一番は時雨お姉さんですが。
翌朝。
ベットの上で目を覚ます。
隣を見るが、そこには誰もいなかった。
昨晩あの後、体を拭いた時雨お姉さんは「ここはボクのベッドでもあるからね」と言いながら俺を抱き寄せ、あたかも抱き枕のようにして眠りに就いてしまった。
彼女の腕にすっぽりと収まってしまう今の自分の体の小ささにも驚くが、思いのほか恥ずかしさを感じなかったのにも驚いた。
ここに来る前の俺なら、きっと鼻血の1、2Lは出していただろう。
代わりに、例えようのない安心感があった。
母親の腕の中は、あんな感じだったのかもしれない。
今彼女がいないのは、おそらく早朝ランニングに出ているからだ。
彼女があのとき走っていなかったら今頃俺は干からびていただろう。
感慨深いものがある。
足の傷を庇いながらベッドから降りる。
赤ジャージのズボンはだいぶ丈が長く、腕の方もかなりの長さが手先からだらんと垂れている。
はたから見れば、子どもがイタズラで着ているように見えるだろう。
窓枠の側に立つために、ズボンの裾をたくし上げながら歩く。
包帯を巻いた左足からは僅かだが痛みが出始めていて、ひょこひょことした足取りになってしまう。
痛み止めが効かなくなってきているのかもしれない。
ただ、めまいがせずちゃんと立てているところを見るに快調に向かっていると思われる。
木枠にはまった透明なガラスの向こうには、太陽が半分よりも大きめに顔を出していた。
一言で言って綺麗な景色だ。
しかし窓枠に背が届かない。背伸びして、半ばぶら下がる形になってようやく太陽が拝めている。
腕が疲れたので一旦地に足を付ける。
枕元に返ってきて、小さなテーブルの上に置いてあるボトルを両手で掴む。
昨晩作ってくれたスポーツドリンクの残りだ。
片手ではどうにも手が小さすぎて掴みにくい。
不便だが体のことを言っても仕方がないだろう。
ややぬるくなったそれを飲み、まだ少し残ったままにして蓋を閉めて、テーブルに戻す。
そのままベッドへとごろんと転がった。
昨日は気付かなかったが、このシーツには時雨お姉さんの臭いが染み付いていた。
それをかいで興奮するとかならまだ高校生らしいのだろう。変態のようでもあるが。
しかし、こみ上げてくるのは安心感と不安だった。
残り香をかいで安心するとは一体どういう体なのか。
不安なのは、もしかするとここには時雨お姉さんがいないということを意識してしまうからだろうか。
なぜかわからない安心と不安でベッドをゴロゴロしていると、部屋の扉が開かれた。
「ただいま。そろそろおきてるかな」
シャワーを浴びてきたのだろうか。頭からタオルが掛かっている。
時雨お姉さんだ。と思うやいなや、ベッドから飛び降りて抱きついてしまった。
「…………おかえりなさい」
涙声になっていた。
自分でも驚くような行動だったが、時雨お姉さんはさらに驚いたようだった。
「ど、どうしたんだい。そんなにさみしかったの?」
「たぶん……」
何も言わず、ただ優しく時雨お姉さんは頭を撫でてくれた。
頭二つ分ほども身長差がある俺と時雨お姉さん。
彼女の胸に耳がくっつき、そして聞こえてくる心音はとても穏やかなものだった。
○
「朝ご飯にしようか」
ジャージから制服に着替えた時雨お姉さんは、洗濯するジャージを抱えながら俺に振り返った。
俺も答える。
「お腹が空きました」
「だよね。ボクも空いたよ。そろそろ出来てる頃だろうし下の食堂に降りようか」
「はい」
そう言うと時雨お姉さんは左手にジャージ、右手に俺を抱えて部屋から出ようとした。
「あの……」
「なんだい」
「なぜ、だっこするのですか」
「痛み止めが効かなくなってくる頃だし、階段はその傷で降りると危ないよ」
「ひ、一人でも降りられます」
「ダメだよ」
ささやかな抵抗むなしく、俺はだっこされたまま階段を下りていった。
程なくして洗濯室の前に来る。
左の脇に抱えたジャージをカゴに入れた時雨お姉さんは、そのまま俺を降ろさず、食堂へと入っていった。
「座ってて」
背もたれ付きのイスに座わらされ、待てと言われたのでそのまま待つ。
時雨お姉さんはトレイを二人分取って、受け取り場所から食事を受け取った。
それを視界の端で捕らえながら、俺は辺りを見回す。
この建物、この食堂に来るまでで分かったことが二つある。
一つは木造と言うこと。
田舎の小学校なんかがイメージに近いだろう。
この食堂も例外なく木造で、イスとテーブルが並んでいる。
イスはプラスチック、机は木製だった。
分かったことの二つ目はこの建物が2階建てと言うこと。
まぁこの二つが分かったからと言って、たいしたことではないのだが。
この建物があるのは俺が目覚めて死にかけていたあの浜辺とそう遠くない場所にあるというのも、今朝分かったことだ。
時雨お姉さんがランニング出来るくらいの距離にあるのだから間違いないだろう。
そうこう考えている内に、二人分のトレイを持って時雨お姉さんが帰ってきた。
トレイには肉じゃがと白ごはん、味噌汁、キュウリの漬け物、あとプリンがのせられていた。
「「いただきます」」
二人そろって合掌。
箸を持ち、味噌汁を啜った後に肉じゃがに手を付ける。
うん。ちゃんと手は動くので心配ご無用のようだ。
時雨お姉さんも同じ事を気にかけていたようで、ちらちらとこちらを見ていたが、安心したのか自分の漬け物をぽりぽりと噛んでいる。
味付けはやや濃い。
昨日の話を思い出す。
もし彼女が軍人なら、体を動かすのが仕事である。
ならば自然と、カロリーと塩分をしっかりと取れるような食事が配給されるはずだろう。
事実今朝も時雨お姉さんはランニングに出ていたのだから、この濃い味付けの説明は十中八九ただしい。
美味しい朝食が冷める前に食べ尽くしたかったのだが、この幼い体はあまり量を必要としていないらしい。
半分ほど食べたところで箸が進まなくなってしまった。
せっかく作ってくれたものを残したくはない。
誰が作ってくれたのかは分からなかったが、そんな失礼なことは出来ないと、心では思うが箸が進まない。
そんなときだった。
「お腹がいっぱいになったら、残してしまってもかまいませんよ」
ゆっくりと落ち着いた、気品を感じる声だった。時雨お姉さんよりも年上の声。
後ろを振り返ると、見たことのない女性が割烹着で微笑んでいた。
その手には食事ののったトレイ。
皿には山が出来ていた。
「お隣、よろしいですか?」
「あ、はい! もちろんです」
一礼して女性が席に着く。
山の正体は白いごはんと肉じゃが。
あ、ジャガイモが落石した。
「珍しいね扶桑。いつもは厨房ですますのに、どうしたんだい?」
時雨お姉さんが箸を止めて聞いていた。
この女性は扶桑と言うらしい。
「お客さんが重体だと聞いていたので心配していました。ですが、回復されたようで安心です」
俺を見て微笑む。
儚さと美しさの入り交じった笑みだった。
俺を見るために、わざわざ隣まで来てくれたらしい。
扶桑と呼ばれた女性は席についても箸を持たず、俺の方へ向き直って口を開いた。
「扶桑型戦艦1番艦、〝扶桑〟です。よろしくお願いしますね」
「こ、こちらこそよろしくお願いします」
俺も慌てて箸を置き向き直った。
お辞儀をした視界の端で、時雨お姉さんがニコニコとしながら言っていた。
「この料理、作ってるのは扶桑なんだよ」
「お口に合えば良いのですが……」
自信なげに言う扶桑。
とても美味しい旨を伝えたのだが、なにぶん量が多かったことも正直に伝える。
嘘を言っても仕方がない。毎食たびに申し訳ない気持ちになったりさせてしまうのは双方望ましくないことだろう。
すると扶桑は「いただきますね」と一言告げると、俺のトレイからプリンを残して、後のものは全て自分のトレイにおいてしまった。
プリンを残したのはきっと俺に食べてもらうためだ。
俺の容姿から判断してのことだろう。嬉しい。ありがたくいただきます。
その後、俺は遠慮なくゆっくりとプリンを食べ始めた。
上品な甘さが口に広がる。
カップが空になった時、時雨お姉さんも食べ終わったようだ。
扶桑…………いや、扶桑さんは、俺がプリンを食べ終えるよりも早くに、トレイ上の全ての料理を胃袋におさめていた。
○
一体あの細いお腹のどこに、あれほどの山が入ったのか。
そしてなぜあんな神隠しが出来たのか。
山が消えた、一瞬で。
心底疑問に思ったので時雨お姉さんに聞いてみると、
「扶桑は戦艦だから」
と返ってきた。
意味が分からないので考えないことにしよう。
程なくして朝食を終えた俺と時雨お姉さんは、一旦自室に帰ることにする。
扶桑さんは一足先に、食器を洗うからと言ってまた厨房へと戻っていった。
俺達も部屋へ行こうと言ったら、再び時雨お姉さんにだっこされて、こうして部屋へと帰ってきた。
「あの、時雨お姉さん」
「なんだい」
「ここには、俺と時雨お姉さんと、扶桑さんしかいないんですか?」
「あと提督がいるよ。今は……そうだね。ボクを入れて四人しかいないね」
一体ここが何の施設なのかは結局分かっていない。
扶桑さんは自分のことを戦艦だと言っていた。
時雨お姉さんが駆逐艦。
じゃあ、やはり彼女たちは軍艦なのだろうか。
それが彼女たちの言う〝艦娘〟なのだろうか。
だとするとここは軍の施設、基地とか拠点だと思うのが妥当だろうか……。
分からないことだらけだが、少なくとも今は、俺の命の心配はないと思われる。
彼女たちは味方のようだし、俺のためにおかゆを作ってくれたという〝提督〟も、殺すような相手にまさかそんなことはしないだろう。………たぶん。おそらく。
しないよね?
物思いにふけっていると、時雨お姉さんから声をかけられた。
「いろいろと気になるみたいだね。提督もそろそろ朝食が終わってるだろうし、任務消化の前にちょっと訪ねていこうか」
俺は頷き、今度こそ言う。
「一人で歩きます」
「ダメだよ」
無念。
○
その扉は執務室、と書かれていた。
この向こうに提督が、もとい司令官がいるのだろう。
軍隊のお偉いさんだ。
彼女たちが言うに〝戦艦〟〝駆逐艦〟を我が手に収めて指揮を執る人物が、この扉の向こうにいる。
どんな怖い人なのだろうか。
厳ついおじさんか。社会の教科書の写真みたいなあんな感じの。
多分そんな気がする。
時雨お姉さんは一度俺を床に降ろすと、服装を正し、髪の乱れを整える。
整えなければならないほど彼女の黒髪が乱れているわけではないが、今一度左肩に垂れている三つ編みを気にして、息を吸い、そしてドアをノックした。
二度、コンコンと鳴らす。
いい音でなった扉の向こうから
「どーぞー」
と声がした。
…………? 女性?
「失礼します」
時雨お姉さんの声と共に開かれた扉。
その向こうには、背の高い女性が立っていた。
白い学ランのような服装。
胸にはたくさんの勲章が付いている。
髪は透き通るように白く、長い。腰の位置まである。
目鼻立ちは深く整っており、右目に黒い眼帯を付けていた。
妙齢だが美しかった。
そして、凜とした声を張って、彼女ははっきりと名前を名乗った。
「ホレーショ=ネルソンだ。宜しく頼むぞ少年」
右手と右目のない美しい女性は、左手で敬礼してニコリと笑った。
~明日に役立つ歴史解説(※個人差があります)~
フランスの英雄、あのナポレオンは皆さんご存じでしょうか。
彼は陸での戦いにおいて右に出る者はいないほどの最強チートっぷりでした。
陸のチートキャラがいれば海のチートキャラもいます。
そのナポレオンの海洋進出を阻み、「もしこのトラファルガーの海戦で負けたらイギリスは終わる」という状況でそれを阻んだのがイギリス最大の英雄、隻眼隻腕の提督こと「ホレーショ=ネルソン」です。
世界史のテストには先ず間違いなく出て来ますね。
ネルソン提督は、フランスとの戦力差が圧倒的に不利な状況(実質倍率は2倍近い戦力差)にもかかわらず「トラファルガーの海戦」で圧勝し、ナポレオンによる海洋進出を防衛、イギリス史上最大級の危機を乗り越えました。
ただネルソン提督、この戦いで亡くなっています。