口調とかに手こずって泣いてた。
昨日に間に合わなかったのに泣いた。
※
作品中に登場する艦隊は、ゲーム中で実際に編成し運用している子達のものです。
快晴の空。
さんさんと輝く太陽の光が
周囲に人工物の無い広々としたその上を、四つの小さな影が
縦一列、等間隔に並んだ少女達の足下から、絶えず
水上に立つ存在とは二つに一つ。艦娘だ。
先頭は
薄紫の長髪はサイドテールに纏められていて、黒いリボンがぐるぐると交差し、毛先まで巻き付く
緑色の襟と袖を持つ制服姿が奥ゆかしい、十代前半に見える少女だ。
二番目は
透き通るようでいて深い青の長い髪は、足にまで届きそうな毛先へ続くにつれて色が薄くなっている。前を行く由良と同じように、まっすぐ前だけを見ている。
黒襟と胸元に垂れるリボンと、二の腕半ばから指の先までを覆う黒手袋が白い制服に映える、十代初めに見える少女だ。
三番目は深雪。吹雪型駆逐艦の4番艦。
黒髪のショートボブに、スタンダードな白いセーラー服と、白と黒のコントラストが眩い。
きょろきょろと左右に顔を向ける姿は、周囲を警戒しているというよりは暇を潰す何かを探しているようで、それだけで彼女の性格が見えてくる。時折何かに耳を傾けては、うむ、と呟いている、これも十代初めに見える少女だ。
最後尾が朝潮。朝潮型駆逐艦の1番艦。
艶やかな黒髪はストレートに長く伸び、さらりと流れて
きりりと上がった眉と折れない意思の灯った瞳は、今は、忙しなく落ち着きのない深雪の背中に突き刺さっている。前を行く二人と同じ年頃に見える少女だ。
ざあっと風が吹く。夏の暑さと水上の涼しさを同時に運ぶ悪戯な風が波を起こし、少女達がぐわんと上下する。ひゃ、と五月雨が短い声を漏らした。
「大丈夫?」
「は、はい。平気です」
そんな些細な事も気にかけて、肩越しに振り返った由良が気遣うように言葉をかければ、自身の足に目を向けていた五月雨が顔をあげて、噛みがちに返答した。
そう、と囁くような声量で言った由良は、ついでに五月雨の後ろに続いている二人の様子も確認した。左右に目をやっていた深雪は、見られていると気付くと、何食わぬ顔で五月雨の背中を眺め始めた。その後ろでは、朝潮が変わらずきつい視線を深雪の背に向け続けている。
隊列に乱れも遅れもなし。疲れもなさそう。このまま何事もなければ、休憩をとる事なく帰投できるだろう。
前に向き直った由良は、自身に積んでいる三式水中探信儀の妖精と数度意思を交わした後は、口を閉じて、水平線へと目を向けた。
――対潜警戒任務。
現在彼女達四人が行っているのは、領海内に迷い込む深海棲艦を撃滅または追い返すための作戦行動だ。
作戦行動、なんて言っても、大袈裟なものではない。軽巡・由良を旗艦とした四人からなる水雷戦隊で鎮守府から程近い海をぐるりと回って戻るだけ。
対潜警戒とは名ばかり。対潜装備を積んでいるのは由良のみで、他三人は通常の装備だ。というのも、潜水艦などここ数年出現していないのだ。稀に紛れ込む最下級の深海棲艦をやっつけるだけの簡単なお仕事。それが対潜警戒任務。
彼女達の所属する鎮守府の設立当初は、近海に敵潜水艦が溢れ返っていたらしいが、もはや昔の話。海域の安全を確保してから久しく、戦力や設備が充実した今となっては、ここら辺は平和なもので、この任務に当たる艦娘からは「暇」だの「楽」だの言われている。
由良率いる水雷戦隊で暇だと思っているのは、深雪一人のようだが。
その深雪は、つい今しがた何かを思いついたように上を向くと、おもむろに減速し、脇にずれながら朝潮の隣に並んだ。彼女を追って、ぎぃっと朝潮の目も動く。
「なぁ――」
「隊列を乱さないで」
口を開いた時にはもう切って捨てられていた深雪は、「はいはい、わかってますよっと」と元の位置へ戻った。聞き分けの良さと、今の行動の意味のなさに朝潮の目つきがさらに鋭くなる。
常ならば朝潮の注意に少なからず不快感を示す深雪が、特にむくれる事もなくまた左右を見回すのをみるに、ひょっとしたら注意される事が目的だったのだろうか。彼女が何を言いかけたのかはわからずじまいだ。
朝潮の声に、五月雨がちらりと振り返る。困ったような笑みは、彼女達のやりとりに関してのものだろう。しかしそれも、すぐ穏やかな笑みに変わる。先頭で、前を向いたまま耳を傾けてた由良も、こういう時は軽く注意するくらいだ。どこか気が抜けているのは、しかたないものだった。敵が現れても一匹程度の任務に、毎度真剣に取り組んでいるのは朝潮くらいのものだ。
といっても、他の艦娘が真剣でない訳ではない。警戒は怠らないし、役割は全うする。軽くふざけたり言葉を交わしたりする事はあれど、
ただ、その真剣さの度合いが違うというだけなのだ。
そんな朝潮も、仲間の気が緩んでしまっている理由はわかっているから、注意する時だってそんなに強い口調で言ったりはしない。深雪に対してきつめなのは、なんというか、癖のようなものだった。
注意を癖と呼べるくらいには、この四人の付き合いは長い。
鎮守府設立しばらくして転属してきた由良に、建造された五月雨と深雪。海上で目覚め、彷徨っていたところを発見された朝潮。ちょうど、この隊列と同じ順番で着任している。
朝潮が初めて由良率いる水雷戦隊に組み込まれてから、数年。人類は徐々に深海棲艦を押し退け、制海権を取り戻しつつあった。
「……!
「……ぁ、はい!」
「お? ……おう!」
「了解しました!」
ちょうど領海内を半分回ったところで、遠い波間にこちらへ近づいてくる影を捉えた由良が注意を促せば、戸惑いながらも砲を構える二人に、即座に返答する朝潮。
しかし、一度認識してしまえば後は早い。五月雨も深雪ももはやもたつく事なく、由良と同じ方向を見据えた。
ザブザブと波を割り、黒い異形が姿を現す。例の如く、最下級の深海棲艦、駆逐イ級だ。
「単縦陣! 由良に続いて!」
このままの陣形で接敵する、と告げた由良が、大きく体を傾けて右へ曲がり始める。角度の割には方向転換が遅いのは、体を傾けるのはどちらへ進むか一目でわかるようにするためだからだ。
海面に引かれていく二本の白線に沿うように、三人も曲がって行く。
すると、イ級は自らに向かってくる艦娘の存在に気付いたのか、左へ舵を切り始めた。俄かに速度を上げている。振り切ろうというのか、それとも回り込もうとしているのか。
どちらにせよ、イ級を逃がすつもりは彼女達にはない。領海内の平穏を守るのが今の彼女達の使命だ。敵を見つけてテンションを上げる彼女達の前に、一隻で現れたのが運の尽き。
「砲雷撃戦、始めます!」
「いよいよ私たちの出番ですね!」
「ぃよぉし、行っくぞぉー!」
「いいわ!」
高揚をそのまま吐き出すように、それぞれが自分を鼓舞する言葉を口にする。
たとえ相手が一隻であろうと、最も弱い敵であろうと、手を抜く艦娘はいない。いつでも全力だ。
砲を装着した手を軽く上げて合図をし、スピードを上げる由良に合わせて、五月雨達も同じ距離を保って続く。イ級に並べば、巨体に押し退けられた波が低くなりつつ足下を通過するほどの距離で、同航戦となる。
「よく狙って……」
腕を伸ばし、20.3cm連装砲を構えた由良を始めに、それぞれも横へ向けて砲身を突き出していく。
「てーぇ!」
「たぁー!」
「喰らえーっ!」
「はっ!」
ドドド、と続けて響く重い音。光と熱が一瞬
外装を削り、抉り飛ばし、傾くように持ち上がったイ級の横腹に食い込んだ弾丸が爆発を引き起こす。すぐ連鎖して、より大きな爆発がイ級の体を飲み込んだ。
「あっ、やったぁ!」
速度を落としつつ、黒煙を上げて沈むイ級に、五月雨が喜色に滲んだ声をあげた。イ級を沈むに至らせたあの爆発を引き起こした砲弾は、彼女の放った物のようだ。胸元で拳を握り込んで小さくガッツポーズをする彼女の後ろで、ちぇー、と深雪が面白くなさそうに砲を下ろした。
「今日の一等賞は五月雨ね。みんなもよく頑張ったね」
完全に敵が沈黙したのを確認した由良が、でも、まだ気を緩めないでね、と続けて言うのに、それぞれが返事をして、尾を引く高揚を排出しながら残り半分の航海に戻る。MVPをとった五月雨はにっこり笑顔だ。帰ればご褒美が待っている。成果を出せばそれに見合う報酬が必ず出される。このご時世、艦娘の力がなければやっていけない人類は、彼女達のケアを最優先にしている。
「くぅ~、もうちっとはやく撃ってればなぁ! 惜しかったぜー! な、朝潮!」
「……そうね」
高揚が抜け出ていっても、活躍できなかった悔しさはなかなか抜けないらしく、しかし重さや厭らしさを感じさせない口調で深雪が話を振るのに、朝潮も俯きがちになって答えた。どうやら彼女も、自分が一番になれなかった事を悔しく思っているらしい。
艦娘にとって戦う事が存在する意義だ、という風潮がある。それを果たせないのは……。
ただ一度の戦いの結果を重く受け止める朝潮に、深雪は頭の後ろで手を組んで、「ま、次頑張ればいーよな!」とわざとらしい大きな声で言った。明らかに気遣われているのを朝潮が気づかない訳がなく、その気持ちが嬉しくも情けなくて、「……そうね」、と先程と同じ言葉で返した。
二人のやりとりは、前の二人にも当然聞こえている。五月雨は浮かべていた喜びを引っ込めて、少しばかり申し訳なさそうにしていて、由良は、朝潮の気持ちを軽くするにはどうすればいいかを考えていた。
戦う事に真剣になるのは良い事だ。でも、その一つ一つを受け止めて、全部に重い気持ちを抱いていれば、いずれ潰れてしまう。最近になって、どこからか出てきた『艦娘の在り方』に強く影響を受けている様子の朝潮は、何日も前からこの調子だ。どうにかしてあげたい、と由良は思い悩むのだが、朝潮の考えを変えるのは容易ではないだろうし、戦う事が存在する意義だというのは間違っているとも思えないので、中々難しい話だった。
しかし一時的に気持ちを軽くさせたりする事はできる。たとえば、甘いものを食べるとか……。
やっぱりこの手かな、と小さく頷いた由良は、先日入手した間宮券を彼女のために使う事を決めた。
「ねえ、」
そうと決まれば、さっそく朝潮を誘おう、と由良が振り返ろうとした時、それは起こった。
「え、な、なに……?」
「なんだありゃ? 壁がくるぞ?」
「……霧?」
突然に発生した濃霧が、彼女達の正面から襲いかかってきたのだ。
まるで高く分厚い壁のような白色を前に、彼女達が混乱するのも無理はない。前を向き、状況を認識した由良でさえ、一瞬それが何かわからなかった。
日差しが遮られ、影が広がっていく。海面に照り返されて溢れていた熱は、迫る霧に吸い込まれ、代わりに涼しげな風と――同時に、寒気を運んできた。
「みんな、止まって!」
「は、わぷ!」
「うわっ!」
「っ……!」
慌てて指示を出す由良が最初に呑み込まれた。瞬間に、物音の一切が消え、次に五月雨が霧の中に消えると、流れていた髪も影も食われるようになくなっていく。
それを後ろから見ていた二人の危機感は最大レベルにまで上がっていた。
何かはわからないが、この霧はやばい。そう思うも、深雪は自身を庇う動作をする事しかできず、その最中に飲まれた。彼女の手を掴もうと腕を伸ばしていた朝潮も、ごお、と耳元で風が唸るのを聞いた時には、一面白と灰色の混じった世界に一人走っていた。
「これ、は……」
驚きと戸惑いの中で、徐々に速度が落ちていき、やがて止まる。風の音の他には、さああ、と細い何かが流れていく音だけが聞こえる閉塞的な空間。見渡す限り靄に包まれていて、海さえ足下に見える僅かな青だけしかなかった。
静かだった。
そこには朝潮の呼吸の音が反響するばかりで、仲間の動く音や声など一切聞こえてこなかったのだ。
這い寄る恐怖が一瞬にして朝潮の心に侵食すると、たまらず彼女は声を張り上げ、それぞれの名前を呼んだ。応答はない。妖精暗号通信にも返事はなく、完全に仲間と分断された形になった。
焦燥感に突き動かされて、朝潮が走り出す。いつもは冷静に物事を判断する彼女も、心の揺れ動きに付け入られるような今回の出来事には動揺してしまっていた。
結果的には、それが朝潮に最初の攻撃を躱させた。
「っ!?」
唐突に聞こえてきた細かい振動の音と共に、上空の霧から鉄の礫が降り注ぐ。幾つもの小さな水柱を作り出して行ったのは、明らかに敵の攻撃だった。
何者!?
難を逃れ、霧に覆われた空を見上げていた朝潮は、自分で出した問いに自分で答えた。決まっている、深海棲艦だ。
霧の中に見えた艦載機のシルエット。敵の空母が放つ独特な形をした物。ならば相手は空母か。対空装備の無い朝潮は若干不利だ。
その事に歯噛みしようとした朝潮は、瞬間、轟音と共に巻き上げられていた。
「――――……っ!!」
飛んでいた意識が戻れば、冷たい水滴が散弾のように体にぶつかってきている最中だった。落ちている。自身の髪の流れから素早くそう判断した朝潮は衝撃に備える体勢をとった。直後に海面に激突する。海水が飛び散り、焼け焦げて開いた穴から覗く肌にぶつかっていく。揺れる脳に頭を押さえながら海面に腕をつき、なんとか立ち上がった朝潮は、自身の状態を確認した。中破。敵は一隻ではなかったらしい。雷撃能力を持つ深海棲艦も霧の向こうに潜んでいる。
『――ァ』
遠く、壁一枚を隔てた向こう側で、少女の声がした。
だが朝潮にそれを聞き、認識する余裕はない。艦娘の体を保護し、肉体へのダメージをシャットアウトする特殊な生体フィールドを抜いてきた攻撃の痛みに、身に刻まれた傷を手で押さえて、息を荒げていた。
『――ギ――』
囁くような声が反響する。重なるように二つの声が、時折一つになって、あちこちを跳ね回る。
『ト――――』
壊れた12.7㎝連装砲と61㎝四連装魚雷に宿る妖精へ意識を向けていた朝潮は、至近距離で聞こえた声にはっとして、顔をあげた。
敵影はない。姿が見えない。それが恐ろしく、朝潮はどこにも動けなかった。
だが、止まる体とは反対に、脳は高速で回転していた。
鎮守府から程近いこの場所で起きた不可解な現象と、強力であろう深海棲艦の出現。これは、すぐにでも報告すべき事項だ。ここ数年の間、この海にこんな事が起こった事などなかったのだから。
だが同時に、倒すべきだ、とも思った。
戦う事が艦娘の存在する意義だ。ここで敵を食い止め、沈める事こそ今彼女が最優先でやるべき事ではないのだろうか。
壊れた砲を握る腕を胸元に掲げ、腰を落として霧の向こうを睨みつける朝潮。意地と誇りと心がせめぎ合って、どうしようもなかった。
自分が秘書艦であれば。
朝潮は、そう思わずにはいられなかった。
秘書艦であれば、提督と直通で通信ができる。
しかしそれは、反対に言えば、一時的に提督との繫がりを強くする第一艦隊の旗艦、つまりは秘書艦でなければ提督との直接通信はできない事を示している。
第二、第三艦隊などは常時報告ができない。
そして、常に通信できるというのは、情報をすぐに伝えられるという事なので、第一艦隊は普通は最前線に出ているのだ。
朝潮は第一艦隊の旗艦でもなければ、秘書艦でもない。
この状況を鎮守府にいる提督へと伝える手段は、生きて戻る事だけ。
ならば結局、敵との戦闘は避けられない――。
『見ィツケタ』
そう決意した朝潮の心を吹き飛ばすかのように、突風が吹き荒れ、霧が流れ始めた。引き込むような力に抗い、なんとか踏ん張ってその場に止まろうとする朝潮の耳に、その声は届いた。
先程から聞こえていた、くぐもった声の正体が、今はっきりと聞こえた。風がやみ、周囲十数メートルだけの霧が晴れると、そいつは霧の中からぬぅっと体を出した。
「ぁ……」
人型の深海棲艦。
黒いレインコートのような服を着た、フードをかぶった少女。大胆に開かれた前面は、人ならざる色をした肌を露出していて、少女が人でも艦娘でもない事を物語っていた。極めつけは、少女の後ろ腰から生える巨大な尻尾。蛇頭竜尾と言うべきだろうか、先になるに従って膨らんでいく尻尾の先端は、異形の頭になっていた。鋭角的なフォルムと鋭そうな歯が並ぶ大きな口。小柄な少女には不釣り合いなシロモノだった。
その少女の体から立ち
目だけで少女の周囲を確認する。他に敵艦は。敵艦の姿は…………ない?
朝潮は目を見張った。必ずどこかに艦載機を放った空母がいるはずだし、雷撃能力を持つ、たとえば駆逐艦や雷巡なんかがいるはずだと考えていたのだが……その考えを覆すものを見つけてしまったのだ。
彼女の尻尾に生える背びれは、飛行甲板にしか見えない。
つまり、艦載機を放ったのは、この少女……。
新たな空母? では、雷撃能力を有した艦はどこに。……まさか、先程の雷撃も……。
嫌な予感に慄く朝潮を前に、少女は口の端を吊り上げて笑った。大きく開かれた瞳にも、紅い光が揺らめいている。背にあるリュックのような物を背負い直す動作さえ根源的な恐怖を煽るのに、朝潮は悟った。こいつには勝てない。たとえ装備が健在で、満載の魚雷を全部打ち出して全弾命中させても、倒せるビジョンが浮かばなかった。
だから、ガチガチに固まる体に鞭打って、後退を始めた。目は前に。敵から目を離さず、攻撃に対応できるようにしながら、背後への移動を敢行する。
敵前逃亡など恥以外の何物でもない。そう感じるよりも、逃げて、生きて帰って、伝えなければ、という思いの方が勝っていた。
こんな場所に、こんな敵。放置すれば、自分はおろか、鎮守府が……そこにいる仲間の身が危うい。
損傷しているためか、それともプレッシャーにあてられているせいか、朝潮の動きは遅かった。
だが、異形の少女は追う事も攻撃する事もせず、ただ、きょとんとした顔をしていた。
『……? ……戦ワナイ? ……人間ナノカ?』
「……!」
片言の、しかし明確な人の言葉で、今の彼女には侮辱ともとれる言葉を吐く深海棲艦。
心底不思議でたまらない、と、そう表情が言っている。
『艦娘デハナイノカ?』
――――。
その言葉は、彼女の存在自体を抉り取ろうとする鋭いナイフだった。
少女の思考の推移はわからなくとも、本気でそう言っているのはわかって、だから、朝潮は……。
「っ!」
敵へと向けようとしていた砲身を下ろし、全速力で逃走を開始する。
戦えば勝てない。逃げに徹さなければ沈められる。
反省も後悔も、後でいくらでもできる。
だから、今は、今は……!
とうとう反転して、敵に背を向けて海上を突っ切って行く朝潮へ、少女は小首を傾げ、不思議そうにした。
同時に、海面に腹をつけて横たわっていた尻尾が身を起こす。頭や口の左右に取り付けられた主砲副砲が、遠ざかっていく小さな背中へ向けられる。異形が口を開けば、そこからも砲身が突き出て、狙いを定める。
『不要ダ』
一斉掃射が、朝潮の姿ごと彼女の意識を刈り取った。
◇
「――ぷはっ」
分厚い霧の壁を抜けた由良が、止めていた息を吐き出して、大きく息を吸った。
彼女に続いて五月雨と深雪が霧を抜け、青い海の上をざあっと走って、やがて由良のすぐ後ろで止まる。
「けほっ、けほ」
「えぇい、なんだよもう。びしょ濡れだぜ」
咳き込んでいたり、不快そうに体を払っていたりするものの、二人に怪我はない。びしょ濡れだ、と言いながらも、生体フィールドが水滴から身を守っているために、少しも濡れていない。
「みんな、大丈夫だった? ……朝潮は?」
「え、あれっ? さっきまで後ろにいたんですけど……」
「ん? 朝潮?」
全員の無事を確認しようと振り返った由良が、最後尾にいたはずの朝潮の姿が無い事に疑問を口にすれば、つられて五月雨が振り返り、それで深雪も振り返った。
まだ霧を抜けられていないのではないか。そう考えた三人の予想は、どこまでも広がる海に裏切られる。
「……え?」
呆然とした声は、誰が零したものだろうか。
先程まであった異常な霧は今は欠片もなく、青い海が水平線まで続いていた。