空模様は灰色。低くうねるような厚い雲が一面の上空に広がっている。
波は不気味なほどに静かである。しかし色はドス黒く、この海域がまともな生態系を維持できていないことを明確にしている。
そんな海の上を、一隻の船を囲むように五人の艦娘が航行していた。
先頭を行く山城が無線機に叫びかける。
「姉様!! 指示をッ!!!」
遥か前方。僅かだが視認できる黒い集団。それがチカチカと瞬いているのを確認した。
満潮の目にはその光が砲撃の発射炎であることが即座に理解できた。全身が強ばる。心拍数が跳ね上がる。
『煙幕展開! 並びに
「「「了解!」」」
無線機からの扶桑の声に、満潮は間髪入れず返事をする。自分を叱咤。気持ちを一気に切り替える。
固まっている場合ではない。
煙幕とジャマーの展開は駆逐艦である満潮、朝雲、山雲の仕事である。後れを取れば、それはすなわち部隊の全滅を意味している。
「ふッ!」
一息に十二㎝連装砲に煙幕弾を装填。ガシャンッ! という威勢のいい音が響く。
三人は同時に、別々の方角に向かってそれを撃ちあげた。
直後に敵の砲弾が降ってくる。
鉄の雨とも形容できる攻撃は、しかしこちらを正確には取らえきれていなかった。
近くに猛烈な勢いで着弾する。
海面を穿ち、巻き上げられた海水を容赦なく頭から浴びてしまう。
だが満潮はそんな事にはつゆほども構わず、立て続けに二発の煙幕弾を撃ちあげた。
弾は上空でパラシュートが開き、全方位に真っ白な煙を降らせている。
瞬く間に辺りが白く染まる。これで敵がこちらを視認することは出来ない。
「もう一つ!」
腰に付けているカンテラのような小さな装置のスイッチを入れる。
フレンダが研究、開発した対電探用ジャマー装置。
海面上の波長をマイクロ波で測定する
こちらの位置座標を隠蔽するだけでなく、誤差を生ませて相手にたたきつけるため、相手はこちらの位置を間違えて認識する。
ただし自分たちも電探が使えないため戦闘で用いるのは諸刃の剣だが、逃げることだけに目標を置くなら、これほど上手い装備はない。
「それに加えてこの距離なら、たぶん大丈夫ね」
そう。目算だがあの距離で駆逐艦や軽巡洋艦の砲は届かない。せいぜい戦艦の電探射撃に脅威を感じるレベルだが、それはジャマーがあればひとまず大丈夫だ。
――――いける。輸送船を捨てなくて済む。
この船を捨てることは、そのまま司令官の顔に泥を塗ることになる。
あの人の立場は理解しているつもりだ。そして私達が任務を失敗したとき、どんな輩がそこにつけ込んでくるかも容易に想像できる。
〝ネルソン司令官は無能。こんな奴に国防は任せられない。〟
絶対そういう事態になる。
扶桑は私達の命を守るために、輸送船を見捨てろと言った。
間違った選択ではない。どうせ
でも。
「たった一度の失敗も、私達は許されないのよ」
だからこの船は守り抜く。必ず本土に運んでみせる。
『第二戦速! 進行方向から九時の方角へ回頭して下さい!』
扶桑から言われるままほぼ直角に、左へ向きを変える。足下の波が大きく跳ねあがり、かなりの速度でもといた場所から遠ざかる。
艦隊の動きに合わせて輸送船も自動で操舵する。原理はよく分からないが、これもフレンダさんの技術が投入されているらしい。
敵からの砲撃は散漫になっていた。遠くで着弾の音が激しく聞こえるが、こちらに飛んでくる弾は僅かである。
ジャマーが良い仕事をしてくれていた。助かる。
深海棲艦からの最初の砲撃からわずか三十秒足らずのことだった。
進行方向の転換。煙幕とジャマーによる一時的な目くらまし。
このままこの海域を抜け出せれば…………。
『被害は!?』
無線機を通しての扶桑の声。
間髪入れず返事を返す。
「無いわ!」
『なし!』
『ありませぇ~ん』
『大丈夫だよ!』
『艤装にかすりました、小破です……不幸だわ……』
山城は相変わらずのようである。
元気づける意味も込めて、満潮は無線機にしゃべりかけた。
「不幸不幸言ってるからバチが当たるのよ。たまには幸せそうな発言の一つもしてみなさいよ!」
『姉様もいないのに幸せなんて訪れません』
「あぁ、そうね」
見たところ輸送船もノーダメージ。今のところは奇跡的に無事である。
だがいつまでもつかは分からない。
煙幕が切れないよう断続的に撃ち続けている。
これのおかげで目視されることはない。
羽虫のような飛行音が聞こえないので、敵の艦載機は飛んでいないのだろう。
あれだけいた敵の集団も、撃ってきているのは戦艦だけ。
それもジャマーのおかげで的外れな位置に着弾してる。
運が良い。ただそれだけだ。
何がどう転ぶかわからない。少しでも運に見放されたら海の藻屑になりそうだ。
…………そう言う意味では、
満潮はそんな事を思いながら、次の煙幕弾を装填した。
――――○――――
執務室。
ネルソン提督の艦隊は左へ回頭、真っ黒な扇形の包囲を離脱しようと試みている。
深海棲艦からの最初の砲撃。
それから三十秒あまりが経過した今、モニターの中では異様な光景が広がっていた。
次々と撃ち続けている深海棲艦の砲弾は、しかしネルソン提督の艦隊とはかなり離れた海面に吸い込まれていく。
煙幕で白く染まった一帯。たぶん深海棲艦側からは何も見えていない。
でもそれだけのせいじゃないだろう。
さっき扶桑さんが言っていたMジャマー。強力な効果を発揮しているのか、面白いように砲弾がバラバラの方向に飛んでいる。
でも。
『いつまでもは続かんぞ、扶桑』
「分かっています。対抗策を考えているところです」
場に少し落ち着きが戻ってきた。
ほんの少し前までは目の前が暗くなるほどの事態だったが、よほど運が良いらしい。誰も沈まず、誰も傷ついていない。
山城さんが少しだけ心配だけど、問題はないようだし。
扶桑さんも平静を取り戻している。
妖精さんがモニターの前でちょこんと体育座りをしたまま、モニターを食い入るように見つめていた。
『――――む』
うなった。僕もモニターを見ると、黒い扇形の包囲は、ゆっくりと崩れ始めていた。
密集していたはずの黒い固まりが、ネルソン提督の艦隊めがけて薄く長く伸びていく。
「動いてるの?」
『戦艦だけをその場に残し、駆逐や軽巡、重巡が接近しようとしているな』
「近づかれるとマズイんじゃ……」
妖精さんは頷いた。
『扶桑。あれを逃げ切るのは無理だ。いっそ潜水艦隊の方へ突っ込んだ方が良いんじゃないのか』
「駆逐艦の娘たちは雷撃を避けられますが、山城や最上は万全とは言えません。彼女たちの危険を顧みないのはダメです」
『だがこのままでは』
「はい、わかっています。あの数に追いつかれれば最後…………誰も生きては帰れません」
扶桑さんの表情は、例えがたいものだった。悔しそうな、悲しそうな――――でも諦めてはいない顔。決して投げ出してなどいなかった。
「扶桑さん。大丈夫です。まだ、まだ何かきっとあります」
無責任なことを言っているのはわかっている。
何かある、なんてそんな根拠の無いものを求めることが的はずれなのは知っている。
僕は戦争なんてわからない。戦い方なんてわからない。
何かの正体を頭で考えて、思いつくはずは無かった。
でも、何か忘れている。
そしてその忘れているものが、忘れている存在が、いま必要な何かの正体なんだ。
そんな気がしてならない。
扶桑さんは大きく息を吸い、一つ頷くと、決意をあらわにした表情で無線機に叫んだ。
「全艦に通達! 敵深海棲艦の艦隊が動き始めました。重巡を含む大型の水雷戦隊です。このままの速力では追いつかれるため、あなた達の最大出力を一時的に出して下さい! 両舷前進一杯ッ!!」
『そんな事をしたら山城が置いてけぼりよ! いいの!?』
満潮さんが即座に反論。しかし扶桑さんは続けた。
「山城の装甲値はあなた達の中で最も高いです。
『…………それ、山城に死ねって言ってるようなもんよ。被害担当艦になれって。わかって言ってるの?』
「百も承知です。私は、山城を信じています」
力強い言葉だった。
扶桑さんは、山城さんが危険な目に遭うのを承知で艦隊の速力を上げようとしている。
駆逐艦と山城さんでは、絶対に山城さんの方が遅いはずだ。これまでの動きでそれはわかる。
全員が山城さんの速力に合わせていた。それを、一時的にとは言え壊す。
最悪、攻撃が山城さんに集中することになる。
扶桑さんの指示に従って、山城さんは輸送船の後ろ、最後尾へと赴いた。
艦隊の移動速度が上昇する。
「山城、出来ますね」
『姉様にそんな言葉を貰ってまで、出来ないなんて言う奴はこの世にいません。いたら私が沈めてやります』
「――――お願いだから、生きて帰って」
『被害担当艦なんて久しぶりの仕事で腕が鳴ります。だいたい駆逐や軽巡の砲でこの私が沈みますか?』
「沈みませんね」
『そのとおりです。魚雷は精密射撃で全弾はじいて見せましょう』
山城さんの言葉に、扶桑さんは口元を抑えていた。目が潤んでいる。
苦渋の決断だろう。艦隊全員の命を守るために、自分の姉妹を危険にさらす。それがどんなにつらいことで、決断にどれ程の勇気が必要か想像するのは難しくない。
輸送船を捨てるという選択肢はなさそうだ。先程の満潮さんの独り言は、扶桑さんを含めて全員に無線で伝わっている。本人は気付いてなさそうだけど、おかげでネルソン提督の立場を守るという、みんなの意志が固まった。
だから山城さんが危険な目に遭う。運が悪ければ取り返しの付かない事態になるかもしれない。
ネルソン提督の立場を守ることに、山城さんの命をかける意味は?
あるだろう。ネルソン提督が海軍から追い出されれば、この艦隊は解散。みんなバラバラになる。
そんなのは嫌だ。
結果的にみんなは、みんなのために戦っている。ネルソン提督のために戦っている。
心が痛くなった。山城さん本人が良くっても、それは山城さんだけが背負っていい危険じゃない。そもそも沈んだら意味がない。
でも、艦隊の全滅を避けるために、解隊されることを避けるために。
山城さんはリスクを負う。扶桑さんの妹は、死ぬかもしれない危険を負う。
なにか、扶桑さんにかける言葉はないだろうか。
どうすることも出来ないなら、せめて僕に出来ることをしたい。
かすれた自分の声を振り絞り、扶桑さんの背中から、僕は口を開いた。
「大丈夫です扶桑さん。山城さんは必ず生きて帰ります」
「…………そうね。そう、よ。みんな、山城も、みんな生きて必ず帰るの。誰も沈ませたりなんか――――」
『そのとおりなのねッ!!!!』
直後、淡い光と共に小さな魔女が現れた。
「わわぁ!?」
『妖精!? お前、どこに行ってたんだ?』
執務机の上には、魔女を彷彿とさせる大きな黒帽子を被った、小さな妖精が立っていた。
『やっと同調できたのね。あんな遠い海域にあわせるのは流石に疲れたのね!』
『あわせる? 何を言っているんだ』
『説明は後! 少年、早くこのぐるぐるを回すのね!!』
言うやいなや黒帽子の妖精さんは、僕の手のひらに何かを出した。
両手で水を掬うようにして、光の固まりが集まっていくそれを受け止める。
輝きが収まったそこに現れたのは、
「…………羅針盤?」
『そんなわけ無いのね。羅針盤は回すものじゃないのね』
だが手のひらに収まっている小さな装置は、誰がどう見ても羅針盤だった。
N、W、S、Eの文字とその間にも細かい方角。中央には赤と黒で塗り分けられた針も付いている。
「これを回すの? どうやって?」
『中央を持ってルーレットみたいにすればいいのね。止めるのはわたしの能力なのね!』
「回すとどうなるの?」
『あの艦隊を正しいルートで導けるのね。詳しいことは後で説明して上げるから、さっさと回さないと彼女たち全滅するのね!!』
「わ、わかった!」
中央の出っ張りを持って、ルーレットのように回す。
カラカラカラカラカラ――――――――。
針ではなく、なぜか文字盤の方がまわっている。
『えいっ!』
ビタッ! と音がしそうな程に、まわっていた文字盤がとまる。針は、北西を指していた。
瞬間、僕はこの方角にあの艦隊を導かなければいけない、という感覚に襲われた。
なんだこれ。わからない。でも心の底から、北西の方角にネルソン提督の艦隊を進めないと、あそこにいる全員が命を落とすような気がしてしまう。
わけがわからないが、指示せずにはいられない。この羅針盤の針が示す方角に導かなければ気が済まない。
扶桑さんから無線機を受け取り、半ば叫ぶ形で早口に伝えた。
「みなさん北西の方角に進んで下さい!! 早く!!」
『え、誰?』
山城さんの声が帰ってきた。でもその質問には答えない。答えている場合ではない。
「いいから早く! 早く北西にッ!」
『わ、わかったわよ。全艦回頭! 北西に進路変更!』
モニターを見る。艦隊がやや右斜めの方角に進路を変えた。その直後だった。
周囲の海が爆発した。
海水が一瞬で白く染まり、何メートルも高く打ち上げられる。
『きゃあぁぁぁ』
『わぁぁぁぁぁ!』
無線機から悲鳴が聞こえる。だが、モニターの中の輸送艦隊は、その海の爆発に全く巻き込まれていなかった。
よく見るとその爆発は、大量の砲弾による海面の隆起であり、滝のように海水が落ちている。
輸送艦隊の進む方角以外が、真っ白な海水で覆われる。
「何が起きたんですか!?」
扶桑さんが僕から無線機を取り即座に反応。
返ってきた答えは、
『敵の一斉射撃です! ジャマーの効果が切れています!!』
山城さんの叫び声が執務室に響く。扶桑さんは続けた。
「そのまま北西の方角に進んで下さい!」
『大丈夫なんですか!?』
「その方角以外に進むと、砲弾の餌食になりますよ!!」
モニターを見ればそれは明らかである。現場の詳しい状況はわからないが、少なくとも、北西の方角に弾は一発も落ちていない。
――――え、一発も?
まるで海面に道が出来たかのように、砲弾と砲弾の間に平和な海路が出来ている。
白く隆起する死の海面と、黒く穏やかな北西の方角。
『もう何となくわかるのね? 少年』
「あの羅針盤の指す方角は、安全なところを示しているんですか…………?」
『そう。まぁ、〝針の指す先が必ずしも安全なわけじゃないけれど、指さないところは間違いなく危険〟って、別の世界の妖精は言ってたのね』
「これが……でも、なんで僕が?」
『この世界の海域の常識を打ち破るには、艦娘すらも知らないような遠い世界から呼ぶ必要があったのね』
「それで僕を召喚したんですか? じゃあ、僕のこの世界での役割って――――」
『そう。艦隊の進路を決めるのが、君のこの世界での存在理由なのね。これを回せる人間をこの世界に出すために、わたしは君を呼んだのね』
そうか。そうなのか。
僕の役割は、これなのか。
危険な海域に入らないよう、指し示してみんなを救える能力なんだ。
『あと、やっぱりこれは羅針盤なのね?』
「え、違うの?」
『羅針盤は回すものじゃないのね。これは少年が回してわたしが止める、いわば占い装置みたいなものなのね』
「でも形がまんま羅針盤だし…………羅針盤でいいんじゃない?」
『君がそう言うなら、じゃあ羅針盤なのね』
羅針盤の妖精は笑顔で頷いた。
その様子を見ていた扶桑さんと単装砲の妖精さんは、
「…………もうちょっと詳しく話を聞かせて下さい」
『わたしにも頼む』
納得できている感じではなかった。
モニターの中の輸送艦隊は、見る間に黒い集団を突き放し、数十秒で戦闘海域から離脱した。
――――○――――
安全圏。
一概にそう呼ぶには少し的外れではあるけれど、モニターの中の光景は、先程のような絶望的なものとはほど遠く、落ち着いて見られる光景だった。
相変わらずの曇天だが、砲弾の雨が降ることはない。先程の大艦隊は跡形もなく消えていた。
しばらく航行していると、深海棲艦を進路上に発見、迎撃に掛かる。
「単縦陣! 同航戦になります、輸送船に弾が当たらないよう早急に決着を付けて下さい!」
『了解!』
扶桑さんの指示に山城さんが答えた。
同時に、深海棲艦に向かって砲火を加える。
敵の数は六。重巡二、軽巡一、駆逐三だと単装砲の妖精さんは言った。
山城さんの主砲が敵の重巡を捕らえる。まずは一隻を動けなくした。
ほぼ同時に輸送艦隊の重巡洋艦娘、最上さんの主砲も敵のもう一隻の重巡を黙らせる。
『満潮、朝雲、雷撃用意! てー!』
山城さんの叫び声に合わせて、よく似た髪型の二人の少女が、リコーダーのような魚雷を射出した。
海面すれすれを這う四本の雷跡は、吸い込まれるように残りの深海棲艦に一本ずつ命中、海の底へと沈める。
大破したまま動かず沈まずである敵の重巡洋艦は、山雲さんという駆逐艦娘の人が主砲でとどめを刺した。
戦闘開始から十秒と経っていない。
「素晴らしい砲雷戦です」
『姉様に褒めて頂けるなんて。まだまだこれからもがんばれます!』
『ふんッ! ………………まぁこんなものね』
満潮さんの言葉に、あまり聞き慣れない声の人がつっかかった。確か朝雲さんと言ったか。
さっき一緒に雷撃した人だ。
『ちょっと満潮、もうちょっと素直に喜べないわけ?』
『なによ。別に褒められるようなことはしてないわ。当たり前の仕事よ』
『まぁそうだけどさ、なんかもうちょっとこう……まあいっか。満潮らしいし』
『ちょっと朝雲それどういう意味よ』
『朝雲姉~ちょっとこっち来てぇ~』
無線機から様々な声が聞こえてくる。わざわざ全艦通信にする意味はあるのだろうか。うん、たぶん無い気がする。
『少年、これが最後の進路変更なのね。回すのね!』
「わかった」
カラカラカラカラ――――ビタッ!
「北東?」
『なのね!』
扶桑さんに羅針盤を見せてから、艦隊に進路の変更を指示、その方角に進んで貰う。
深海棲艦からの包囲から脱出して十五分ほどが経った。
あれからいくつかの敵艦隊と会敵するも、いずれも六隻以下、それ以上の数に出くわすことはなくなった。
戦闘の度に羅針盤を回し進路の変更を入れていく。
進み出した輸送艦隊の、中程にいる満潮さんから無線が入った。
『そこの…………男の子? さっきのはなに?』
「えっと、なんのことですか?」
『包囲から抜け出すときの進路変更の話よ。どうしてあんなピンポイントで安全な方角を示せたの。何をしたのよ』
強い口調で質問される。
知らず怖じ気づいてしまった。怒られているのだろうか。
「いえ、その僕は……うぅ……」
『あぁ、もう。別に怒ってるわけじゃないわよ。ただあの進路変更から妙に敵の手応えが強いから、何をしたのか確認してるだけ』
「手応えですか? いえ、僕はなにもしていませんよ…………?」
『とぼけないで』
「ひっ」
なさけない声が喉から漏れる。この人本当に怒ってないのだろうか。
『もうちょっとやさしく言いなよ、満潮』
最上さんの心配そうな声が聞こえてきた。
『ごめんね。この子ちょっと口調はきついけど、根は良い子だから』
『余計なお世話よ』
最上さんの言うとおりだったとしても、ちょっと満潮さんは怖いかもしれない。
『で? 少年。まだ返事を聞いてないわよ』
「は、はい。でも僕も何が起きてるのか詳しくはわからないんです。ごめんなさい……」
『別に謝らなくても良いわよ』
興味がそれたのか、僕に話しかけることはなくなった。
この人怖いなぁ。鎮守府に帰投したら、なるべく目を合わせないようにしよう。
扶桑さんは海図と進路を照らし合わせ、何度か首を傾げていた。
その様子を見ていた単装砲の妖精さんが海図の側に座って話しかける。
『何か気になるのか?』
「はい。進行方向がいつもとは比べものにならないほど明確なんです。こんなにも航路がハッキリ見えたのは初めてです」
『今までは霧の中を進むような航路だったしな。なにか海域に変化が出ているのか?』
『その通りなのね』
羅針盤の妖精さんがいつの間にか座っていた。海図を挟んで反対側、ちょうど単装砲の妖精さんの向かい側。
「海域に変化ですか?」
扶桑さんが首を傾げながら質問する。
『そうなのね。少年のおかげで、正しいルートを導き出せるようになったのね』
「その言い方だと、正しくないルートもあるように聞こえるのですが…………」
『今まではどっちも存在しなかったのね。ただの〝海域〟としか存在していないのね』
「何が違うんです?」
『少年がこの世界に出て来たことで、わたしも、あとこの羅針盤も、この世界に存在できるようになったのね』
「はい」
『だからなのね。正しいルートが無ければ正しくないルートも存在しない。光がないと影が出来ないのと同じなのね。でも、この羅針盤を回せる存在が出て来たとき、それは正しいルートの存在をつくり出すということなのね』
「では、正しくないルートというのは……」
『それがさっきの大艦隊なのね』
扶桑さんが息を飲んだ。単装砲の妖精さんも驚いている。
『じゃあ、輸送艦隊が進路を変えたら、今すぐにでもあの大艦隊と衝突するのか?』
『そう言うことなのね。正しくないルートを進むことは、つまり生きて帰れないルートを進むことなのね』
「なんてこと…………」
『大丈夫なのね。羅針盤に逆らわなければ、逆に言うと安全で確実な道を取れるのね』
あれ? じゃあさっき満潮さんが言っていたことは、もしかしてこれが原因?
「ねえ羅針盤の妖精さん」
『なに?』
「さっき満潮さんが言ってた〝手応えが大きい〟って、もしかしてルートのことと関係がある?」
『流石にそこまではわからないのね。でももしかすると、敵を確実に叩いてるとか、そういうことはあるかもなのね』
「正しいルートだから?」
『そうなのね。たぶん』
それだけ言うと、羅針盤の妖精さんはあくびをした。
『ふあぁ……あんなに遠いところを測定すると流石に力を使いすぎるのね。もう二度とやりたくないのね』
「あ、僕の中で寝る?」
『そうさせて貰うのね。おやすみなのね』
「おやすみなさい」
羅針盤の妖精さんは淡い光に包まれて消えた。僕の手には、小さな羅針盤が残された。
「遠いところはもう測定できないって言ってたね」
「はい。つまりこれから先、艦隊行動には現場で進路を決定しなければいけません」
『少年が海に出ることになるな』
「うん。…………僕にできるのかな」
『わたしが付いている。大丈夫だ』
単装砲の妖精さんが小さな手で胸を叩いた。
不安はあるけど、僕がいればもう大丈夫なんだ。
僕とこの羅針盤があれば、艦隊があんな目に遭うことも、霧を掴むような謎の航行になることもない。
――――輸送艦隊はもうあと少しで本土に着く。
最後まで気は抜けないけど、ネルソン提督の艦隊は無事に到着できるだろう。
みんなが帰ってきたら、僕も海に出る練習をするんだ。
窓の外は、相変わらず豪雨と暴風が吹き荒れていた。
――――○――――
東京都 日本領海域防衛軍本部 会議室
通称で海軍と呼ばれる、そのトップに立つ人間達がこの会議室に集められていた。
白軍服に白い帽子。帽子は、今は全員が机の上に置いている。
私は失った右腕を隠す意味と、あと単純にカッコイイので黒いマントを羽織っている。新調してから年月が経つので少しほつれ初めてはいるが、この間金糸の刺繍を新しくしたので見栄えはだいぶ良くなっているだろう。
いやぁカッコイイ。これが私の正装だ。デザインしてくれたあの艦娘にはまたいつかお礼がしたいな。
辺りを見回す。
厳つい人間がぞろりと長机を囲むと、どうにも威圧感がある。
私もそのトップの一人で、現にこうして末席に座らされているのだが、これではむさい男連中の中に一輪だけ咲くハブられ花だな。
階級も、私は大佐でここにいるそのほかの人間は全員が少将以上。末席になるのも分かる気はするが。
…………ここにいる誰よりも長生きしているし、戦果も貢献度も頭一つ抜けている。
だが、この扱いには高度な政治的理由が絡むらしいから、納得するしかないだろう。
まぁいい。そんな事よりとっとと会議を終えて、東京ばな奈をお土産に買って帰るんだ。あと鉄砲飴も補充しとこう。
「みんな集まったか」
見ればわかるだろう、と思ったが口には出さない。
二人ほど出席していない。全員に声をかけたのなら、何らかの理由で来られなかった二人だろう。
私ですら呼ばれたのだからハブられているとは考えがたい。
上座に座るのは現海軍大将、総司令官である人間だ。名前は忘れた。
「今日集まってもらったのは他でもない。深海棲艦の急速な戦力拡大についてだ」
出たよ。
対して観測もしていないのに〝勢力が伸びている(気がする)から大艦隊を編成して反抗戦を開始する〟とか言い出すんだろう?
どうせ攻めても意味がない。しかも攻めるのは結局私だ。
話を聞く価値もないが、東京ばな奈のためだと思えばガマンできる。
そんな事を考えていると、大将の、シワの深い顔が悔しそうに歪んでいた。
「単刀直入に言おう。硫黄島が陥落した。今から三時間前の事だ」
は?
「さらに状況は深刻を極める。日本海方面の舞鶴鎮守府が現在攻撃を受けている。全力で防衛線を張っているとのことだが、持って一週間が限度だそうだ」
…………。
なんだと。
日本海方面が攻撃を受けている? 冗談じゃないぞ。
それはすなわち、北方からの食料輸入に頼っている日本からすれば補給路が断たれたことになる。
ほんの数本しかパイプラインがないのに、大部分が機能しなくなるぞ。
当然、備蓄資材が尽きれば国民は飢え死にである。
いやそれ以前にマズイのは硫黄島だ。あそこが陥落したということは――――。
「バカな! 東京が空襲されるではありませんか!!」
やや若い、恐らく四十代前半の男が私の心を代弁してくれた。
そうだ。それはマズイ。硫黄島が陥落したならば、つまり爆撃機がポンポン東京の空までやってくる。
そして私の鎮守府も、その東京と硫黄島から三角関係にある位置づけだ。その気になれば我が鎮守府も空爆される恐れがある。
なんだこの状況。東京ばな奈なんて買ってる場合ではないぞ。
大将が苦い顔で口を開く。
「硫黄島の陥落が確認できたのが一時間前。確認を取ると同時に、君たちを招集した」
「だからヘリで呼んだんですね?」
「そうだネルソン君。……でよかったか」
「さんでも提督でも君でも構いません。で、どうするおつもりで」
「早急に硫黄島を奪還する。あそこから爆撃機を出してはならん」
そうなると一番近いのは私の鎮守府ということになる。だが今の私に動かせる艦隊はいない。いるのは扶桑と、ここに引き連れた時雨だけだ。
たった二隻で奪還するのはさすがの私も不可能である。
「私の鎮守府からは戦力が出せません」
「知っておる。輸送任務中じゃな」
「はい」
「関東方面から何とかして戦力を集める。一週間以内に奪還した後、舞鶴の防衛戦を援助、時期を見て日本海の深海棲艦を掃討する。輸送路を確保するのじゃ」
「総司令官」
「なんじゃ」
先程の四十代ほどの男が手を挙げた。
「本当に硫黄島は陥落したのでしょうか」
「貴様何を言っておる」
「いえ、これは敵の偽装作戦かもしれません」
こいつ何を言っているんだ。
「関東方面の戦力を硫黄島奪還のために用意させ、その間に舞鶴を落とす作戦かもしれません。戦力の拡散が目当てと私は見ます」
なるほどアホか。
せいぜい、舞鶴の方が自分の鎮守府から近いため、自分の所だけ早めに支援艦隊を送って戦果を独り占めしようなどと考えているのだろう。
硫黄島に送る戦力はない。自分だけは舞鶴に集中して送りたい、と。
クズめ。キツイお灸を据えてやる。
「お言葉ですが中将、どのようにして硫黄島の陥落を深海棲艦が偽装するのでしょうか」
「やりようはいくらでもある」
「そうですか。では総司令官、彼の鎮守府に硫黄島偵察の全権を委譲することを具申します。彼自身に〝偽装作戦である〟事を証明して貰いましょう」
「な!?」
ガタッ! と音を立てて男は立ち上がった。
「当然の事かと。敵の偽装作戦である可能性は捨てきれません。であるならば、〝やりよう〟とやらを思いついている者が、敵の欺きであることを前提に偵察をするべきです。いかがでしょう?」
男は目を見開いて驚きを隠そうともせず、続いて悔しそうに顔を歪めて静かに座った。
目先の戦果に目が眩んだからそうなるのだよ若造。覚えとけ。
というか国防の危機に自分の戦果を気にしている時点でもうダメだろこいつ。
「ふむ、ネルソン君の意見、確かに正当と考える。土佐中将、貴様に硫黄島偵察の任を与える」
「了解……しました……」
良いじゃないか若造。偵察も立派な仕事だよ。
「さて、状況の把握と今後の指針はこれでよいかな」
全員が頷く。さっきの男はうなだれている。
方針は決まったが状況はかなり厳しい。一週間以内に一つの島を奪還する。
この世界に来て六十年が経つがこんな事は一度もなかった。
最終防衛線を軽々と越えての急な占領。しかもものの数時間でやられている。
硫黄島にも守備隊がいたことから考えるに、これまでの深海棲艦からは先ずあり得ない動向だ。
加えて、比較的穏やかだった日本海方面の深海棲艦。この勢力が急激に成長、侵攻してきた点も引っかかる。
何かが変わった。それは間違いない。
海域か、敵か、それとも両方か。
変わったのならば良い機会だ。これを機に何か、何か変化があればそれでいい。
願わくば海域の開放に繋がる、そんな変化があればいいな。
いずれにしても時間はない。
海軍のトップは能無しが多いが、全員が全員使えないわけではない。
総司令官も少しはやれる。関東方面の戦力招集は彼に任せて問題ない。
そして集めた戦力は誰が使うか。
「硫黄島奪還の指揮官を決めたい」
場が静まる。静寂の後、総司令官は私を見た。
「――――ネルソン君」
「わかりました。最善を尽くします」
マントの内ポケットから鉄砲飴の袋を取り出し、一つ摘んで口の中へ放りこむ。
戦争だ。本気を出す。
口の中の甘い幸福感にやる気がにじみ出てきた時だった。
会議室の扉が乱暴に開かれた。開いた主は、私のよく知る艦娘だった。
時雨は額に玉のような汗を浮かべてその場で叫んだ。
「空襲だよ!! 百機近い爆撃機がこっちに向かってるッ!!!」