「長くなったが、こんな感じだ」
食堂に四人の人間が座っている。
一人は俺。その隣には時雨お姉さん。向かい側に扶桑さんと、ネルソン提督が。
ネルソン提督は一息つくと、すっかり冷めた紅茶を煽った。俺もビスケットを一つつまむ。
ネルソン提督の、この世界に来てからの三十年間。それを二時間かけて話して貰った。
時計は午後の十時を指している。まだ風呂にも入ってないが、左足の傷に障るので入るわけにはいかないだろう。
今日もタオルで拭くだけかな。
だが、まだ話したいことがたくさんある。このままお開きにするのは望ましくない。
「ネルソン提督」
「なんだい、少年」
「どうして軍を去ったのに、ネルソン提督はここにいるんですか?」
聞きたいことの確信はコレではなかったが、とりあえず聞きたかったので聞いてみる。
ネルソン提督は困ったように微笑んで、こちらを見ながら答えてくれた。
「一般人としての生活は、大体十年とちょっとだったと思う。軍が最終防衛線すらも守れない状況になってしまってね」
「つまり、呼ばれたって事ですか?」
「そうだ。苦渋の決断だったらしいぞ。私が戻ることに苦々しい顔をする者が大半だった」
プライドとか、権威とか、そんな感じの問題だろうか。よくわからないが。
「戻った私は参謀としてではなく、提督として各地の鎮守府を転々とした」
「あ、じゃあ提督と会ったのはその時なんだ」
時雨お姉さんが何かに納得した顔で呟いた。
そうか。じゃあ時雨お姉さんとネルソン提督は、もう十年近くは確実に一緒にいるということか。
その間この話を一度もしなかったのは、何か理由があるのだろうか。別段気にすることでもないか。
いろいろと思うところはある。でも謎がだいぶ解けてきた。
〝航路の歪み〟については、少なくともだいぶ納得がいった。
ネルソン提督が長年思い悩んで、そしてたぶん今も悩み続けている問題なんだ。
一応聞いてみる。
「その、海域の謎については何かわかりましたか?」
「フレンダと研究を続けるうちに、一つだけわかったことがある」
ネルソン提督はビスケットをかじって、飲み込んでから口を開いた。
「深海棲艦側が何かしているわけではなく、あくまで人間側の航路に異常があると判断した」
「えぇ……どういう意味ですか?」
「攻めているのは人間側だ。深海棲艦はあくまで〝攻撃に対する防衛〟をしているに過ぎない」
「でも人間側の防衛線まで突破されたから、ネルソン提督が呼ばれたんですよね」
「その防衛線まで押し返すのには何ら問題がないのだよ」
あぁ、なるほどわかってきたぞ。
深海棲艦が支配する海域を攻め込んだときだけ、その謎の現象、〝攻めているのに戻ってるループ〟が起きるのか。
ゆえに深海棲艦が何かしているわけではなく、勝手に人間側が空回りしていると。
深海棲艦側の意見と考え、視点があるからこそ気がついたことなのか。いや、違うな。たぶん俺にわかりやすくするためにかなりざっくりとした説明なんだろう。
でもまぁ、詳しく話されても理解出来ないだろうから、とりあえずは考えないようにしとこうか。
これは俺の問題じゃなくて、ネルソン提督の問題だしな。俺が気にしてもしかたがない。
それよりも俺自身のことについて聞かなきゃいけない。
俺の正体は何なのか。何のためにここにいるのか。
どうして記憶の一部が消えているのか。
「それで、ネルソン提督。俺は一体なんなんですか……?」
「白い世界で、話を聞いたりはしていないのか」
「ないです。覚えてないだけかもしれませんが」
「自分が死ぬ直前の記憶は、どうだ」
「死んだ……んですかね? 全く思い出せないんです」
ネルソン提督は机にひじをつき、視線を机に落とした。何かを考えている。
何を考えているんだろうと思っていると、向かい側に座る扶桑さんが穏やかな声で言ってきた。
「先程の提督の話からすると、あなたにも妖精がいると思うんです」
「俺に、ですか」
「はい。始めて見たとき、艦娘と同じ存在だと思ってしまいましたから」
あ…………。
そうか。それで時雨お姉さんが〝面白いものを見せて貰った〟って、あの時言っていたのだろうか。
艦娘は女の子しかいない。女の子しかなれない。これはネルソン提督のノートに書いてあった。
でも俺の体は紛れもなく男の子で、しかし艦娘の視点では俺は艦娘と同じ存在に見える。
さぞかし珍しかっただろうな。
体は男の子で、でも艦娘に見える。俺の体は時雨お姉さんに、隅々まで観察されたというわけ。
何だろうちょっと恥ずかしい。
悶々としているとネルソン提督が顔を上げた。
「少年、聞いて欲しい」
「はい」
「多分君は死んでいる。私の目から見ても、そして今女神と話をした結果も、君は私とほとんど同じ存在だ」
黙っていたのはその、頭の中の〝女神〟と話をしていたのか。
ここに来る前の世界だったら精神科医を薦めていたところだったが、さっきの話を聞いた後にそんな事は微塵も思わない。
「でも、俺には頭の中で相談に乗ってくれる人はいませんよ」
「そこなんだ。私も女神もそこが一番わからない。なぜ何の説明もないのか、目的を伝えないのか。女神が珍しく憤慨している」
おぉ女神さんはご立腹なのか。
同じ妖精として、異世界から人間を召喚したんだから、ちゃんと説明とお願いをするべきだ、と。
っていうか、その妖精って存在は一体何なんだろうか。少なくともここに来てから一度も見ていない。
まだ日がたっていないからかな、でも俺にも妖精は見られるのだろうか。
聞いてみるか。
「時雨お姉さん、俺にも妖精は見えますかね」
「たぶん見えると思うよ。ボクも君を見たときから、なんだかネルソン提督と似ているなって思ったんだ」
だとしたら見られるはず、と言って、時雨お姉さんは立ち上がった。
「ちょっと待ってね、連れてくる」
そう言うと足早に去っていった。
時雨お姉さんを見送ると、ネルソン提督が口を開いた。
「少年の頭に妖精がいる事は間違いない。限りなく私と同じ存在であることも間違いない。でも記憶が一部無くなっているのは、私の予想でしかないんだが聞いてくれるか」
「もちろんです。教えて下さい」
「私の生い立ちでも話したとおり、私は数日間、岩の上で遭難していた。その間女神から話があったわけじゃない」
「はい」
「で、だ。今の君の状況がもし私の時と同じなら、たぶん今後何かしら連絡が取れると思う。私のようにな」
それはつまり、俺がまだ白い世界に行っていないから妖精と話が出来ていない、と言うことか。
「でも、それって記憶がないのとどう関係があるんですか?」
「女神が言っているんだが、もしかするとその妖精の存在が君の存在と何かしら問題を起こしているのかもしれない、と」
いや、どういう意味なんだ。存在が問題?
ネルソン提督が続ける。
「自分で言うのも何だがな、私は生前、それなりの人間だったと思う。教科書に載せられたのには驚いたが、結果的に私の存在は大きなものであったらしい」
「そうですね。歴史上の人物ですし」
「で、そんな私は女神に選ばれ、この世界の戦争を終わらせようと動いている」
「はい」
「世界の情勢を変えるかもしれない人間、もとい存在なのだ。人間の可能性を不平等だと言っているわけではないが、そこいらの一般市民に出来る大業ではないと思う」
「俺は……あぁ、そうか。確かに前の世界では、ただの一般人でした」
「どういった経緯で君が選ばれたのかはわからないが、この世界で背負った使命と、生前の君の存在価値が釣り合わなかったとき、もしかすると何か弊害が出るのかもしれない。あくまで予想だが」
つまり俺は、間違った選定をされてこの世界に来たあげく、背負った使命とやらに釣り合わないから弊害が出ていると…………?
何かが、胸の奥をチクリと刺した。
「ただいま。ほら、妖精だよ」
唐突に時雨お姉さんが帰ってきた。
俺はそちらの方を見ると、
「わぁ……」
思わず感嘆した。
先程のなにか得体の知れない感覚は胸の奥に残っていたが、今はそれを奥に押し込む。
時雨お姉さんは妖精を手のひらにのせたまま、隣のイスに腰を下ろした。
机の上をトコトコと小さな妖精が歩いている。
俺の前で止まり、一度驚愕の表情を浮かべ、すぐに元の顔に戻って一つ礼をした。
何だったんだ今の。まぁいいか。
手のひらサイズ。人形のような顔立ちと、後ろで茶髪を一つくくりにした小さな生き物。
「十二㎝単装砲の妖精だよ。見える?」
「見えます。……可愛いですね」
「可愛いだなんて、照れますよ」
しゃべった。妖精が。
少し驚いたが、そう言えばネルソン提督の女神も喋るのか。同じ妖精なら当たり前だろう。
「それにしてもあなた、おかしなひとですね。変人です」
妖精が首を傾げながら真顔で言った。…………え?
「俺、そんなにおかしいですか」
「もうとても。変態です。変態さんです」
「こ、こら」
時雨お姉さんが妖精の頭をちょっとつついた。
まてまて、出会ってそうそう変人だの変態だの、大変失礼な妖精だな。
そんな事を言われる覚えはない。なんなんだこいつは。
「俺のどこが変なんですか」
「存在がもう卑猥です。この世の者ではありません。死ね」
何かが俺の中で崩れ落ちた。怒りの感情ではなく、なぜか涙が出て来てしまった。
は、え……涙?
なんで俺泣いてるんだろう。図星だから? 全裸で芋虫になってたから?
でもあれはなりたくてなったわけじゃない。断固として。
って言うかこいつに見られたわけじゃないだろう。
「こら、何でそんな事言うのかな」
怒った時雨お姉さんが立ち上がり、妖精の首根っこを捕まえた。
俺は原因不明の悲哀に襲われ、涙で視界が歪んでしまう。
おかしい。何でこんなに悲しいんだ。何がこんなに悲しいんだ。
歪んだ世界で、扶桑さんも慌てたように立ち上がり、
「大丈夫ですか!? ど、どうしたんでしょうか…………」
オロオロしつつ、俺の背中をなでてくれた。
その慌て方から、自分の事ながら、何か異常なことが起きているような気がした。
しかしネルソン提督だけは何もせず、ただ、陽気の消えた左目で俺の様子をじっと見ている。
左手で頬杖をついて、何かを見定めるように、じっと。
「ッ……エグッ……ヒック……」
止め方がわからない。
涙があふれる。
なぜこんなに悲しいのかもわからない。
妖精に言われた言葉に傷ついたのか。
ちがう。絶対違う。なんかそんな感じじゃない。
心の奥が揺れていく。
わけがわからず、ただ、悲しいという気持ちだけが頭の中を支配する。
目の前が暗くなっていった。視界がだんだん狭くなる。
この感覚、あれだ、意識が無くなる寸前だ。
酷い嗚咽と理解出来ない心の動き。
ほとんど暗転した視界の端で、暴言を吐いた妖精の口が、動いているのが何となくわかった。
『だいじょうぶ』
彼女は確かにそう言った。
直後、俺の意識が消え去った。
――――――――○――――――――
「え…………」
そこは真っ白だった。
右も左も上も下も、ただただ純白の白い世界。
自分の姿に視線を落とす。
そこにはあの、幼体があった。数日たっただけなのに、なぜか慣れ親しんでしまってる幼い肢体。
ただ違ったのは、さっきまで着ていた時雨お姉さんの赤いジャージではなく、これはなぜか懐かしく感じる、学生服だった。
詰め襟の、黒色の、学生服。胸には見慣れた校章が。
まちがえようもない。俺の通っていた中学校の制服だ。
袖と裾が長すぎるせいで、時雨お姉さんのジャージ以上に余った部分が垂れてしまう。
でもそんな事はどうでも良い。
ここって、この場所って、たぶん――――。
『ごめん、驚かせたね』
後ろから声がした。日本語じゃない。でも、何を言っているのか自然と内容が理解出来る。
振り向くと、そこには妖精がいた。先程俺を罵倒した、茶髪の、ポニーテールの妖精だ。
あれ? 頭の中に直接話しかけるんじゃなかったっけ……?
『君の心を無理矢理開いて、この場所に呼び出したんだ』
妖精は申し訳なさそうにそう言った。
『さっき言った言葉は全部嘘だよ。ここに呼ぶためにメチャクチャなことを言っただけだ。その……でもちょっとやり過ぎた。ごめんね』
「あ、いえ、別に」
首を振って、傷ついているわけではないと伝える。確かに訳のわからない事が起こったが、あれはここに呼ぶために必要なことだったという。
謝ってくれたし、申し訳なさそうにしているし、それを責める理由なんて俺には無い。
「君が俺の妖精……?」
『違うよ』
首を横に振っている。
「え、じゃあ何で、俺はここに」
『かなり大変な事になってたから』
妖精はトコトコと俺の足下まで来る。ちょこんと座って、俺にも座るように促した。
それに従って俺も座る。
「大変な事って……なにが」
『本来ね、ここは人間が来る所じゃないの。妖精だけが自由に入れる、うーん……仕事部屋、かな』
「仕事部屋?」
『ちょうどいい言葉が見つからないから、そう言わせて貰うけどね。まぁそんなかんじの所なんだ』
そうなのか。
「で、その仕事部屋に、なんで君が俺を呼んだの?」
『うん、まず、その前にわたしの質問に答えて欲しい』
「あ、はい」
何を聞かれるんだろうか。
『ここに来たことは?』
「無いです」
『前の世界の記憶は?』
「あるところと、無いところがあります」
『頭の中に声は聞こえる?』
「君の声のこと……」
『じゃなくて、わたし以外の妖精の声』
「ぜんぜん聞こえないよ」
『わかった。こりゃまずい』
え、そんな、不安になるようなこと言わないでよ……。
『わたしは今、君の頭の中にいる妖精がつくり出すこの空間に、オジャマしている形になる』
「う、うん」
『でも本来それをするなら、この部屋の持ち主、つまり君の頭の中の妖精の声が聞こえるはずなんだ。君にも、わたしにも』
「でも何も聞こえないよ?」
『わたしの所には、かすかに聞こえる。〝助けて〟って聞こえるんだ』
そんな。じゃあ、何かよくわからないけど、俺の頭の中の妖精は今危険な状態なのか?
『なんで助けを呼んでるのかまではわからないけれど、こんな事態になってる原因は一つしか考えられない』
「わかるの? 何でわかるの?」
『わたしも妖精だからだよ。やろうと思えば、別の世界から人間をこの世界に呼ぶことが出来るから』
「君や女神だけじゃなくて、妖精なら誰でも呼べるってこと?」
『そう。でも妖精が呼べる人物には個人差がある。その人物の生きていた世界で、その人物が、その世界にとってどれくらい重要かで難易度が変わってくる。妖精の力が強ければ強いほど強力な存在の人物が呼び出せる』
「じゃあ歴史上の人物が呼び出せた女神って……」
『あぁ、彼女はバケモンだ。トップクラスとかそんな領域を遙かに超えてる。そして君の存在も桁違いに負荷が掛かる』
「俺は、でも、ただの中学生だったはず……だよ」
『それでも君は〝艦娘〟の存在を知らなかったんでしょ? 時雨から聞いたよ』
そんなことを時雨お姉さんに話した覚えは……あ、いや言った気がする。うん。
「そうだけど、それがどうしたの?」
『君の頭の中の妖精は、艦娘を知らない遠い世界の住人から誰かを召喚したかったんだ。でもたぶん、そのための力がその妖精には足りなかった』
「…………」
『結果的に中途半端な召喚になって、君の記憶は一部消え、君の頭の妖精は今にも存在が消えかかっている』
「そんな、それじゃもしその妖精が消えたら……」
『間違いなく君は死ぬ。この世界で君の存在が認められているのは、君が何かしらの使命を課されていることと、その妖精が頭の中にいるからなんだ』
「何とか出来ないの!?」
そんな危ない状況になってるのに、のんきにハンバーグを食べていたのか。
いや、まて。
もしかしてその、俺の頭の中の妖精はずっと異常を知らせてくれてた……?
記憶がないことに謎の不安があったのも。取り乱しかけたのも。
いや、それよりもっと前、あの浜辺に降り立った時の、前の世界じゃ考えられないような危険に敏感な警鐘も……。
『助ける方法が無い訳じゃない』
「…………何でもする。お願いだから教えて」
自分の死が怖いのもある。死にたくないから助かりたい。それもある。
でもこの目の前の妖精は言った。〝何か使命を課されている〟と。
そして今、俺にその使命をお願いしようとしていた妖精が、死んでしまうような危ない状況に陥っている。
危険な目に遭ってまで俺を呼びたかった理由。命を賭けてまで呼ばなければならなかった理由。それがあるはずなら、俺はそれを聞かなきゃいけない。
『どんな方法でもかい?』
「何でもする。助けたい。助けなきゃいけない」
『どうしてそこまでするんだい。君には、言ってしまえば関係のない世界の話だ』
そうかもしれない。確かにそうだ。
でもネルソン提督の話を聞いて、何となくだが俺には帰るところがない気がした。
元の世界で死んだからこの世界にやってきた。
今俺の頭の中で死にかけている妖精が、たまたま俺の命をこの世界に呼んだ。
そんな気がする。記憶が戻れば、それもわかる。
戻すためには、その妖精を助けなければ。
それに、
「俺がやらないといけないことなんでしょう? たぶん、俺にしかできないことなんでしょう?」
『わからないよ。それを知ってるのは君の妖精だけだ』
「じゃあ助ける。助けないとダメだ。それに俺も死ぬんだから助けないと」
妖精は黙った。静かな瞳をこちらに投げてくる。
俺を見定めている視線だった。俺の、覚悟を見ている目。
やるしかないのだから覚悟もなにもあったものか。
助けなければ俺も死ぬ。さっきからそう言っている。
『ふふふ…………そうだね。そのとおりだよ』
妖精は頷くと、笑顔で言った。
『助ける方法はただ一つ。わたしも君の頭に入る。君の妖精と力を合わせて、君一人を召喚しきる』
『――――わたしが入ると言うことは、君も艦娘になると言うことだ』