「応急修理女神?」
小首をかしげながら復唱したフレンダに、青いはっぴ姿の妖精は身体ごと向けて答えた。
『そ。私の名前は応急修理女神と呼ばれている。ネルソンはいつも女神と呼んでいるがね』
「それは知ってるし、君と会ったことは何度かあるけど、それがどうしたの?」
フレンダは眉をひそめながら、少しだけ言葉に怒気をはらませながらそう言った。
状況がひっ迫している中、回りくどい説明をする女神にいい気はしないだろう。
それは私も同じだ。
「女神、状況を見ろ。ふざけていい時ではない事ぐらいわかるだろう」
『わたしは大まじめだし、ふざけてもいない』
「なら――――」
『いいから黙って聞くんだ』
女神の顔から不敵な笑みが消える。
代わりに、強い意志を感じるまなざしで、まっすぐに私を見た。
『わたしの力を使って、赤城を取り戻すんだ』
「…………それはできない」
首を横に振る。
リスクが高すぎる。
いや、わかっている。
二人を助ける方法は確かにこの、女神の力を使うことしかない。
そうすれば赤城は体力も艤装も元通りだ。
だが。
この力を使えば、私は意識を失う。
土佐中将から託された指揮権は一時的に消失し、あの艦隊を導ける者はいなくなる。
しかも、それだけじゃない。
「…………もう、艦娘を艦娘として回復させることはかなわないかもしれないのだ。これまでの彼女たちとは明らかに違うのだぞ」
『やってみなければわからないだろう』
「それでだめだったらどうするんだ!」
声を荒げて拳をきつく握りしめる。
ためしにやった、それでしくじった、では取り返しがつかない。
自分の冷静でいられないことに気が付き、一度頭を振って、静かな声でもう一度言う。
「……賭けるにはあまりにも大きすぎるんだ、女神」
『だからと言って赤城を見捨てて、それでこの先どうするつもりだ』
「航空戦力に頼らず、水上部隊だけで攻める」
『本当にそれでいいと思っているのか?』
女神のまっすぐな瞳が私を射抜く。
「…………」
いい、わけがないだろう……。
赤城は、私が初めてこの世界に来た時からの知り合いだ。
初めて指揮を取った時に動いてくれた、大事な部下だ。
何度も何度も動いてくれた。
六十年越しの今回だって増援艦隊に入ってくれていた。
大切な存在だ。
それを、そんな彼女を、失っていいなどと思うはずがなかろう。
胸が痛い。
頭が重い。
「…………それでも、艦隊のすべてを賭けるリスクに私の情を挟んではいけない」
しぼりだした私の声はちゃんと女神に届いているのだろうか。
女神は私から視線を外し、腕組みをしたままモニターを見上げた。
『決断に時間をかけないことは、君が優秀だといわれる理由の一つだろう。でもそれよりももっと、君が〝ネルソン提督〟である理由があったはずだ』
「………?」
私が私である理由。
何のことを言っているのか。
『ネルソン。わたしはね、君のやさしさは最大の強さだと思っている。君の偽りや建前からは到底引っ張り出せないやさしさが、艦隊の指揮を執るうえで君の強さを引き出せるカギだと思っている』
「そんなことは」
『いいかいネルソン。ここは君のいた戦場じゃない。場所も、時代も、世界すらも違う。君のいた世界で君の周りの人間が〝当たり前〟としていたことこそ、ここでは通用しない』
直後、女神の身体が赤みを帯びた光に包まれた。
ゆっくりと振り返り、腕組みを解いて私のほうに両手を差し出す。
『戦う者の命のために、戦果を顧みない人。この世界はそんな指揮官も必要なんだよ、ネルソン』
にこ、っと女神が笑ったのと、執務室の扉がノックされたのは同時だった。
○
時雨お姉さんの部屋はちょうど暖かな光が入ってくる場所にある。
僕はベットの端に座って、やわらかな日が差し込む窓の外をボーっと眺めていた。
でも心の中は静かにざわついている。
「……大丈夫、かな」
不安がそのまま口から出た。
「大丈夫だよ。最上の偵察機はここから遠い場所にあったし、今のところ対空レーダーにも敵の反応はないからね」
時雨お姉さんは机に座って背を向けたまま、そう答えてくれた。
手元には二連装砲がおかれていて、布とスプレーで何やら整備をしているらしい。
ついさっき鎮守府内に非常警戒の知らせが出された。
最上さんの出していた偵察機が落とされて、つまり敵の飛行機が飛んでいるって。
あれからいくらか時間が経った。
ネルソン提督からは特に何の知らせもなく、時雨お姉さんも含めて艦娘のみんなは自室に待機している。
本当なら僕はフレンダさんの研究所に連れていかれるはずだった。
でも時雨お姉さんが言うに、進路上に敵がいるからヘリコプターが飛べないらしい。
「時雨お姉さん」
「なに?」
「出撃、するんですか」
時雨お姉さんは手を止めて、椅子をくるりと動かして僕のほうに体を向けた。
「その時が来たらね。でも今じゃないよ」
ほんの少しだけ笑みを浮かべてそう言った時雨お姉さんは、机の上の二連装砲を手に取って、僕の隣に座った。
ベットが控えめに沈み込む。
二人並んで明るく照らされている外の景色を静かに見る。
時雨お姉さんは何か言うのかと思ったけど、何も言わず、無言のままどちらもしゃべらない時間が流れ始めた。
なにか聞かなきゃいけないことはなかっただろうか。
自分に問い直しても、いま何が起きているのかがわかってないから何が不安なのかもわからなかった。
胸の中でぐずぐずしている感情は、どうしょうもなく消せそうにない。
自分の知らないところで、でも放っておいてはいけないところで、何か――――いや、誰かが今にも消えてしまいそうな感覚がある。
「……時雨お姉さん」
「ん?」
名前を呼ぶと小首をかしげながら、こちらに視線を向けてくれた。
「どうしたの」
「誰か……ネルソン提督の艦隊の誰かが、海に出ていたりしますか?」
僕のその問いに時雨お姉さんは僕から視線を外し、頬に指をあてて天井を見ながら考え込んだ。
そのまま何秒か経ち、そしてゆっくりと首を横に振りながら、
「ごめん、ボクは誰かが出撃したって話は聞いてないよ。たぶん誰も出てないと思うけど……どうしたの?」
訝しげにそう言った。
「…………」
どうしたんだろうか。
自分でもわからない。
でも、何かむずむずする。
本当に誰も出ていないのだろうか。
よくわからないけど、時雨お姉さんに全部伝えようと口を開きかけた時だった。
『
「羅針盤の妖精さん!?」
僕の膝に淡い光が走ったかと思うと彼女は一瞬にして現れた。
急なことでびっくりしてしまったがそれよりも、
「ネルソン提督のところに? なんで?」
『理由なんて話してる暇ないのね! とっとと行って艦隊を導くのね!!』
「え、あの、え?」
となりで時雨お姉さんが目を白黒させていたが、さすがという言うかなんというか、すぐに落ち着きを取り戻して二連装砲を持ったまま立ち上がった。
「君が恵を召喚した妖精なんだね?」
『はじめまして、なのね。でも自己紹介はあとで! 恵はやく! 間に合わない!!』
羅針盤の妖精はするすると僕の頭まで登ってくると、髪をつかんで落ちないようにうずくまった。
なんなのかよくわかんない、けどさっきから感じてた胸の中のぐずぐず感の正体がわかった気がする。
誰かを導かなきゃいけない。
扶桑さんと一緒に輸送艦隊のみんなを指揮したあの時と同じ感じがする。
「恵、行っておいで」
「時雨お姉さんは……?」
「僕は待機命令が出てるから勝手なことはできないよ。ひとりで行けるよね?」
一瞬、時雨お姉さんから離れることに抵抗を感じた。
まだこの部屋にいたい。ほんの少しだけそう思った。
…………いや、思っただけ。わがままなんて言わない。
名残惜しい気持ちなんて、一秒足らずでふっ飛ばした。
「いけます! 行ってきます!」
うなずき、立ち上がり、走り出す。
ドアノブをまわして廊下に出て、バタバタと言わせながら階段を下りている途中、ふと気になることを思い出した。
「海に出ていないのに羅針盤を使うって、妖精さん大丈夫なの?」
『かまうことないのね。命と疲労を同じ天秤に乗せちゃダメなのね!』
「あ、そっか……うん、そうだね! がんばらなきゃ!」
『応援してほしいのね』
明るい妖精さんの声を聴きながら、僕はネルソン提督の扉の前に立った。
○
息が少し上がっているけれど、かまわず扉をノックする。
二回、時雨お姉さんがやっていたように。
『わずらわしいのね、とっとと開けるのね!』
「でもちゃんとノックはしないとダメなんじゃ……」
そんなことを言っていたら、ドアが勝手にあいた。
扉の向こうは薄暗く、モニターの光がぼうっとあるだけで、ほかに明かりらしいものは何もない。
扉を開けてくれたのはフレンダさんだった。
「あの、フレンダさん、ネルソン提督!」
今になって心臓が早鳴りして、何を言えばいいのかわからなくなってしまう。
でも、
『ネルソン、さっき女神から呼ばれたのね! 恵を部屋に入れて指揮の補佐をさせてほしいのね!』
羅針盤の妖精さんが代わりに言ってくれた。
女神さんから呼ばれたなんて僕は知らないけれど、とにかくこれで入れてもらえるかもしれない。
「あ……え?」
ネルソン提督は驚いた様子で目を見開き、でもすぐに引き締めて、フレンダさんのほうを見た。
僕もフレンダさんを見上げる。
くす、っと彼女は笑い、何も言わず僕の両脇に手を差し入れて軽々と抱き上げた。
そのままネルソン提督の横まで歩き、落ち着きはらった声で言う。
「お姉ちゃん、あとは任せてよ」
「……そういうことか。すまない、二人とも」
何があったのかよくわからず、状況が呑み込めないままに腕の中でふたりの顔を交互に見るしかなかった。
なにか変。
まるでネルソン提督は指揮をとらないみたいな言い方――――。
『じゃあ、やるぞ』
唐突に聞こえた声。
モニターの前にいつの間にか女神さんが居た。全然気が付かなかった。
そして彼女がものすごい光を発した、その瞬間。
「……え?」
ネルソン提督は机に突っ伏していた。
○
何もかもが急の出来事で頭が追い付かない中、女神さんは丁寧にかつ素早く現状を説明してくれた。
『――――以上だ恵。これ以降はフレンダが指揮を執り、必要に応じて恵が補佐をする。何か質問は?』
僕は女神さんからこれまで何があったのかを聞かされた。
羅針盤の妖精さんに女神さんが助けを頼んだらしい。
僕がこれから何をするのかも、だいたい飲み込めた。
全部が全部起きたことを理解したわけじゃないけど、でもとにかく今、危険な目にあっている艦娘がいることはわかったし彼女たちを救うために何をすればいいのかもなんとなくわかった。
「質問はないです。すぐに艦隊のみんなを――――」
「大丈夫、もうやってるよ」
言いながらフレンダさんは、さっきまでネルソン提督の座っていた椅子に腰を下ろした。
ネルソン提督はと言うと床に敷いた毛布の上に寝かされている。
「さて」
フレンダさんは一声ついてモニターを見る。
僕もその横に立ってモニターを見ようとしたけれど、どうしても気になってフレンダさんのほうに視線が泳いでしまった。
「…………?」
目が合った。
僕を見据え、透き通った黄色い瞳を柔らかく細めて、微笑みを浮かべながらフレンダさんは見返してきた。
あ……えっと、なにか言ったほうがいいかもしれない。
「……さっきのすごかったですね」
「私も初めて見たよ。まさかお姉ちゃんにあんなことができるなんてね」
フレンダさんは肩をすくめながらそう返してくれた。
目に焼き付いた光景を思い起こす。
あの光がモニターの中の赤城さんの体を包んだかと思うと、一瞬にして艤装が復活した。
次いで身体が動くようになって、無線からは元気な赤城さんの声が聞こえてきて。
血が出てたって聞いたけど、僕が見た時には全くそんな風ではなかった。
何百キロも離れたところから艦隊の傷ついた人を一瞬で治せる――――これが、ネルソン提督の能力。
僕に艦隊の進路を導く力があるように、ネルソン提督は艦隊の命をつなぎとめる力がある。
代償にネルソン提督本人の意識を奪い取られるけど、でもこうやってフレンダさんのような後を任せられる人が近くにいれば、安心して使うことができる力だと思う。
やっぱりすごい。
『……賭けには勝ったぞ、ネルソン。あとはフレンダと恵が頑張ってくれる』
静かな声が聞こえてきた。
後ろで女神さんが、横たわったネルソン提督の頭をなでながらそう言っていた。
三回ほど撫でてから、振り返って僕の足元までやってくる。
僕はしゃがんで女神さんを手のひらに乗せ、モニターの前で降ろしてあげた。
増援艦隊はいま、赤城さんと加賀さんが完全に復活した状態で無人島の東側にある切り立った崖のところまで移動している。
そして首尾よく横穴を見つけてそこに避難できた。
ここまではネルソン提督の指示通りだ。
ここからは、フレンダさんの指揮で動くことになる。
僕はそのお手伝い。
………出会って数時間しかたっていないけれど、フレンダさんと一緒になら、うまくやれるような気がした。
○
崖の横穴に入った艦隊は入り口付近で雪風と大和が空をにらみ、五十鈴、阿武隈が真ん中で休憩、一番奥では赤城と加賀が夕立の様子をうかがっていた。
さっき自分の身に何が起きたのか、赤城は理解できなかった。
今もできていないのだがネルソン提督が何かしたということはわかった。
そしてそのネルソン提督は現在指揮が取れる状況ではなく、若い女性が代行をすることも。
まぁ、いい。
ネルソン提督のことは大昔から信用している。
その提督が全権を任せる女性だ。きっと信じてもいい。
赤城はそう思い、ちゃんと指示に従い、そしてこれからも従うつもりである。
「赤城さん、夕立は……?」
意識を現実に引き戻す。
両手の中ではいまだ目覚めない夕立が、不規則な呼吸と汗を流しながらぐったりと意識を失っている。
「……精神性のショックだと思います。でもこんなことになった艦娘はいままで見たことがありません」
「私もないわ。でもまさか、このまま目覚めないことはないでしょう」
「わかりません。とにかくネルソン提督のところまでは確実に私が連れていきます」
土佐中将に直接頼まれたわけではない。
でもこの子がまだ〝夕立〟じゃなかった頃を知っている赤城は、このまま誰かに押し付けるなんてことはしたくなかった。
――――海軍関係者の子供が艦娘になるケースなんて、そうそうあるものじゃない。
だからこそこの子が艦娘になるという話を聞いたときはとても驚いた。
横須賀の
プライベートで土佐中将が
この子は私のことを覚えていないかもしれないが、私はよく覚えている。
一緒に遊んであげていた。一日中一緒にいたこともある。
私の休暇日に限って遊びに来るものだから、それはもう、当時はよく相手をしてあげていた。
私の艦載機を追いかける彼女は子犬のようにはしゃいでいた。
あの頃に比べると容姿はずいぶん変わっている。
でも数年ぶりに会ったのがあのヘリの中で、土佐中将からずっと離れずにいた様子を見たときに、中身は変わっていないのだと気が付いた。
「…………永く艦娘をしていると、こんなこともあるのですね」
「?」
ひとりごちた赤城の言葉に加賀は首をかしげるも、あえてそこには踏み込まない。
かわりにこの先について確認をとった。
「赤城さんだけでずっと夕立を連れることは、困難ではありませんか?」
「大丈夫ですよ。駆逐艦の子ひとりを背負って移動もできないようでは大型艦の名が廃れます」
「…………無理はしないでくださいね」
「どうしてもの時には、よろしくお願いします」
微笑みながら頭を下げる赤城に、六十年来の戦友は当然のようにうなずき返した。