なお時雨お姉さんはまだ出ない模様。
「い……ッ……」
目の奥を強烈な光が差す。
うっすらと開けたまぶたの隙間から、さらに光が入り込む。
徐々に慣れてくると、自分が野外で仰向けに寝ていることが分かった。
ゆっくりと体を起こす。
「……どこだ、ここ」
がらがらの喉からひび割れた自分の声がした。
辺りを見回す。
目の前に飛び込んできた光景は、一方が真っ青で透き通った海。
反対側がうっそうとしたジャングル。
そして自分の尻の下には、何とも寝心地のいい砂浜が。
視線を自分の体に落とす。
「……」
服を着ていない。素っ裸だ。靴も下着もシャツもズボンもない。一糸まとわぬ姿であった。
そして。
…………縮んでいた。全体的に、縮んでいた。手も、足も、胴体も。
なにもかもが小さい。
俺は今年から高校生になるはずだ。
だが今目の前にしている体は、確かに自分の意志で動かせるものの、明らかに十五年間共にしてきた体ではない。
遙か遠い昔に、公園と林をかけずり回った、あの頃の体躯にそっくりである。言うならば、小学校低学年のそれだった。
「どういうことだ」
意図せず声が漏れる。枯れているが、まるで女の子のように高かった。
でも俺は男だ。
この体がいかに縮んでいても、ついてるモノはついている。
性別まで変わっている訳ではなく、単に声変わりを迎えていないだけだろう。
訳が分からない。
こんな所に出向いた覚えはないし、こんな体になった経緯も覚えていない。
しかしこうして自分の意志で動かせる体があり、こうして周りの景色は変わらずそこにあるのだから、これは夢ではないと予想。
試しに古典的な方法で確認する。
「…………いひゃい」
ひょっとして、と思う。
頭の中にある言葉が思い浮かんだ。転生だ。
いや、もしかすると転移だとか召喚だとかかもしれないが、何にせよ自分の身に到底理解しがたい事態が起こっているのだと認識する。
こういう時こそパニックになってはいけない。
今自分に出来ることをしなければいけないはずだ。
自然と頭の中にそんな考えが浮き出てくる。
とりあえず辺りの状況確認。それと水の確保だな。
○
浜辺沿いに歩いていると、いくつか森の中に入れる通路があった。
獣道だ。
しかしとりあえずは浜辺を歩く。
予想するにここは島である。
島であれば、いずれ自分が目覚めたあそこへぐるりと回って帰ってくるはずだ。
島の全容を確かめてから奥へ入ってもいいだろう。
道すがらに民家とかあるかもしれない。そうなればラッキーだ。
と、考えていたのだが。
もう何時間も歩いている。
足取りが重い。
部活には入っていたし、体力づくりもしていたので、受験シーズンの落ち込みがあったとしてもここまで酷くはないだろうに。
「はー…………はー……」
息が荒くなる。素っ裸で炎天下の中を歩き回っているのだから無理もない気がするが、こんなにもすぐにバテることはないだろう。
そう思いながら額の汗を拭ったとき、自分の細い腕が視界に入った。
忘れていた。
今の自分の体は幼い。
小学校低学年の子供に、裸で何時間も炎天下の中を歩かせたらどうなるか。
他人事のように考える自分がいたが、その予想はそのまま体に返ってくる。
目の前がかすみ始めた。まずい。
俺はすぐに浜辺から外れ、森と浜辺の境目、ちょうど良い日陰の所へと潜り込んだ。
急速に喉の渇きを意識する。そういえば何も飲んでいない。
水の確保が最優先だった。
まず森の中を探すべきだった。
己のいきなりの失策に頭を抱えたが、ではこれからどうすればいいのかと悩む。
この体、もうあと数十分も動いたらそれこそ命が危ない。
この日陰でいくら休憩を取っても根本的に脱水症状からは逃れられない。
どうする。
どうすればいい。
考えるために動かす頭は、しかし危機感だけを警鐘して、あろうことか睡魔を呼び寄せてきた。
徐々にまぶたが重くなる。
雪の中ではないのだから寝たって死にはしないさ、と確証のない言い訳を心の中で呟き、俺の意識は疲労を感じる幼体と共に地面へと吸い込まれていった。
○
目が覚めると波の音が近かった。
辺りは薄暗く、体がひんやりとしていた。ゆっくりと起きて周りを見る。
海の向こうがほんの少し明るくなっていた。
自分が気を失う前に感じていた暑さは無くなって、やや肌寒い空気が辺りに立ちこめている。
そして、
「……この露、飲んでも大丈夫だろうか」
近くの葉っぱに水滴が付いていた。
体は依然として水分をほしがっている。しかしこの幼い体が、まともに浄化していない水を飲んでも大丈夫だろうか。
いや、少しくらいいいだろう。
俺は葉っぱに口を付ける。
水滴の一粒一粒を大切に舐めた。
のどが潤ったなどと言うことは全くないが、それでも、気分的にはいくらか楽になった気がする。
立ち上がる。あたまがふらふらする。
マズイ状況から脱してはいない。
眠ったことで一時的に体力が回復しているだけ。
倒れてしまう前に湖でもため池でもいいから見つけなければならない。
じゃあ、これからすることは決まっている。
獣道を見つけてそこから森に入り、運が良ければ水にありつける。悪かったときのことは考えない。
「はぁ……はぁ……」
重い体を引きずってその場から移動し始める。
どこか入れる獣道を探して。
○
しばらく歩くと見つかった。
それも、今までのような細いものではなく、なにか大きなものが出入りしている広い獣道だった。
しかしここで再び頭を何かがよぎる。
…………獣道は、何かが通るから獣道なんだ。
それも頻繁に、これくらいの道幅を必要とする大きな何かが。
つくづくこの体は危険なことに対しての警鐘が鋭い。
どういう訳か分からないが、前の俺なら考えも付かないような警告を自分に出してくる。
命の危険と隣り合わせだからだろうか。なんにせよ、無視していいことではない。
この道幅を必要とするような獣というと、イノシシとか熊の類だろう。
だがよくよく考えると、森と言うよりはジャングルが広がる環境である。
はたして、おおよそ南の島と言うのがふさわしい場所にイノシシや熊は出るだろうか……?
「……わからない」
考えても仕方がないがたぶん出ない気がする。
というか出たらそのとき。どのみちこのままでは脱水症状で命を落とす。
僅かでも希望に賭けて歩いた方が得策だろうと結論付けた。
海の方に見えていた僅かな光が、ほんの少し大きくなっていた。
つまりあの太陽はこれから昇っていき、残り少ない俺の体力をがんがん削っていくというわけだ。
ちくしょう。
歩き出す。そういえば、この獣道からは砂浜が途切れている。
地面が踏み固められた土なのだが、裸足の足で万が一にでも木の枝なんかを踏んでしまうと怪我をするだろう。
気を付けなければ。
○
いくら意識をしていても、いくら注意をしていても、人間は間違いや事故を起こしてしまう。
それが命に関わることになるのは人生の中でも希だが、俺のこの事故とも不注意とも言える状況はたぶん命に関わると思う。
踏んでしまった。とても鋭い木の枝を。ざっくりと。
脱水症状がわりとヤバイ域に達しているせいか、目の前がふらふらしていた。
獣道に入ってそんなに時間は経っていない。
ゆえに水は見つけられず、こうしてかなり深くまで木の枝を足に突き刺すハメになった。
とても痛い。
痛さで意識が覚醒されるが、同時に遠くもなっていく。
意識が消えかかると、再び痛みで覚醒する。その繰り返しだ。
獣道のど真ん中で座り込み、足の状態を見る。
左足だ。足の裏からかなりの血が流れている。
枝は刺さったままで、幸い貫通はしていない。
保健の授業で習ったことを思い出す。
釘や枝が刺さったときは、すぐに消毒をしないと破傷風になる。
それと、刺し傷は深いとき、あえてすぐには抜かない方がいい。
刺さったものが破れた血管を止めてくれているから、もし抜いたら大量に出血することもあるからだ、と。
今俺に出来ることは、この刺さった枝を見つめて痛みに耐えることだ。
消毒はおろか移動も出来ない。
完全に、完膚無きまでに、詰んでいた。
このままでは間違いなく体力が切れる。
いや、その前に、ここはジャングルのど真ん中だ。
どうして気付かなかったのか。
イノシシや熊でなくとも、恐ろしい動物はわさわさいるだろう。
人食い蛇とかいるんだろうか。死んだふりしたら大丈夫かな。
よけいなことが頭をとめどなく過ぎる。
考えても考えても、自分が命を落とすシチュエーションしか思い浮かばない。
だんだんと、足の痛みがうすれてきた。
気がつくと、あおむけにころがっていた。
足がしびれる。
いたくない。
こわい。
からだが、いうことを、きかない。
こわい。
おきられない、しゃべれない、おきれない。
やだ、いやだ、こわい。
しにたくない。しにたくない。
そらが、みえた、あおい、そらが、なみだで、ゆがんだ。
誰かが大きな声で叫んでいたのを、くぐもった世界の中で聞き、俺は意識を手放した。