容赦のない太陽の照りつけと、ごつごつとした硬い岩の座り心地に耐えられなくなった私は、一度海の中へと入った。
海水はひんやりと心地よく体を包み込んでくれる。
女が、素っ裸で、見渡す限りの大海原の中で海水浴をしている姿を想像するとなぜか笑えた。
そして足の裏に何かがぶつかるのを感じ取った。
岩だ。岩礁は海面から飛び出ている部分とそうでない部分があるらしい。
片手では泳ぎづらいのでこういった地形は助かる。
足が岩についていれば、不用意に体力を消耗する心配もないだろうし。
「さて……」
これからどうしようか。
見渡す限りの大海原である。
文字通り、海以外に何もない。食料も、水も、当然船も。
正直言って相当に厳しい状況だ。
水がなければ三日と持たない。
泳いで移動するにも、目視できる範囲では陸地が見えない。
満足に泳げない私では、到底ここから移動することは不可能だろう。
困った。困ったぞ。
考えれば考えるほどに、せっかく生き延びたこの命をこの場で絶つ未来しか見えてこない。
…………いや、まだ、そうと決めるのは早いか。
そもそもこの体は私の体ではない。
背も、筋肉も、器官も、あらゆるものが私でない。
47年間を共にした体を今手放して、こうして若い女の姿に変わっている。
常識的には説明できない現象が起きているのだ。
まだこれからも、もしかするとそういったことが起きるかもしれない。私の知る常識を覆すなにかが。
しかし結局は自分でどうすることも出来ない状況である。
考えるのを止め、なるべく体力の温存に励むとしよう。
体が少し冷えてきた。左手と右足を岩の側面に引っかけ、よっ、と声をあげて海から上がる。岩がお腹に当たって痛かった。
その時だった。
海から上がった直後、私が上がった方とは反対側に広がる海、その、目視できる範囲のギリギリの所に私は何かが浮いているのを見た。
最初は漂流するゴミかと思った。
目を細め、岩の上に立ち、左手で左目の上に影を作る。
そうして何となくその浮かぶものが人の頭のような気がして、
「そんなわけないな」
私は首を振りながら岩の上に寝転んだ。太陽が眩しかったが、若干冷えた体を温めるのには丁度良かった。
○
それから五回ほど、暑くなったら海に入り、体が冷えたら岩へ上がりを繰り返した。
気付くと太陽は夕日となり、半分ほど海の中へと沈んでいた。
海面にきらきらと光が反射する。
光のリングが幾層にもなって海面の道の向こうへ消えていく。
幻想的で美しい光景だ。
美味しいワインとチーズがあれば幸せなのだが、ワインどころか水の一滴もない。
喉が渇いた。
まだ耐えられないほどではないが、半日でここまで乾くものとは思わなかった。
思えば船の上では水が貴重なため、温存するように飲んではいたが、それでも、直射日光と潮風にこんなにも長く晒される場所にはいなかった。
岩に直接当たる肌も、知らぬ間にやや赤くなっている。
服を着ないことがこれほど過酷とは、なかなか勉強になることだな。
夕日を拝みながら岩に寝転ぶ。
夜の間は寝ればいい。
月が明るくても、万が一があってはいけないので海には入らないようにする。
潮の満ち引きの心配もあったがこちらは大丈夫そうだった。
満潮でもこの岩場が沈むことはない。安心して寝られる。
まぶたを閉じた。
空腹で腹が鳴ったが、何も口に入れられるものはない。
○
夜中に目が覚めた。
腹が減っているからだろうか。
目を開けて最初に飛び込んだのは綺麗な夜月だった。
満月が少し歪んで楕円形になっているが、明るかった。
背中が痛い。私は立ち上がると、少しだけ体を動かした。
すぐに腹の虫が鳴ったが無視を決め込む。鳴いたって何もないのだ。あるなら食べたい。
再び仰向けになって、もしここから生きて帰れたら何が食べたいかと思案する。
美味しいワインが飲みたい。
チーズもあるといいな。
フィッシュアンドチップスも悪くないかもしれない。脂っこいが今は食べたい気分なんだ。
左目から涙が出て来た。
死ぬことが怖いのか?
戦場に身を置く男が何を今更。
…………いや、もう違うか。
今は戦場にいるわけでもないし、男ですらもない。
怖いのだろうな。
自分の気持ちを客観的に見られる自分がいるのだから、まだ余裕はあるだろう。
しかし、刻一刻と迫る自分の死を、何も出来ず、何のために死ぬかも分からず、ただただ飢えと渇きで命を落とす。
まだ1日目だ。そう悲観することはないのかもしれない。
一滴の水もないと言うことは三日もすれば命が危ういのだから、そんな悠長な状況ではないのだがな。
自分の考えを自分で否定し、涙の止め方が分からないまま、私は二度寝にありついた。
○
日の出と共に目が覚める。
起き上がると、ほんの少し目の前が歪んだ。
一瞬だが平衡感覚を失い、私は座ったまま立ち上がることが出来なかった。
まぁいい。
立たなければいけない理由もない。
このまま座って日の出を拝もう。
太陽が海面上に完全に姿を現すと、私はゆっくりと立ち上がる。
立てた。しかし、すぐに体中が脱力感に襲われる。
今日はもう海に入らない方がいいかもしれない。
入っても、岩に上がる力が無ければ、待っているのは海底への片道旅行だ。
再び座り、しばらくしてそれもしんどくなり、やがて横になって眠りに落ちた。
○
太陽が照りつける。
暑い。
目を開けて、ほんの少し体を起こす。
ただそれだけの動作で息切れがし始めた。
頭が痛い。
体を倦怠感がハグしている。
まずいと思ったが、そのまま意識を失った。
○
気付かぬうちに寝ていたらしい。重いまぶたを開けようとした。その時だった。
『しっかりするでち! 目を覚ますの!』
音が聞こえた。
おおよそ波の音しか聞こえなかったこの場所に、それ以外の音が聞こえたのは初めてだった。
同時に体を揺すられる。
湿っぽかったので、海水に濡れているようだ。
私を抱きかかえる何者かからは、濃い潮の香りがした。
ゆっくりとまぶたを開ける。
しばらく焦点が定まらなかったが、徐々に、私は少女に抱えられているのだと分かった。
幼い顔立ちが近くにある。整ってはいるが、あまり見ない顔の作りだ。何と言うか平べったい。
『あ、目を覚ましたでち。はっちゃん、この人目を覚ましたでち!』
『よかった……見つけるだけ見つけて目の前で死なれちゃ、はっちゃん寝覚めが悪いです』
私を抱えている少女は、あまり見慣れない髪色をしていた。
赤毛を明るく、薄くしたような、言うならばピンク色だ。
海水がしたたり落ちている。海に潜っていたのか?
目線だけを、もう一人の方へと向ける。
反対側からこちらを心配そうに覗き込んでいる少女は、金髪だった。この髪も、やはり海水に濡れていた。
『年は……二十代後半でしょうか。片腕と片目がありませんが、ここでケガをした、という風ではありませんね』
『傷口がふさがってるもんね。髪も長いし、白いよ。不思議な人だけど、何でこの人裸なのでち? 提督指定の水着を無くしたのかなぁ』
『まだ潜水艦と決めるわけにはいきませんよ。そもそも艦娘かどうかも――――』
聞いたこともない言葉を喋っている。
私は声を出そうとして、しかし乾燥した喉から出て来たのはうめき声だけだった。
それを聞いて二人の少女は慌てたように何事かを言い合い、金髪の子が腰に付けた袋から何かを取り出した。
『艦娘かどうか分からないけど、もし人間だったら大変です。こんなところで何時間も放置されて、下手したら飲まず食わずかもしれません。ゆっくりでいいからこれを飲んで』
中から水の音がする。
飲める水だ。私は左手で入れ物を受け取り、口へと運んだ。
体中に水分が染み渡る。
喉が潤い、全身の渇きが癒される気がした。
もう一口、もう一口と頂く内に、全て飲んでしまった。
海の上の水は貴重品だ。
瀕死の状態とはいえ、断りもなく全部飲んだのはまずかったかもしれない。
おわびと、だが何よりも、心から感謝の気持ちを伝えなければ。
「助かったよ、ありがとう。おかげで命拾いした。全部飲んでしまったが、大丈夫だったかね……?」
少女達はきょとんとしている。
うすうす気付いてはいた。
彼女たちの言語が私に分からないならば、私の言語もやっぱり通じない。
当たり前のことだろう。
言葉が違うことに少女達も気付いたようだ。
あたふたし始めた。
『な、何を言ったんでち』
『深海棲艦の言葉じゃないわね。ドイツ語でもないし、もちろん日本語でもない。わからないけど、〝さんきゅー〟って言った気がする』
『じゃあ、英語かもしれないでち。はっちゃん、しゃべれる?』
『無理よ。ドイツ語は出来るけど英語は無理』
『ど、どうするでち。外人さんには言葉が通じないし、このままここに放っておくこともできないよぉ』
『でも私達だけじゃ鎮守府まで連れて帰れないわ。一旦戻って、また来ましょう』
『それ、どうやって伝えるの。通じないのにバイバイしたら、この人置いて行かれたと思うでち』
『それもそうね……でも、言葉ってのは七割がジェスチャーで伝わるって本に書いてあったの。身振り手振りで何とか伝わるかもしれない』
少女達がこちらを向く。
私は握ったままの入れ物を金髪の少女へと渡した。受け取った少女はこちらを向いたまま何か言った。
『私達は潜水艦娘なので、あなたを陸地までは運べません』
自分の胸を押さえたり、私を指し示したりしている。
『これから一旦この場所を離れ、救援を呼んできます。少しですが食べ物もあるので食べていて下さい』
腰の袋から何か取り出した。
黒い、マスケット銃の弾のような大きさの何かが、透明な袋に入れられていた。こんなものは見たことがない。
少女は袋から黒い弾を捕りだし、私の口元へ持ってきた。
「い、いやまて。それは食べられるものなのか」
『これは飴と言います。甘くて美味しくて、手頃にカロリーも取れます』
何事か言って無理矢理口に突っ込まれる。
入った弾は、しかし鉄や鉛とは違って非常に甘かった。
大昔に食べたことのある、フランスからの輸入菓子に味が似ていた。
心底驚くと顔に出ていたのだろう。少女も満足そうに頷くと、袋を私の傍らに置いた。
『好きなだけ食べてくれて構いません。噛んでもいいですが、出来れば舐めていた方がいいでしょう』
「ありがとう。甘くて、とてもうまい。これ噛んでも大丈夫なのか? まとめていくつか食べてみたい」
『気に入ってくれたようで何よりです』
『すごいでち。何話してるか分かんないけどちゃんと話してる気がするよぉ』
金髪の少女は立ち上がり、私を抱きかかえている少女の方へと向いた。
『さて……。よく考えると、私一人が鎮守府まで帰投し、ゴーヤちゃんはここに残っていてもいいのではないかと思いました』
『え、でも一人だと危ないかもでち』
『戦闘は極力避けます。潜水艦の隠密生を最大限に生かし、全力で鎮守府に帰れば大丈夫よ』
『ゴーヤは何してればいいのー?』
『彼女と話をしてあげて下さい。ずっと独りぼっちでしたでしょうし』
『わかった。上手く通じるか分からないけど、頑張るでち』
『それに、無いとは思いますが深海棲艦に襲われるのも怖いです』
『それはゴーヤ一人じゃどうしようもないでち』
『それもそうですね……なるべく早く、むかえに来ます』
金髪の少女は、一度私の頬を撫でてから何かを言った。たぶんさようなら的な何かだろう。
振り返り、
『では、頼むわね』
『大丈夫でち』
少女は海へ飛び込んだ。これから夜になると言うのにだ。
「あの子、大丈夫なのか? これから夜になるし、まさか泳いで陸地まで……いや、それより君たちはどうやってここまで来たんだ」
周りを見える範囲で見渡すが、船の類はどこにもない。
『どうしたの? どこか痛いのぉ?』
「君たちはどこから来たんだ?」
『上はあー言う? お姉さん、下っ端なのでち?』
「……多分通じてないな、これ」
『ちょっと早口で何言ってるかわからないでち』
ピンクの髪の少女は私の頭を撫でだした。
『綺麗な髪色。これで人間だったら逆にびっくりだよぉ。きっとぜったい艦娘でち』
少女はしばらく私の頭を撫でていた。その表情は慈愛のそれだった。
助かったのかもしれない。金髪の子は多分助けを呼びに行ったのだろう。頭がぼーっとして上手く考えがまとまらないが、泳いでいっても助けを呼べるような何かがあるのだろう。
命をつなぎ止めてくれた二人の少女に感謝しつつ、私は丸くて甘いやつをがっさと口へ放り込んだ。
ゴーヤの口調は思ったよりでちってない。