「満潮さんと夕立さんって、面識はあるんですか?」
「数か月だけあの子の泊地に所属していたわ。ネルソン司令の下に着くまでの、ほんの数か月間だけね」
満潮さんの部屋を後にし、誰もいない静かな廊下に足音を響かせながら、僕たちは肩を並べて医務室へ向かっている。
誰ともすれ違わないけど、ネルソン艦隊のみんなは待機命令が出ているし、増援艦隊は赤城さんと加賀さんを除くとやっぱり待機命令が出ているから部屋で休んでいると思う。
赤城さんと加賀さんは偵察のために展望台へ行っているらしい。
どことなく鎮守府内が閑散としているのは仕方のないことだろう。
「……土佐中将とも、知り合いなんですね」
「とはいえ五年以上前の話よ。あそこは、言っちゃ悪いけど私にとっては仮住まいだったし、事実二か月で転属になったような場所よ。感情の入り込む余地なんてあんまりないわよ」
「そうですか」
「でも……」
まぶたをほんの少しだけ落とした満潮さんは、小さな声で続けた。
「夕立にとってどれだけ大切な場所だったかは、痛いほどわかるわ」
○
「入るわよ」
医務室の扉をノックしてゆっくりと開くと、真っ白で清潔なベットに夕立さんはあおむけに眠っていた。
薄手の白いシーツが肩のあたりまで掛けられている。
「寝てるわね。呼吸は……」
ベッドのそばまで行った満潮さんは手をかざし、規則正しいことを確認すると、その表情にわずかな安堵を浮かべた気がした。
「どうしますか?」
「寝ているのを起こす必要はないわよ。でもここにいてあげたほうがいいかもしれないわね」
そう言いながら近くのパイプ椅子を二つ引き寄せると、両方とも開いて座るように促す。
小さくきしむ音を立てながら満潮さんの隣に座り、さて、この後どうするかを考える。
フレンダさんに命じられたことは夕立さんのフォローだ。でも今の段階でそれはできそうにない。
というよりも落ち着いた眠りに入っているので、とりあえずは夕立さんについて直接何かする必要はない気がする。
それも含めて満潮さんに相談するかな。
「満潮さん」
「なに」
「夕立さんは寝ていますし、満潮さんがここに居るなら、僕はどうすればいいでしょうか?」
「そうね……二人並んで寝顔を観察しててもしょうがないわね。晩御飯がまだでしょう」
そういわれると途端に空腹感が襲ってきた。たしかにもう夜だし、そろそろ晩御飯時なんだけど……いや、でもちょっと待ってよ。
「ネルソン提督はまだ目覚めていませんし、艦隊の皆さんは待機命令が出ているんですよね?」
「そうね」
「食堂にみんなが集まって、とはいかないんじゃ……」
「当り前よ。のんきにそろってご飯食べてて、敵襲にあったら笑い話よ」
苦笑しながら満潮さんは、なにか考えるような表情をしてから、僕のほうに視線を向けて言葉をつづけた。
「厨房の奥の棚に携帯食料が詰まっているわ。それを鎮守府のみんなに配ってもらってもいいかしら?」
「奥の棚、ですね」
「数はたくさんあるから、増援艦隊の艦娘たちにも配って。だけど、
「え? 言っちゃダメなんですか?」
「間違っても――――」
言葉の途中ではっとしたように満潮さんはあたりを見回し、夕立さんも寝ていることを再度確かめて、僕の耳元で僕だけに聞こえる声で、
「羅針盤のことは言っちゃだめよ。あんただけじゃなく、ネルソン司令やこの鎮守府そのものにとってもマズいことなの。忘れないで」
「気を付けます」
僕も小声でうなずき返し、だからフレンダさんが増援艦隊の人たちに〝聞くな〟と釘を刺したのかと改めて納得がいった。
言わない言わない。気を付けます。
とりあえず、携帯食料とやらを取りに厨房へ行こう。
○
「これかなぁ……?」
厨房の奥のほうには、確かに棚があった。
食堂からつながる細い通路を通って中に入ったのだけど、食堂も厨房も電気が消えていて、それどころかスイッチを押しても明かりがつかないという、とってもわけのわからない事態になっていた。
どうにもこうにも困ったので満潮さんのもとへ戻ると、
「そういえば灯火制限中だったわね。私の部屋の机から懐中電灯を持っていきなさい」
と言われ、こうして暗闇の中を細い明かり一本でさまよい、厨房の奥まで入り込んできたのである。
だが。
「棚、いっぱいあってどれがどれやら……」
厨房の奥には五つの棚が並んでいた。金属製で銀色のそれは、まぁ要するに棚というよりは冷蔵庫みたいな感じだ。
大きな厨房には必ずある、業務用冷蔵庫って感じだろうか。
「困ったなぁ……満潮さんは棚って言ってたけど、棚なんてどこにもないしなぁ……」
懐中電灯で照らした感じでは、どこにも棚らしきものはなく、ということはこの冷蔵庫が満潮さんの言う棚なんだろうか。
そしてもう一つ、困ったことが。
「携帯食料って何……?」
探してきますと言っておいてそれがなんなのかわからないことに今更気が付いた。
見たことないもん携帯食料なんて。なんか、缶とかに入ってそうなイメージだけどなぁ……。
「うう……どうしよ……とりあえず端っこの奴から中を見てみようかな」
探さない事には始まらない。パッケージとかあれば案外書いてあるかもしれないし。
それに、なんというか、早くここから出たい。
真っ暗な中で懐中電灯の明かり一つ、それも、ホラー映画とかだったら確実に登場人物の誰かが死にそうな厨房だよ。
ゾンビの出る映画だったら僕もうこの辺で死んでるかもしれない。
「うぅ……余計なこと考えたら怖くなってきた……」
はやく探そう。
そう思って一番左、鈍い鉄の色を跳ね返す大きな冷蔵庫の前に立ち、懐中電灯を床においてから、これまた大きい取っ手をつかんで力いっぱいに引っ張った。
がばぁ、と音を立てて開いた扉の隙間から白い煙と冷たい空気が肌をなめていく。
床の懐中電灯を拾い上げて、もうもうと白い煙が出ている冷蔵庫の中を端から順に照らしていくも、中に入っているのは赤色の真空パック……つまり冷凍されたお肉だった。
「多分これじゃないよね」
凍ったお肉は携帯食料じゃないだろう。携帯したら腐りそう。
「次いこうか……」
扉を閉めて、懐中電灯を床に置く。
隣の冷蔵庫も同じような形と大きさで、やっぱり取っ手が大きいから片手じゃ開けられない。
つま先立ちになって取っ手を両手でつかんだとき、急に尿意が襲ってきた。
「んんー……さっきの冷気のせいかなぁ……おしっこ行きたくなっちゃった……」
でもせっかくここまで来てトイレに行くのもなぁ……。
我慢できそうだし、このまま携帯食料を探して、見つけてから行こうか。
下腹部を軽くさすってもう一度背伸びし、両手を上に挙げながらひとりごちる。
「さて、ここは何が入っているんだろう?」
「野菜と調味料だよ」
時雨お姉さんの声がいきなり背中から投げつけられ、僕の膀胱は決壊した。
○
「いや……ごめん……そこまで驚かすつもりじゃなかったんだけど、ちょっとびっくりさせてみようかなとは思ったんだ……本当にごめん」
「ヒッグ……エッグ……」
なにか抗議の言葉を言おうと思ったけど、涙と嗚咽のせいで何も言葉にできそうにない。
暗闇からいきなり呼びかけてきた時雨お姉さんによって、僕は無事尿意から解放された。
代償に、時雨お姉さんの前で今生一番、悶絶死ものの恥をかいたし、もう、なんというか、そのおもらしの後処理までされて僕もう死にたいです。
盛大にぶちまけた僕を見て、時雨お姉さんは大急ぎでタオルを持ってきてくれて、そのまま僕のズボンと下着をその場でずりおろして一通り拭くと、抱きかかえて浴場に放り込まれて今に至る。
灯火制限は厨房だけ一時的に解除。
左から二番目の冷蔵庫の前の液体は〝水をこぼした〟ということで片づけられた。
誰が片付けたかというと扶桑さんだ。
なんでも、時雨お姉さんと扶桑さんは携帯食料を取りに来たらしく、晩御飯として鎮守府内に配るためにフレンダさんから言い伝えられたらしい。
浴場の入り口付近で丸裸にされながらその話を聞いた。つまり僕は完全に無駄足だったし、それどころかこんなことになるなんて、まさに踏んだり蹴ったりだ。
「もう全部脱いでお風呂入っちゃおうか」
と時雨お姉さんに言われて、こうしてめでたく一糸まとわぬ姿で女風呂に放り込まれているわけです。
せめてもの救いは、灯火制限の解除理由が〝こぼした水を片づけるため〟なところだろうか。
僕のおもらしだ、などと鎮守府中に渡ったら僕はもう首をくくります。
○
時雨お姉さんはソックスを脱いで裸足になり、丸裸の僕を抱えてシャワーの前に座らせた。
時雨お姉さん自身がお風呂に入るわけにはいかないのだろう。手短に、だ。
「ほんとに、ごめんね」
「ヒッグ……はい……いい、ですよ……」
自分ではどうしょうもないくらいに悲しい気持ちで胸がいっぱいで、というか、悲しいだけじゃなく、こんなことで泣いちゃう自分に悔しい気持ちもあるし、時雨お姉さんがしきりに謝ることに申し訳なさも感じるし――――どうにもこうにも自分で整理がつけられないくらい混乱して、結局今でも涙と嗚咽が止まらい。
そんな僕の内心を見抜いたのか、時雨お姉さんはしばらくすると謝るのをやめて、そのかわりにとっても優しい手つきで頭を洗ってくれた。
シャワーの温度を調節して流してもらい、身体を泡立てたスポンジで洗ってもらい、これもシャワーで流して一件落着となった。
脱衣所で柔らかいタオルで優しく拭いてもらっていると、時雨お姉さんとふと目が合って、申し訳なさそうな笑顔でまた「ごめん」といわれた。
「もう大丈夫ですよ。泣き止みました」
「うん。本当に、ごめんね。今度からは気を付けるよ」
「気を付けるのは僕のほうです。ちゃんとトイレに行かなきゃ……」
僕にできる限りの笑顔で言った。もう大丈夫だってことを伝えたかったし、僕なりの冗談の意味も籠っていた。
遺恨を残すようなことじゃない。こんなことで時雨お姉さんのことを嫌いになったりはしないし、時雨お姉さんから過剰に申し訳なく思われるのも嫌だ。
と、思っていたら時雨お姉さんはにまー、っと意地の悪げな笑みを浮かべて、
「行きたくなったら僕に言ってね。連れて行ってあげるから」
なるほど、そうか…………なるほど。
「じゃあ一緒に男子トイレに行きましょう!」
言ったとたん、時雨お姉さんの顔が真っ赤になって、「そう来るとは思わなかったよ……」とつぶやいた。
この勝負、勝った。たぶん。
○
医務室。
白いベッドに横たわる一人の少女は、規則正しい寝息とともに時折まぶたを震わせていた。
その傍ら。質素なパイプ椅子に腰をかけ、ベッドに横たわる少女の寝顔を明けない表情で見つめる艦娘――――満潮は、この部屋にきてもう何度目かのため息をついた。
「目覚めないわね……そう簡単には起きないかしら」
意識を失った時点からだいぶ時間が経っている。それを考えるにそろそろ目を覚ましてもいい頃だろう、と踏んでこの役を引き受けたのだが、考えが甘かったかと満潮は後悔し始めた。
べつに嫌なわけではない。このような艦娘のフォローにまわる経験が今後必ず生きてくるだろうと思っている。
間近で言うなら時雨だろうか。彼女のために、今ここで経験を積んでおく。それは満潮としてはやっておいて間違いではない確かな事だと判断している。
ただ一つ気がかりなのは、自分に本当にこの子を救い出すことができるのかどうか。
カウンセリングの経験などないし、夕立は単に五年前の同僚、しかもたった二か月間の仕事仲間だ。
寝食を共にしていたとはいえ短い期間であったのは言うまでもない。
硬い信頼関係が結べたわけでも、まして離れている間に密な連絡を取っていたわけでもない。
「大丈夫かしら……」
一抹の不安を抱える中、それでもこの部屋から出ていかないのは、自分以上に務まるものがいないという自負があるからだった。
親を亡くし、親族を転々とし、忌み嫌われ、虐げられ、身も心も
親を亡くした者にしかわからない悲しみがある。だからこそ艦娘として何をしなければいけないのかが自分にはわかる。
それを伝えるためにここに座っている。
満潮は知らず知らずのうちに拳を強く握っていたことに気が付き、自嘲気味にふっと笑うと、肩の力を落として一度立ち上がった。
ぐっと伸びをして深呼吸をする。肺の中に新鮮な空気を取り入れると、それだけで頭の熱が冷めていくのが実感できた。
「熱くなっちゃだめよ。まずは、優しく話さないと」
自分の口調がキツイことは百も承知で、気を付けていればいくらかマシになることも知っている。
夕立は私を忘れているかもしれない。
だからこそ初対面のつもりで、それでいて突き放すようなことはなく、上手に会話しないと。
そんなことを何度か頭の中で反芻していると、ふと、夕立のまつげが今までよりも大きく震えた。
ちょうど立っていた満潮はその足でベットのふちに両手をつき、夕立の顔をのぞき込む。
ふるふると大きく震えたまぶたはゆっくりと持ち上がり、整った顔つきの金髪の少女は、その目に光を宿しつつ、目の前の顔に挨拶をした。
「…………おはよう、ございます?」
「どっちかっていうとこんばんは、ね。もう夜よ」
「そっか……」
疑問形で目覚めのあいさつをした少女は、満潮に背中を支えられながら、ベッドの上に起き上がった。
「ここは、どこ?」
「ネルソン提督の鎮守府よ。あぁ、この部屋は医務室」
「ふーん」
あまり興味なさそうにそうつぶやきながら、少女はあたりを少し見まわして、満潮の顔をじっと見る。
「あなたは?」
やっぱり忘れられてたか、と満潮は内心思ったが、想定済みだったのでとくに慌てず名前を告げる。
「満潮よ。だいぶ前だけど一緒の泊地にいたわ。覚えてない?」
「…………?」
柔らかく透き通った金髪を揺らしながら少女はコテ、と首を
どうやら本気で忘れられているようだった。
若干のショックを覚えながらも、とりあえずそこについてはどうでもいいのであまり追求せず、満潮は会話を続けようとした。その時だった。
「…………〝はくち〟って、なんですか?」
「は?」
鈴の根のような声で想定外の質問をしてきた相手に、満潮は驚きながらも的確に返答する。
「広い意味では船が留まれるところよ。ただ最近ではその意味より、小規模の海軍基地を指すために使われているわね」
「…………??」
頭の上にはてなを浮かべる目の前の少女に、満潮はほんの少し違和感を感じた。
何かおかしい。だが何がおかしいのか雲のようにはっきりとしない。
じゃあ違和感の正体は何なのかと思案しようとしたとき、金髪の少女は再び首をかしげながら質問してきた。
「ねぇ、パパはどこ?」
「ッ!」
思考が一気に外へやられる。
違和感など気にしていられないほどに、満潮の頭は投げつけられた質問の返答をどうするのかで熱していた。
この返し次第ではパニックを引き起こすかもしれない。かといって嘘を伝えるのはこの子のためにならない。
言葉を必死で思索し、紡ぎだし、得てして口から出そうとしたとき。
少女のほうが早く切り出した。
「もしかして、ママとお買い物?」
「へ?」
おもわず変な声が出てしまう。
それは少女にもはっきりと聞こえたようで、目に見えて慌てた様子で手を振りながら、
「え、あれ、私何か変なこと言ったかな……?」
「変なことっていうか……ちょっと待って、私から質問してもいいかしら」
「うん? なになに?」
満潮は、自分の鼓動が早くなるのを自覚した。
背中に変な汗が流れている。
同時についさっき放り投げた自分の思考を手繰り寄せ、〝違和感〟が何であったかを再び思案する。
だが数秒もかからずに仮定として頭の中でまとまってしまった。
それは、もしこの考えのとおりだったら、ここまでの違和感にすべて説明がついてしまうほどしっくりくるもので。
かといって望む事態ではない。けっして喜べるような仮定ではない。
だからこそ正しいかどうか確かめる必要があって、そのための質問も思いついた。
ゆっくり、はっきり、願わくばただのバカげた憶測であってほしいと念じながら言葉にする。
「あなた、名前はなんていうの?」
「
金髪の少女は屈託のない笑みで、捨てたはずの名前を口にした。