波乱万丈だ。
六年前、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により死去してしまう。後ろ盾を失った龍造寺隆信は、龍造寺鑑兼を龍造寺家当主に擁立しようと謀った家臣の土橋栄益らによって肥前を追われた。
筑後に逃れて一命を得るも、再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せることになった。
それから二年後の事である。
蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利。肥前の奪還を果たす。龍造寺鑑兼は隆信妻室の兄なので佐嘉に帰らせて所領を与えた。
その後は勢力拡大に奔走。その過程でかつての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込み、大名としての少弐氏を完全に滅ぼした。
また江上氏や神代氏などの肥前の諸豪族を次々と降す。順調に東肥前にまで手を伸ばそうとした矢先の事、大友家と毛利家による門司合戦が勃発した。
この隙を突いて領土を得ようとしたが、門司合戦に大勝した大友家から思わぬ反撃を食らった上、南肥前を治める有馬家の侵攻を許してしまった。
結果として。
大友家の侵攻は阻止したものの、有馬家に東肥前を占領されてしまった。つまり大友家と有馬家に挟まれた龍造寺隆信は西肥前でひたすらに爪を研ぐことしか出来ずにいたのである。
大友家に臣従するしかないか。
家臣からも飛び出る言葉に苛立ちを覚えつつ、そうする他に道が無いと考え始めた頃、島津貴久が電光石火の三洲平定を成し遂げたと耳に入った。
更に伊東義祐が豊後へ逃れ、大友宗麟が日向へ侵攻しようとする噂も。まさに千載一遇の好機であろう。
龍造寺隆信は島津家へ使者を送った。
その内容は『同盟を結ぼう』という物である。
対大友家の同盟だ。
二つの家は目的が合致している。
しかしーー。
同盟とはただの口約束では意味が無い。
歴とした証拠が必要となる。
島津家は三ヶ国を有する大名家。それに引き換え龍造寺家は西肥前だけに留まっている。
島津四姉妹の誰かを龍造寺隆信に嫁がせるのは難しいだろう。親馬鹿な貴久が認める筈もない。
交渉を続けていけば可能性も高まるだろうが、いつ大友家が西肥前に攻めてきてもおかしくない現状だと、島津家と同盟を結ぶことに時間を費やしたくなかった。
かと言って島津貴久に男児はいない。
ならば、と龍造寺隆信は思いがけぬ提案をした。
島津家も大層驚いただろうが、直ぐに了承の使者が来た。どうやら彼らも龍造寺家と同盟を結ぼうと考えていたようだ。
そこまで現状を振り返ったその時ーー。
自室の外から人の気配がした。
「誰ぞ」
「殿、鍋島直茂です」
「うむ。入れ」
「はっ。失礼致します」
自室に入ってきた凛とした姫武将。
今年十八歳となった義妹、鍋島直茂である。
武勇に優れ、理知に富み、様々な技能に才を見せて驚かせる龍造寺隆信の懐刀。そして三洲一の美女と名高い島津義久に負けて劣らぬ美貌の持ち主だった。
「島津家から了承の返事が来たぞ」
「やはり。彼らも大友家の強大さをわかっているという事でしょう」
涼しい顔で答える鍋島直茂。
この程度、読み切って当然だと言わんばかり。
それが頼もしくもあり、そして恐ろしくもある龍造寺隆信は鼻を鳴らしてから答えた。
「なれど島津家には大友宗麟を破ってもらわねばなるまい。我々はその隙に肥前一国を平定するのだからな」
そして、その先はーー。
己が九州に覇を唱える姿を夢想する。
大友家でも、島津家でもなく。
この龍造寺隆信が九州を制圧するのだと息巻く主君を尻目に、鍋島直茂は姿勢正しく頭を下げる。
「心得ております。私の成す役目も共に」
「その意気や良し。後悔せぬな?」
「無論。私とて姫武将。殿の義妹です。いつでも覚悟は出来ておりましたから」
姫武将だからこそ政略結婚に使われる。
その急流が自らの元にやって来ただけだと答える鍋島直茂は、感情を殺したような表情であった。
「よくぞ申した。島津家との繋がり、お前に任せたぞ」
「御意。……ふふ」
「如何した?」
「いえ、申し訳ありません。ただ……」
突然笑った義妹に、龍造寺隆信が訊く。
直ぐに平静な顔へ戻した鍋島直茂は、鈴の音如く涼しげな声に若干ながら嬉しさを携えて続きを口にした。
「私の夫となる伊集院忠棟殿が、果たして噂通りの人物なのか気になってしまったのです」
本日の要点。
1、忠棟、大量の金子を確保。
2、龍造寺隆信、現状に八方塞がり。
3、鍋島直茂、伊集院忠棟に嫁ぐ。