「土産とこれからについての話がある。……が、とりあえず扶桑以外は、全員シャワーを浴びてから食堂に集合。扶桑は執務室に付いてきてくれ」
鎮守府へと入って早々、全員を廊下で立ち止まらせ、ネルソン提督はニコニコしながらそう告げた。
「わ~い。おふろ~」
「よかったわ。体中がべとべとよ」
「扶桑姉様と入りたいのですが……」
各々が返事をする。
ネルソン提督は左手をひらひらと振りながら、扶桑さんをつれて執務室へと入っていった。山城さんの顔が暗い。
ネルソン提督が扶桑さんと一緒なのは、たぶん今日起きたことを詳しく聞くためだろう。
多くは僕のことなのだから僕も一緒にいた方がいい気がするけれど、でも体中が海水漬けだから後でお話しすればいいかな。
時雨お姉さん以外のみんなは、口々に何か言いながら、お風呂場へと向かっていった。
「今日はきつかった-」だったり「お土産って、なんだろね~」という声も聞こえる。
ガヤガヤとした話し声が遠ざかり、廊下がしんと静まりかえってから、僕は隣を見た。
木造の廊下には僕と時雨お姉さんだけが残っている。
「時雨お姉さん……おかえりなさい」
「ただいま。ケガはない?」
「僕は全然、大丈夫です。時雨お姉さんは……?」
「ボクも大丈夫だよ。出撃はしたけど、戦闘はしてないからね。とりあえずお風呂に行こう」
「はい」
並んでゆっくりと歩き出す。
隣に時雨お姉さんがいるということが、なによりも嬉しかった。
でも…………。
自分の着ているものを見る。
生乾きの黄色いジャージに、下は湿ったプリーツスカート。時雨お姉さんと満潮さんの服。
「あの」
「なに?」
「時雨お姉さんの服、勝手に借りちゃったんですけど……」
「いいよ。わかりやすいところに出してあげてれば良かったって、後から気付いたんだ。ちゃんと着替えられてて安心した」
笑顔でそう言う時雨お姉さんは、こちらに視線を落としながら、言葉を続けた。
「満潮は、何か言ってた?」
「〝パンツもはかずにスカートなんて穿くもんじゃないわ〟……と、怒られました」
ついさっき、そう言われた。
輸送用のヘリが離陸した後にだ。
僕は満潮さんが怖い。
もの凄く怒っていた。
夕日が沈む中、満潮さんは僕を見下ろしながら言った。
つり上がった目で、腕組みをしながら、「もう二度と、こんな格好で海に出ないで」って。
あらかじめ扶桑さんから服を借りることは伝えられていたみたいだけれど…………。
上手く伝わってなかったのかもしれない。
でも僕には下着がない。どうしようもなかったんだけど、でもやっぱりそんな言い訳をしたらもっと怒られるかもしれない。
「……僕、満潮さんが怖いです」
「怒られたから?」
「たぶん…………」
時雨お姉さんは小さく笑うと、
「まぁ、満潮は、べつに言葉そのまんまのことを言いたいわけじゃないと思う」
「…………?」
「本当に君が満潮の服を着ていたことを嫌がって言ったわけじゃない、ってこと」
「そう……なんですか」
「何か意味があると思うから、僕の方からさりげなく聞いとくよ。そんなに落ち込まなくて良いし、満潮はそんなに怖くはないよ」
「…………」
そうは言われても、怖いものは怖い。
あの目で、あの声で、何か言われるとそれがどんな意味でももう悪いようにしか取れそうにない。
でもそんな事を時雨お姉さんに伝えるのは、なんだかいけないような気がしたから、僕は黙ったまま並んでお風呂場へと歩いて行った。
○
「……恥ずかしいの?」
こくりとうなずきながら、僕は湿っぽい服を洗濯カゴに入れて、時雨お姉さんに手を引かれながら広い脱衣所を後にする。
時雨お姉さんは体にタオルを巻いていた。僕は何も巻いていない。
本当は巻きたかったけれど、腰に付けると地面すれすれまでタオルが伸びてて、足に絡めると危ないからって時雨お姉さんに止められた。
確かにちょっと危ないのはわかる、でもやっぱり見られると恥ずかしい。
浴場の扉を開けるともうもうとした湯気が全身をなめてきた。
「朝雲姉~背中洗ってあげる~」
「じゃあお願いし――――って冷たっ! ちょ、山雲! それ水、水だからッッ!!」
「あ~ごめんね~わざとです~」
「止めて! 止めて! 冷たいからぁ!!」
洗い場の方から叫び声が聞こえてきた。
「なんだか楽しそうだけど、夕飯が出来るからなるべく早く上がるように言わないと」
苦笑しながらも時雨お姉さんは早足で歩いて行き、洗い場の端ではしゃいでいる二人に二言三言伝えていた。僕もその後を追う。
見渡す限りでは、他の、山城さんと満潮さん、最上さんは見えていない。きっと露天風呂にいるのだろう。
僕は洗い場のイスに座ってスポンジを取り、ボディーソープでモコモコと泡を立ててから体の海水を洗い落としていく。
今日は初めて海に出た。初めて海の上を歩いた。
たくさんこけたけど、いつかみんなみたいに、格好良く海の上を走りたい。練習すれば、いつか出来るようになるのかな。
そんな事を考えながらふと隣を見ると、時雨お姉さんがタオルを外して体を洗っていた。
あわてて視線を前に戻す。曇った鏡には自分の姿が見えていないけれど、たぶん、顔を赤くしていると思う。
恥ずかしいというか、見てはいけないものをみてしまっているような、そんな気になってくる。
一刻も早く体と頭を洗って、湯船の方に行きたい。
大急ぎで体を洗っていると、背中から声をかけられた。
「君が~うわさの男の子かな~?」
振り向くと時雨お姉さんと同じぐらいの背丈の人が、タオルを巻き付けた体を少しかがませて、こちらを覗き込んでいた。
「え、あ、えっと……」
「山雲と言います~よろしくね~」
「あ……はい、よろしくお願いします」
のんびりとした声と口調、少し癖のある灰色の髪と、茶色の瞳。
無線機越しにもよく聞こえていた声の人だった。
急に話しかけられて少し体が強ばった。
ただ、そのやさしげな口調から、すぐに体の力は抜けて、そうすると僕はある事に気が付いた。
体中あわだらけのまま、ぺこりとおじぎをする。
――――そう。名前を名乗ろうとしたけれど、僕はできなかった。まだ思い出せない。
今までずっと「君」や「少年」と呼ばれていた。
違和感があまりなかったから気にしていなかったけど、今の僕には名前がないんだ。
名無しのごんべぇ……そんな名乗り方はできない。
名前がまだ無い事を伝えようと、立ち上がって山雲さんの方へ向いた時、今度は横から声をかけられた。
「背ちっちゃい…………あ、私は朝雲。満潮と山雲の姉妹よ。よろしくね」
声のした方を向く。
直後、視界一杯に肌色がひろがった。
いや肌色だけじゃない。薄いピンク色の部分が、やや小高い丘の上に――――。
「朝雲姉~タオルは~?」
「え? あぁ、付けなきゃダメ?」
「一応男の子なんだから~それくらいしてあげようよ~」
そんな会話が流されていく。僕はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
見ちゃいけない理由がある。一つは見てしまった僕が恥ずかしい気持ちになるから。
もう一つは、もしそれで怒られるようなことがあったら、きっと見ちゃった僕が悪いから。
怒られたくないから初めから見ないようにする。だから見たくない。なのに……。
「あぁ、ごめん。すぐ取ってくるわ」
小走りで去る足音が遠ざかると、肩をやさしく叩かれた。
触れられた瞬間びくっ、としてしまい、おそるおそる顔を上げる。
しゃがみ込んで目線の高さを合わせてくれた山雲さんが、そこにはいた。
「ごめんね~朝雲姉にも悪気はないから~」
「…………見ちゃったの、怒られたりしませんか」
「見せつけるつもりはなかったと思うし~それで〝みられたー〟って怒るような朝雲姉じゃないから~安心して~」
茶色い瞳を細めながら優しくほほえみかけてくれた山雲さんは、シャワーを手に取り、僕の体の泡を流し始めた。
足に力が入らない。
本気で怒られるかと思った。
ひざがまだ震えている。
「……どうしたの?」
時雨お姉さんの声がした。
見上げると怪訝そうな顔をしていて、この数十秒の間に起きたことを山雲さんが説明してくれた。
聞き終わって、時雨お姉さんが首を傾げる。
「時雨~? どうしたの~?」
「え、あぁ、いや、なんでもないよ」
しかしすぐに笑顔に戻ると、時雨お姉さんはしゃがみ込んだまま立てなかった僕を抱き上げて、イスに座らせた。
残っていた体の泡を流し、そのままシャンプーをとって僕の頭を洗ってくれる。
「それじゃあ~山雲は先に浸かっとくね~」
「うん。ボク達も後で行くから」
「朝雲姉もつれていくわ~」
声が遠ざかり、しばらくすると遠くの方で「えぇ!? 私怒ってなんか無いよ!!?」という声が聞こえた。
もしかすると朝雲さんにも全部話したのかもしれない。
「あはは……たぶん、朝雲はこっちに来るよ。その前に流そうか」
時雨お姉さんはシャワーの温度を調節して、頭の泡を流してくれた。
全部流し終わって、
「ほら、立てる?」
「……はい」
立って後ろを振り向くと、案の定、朝雲さんと山雲さんがいた。山雲さんはさっきと変わらない優しげな笑みを浮かべている。
「…………」
朝雲さんは時雨お姉さんや山雲さんより少しだけ背が高い。
栗色の長い髪の毛を、今は頭の後ろでまとめ上げている。
僕は一瞬だけ朝雲さんの表情を見たけれど、すぐに目線を下げてしまった。
直視できない。さっきは「怒ってない」って声が聞こえたけど、でも、それでも、なんだか顔を見るのが怖い。
俯いたまま黙っていると、朝雲さんは膝を床に付けて、おずおずと僕を覗き込む様にしながら言った。
「ええっと……裸とか、別に見られたから怒るなんて事はないし、むしろタオル付けてなかった私の方が悪いわけで……だからその、なんでそんなに怒られるって思ってるのか正直よく分かんないんだけど、私はぜんぜん大丈夫というか、その……」
「つまり朝雲は怒ってないし、怒らないから、君が怖がる必要は無いんだよ」
時雨お姉さんは僕の頭を撫でながらそう言った。
おそるおそる顔を上げる。
本当に申し訳なさそうな表情で、朝雲さんは「怒らないから、大丈夫大丈夫」と言ってくれた。
安心して涙が出そうになるのを必死に堪えていると、ゆっくり、朝雲さんが抱きしめてきた。
「なんというか……ネルソン司令から聞いてたより、ずっと幼ないわね……」
耳元でそう呟いた朝雲さんのその言葉に、僕は、僕自身が、僕じゃないような気がして、それが悲しくて、結果的には泣き出してしまった。
○
鎮守府の露天風呂に三人の艦娘が浸かっている。
山城、最上、満潮だ。
「ふー……疲れた。ボクもうくたくただよ」
「行きで数日帰りは一日。これでもいつもよりは早く帰還できた方ね。扶桑姉様と入りたかったわ……」
「早く帰れたのは良いけど、いつもの倍は戦った気がする。もう疲れたよ、はぁぁぁぁぁーーー…………」
最上はぶくぶくと泡を吹きながら湯の中に頭を沈めていった。
「最上撃沈」
真顔で山城はそう言うと、自分も肩まで深く浸かって、何度か首を揉む。
左手、右手と交互に動かしながら、しかし対して肩こりには効いていないと悟り、ちゃぽんと両手を投げ出した。
そのまま視線だけを動かして、さっきからうつぶせで黙っている満潮に話を振る。
「満潮は何をそんなに落ち込んでいるのかしら?」
「別に落ち込んでなんか無いわよ」
「そのオーラでよく言うわ」
「ほっといてよ。なによオーラって」
「あの少年のこと?」
「…………」
満潮のつっけんどんな対応にも全く意に介さず、話を進めていく。
強引な方法だが、満潮の悩みはまさにそれだった。
「…………べつに、困ってるわけじゃないわ」
「どう接したらいいかわからない、かしら?」
「うるさいわね」
満潮は体を起こして山城の方に向き直る。
鬱陶しそうな言葉とは裏腹に、その表情は暗かった。
「…………別に、あいつが私のことをどう思ってるとか、そんなのはどうでも良いのよ。ただ、顔見たそばから泣きそうになったりとか、ちょっとアドバイスしただけでいちいち泣かれたら、こっちが悪いみたいになるじゃない」
「え、あれアドバイスだったの?」
「そうじゃなかったら何なのよ」
「怒ってるようにしか聞こえなかったわ。〝なに私の服着てんだよ〟ってかんじで」
「そんなわけないじゃない」
「満潮がそう思ってても、あの子には伝わってないわよ。…………私が聞いてても、そう聞こえたのよ。満潮の言いたいことって結局何だったのかしら?」
「…………」
数十秒の間が開いた。
満潮は落とした視線を何度かあげて山城の方をみたが、何か言おうとしても寸前で口ごもってしまう。
言いたいことはあるが、プライドがそれを許していない。
山城には今の満潮が悩んでいるのがわかっていた。だからこそ、返事をせかすような真似はしない。
と、満潮が、ふいに山城の後ろを覗き込んだ。
「…………山城」
「なんですか」
「最上が」
「え? ――――うわッ! 最上!!」
あわてて振り向き、水面下で真っ赤になって目を回している最上を抱き上げる。
「うぅーん……」
山城がその顔をぺちぺちと叩いて目を覚まさせるが、あまり反応がない。
少し強めに何度か叩き、やがて赤ら顔の最上はうっすらと目をあけて二人を見た。
「……寝てたみたい」
たった今沈没しかけた言い訳にしてはありきたりだったが、二人を呆れさせるには十分な内容だった。
「何してるのよ…………」
「いやーちょっと疲れてて。うっかり」
「とっとと上がって寝た方が良いわ。ドックで沈没とか冗談にならないわよ」
「ほんとだねー……ボク、先に上がるよ」
ふらふらしながら去っていった最上の背中を、山城と満潮は顔を見合わせながら見送った。
「途中で倒れたりしないでよ」
「がんばるよ……」
入り口の戸が閉まり、辺りは湯のそそがれる静かな水音だけに包まれる。
空はほとんど藍色で、ほんの少し、西の方にオレンジ色の残滓が見えている。
肌寒さを感じさせる夏の終わりの風が、露天風呂を抜き去った。
しばらくして静寂を破ったのは、満潮の小さな声だった。
「…………あんな格好で海に出たら、風邪を引くわよ」
主語がなかったが、少年に対してのことだとすぐに気が付き、山城は満潮の方を見ながら聞き返す。
「満潮のスカートをはいていたことに怒ったのではなく?」
「違うわよ。パンツをはかないまま、しかもスカートでなんて、風邪を引いてもおかしくないわ。それが心配だからもうするなって言ったつもりだったのよ」
「残念ながら伝わっていないでしょうね。あとでちゃんと言ってあげた方が良いわ」
「…………」
満潮は視線を落としたまま、
「無理よ…………」
蚊の鳴くような小さな声で、ゆっくりと首を横に振る。
その表情には、どうすればいいのかわからないといった困惑の色が見えていた。
それがわかったところで山城にはどうすることもできなかったし、そもそもなぜそれくらいのことが満潮にはできないのか、理解に苦しんだ。
だから、
「そう」
興味を失った。
顔が半分沈むまで湯の中に浸かり込み、濃い藍色の空を仰ぎ見る。
そこは光の弱い星たちが輝いていた。