「座りたまえ」
ネルソン提督は俺を応接室に通すと、ソファを進めた。
俺は遠慮せずに座らせて貰う。
正直、サイズの大きなジャージに足のケガがあわさって長くは立っていられなかった。
そう言えば痛み止めがきれてきたのを今更ながら思い出す。痛い。
時雨お姉さんは席を外せと言われていた。
その際いくつか指令を出されたようで、短く返事をするとどこかへ向かっていった。
「では、何から話そうかな」
目の前の女性――――右手がなく、右目も眼帯を付けているこの女性は、確かにかつてのイギリスの英雄、ホレーショ=ネルソンの名を名乗った。
俺は疑問をそのまま口にした。
「あなたは、あのネルソンさんなんですか?」
「君の言うあのってのがどのネルソンを指すのかは分からないが、私はイギリスのネルソンだ」
女性が胸を張った。結構大きい。そのまま続ける。
「英国のために死力を尽くせたことを誇りに思っている。できればもっと尽くしたかったがね」
「トラファルガー海戦で、命を落とされましたか?」
「あぁそうだ。なにやら私の死体は酒の樽に入れられて本国まで持ち帰られたと聞いたよ。確かコニャックだったかな」
ネルソン提督は楽しそうに笑った。
間違いない。
教科書に出て来たとき、このホレーショ=ネルソンがいかに凄い人物であったかを社会の先生が熱弁していたから、よく覚えている。
歴史上の人物が、今ここにいるのだ。
「ですが、ネルソンは男じゃありませんでしたか……?」
次なる疑問をぶつける。答えはすぐに返ってきた。
「私はもちろん男だったよ。神様がこの世界に降ろすときに『もう不倫しないように』って願いを込めたんだよ」
「不倫?」
「不倫の意味が分からないかね」
ネルソン提督はカラカラと笑った。
バカにしないで下さい、と言おうとして今の自分が小学校低学年、悪ければ幼稚園児に見えるということを思い出す。
そんな幼子が知っているはずのない言葉ではあった。だが、
「いえ、知っています」
「だろうね」
「…………?」
だろうね? どういう意味だ。
「私はね、不倫して子供まで作ってしまったんだよ。悪いことだとは思っているが後悔はしていない」
悲しそうな顔になる。
もしかすると、生まれた子供の成長が見られなかったのかもしれない。
この人の表情はコロコロ変わるな。
そんな事を考えた矢先、ネルソン提督の顔から表情が消えた。
いや口元は笑っているが、目が笑っていない。左目から陽気な光が失せている。
「…………君は、どこから来たのかね。そして何者なのだ」
心臓の鼓動が早くなった。
――――言っていない。誰にも言ってないはずだ。俺がたぶん、この世界の人間では無い、などと。
本当のことを言えばいいのか、それとも言ってはいけないのか思案しようとした瞬間、ネルソン提督は釘を刺した。
「私だって普通の人間では無いぞ。
捲し立てて嘘をつくなと言っている。
ならば、正直に言う他なかった。
「わかりません」
「…………へ?」
ネルソン提督は固まった。
睨んでるわけでも、疑うわけでもなく、ただひたすら固まっていた。
〇
応接室には二人の人間が座っている。
ひとりは長い白髪の長身の女性で、右手と右眼がない美しい人。
もうひとりは、ちんちくりんの体にサイズの合わないジャージを纏った幼児。つまり俺だ。
ネルソン提督はしばらくして、ゆっくりと口を開いた。
「……え……わからない?」
「はい。俺が誰で、どうやってここに来たのか、少しも思い出せません」
「自分の名前は?」
「思い出せません」
「もとの性別は」
「男です」
「年齢は」
「15歳でした」
「うーん」
何に対して唸ったのか、ネルソン提督は形のいい眉を寄せ、左手を顎に当てて考える。
そのまま少し時間が過ぎて、彼女は俺の目を見ながらおもむろに言った。
「嘘は言っていないようだね。そうか、何となく納得できるよ」
「何がですか」
「君が記憶を、部分的に失っている理由」
ネルソン提督はニコリと笑った。
人当たりの良い笑顔だ。
知っているなら教えて欲しい。
なぜ俺は記憶がないのか?
いや、全然無い訳じゃない。
言われたとおり、部分的には覚えている。
どうして自分の名前が思い出せないのか。
名前が思い出せないのは不安だった。だから知りたい、理由があるなら。
笑顔を向けている今のネルソン提督なら、きっと教えてくれる。
「ぜひ教えて下さい」
「だめだ」
一瞬何を言われたのか理解出来なかった。
ダメ、と。
そう言われた。
なぜだ。この流れなら教えてくれるのが自然なんじゃ……。
「…………」
あまりにも俺がショックを受けた顔をしていたのだろう。
見ようによっては泣きそうな顔だったのかもしれない。
ネルソン提督は慌てたように左手を振り「ちがうんだ」と弁明した。
「君はまだこの世界のことを何も知らない。そんな状況で今君の身に起きていることを説明しても1割も理解出来ないだろう」
提督は続けた。
「まずは少しずつ環境に慣れて欲しい。ここがどういう世界で、どういったことになっていて、そしてその上で君がしなければならないことを教えよう」
「俺自身におきていることを教えてはくれないんですか」
「今すぐには無理だが、ある程度時間をおいたら話してあげよう。なに、急ぐことでもないぞ」
ニコニコ笑うネルソン提督。
本当にこの人の表情はよく変わる。
名前が思い出せないこと、いやそれ以外にも忘れていることがあるのだが、それら全てを含めて忘れていることそのものが不安だった。
たまらない。誰かに理由を教えて欲しい。
出来ることなら失った記憶を取り戻したい。
そんな俺の思いを知ってか知らずか、ネルソン提督は何かに気付いたらしい。
あとで教えてくれるというのだから、頼ってしまっても良いと思った。
自分が何者か分からないという不安は残ったが、少なくともまだ何かを知るには猶予があって、ネルソン提督の決断にゆだねてもそれは大丈夫なのだろう。
全く根拠のない信頼を寄せることになる。
しかしここで頼れるのは、会ったばかりのこの人と、そして時雨お姉さんぐらいである。
頼らざるを得ない。
というより、頼れる相手がいる事が嬉しかったし安心もした。
そう思うとホッと胸のつかえがとれて、同時に、左足に痛みが走った。
「痛ッ……」
「ん? おお、例の怪我か。どれ、見せてみなさい」
ネルソン提督は立ち上がる。身長が高い。
腰まで伸びた綺麗な白髪を、左手一本で瞬時に後ろでまとめくくった。
手慣れた手つきだった。
俺の足下まで来てからしゃがみ、長いジャージをめくりあげる。
「ずいぶんと大きなジャージだな」
「時雨お姉さんのです」
「ははは、時雨がお姉さんか。確かに、今の君から見たら彼女はお姉さんだな」
身体年齢5~6歳からすれば、どんな女性もお姉さんである、とネルソン提督は付け足した。
巻いていた包帯を丁寧に外す。
傷口を見て、
「んーこりゃ跡が残るね」
「べ、別に足の裏なんですから気にしませんよ」
「まぁそうだな」
と言って、近くの戸棚から救急箱を取り出した。
「痛み止めがきれてるだろうからこれを飲んでおきなさい。それと、ちょっと染みるよ」
水無しで飲める錠剤を口に入れてもらい、足には消毒液を拭きかけられた。
予想以上に染みて涙がこぼれた。
痛い。すごく痛い。
「大丈夫だいじょうぶ。男の子だろう?」
ネルソン提督が励ますように言う。
その口調は、明らかに、確かに、幼児を励ますそれだった。
「お、れが、15歳だったってこと、忘れてませんか」
涙をボロボロ流しながら聞いてくる男児に対して、ネルソン提督は答えた。
「どれだけ前の世界で15歳だったとしても、残念ながらもう君は15歳ではない。今の私が男の振るまいが出来ないのと同じようにね」
○
包帯を取り替えて痛み止めが効き始めてから、俺は応接室をあとにした。
脇には一冊の古いノートを抱えている。
ネルソン提督がこの世界に来た時にまとめ上げた、この世界に関する大まかな情報らしい。
それはつまり六十年ほど前の情報と言うことになるのだけれど。
色あせたノートを抱えて、二階へ通じる階段の下で立ち止まる。
…………さて。
二階に時雨お姉さんはいない。
今は任務とやらで出かけているらしい。
ならばこの階段を苦労して上がっても、部屋にカギが掛かっているかもしれない。
ネルソン提督はこれから本格的に仕事なので、午後の五時までは執務室に入ってはいけないと言われた。
当然だ。彼女は軍人で、多分相当偉い人だ。
ちょっとそんな風には見えないが。
とりあえずこのノートを見てみたい。
ネルソン提督は「これ見たら大体分かるから明日にでも君のことを教えてあげてもいいんだけどね」とウィンクしていたが、本当だったとしたら何と薄い内容の世界なんだろうか。
どうかそんな事はありませんように。
「どこで読もうか」
この建物を散策して、読み場所を探すには足がもたない。
そんなとき頭の中で今朝の光景が映し出された。
食堂だった。そうか、行ってみよう。
食堂は開いていた。
誰もいないらしい。
イスは全てテーブルの上に跳ね上げられていて、しんっと静まりかえっていた。
近くのテーブルのイスを降ろす。
座って、だいぶ疲れた足の筋肉をもみほぐし、ノートの最初のページをめくった。
○
日記のような形式と、たぶんネルソン提督の描いた絵だろう。
それが時々挿絵として入ったノートは、一言で表すなら『敵図鑑』だった。
提督の絵は結構上手かった。
この世界は深海棲艦というものがいるらしい。
そいつらは人間が我が物顔でジャブジャブしていた海を乗っ取り、同じようにジャブジャブしだした、と書いてある。
ほんとかよ。
私(ネルソン提督のこと)が死んだ約二百年後の軍事力を持ってしても対抗できず、ついには人間のジャブジャブする海域は完全に失われてしまった、と。
そしてまるで救世主のように誕生した対抗手段、それが〝艦娘〟だった。
艦娘は、正確には元々人間の女性で、適正反応を示す〝艤装〟を付けた人物を言うらしい。
生まれたときに与えられた名前を捨て、〝艤装〟の一部、または宿り主として生まれ変わるそうだ。
〝艤装〟が機械に近いがために、彼女たち自身の寿命はほぼ永久的らしい、とも書かれている。
らしい、となるのはたぶんネルソン提督自身が調べたわけではないからだろう。
また彼女たちの豆鉄砲はなぜか深海棲艦にとどき、なぜかダメージを与えられ、そしてなぜか沈められる。
豆鉄砲と書いた下には矢印がしてあり、軍艦の大砲のような、でもちょっと違うかんじの何かが描かれていた。
たぶんこれで戦うのだろう。
それにしても豆鉄砲とは……。
おおよそその先は、様々な敵の特徴や行動パターンなどが解説図付きで書かれていた。
深海棲艦についても、艦娘についても大体分かってきたと思う。
昨日からお世話になっている時雨お姉さんや扶桑さんも艦娘だと言った。
人間の海での自由のために、今も戦っているのかもしれない。
ノートの最後の方にはこう書いてあった。
敵の出没パターンは三十年経っても特定できない。
なにかこちらの航行に関して歪みがあるようにも思える。
どういう意味だろうか。
〝航行に関する歪み〟ってのが引っかかる。
今日の夜直接聞いてみよう。
○
お昼時になると、食堂でノートを見返していた俺の所に、わざわざネルソン提督が来てくれた。
左手のトレイにはお湯の入ったカップラーメンが二つ。
「何かわかったかい」
「深海棲艦と艦娘については大体分かりました。ネルソン提督は大変な仕事をされているんですね」
「ははは……まぁ、この世界に来る以前に比べればたいしたことはない。実際に戦場に出るのと、無線で司令室から指示を出すだけなのとでは全然ちがうだろう」
ネルソン提督の生きていた時代に無線はない。
確か旗を揚げて連絡を取っていたはずだ。
そう思うと技術は進化したのだろうな。
「もう食べてもいいと思うぞ。どっちがいい」
「ど、どちらでも」
「じゃあ私は醤油で」
「……ネルソン提督、どちらも醤油なのですが」
「一度やってみたかったのだよ」
なんなんだこの人は。
そういえば、提督自らがこうして料理(?)をして持ってきているが、他に給仕の人とかはいないのだろうか。
今朝も、艦娘自らが作って食べていたことになる。
その疑問を聞いてみた。返ってきた答えは簡潔だった。
「そりゃ人がいないからな」
「派遣とか雇ったりとかしないのですか」
「しないしされないな。全部自分たちで何とかするんだよ。物資は送られてくるから食うに困ることはない」
そういうものなのだろうか。
軍の食事は、そのまま兵士の士気に関わる。
兵士自らが炊事をするなどよっぽど最前線じゃない限りあまり考えられない。
ここが最前線だとしたら、司令室を離れてのんびり麺をすすってるこの女性は相当の無能だろう。
そうとは思えない。
「どうしてそんなに……人手不足なんですか?」
「いや、ちがう。大体の原因は私にある」
どういう意味だろうか。
「私はこう見えても、軍の中でも上の方にいる立場なんだ。もうかれこれ六十年近く活躍し続けているからな。一歳も年を取らずに」
「はい」
「考えてもみろ。年功序列式の軍上層部に、不老で天才のピチピチギャルが居座ったらどっかに飛ばしたくなるだろう」
ピチピチギャルにはあえて突っ込まない。
「なるほどそう言うことでしたか」
「でも私が使える人材だということは変わらん。そこで、物資は送るが戦力と人手は最小限という素敵なリゾートの完成だ。因みにこの島は結構大きい。名前はないがな」
「どうやってお仕事をされるんです? 戦力がないのに戦争は出来ないんじゃ」
「君はここの艦娘に何人会ったかね」
「二人です。時雨お姉さんと扶桑さんの二人」
「まだあと五人いるからな。総勢七名の精鋭だよ」
そう言ってネルソン提督はニヒルな笑みを浮かべ、上手そうに麺をすする。
飲み込んで、スープを飲み、一息ついて俺を見ながら自慢げに言った。
「いろんな艦隊からハブれて集まって繋がった、最高精鋭の寄せ集め艦隊だ」
○
昼ご飯を終えると提督は執務室兼司令室に帰っていった。
結局〝航行の歪み〟については聞き逃したが、まぁ今日の晩に聞くとしよう。
それにしても気になることが増えた。
まだ知らない五人の艦娘達。
彼女たちはいま作戦中でしばらく帰ってこないらしい。
扶桑さんと時雨お姉さんはその作戦には参加していないから、ここにとどまっているのだと言っていた。
そうそう、この建物は鎮守府というそうだ。
やっとの事で少年は、この世界の状態を知ることが出来ました。