空の光が失われていく。日が沈み、今日もまた明るい月が顔を出してきた。
『それはそんなにいっぺんに食べるものじゃないよぉ』
「噛んだら歯にくっつくな。やはり噛むものではないのか……」
ピンク髪の少女は困ったような表情で何事か言った。
構わず、私はボリボリと甘い球を噛む。どうしてもいっぺんに食べてみたかったのだ。
『あんまりいっぺんに食べると体に悪いよぉ。一つずつにしようね』
何を言っているか分からないが、人差し指を一本立てている。
一つ食べたいのか? 元々これは君たちのものだ。遠慮せずに食べて欲しい。
私は球を一つ取り出すと、少女の口元へと手を伸ばした。
依然、体に力が入りにくいが、抱きかかえられているため口元へ差し出すのは困難ではなかった。
『え、ゴーヤにくれるの? ありがとでち』
私の指ごとパクリとくわえる。ひな鳥か。
『鉄砲飴は美味しいでち。外人さんも、さっき驚いてたから多分初めて食べたんだよね? おいしかった?』
何か言っているが全くわからないので微笑み返しておいた。
なぜか少女は満足そうにうなずくと、再び、私の頭をなで始めた。
なでるのが好きなのだろうか。
空に目をやると、明るい月がハッキリと見えた。
今夜は気分の良い夜になりそうだ。
○
『ん……ちょっと足がしびれてきたよぉ。ごめんね、おろすでち』
私の頭を少女が抱き上げ、ゆっくりと岩の上に降ろした。
金髪の少女がいなくなって数十分が経過する。
私を見つけたときから、いや、もしかするともっと前からかもしれない。ピンクの髪の少女はずっと私を抱きかかえてくれていた。
おかげで平静を取り戻せた。
安堵で涙を流しはしても、恐怖で涙を流すようなことはしないだろう。
水も飲めた。
甘い食料も頂けた。
助けも今呼んでくれている。
思えばかなり危ない状況だったのだ。
改めて、彼女たちに感謝がしたい。
したいが、なんと言えばいいのだろうな……。
そうだな。無事に助かって落ち着いたら、この子達の言語を勉強しよう。
言葉が違うのだ。きっと文化も違う。私の知らないさまざまな事が学べるに違いない。
そう思うと年甲斐もなくわくわくしてきた。
見たことのない土地。
食べたことのない料理。
まだ見ない新しい出来事や発見が、きっとこの先山ほど待ち受けているのだろう。
楽しみだな。
『ふふふ……なんだかお姉さん、幸せそうな顔をしてるでち』
○
月がだいぶ高く昇った頃。
金髪の少女が助けを呼びに行ってから、数時間が経った。
私は浅い眠りについたり、甘い球を一つずつ舐めたりして過ごしていた。
睡眠はたっぷり取っているのでもう眠くないのだが、何もする事がないと寝るしか暇が潰せない。
体のほうはまだ起こせないが、もう左手を動かすくらいなら億劫に感じなくなった。良い兆しだ。
ピンク髪の少女は、時折私を膝の上にのせて何事か呟きながら撫でていた。
また岩の上に降ろしては、辺りをキョロキョロと見渡している。
彼女が、私の頭を撫でているときの表情と、辺りを見渡すときの表情は別人だ。
撫でているときは慈愛に満ちた、本人も楽しんでいるような優しい表情をしている。
それが一変して、見回すときには険しい表情になる。
眉根を寄せ、目をこらし、人影一つたりとも逃す気がないような様子である。
さながら船の見張り員のようであった。
敵を警戒し、いち早く見つけては艦隊へ信号旗をあげさせる彼等のような。
まさかこんな所にフランス軍はいないだろう。
いたら、剣も船も銃もない我々ではどうすることも出来ない。
おまけに私は動けない。
この幼げな少女一人で敵襲を相手にするのは酷なことだ。
あり得ない話だがもしそんな事になったら、おとなしく捕虜になるしかないだろう。
少女が立ち上がる。
私はそれを目で追った。
平らな岩の隅の方までゆっくり歩いて行き、乗り出すようにして遠くを見つめている。
しばらく、微動だにしなかった。
じっと目をこらす少女。
その視線の先を私も見てみるが、暗くてよく分からない。
とくに何かがいるわけではなさそうだが――――。
『……気のせいでち』
少女はくるりと振り返って帰ってきた。
何もなかったようだ。よかった。
あまりに真剣な表情で見るから、何かいるのかと思うじゃないか。
心配させないでくれ寿命が縮む。
○
少女は私の横で眠りについた。
数十分に一度起きては辺りを警戒し、再び眠りにつく。
その繰り返しで夜が明けだした。
私の方は相変わらず体が動かない。
浅い眠りを繰り返し、少女が体を起こす度に私も眠りから覚める。
何度か少女に頭を撫でられて、何かを言われていた。
表情からは「心配しないで」みたいな内容だと予想する。
日が昇る。
欠伸をしながら少女は目をこする。
「おはよう」
『ぐっどもーにんぐでち』
挨拶は通じるのか。
驚いた。イントネーションが酷かったが。
この子は一晩中、寝ては目覚めて警戒して、を繰り返していた。
満足に睡眠を取っているとは思えない。
疲労がたまっているはずなのに相変わらず私のことを気にかけるようなそぶりを見せる。
そんなに私は心配されるような状態なのだろうか。
確かに自力で起きられそうにないが。
この岩の上の生活は、たぶん三日目に入っている。
私の意識がもうろうとしていたあの時に、丸一日気を失っていたとかを除いてだ。
もしそうなっていたら流石に分からん。
ふと気がつくと、体の上に何かがかかっていた。
左手で持ち上げてみる。
白く、大きなリボンのついた衣服だった。
見覚えのあるその形と色に首を傾げ、さてどこで見たかと考える。
そうして、すぐ隣で辺りを見回している少女の上着だと気がついた。
少女の服装は奇妙なものになっていた。
体の胴体を水色のぴっちりとした素材の何かで包んでいる。
あの上からこれを来ていたらしい。
不思議な服装だなと今更になって思った。
少女はこちらの目線に気付いたらしく、
『それ、使ってくだち。お姉さん裸じゃ恥ずかしいでしょ? もっと早くに気付いて上げられなくてごめんね』
と言いながら服で私の前を隠す。
言葉の意味こそわからないものの、表情からは申し訳なさを感じる。
〝見せつけてんじゃねぇよクソビッチ〟などと言われていないのは確かだ。
別に恥ずかしさを覚えたわけではない。
しかしなんとなく服が恋しくなってきた。
丸三日と衣服を身につけずに肌を外気に晒し続けるのは、あまり心の持ちようとしては宜しくない。
岩も当たって痛いしな。背中の方は感覚が無くなってきているし。
甘い球を一つ口へ放り込む。
気付くと最後の一個だった。
空になった袋を見つめる。
甘く、固く、元気をもらえる味だった。
もし手に入るのならばまた食べたい。
口の中の甘い幸福感に満たされつつ、私はおもむろに左を向いた。
寝転んだままなのでそれほど視界が広くはないが、太陽に照らし出された海面上は、キラキラと幻想的に光り輝いていた。
日の入りが美しければまた、日の出も同じくらいに美しいな。
その海面上に何かが見えた。
黒い点がいくつか集まったそれは、ちかちかと光を放っていた。
なんだろうな、あの光。
何かに似ている気がするが思い出せない。
どこか、とても最近見たような気がし――――
『あぶないッ!!』
少女が私に覆い被さるのと、爆音が耳をブッ叩いたのはほぼ同時の事だった。
○
気がつくとそこは戦場となっていた。
いや、戦場と呼ぶにはあまりにも理不尽で、あまりにも一方的な戦局である。
海面上、遠くに見えた黒い点が発した光は砲撃の光だった。
見覚えがあるのも納得した。
ほんの三日ほど前まで、その光と砲撃のさなかで私は死んだのだから。
ピンクの髪の少女はなぜか海中へと飛び込んでいった。
飛び込む寸前、こちらを向いて何か必死に叫んでいたが、砲弾の音と舞い上がる海水のせいで何も聞こえなかった。
残された私は何も出来ない。
幸いなことに、まだ一発も岩へと直撃はしていない。
岩の周辺に次々と着弾する砲弾は、海水を巻き込み、巻き上げ、大粒のシャワーにして叩き降りてくる。
ひさびさのシャワーが海水とはちょっと意味がないだろう。
全く体が綺麗にならん。
そろそろ死ぬかもな。
直感で分かる。
戦況は圧倒的にこちらの不利。
相手の国も数も分からないが、こちらは武器どころか満足に動く体すら持ち合わせていないのだ。
大砲なんぞ使わなくとも簡単に私を殺せるのに、よほど税金が余っているのかね。
少女は、たぶん逃げたのだろうな。
ここまで泳いできたみたいだし、戦闘海域から泳いで逃げることが可能なのかはさておいても、きっとここに残るよりかは生き延びる確率は高いだろう。
死ぬのは私だけでいい。
岩の端に砲弾が直撃した。
動けない体にこぶし大ほどの石がぶつかり、白い肌を容易く切り裂いた。
痛みが走る。
左手を見ると真っ赤な血液が流れ出ていた。
腹の辺りにも痛みがある。
左手で触るとヌメリがあった。
この感触は覚えている。
フランスの人間に船の上で撃たれて倒れ伏したとき、胸を触るとこの感触があった。
血だ。真っ赤な血が流れている。
だんだんと音が聞こえなくなってきた。
耳鳴りがする。
水しぶきの上がる音も、ヒュルヒュルといいながら落ちてくる砲弾の音も、もう聞こえなくなってきた。
代わりにキーンと高い音が鳴っている。
視界が暗くなる。
端の方から徐々に、明るい空がその範囲を狭めていく。
「……………ッ……エグッ……ッ……」
嗚咽が聞こえる。
押さえようとしても、しゃくり上げるのどを嗚咽は容赦なく漏れていく。
左目が熱かった。
目元を撫でてみると濡れていた。
海水ではない。
泣いていた。
涙が出ていた。
これから死ぬというこの状況が、たまらなく悲しい。
国のために戦って死ねるならそれでもいい。
でもこれは違う。
何の為かわからないが女の体になり、死にかけ、二人の少女に助けられたと思ったらこうして蜂の巣にされている。
こんな、理不尽で、馬鹿げてて、メチャクチャな最期があるものか。
胸元には少女の上着があった。
左手で握りしめる。
このひどく理不尽な状況でも、こうして、誰かが私を救おうとしてくれていた。
それだけが励みになった。
「エグッ…………死にたくない……死にたくない……」
弱々しい声しか出てこない。
心の中には、もう、「死にたくない」の一言しか残っていなかった。
そんな願望は露も叶わず、頭に激しい痛みが走って、私の意識は無残に散らされた。