島風の唄   作:月日星夜(木端妖精)

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第五十四話 不穏な気配

 姉さんの夢を見る。

 夏の海。砂浜に出た姉さんが、こっちにきて、と俺を呼ぶ。

 反響する声が波に運ばれて遠退いて行く。

 一度お店の方へ顔を向け、砂浜に戻すと、もう姉さんはいない。

 ただ、波が静かに寄せては返すだけで、俺を呼ぶ声は二度と聞こえなかった。

 

 そう思っていた。

 

 そう思っていたのに。

 

 

 海上を駆ける。

 前へ出した足の爪先が波を割り、左右に飛沫を散らす。膝下に当たる冷やりとした塩水は、暗鬱とした冬の空を思い起こさせる冷たさを持っていた。

 水がぶつかり、肌を流れて滴り落ちるのに、足も靴下も濡れない奇妙な感覚にはもう慣れた。

 バシャバシャと激しく鳴る足音の中、鋭角のように遠くの敵だけを映す視界と風の中では、何もかもを気にしている余裕はない。

 走るのを楽しむ事もなく、ただ敵を倒すためだけに足を動かし、骨や筋肉の躍動を全身で受け止め、跳躍する。

 全身一つの矢となって、向かい来る黒い影へ蹴り込んでいく。

 このシマカゼの十八番(おはこ)、必殺シマカゼキック。

 人型の硬い胸をぶち破り、千切り飛ばしながら着水、勢いを殺すために数メートルの距離を滑る。白い霧が体を包むようにして持ち上がった。

 風が、頬を撫でて後ろへ流れていく。つられた音が引き込まれるように消え、直後に爆発。撃破した重巡級の()()()が水を切って跳ねてきた。大小の破片が沈んだり浮かんだりして、海を穢す。

 ふぅっと息を吐きだせば、胸の内にこもっていた熱と疲れが一気に出て行った。それを皮切りに深呼吸しながら立ち上がり、振り返る。

 共に戦う仲間である夕立と吹雪が、両隣を滑りぬけて行った。

 彼女らが列をなしていた場所には、敵軽空母から発艦した艦載機が飛び交い、川内先輩と神通先輩を襲っている。

 十七艦隊と合同で出撃しているリベッチオは、二人に挟まれ、守られる形でいながら、緊張した面持ちを浮かべていた。それでももう、何度艦載機を相手にしたのか、手つきは慣れた様子で10cm高角砲+高射装置を掲げ、応戦している。

 

 軽巡及びリベッチオが対空、駆逐艦の俺達三人が主に敵を相手取る、いつも突出する俺に合わせた戦闘体系。

 提督が俺や吹雪と夕立を中心に練度を高めていくと言った日から今日まで戦い続けて、自然とこの形になっていた。

 俺達三人の戦闘スタイルはちょっと特殊だから、実戦を経験し、練度を高めるには、こうして敵に迫ってやり合うしかないのだ。

 ちなみに、どんな感じに特殊なのかといえば――。

 

「んんっ!」

 

 口に息を含むような声を出して力んだ夕立が、跳び上がって来た魚雷のような異形、駆逐イ級後期型の顎を上手に蹴り上げ、アッパーのモーションで追撃するとともに発射した。

 回避不可の一撃がイ級を貫き、砕く。黒煙を上げる砲を持った手をぶんと振るう夕立の前に、巨体が落ち、海水を跳ね散らした。

 ふわりと金髪が持ち上がる。白い肌と小さな横顔は、まさに深窓のお嬢様と言える容姿なのに、悪役みたいな悪い笑顔と乱暴な振る舞いが台無しにしていた。背負っている艤装が少し損傷している。接近時に砲撃されて、すれすれで避けでもしたのだろう。彼女は、いつかの演習で見た夕立改二の戦い方に執心している。特徴的だった避け方を再現しようと日頃から練習を欠かしていないが、何も実戦でまでそんな回避の仕方をしなくても良いのに、と思う。三回に一回は直撃貰って大慌てで下がってきて、俺と交代になる。戦うのは嫌ではないから別に良いけど、夕立が下がっている間にも敵は攻撃してくるし、追ってくる事もあるので、ド下手な砲撃で応戦しなきゃならない時があるから、そこだけ不満だ。

 連装砲ちゃんが自分でやってくれるなら当たるから良いけど、それはなんというか、俺の力じゃないし……。

 

 吹雪は戦艦級の懐に潜り込んでいた。と思ったら、相手の航行を止めると同時に回転して背後に回り込み、腕を掴んで捻り上げた。もう片方の腕が吹雪と敵との間から砲身を覗かせ、砲弾を吐き出す。狙いは敵の砲が積まれた縦長の艤装。二つある内の一つがガァンと弾かれて浮かび、二発目の砲弾で亀裂が走り、三発目でばらばらになって海へと降り注いでいった。

 正確な射撃を繰り返しつつも、抵抗する敵戦艦級を押さえ込む吹雪は、三連射が成功した事で気が緩んだのか、馬鹿力に拘束を外され、振り返りざまに殴りつけられた。

 ――いや、辛うじて避けたが、背負っている艤装の端を貫かれ、衝撃に体を持っていかれて転がった。その勢いを利用した倒れながらの足払いが敵の膝裏を打ち抜き、体勢を崩す事に成功した。

 追撃の心配なく少し距離を取って立ち上がった吹雪が、擦るような歩法で接近し、回し蹴りで敵の手を蹴りつけ、艤装を手放させた。駆逐艦では明らかにパワー不足でできない事を平然とやってのけるのは、もう彼女も那珂ちゃん先輩や金剛の仲間入りをしているって事を改めて実感させてくれた。力押しの俺と違って、足の先まで技術を行き渡らせて実戦に活かす吹雪のやり方は、見習うべき部分はたくさんあるけど、俺にできそうなのは驚くほど少ない。……努力とか、そういうの苦手なんだよね、俺。

 二度敵を転がした吹雪は、接近戦は鬼門と判断した敵が距離を取ろうとするのに合わせて全速力で後退した。足を開き、腰を落とした姿勢のままで。

 おかしいと思ったのだろう、敵は焦った挙動で後退を取りやめ、吹雪を追って前へ進もうとするが、今退がり始めたばかりなのにすぐに前進はできず、艤装もないため砲撃もできない。そうしているうちに安全圏まで――俺の目の前まで――逃げてきた吹雪が、数本の魚雷を放った。

 水面下へ潜り込んで行った魚雷達が、白線となって敵に迫る。前へ行こうとしたために減速していた敵に避ける手段も時間もなかった。

 赤い炎が広がり、黒い煙に呑み込まれる。風に煽られてよろめく吹雪に駆け寄って腰を支えた。

 

「ありがとう、島風ちゃん。……ふー、ひやっとしちゃった」

 

 それはこっちの台詞だ。

 吹雪も夕立も接近戦主体になってるから、敵が強ければ強いほど見ててひやひやする。砲撃どころか、殴られでもしたら無事では済まないからね。

 ……あ、俺が戦ってるのも、周りには危うげに見えてるのかな?

 残った軽空母がそろそろと逃げて行こうとするのを、夕立が雷撃で仕留めて、戦闘終了。使わなかった主砲に目をやりつつ、ひょっとしたら三人が三人、お互いの戦い方をひやひやしながら見てるのかも、と思っていると、妖精さんの意思が飛んできた。主砲の子。次は使ってね、みたいな内容だった。

 あはは……いちおう形式的に装備してはいるけど、正直使う機会はあんまり……。妖精さんがサポートしてくれていてもそうなのだから、俺のこれは筋金入りだ。

 数ヶ月間訓練を欠かさなかった、という訳ではないけど、ちょっとやそっと練習しただけじゃ改善の気配はなかったし、上達も見られなかった。ステータスに命中率が含まれているなら、俺は2か3だね。

 

 今回は少し遠くまで足を伸ばしたので、二時間ほど時間をかけて帰投する。道中、敵に出遭う事はなかった。

 

「ううー、寒いっぽいー……」

「そうだね。戦ってる間はそうでもないんだけど……」

 

 列を組んで滑っている時に夕立が愚痴ると、吹雪が返事をした。前から二番目の神通先輩がちらりとこっちを見たけど、叱ったりだとかはしない。たぶん、彼女も寒いと思っているのだろう。真冬だもの、それはしょうがない。もうそろ年も越す。雪は降るかな。

 長々と海上を移動する俺達にとって、暑いも寒いもあまり歓迎できるもんじゃないんだけどね。

 夏でさえ、海の上を波立てて走ると、足下は涼しかった。冬ともなると、ブーツの内側は凍ってしまいそうだ。これでも生体フィールドによってかなり緩和されているのだ。なかったら泣いてる。

 それに、潜水艦の子達はもっとひどい。海の中は、海の上よりずっと冷たいだろうに、ずーっと泳いでいなきゃならないのだから。

 我が鎮守府では、ストーブは潜水艦優先である。暗黙の了解。

 

「島風ちゃんは、そんな恰好で寒くない?」

「私のは、これが冬服もかねてるからね。連装砲ちゃん抱いてれば、結構あったかいよ?」

「ええー、いかにも冷たそうっぽい」

 

 たなびく短いスカートから覗く細い太ももに目を向けていた吹雪が、そういえば、と俺の服装を話題に上げる。そういう二人は、冬服だ。デザインや色は変わってないけど、布は厚手に、袖は長くなっている。

 連装砲ちゃんは、夏と同じく熱いや冷たいを吸収しているけど、抱いてればだんだん温かくなってくる気がするんだ。砲ちゃん抱いてるけど、ほら、冷たくないよ。

 

「ひゃあ!」

 

 高い声が後ろから聞こえてきた。

 振り返れば、リベッチオが装ちゃんを取り落としたところだった。

 ころころ転がって行ってしまった装ちゃんは、自力で体勢を立て直すと、せっせと戻ってきて、キューと鳴いた。抗議のつもりだろうか。ごめんねーと謝るリベッチオにはその意思は届いてないみたいだけど。

 

「ウサギー、冷たいよー? すっごく冷たい!」

「そーかなぁ」

「危うく騙されるところだったっぽーい」

 

 砲ちゃんを捕まえようとじーっと動向を見ていた夕立が、ぷんと前を向いてしまった。

 騙すつもりはなかったんだけど……だって実際、あったかいし。

 ……ひょっとしてこれ、俺の体温が移ってるだけ? たしかに最初は冷たかったような……。

 

 ちょこちょこ駄弁りながら鎮守府へと帰還する。

 その間、川内先輩は死んだように静かだった。夜戦がなかったのがご不満だったみたい。彼女が先頭で良かった。もし最後方だったりしたら、俺は振り返るたびに先輩の絶望しきった顔を見なくちゃならなかっただろうから。

 そんなこんなで暗い通路を通って戻り、全員大した怪我もないので執務室に直行した。

 

「敵が少なかった、か」

「後で報告書にも纏めるつもりだけど、ここ最近はどこ行ってもそんな感じだよ」

 

 旗艦である川内先輩が報告する。

 鎮守府近海には、めっきり敵が姿を見せなくなった。奪還しきれていない海域に近付けば近付くほど敵は出てくるけど、これを異常と言っていいのかどうかは判断つかない。

 人間の生活圏に敵が近付かないに越した事はないんだし。

 ここら辺からいなくなった奴らが別の場所で悪さしてたりしたら困るけど、近辺の敵を撲滅した、と浮かれるよりは、そういう風に考えておいた方が良いだろう。もしかしたら別の場所へ救援に向かう事になるかもしれないし、いきなり戻ってくるかもしれない。心構えは大事だ。

 

 明石の工廠に艤装を預け、部屋に戻って休憩する。部屋の中では、叢雲が自身の艤装を持ち込み、妖精さんと意思を交わしていたところだった。

 

「お帰りなさい」

「ただいまー」

 

 顔を上げた叢雲に挨拶を返しつつ、机の傍に座る。吹雪と夕立もそれぞれ叢雲と言葉を交わしてから、座ったり、お茶を用意したりした。

 夕刻、食堂に向かう。電灯の光が強く、明るい室内にはたくさんの艦娘がいて、賑わっていた。

 なんかみんな浮足立ってるな……。そういう様子はないけど、雰囲気というか、空気が浮ついているような……。

 あ、龍田先輩だ。前にちょこっとトラブルがあって以来、なぜだか彼女に気に入られた気がする。俺はあまり彼女が得意ではないのだが(怖いし)邪険にする意味など無いので、仲良くさせてもらっている。

 彼女がキックの練習を始めたのは、たぶん俺のせいだよね……。

 

 きょろきょろしながらみんなにくっついて移動していると、離れたところに座っていた朝潮と目が合った。とたんに彼女の周りが鮮明に映って、緩く手を振る朝潮や、身を捻って振り返り、嫌そうな顔をする満潮に、どこか別の場所をぼうっと見ている荒潮の姿がよく見えた。

 手を振り返しつつ机を確保し、カウンターで注文を終えてから、みんなに断って朝潮の下へ寄って行く。

 

「や、朝潮」

「今朝振りですね」

 

 毎度の事ながら、最初の言葉に迷って、結局無難に名前を呼ぶだけになってしまう。朝潮の返事も、なんか変だった。

 孤島で過ごしていた時は、いちいち呼びかけるのに意識なんてしなかったのに、好き合っていると、どうにもそこら辺がわからなくなる。デートしたって直らなかった。まあ、話し始めればなんて事はないから、恥ずかしがったりはしないけど。

 

「なんか、みんな浮足立ってるね。なんかあったっけ?」

「……いえ、特に行事はなかったと思いますが」

「精々年明けに着飾るくらいでしょ。なんもないわよ」

 

 カツカツと容器にスプーンをたててプリンを食べている満潮が、強めの語調で言った。

 そうだよね、何かあるなら提督が教えてくれるし、みんなももっと騒ぎ立ててるはずだもん。それがないって事は、いつもと変わりないって事で……去年がどうだったか知らないから、なんとも言えないんだけどね。

 

「不思議ねぇ……」

 

 荒潮は、俺達の会話には参加せず、ずっと周りを見ていた。

 笑顔を浮かべていなかったのがとても珍しく、しばらくの間、彼女のきょとんとした顔が頭の中に残っていた。

 

 この鎮守府に所属する全艦娘が体育館に集められたのは、この翌日の朝だった。

 

 

 深海棲艦がどこから来るか知っているか。

 壇上に立った提督は、挨拶もそこそこにそう切り出した。

 ざわざわと館内が騒がしくなる。長年謎だった敵の出現元を今この場で口に出すという事は、判明した事に他ならないと誰もが予想したからだ。

 事実、提督は続けて、敵の発生元と思われる場所を発見した、と語った。

 指示された大淀が提督の後ろ側にスクリーンを下ろして、プロジェクターを用いて、荒い映像を映し出した。

 古めかしいカラーの、されど暗く黒い海の向こうに、不自然な霧が蔓延している。それは遠距離から撮影しているのであろう位置から見ても、画面の両端まで届くくらい大きなものだった。

 

「深海から現れると予測されていた奴らだが、それはただ海の下を移動してきたに過ぎなかったらしい。前にも見たように、どうやら奴らは霧から生まれてくるようだ」

 

 映像の向こうで、霧の中から深海棲艦が現れるのが見えた。

 艦種はわからない。だが、一体や二体ではなく、纏まった数が数塊になって、方角を変えて散っていった。

 その中の一つが大きくなり始める。

 近付いてきているのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。

 

 映像に音声はついていない。だからこの時、なぜ撮影者が逃げなかったのかがわからなかった。

 画面が海を映し、制服の裾とスカートと、長い足を映した。直後に酷い揺れがあって……そこまでだった。

 提督がプロジェクターに手をかけ、映像を止めていた。

 

「数日の内に、我々はあの霧を目指す事になるだろう。神出鬼没の霧を追うのは難しい。長期戦を覚悟してくれ」

 

 その後の細かな説明は、あまり耳に入らなかった。

 館内に、提督の声だけが遠く響いている。

 今日明日は通常通り……出撃は控え……演習は……――。

 

 霧を目にした時から、目が閉じられない。

 生き物のように蠢く霧。

 その向こう側を見ようとして、何も映っていないスクリーンを眺める。

 白い布は何も教えてくれない。

 あの先に何があるのか……。

 知りたくない。

 知りたくない。

 

『知りたくない……』

 

 俺は興味がある。

 

『あの先には……』

 

 どんな強大な敵がいるのだろう。

 そいつを倒せば、この戦争は終わるのだろうか。

 

『……終わるの?』

 

 胸の内に響く島風の声は、か細く、震えていた。

 彼女達にとって心待ちにしていた、いつの日も求めていた勝利が目前にある。

 まだ何も行動を起こしていないのに、手は小刻みに震え、肩を押さえた。

 

 誰も、何も言わなかった。

 いつしか提督も口を閉ざして、目を左右に走らせていた。

 それから、胸元を正すと、二度、手を打った。

 パン、パン。大きな音が体育館中に鳴り響く。

 そうすると、金縛りが解けたみたいに急に体が動くようになって、動悸や汗が強く感じられるようになった。

 息を吐く。

 周りからも、同じような溜め息がいくつも聞こえてきた。

 

「今はしっかりと体を休めてくれ。もしかすれば、他と合同で戦う事になるかもしれない。一応頭の片隅に留めておいてくれ。それから――」

 

 とくん、とくんと心臓の音が聞こえる。

 

(島風……。島風?)

 

 彼女も震えは収まっただろうか。そう思って呼びかけてみても、返事はなかった。

 だから俺は顔を上げて、前の方にいる朝潮の後ろ頭をちらりと見た。

 なぜか、守ろう、という大きな気持ちが浮かんできた。

 その想いはいつでも持ってる。

 何があっても彼女を守るし、人間も助ける。

 

 人類に、勝利を。

 ……ちょっと格好つけた風に決意すると、ぶるりと体が震えた。

 最近、こういう事を平然と言えるようになってきたなと思ったら、羞恥心がこみ上げてきたのだ。

 提督のお話が終わるまで、俺は一人で自分の気持ちと戦っていた。

 あー、恥ずかしい。

 

 

 三日くらいの間は、出撃もなく、それぞれが好き勝手に過ごしていた。

 前に感じた浮ついた雰囲気の代わりに、少しピリピリとした空気が常時流れているけど、それは仕方のない事だと思う。

 次にある作戦が戦争を終わらせる最後の戦いになるかもしれない。

 元を絶てば、深海棲艦は生まれなくなる。残った奴らも、各国と協力して全力で倒せば、撲滅できるかもしれない。

 でも、不安もある。

 大規模作戦に近い今回の作戦、敵は大量にいるだろう、姫級や鬼級も……本当に敵の発生元で、本拠地的な場所だったりしたら、たくさん出てくるかもしれない。

 俺が着任してから、この鎮守府は戦死者0でやってきている。

 だが今度ばかりは……誰が沈んでもおかしくない。

 それは、俺かもしれないし、朝潮や、吹雪や夕立かもしれない。 

 だから不安で、怖かった。気持ちを紛らわせるために入渠したりお喋りしたりしてみたけど、平和で穏やかな時間を過ごすほど、そういった気持ちは膨れ上がっていくばかりだった。

 だから、全艦娘に緊急の二文字とともに事態が伝えられた時、俺は正直ほっとした。

 戦いの中では、あんまりそういう気持ち、出てこないから。

 

 体育館に全艦娘が集合し、提督から説明を受ける。

 …………。

 どうやら敵さんは、そう簡単に平和を返してはくれないらしい。

 

 いずれにせよ、敵を倒す。仲間を守る。

 俺にできる事はそれだけだ。

 

「シマカゼ、出撃しまーす!」

 

 明石や大淀といった艦娘を残し、他の全ての艦娘が海へと出て行く。

 出撃時のかけ声や気合いの声が重なって、耳に心地良かった。

 

 まずは、友軍と合流だ。

 

 空を見上げると、厚い雲が向こうの方からやってきてた。

 

 

 暗い海があった。

 周囲を濃霧に囲まれ、静かな波が一定の方向に流れ続ける、開けた場所。

 霧の動く風の音と、波の音と、少女のすすり泣く声。

 絶え間なく動き続け、響き続ける生命の音色。

 海の上に、ぽつんと座る艦娘がいた。

 半ば霧の影に隠れた、小柄な少女。顔に両手の甲を当て、流れない涙を(とど)めるようにして、細い肩を振るわせている。

 浅い呼吸が繰り返され、嗚咽が漏れる。と、背を折って、一際大きくしゃくりあげた。

 ひっく、ひっく……。

 弱々しい嘆きが、涙の代わりに零れ落ちている。

 

 少女は、ずっとこうして泣いていた。

 ずっと、この海で泣いていた。

 

『――――』

 

 ごう、と風が唸る。

 少女の目前に霧が集まり、濃い霧となって、壁のように立ちはだかった。

 しかしそれは、艦娘を飲み込むように少女を襲ったりはせず、深海棲艦を攫うように少女に被さったりはせず、ただ、風に運ばれるまま今度は霧散していった。

 霧が晴れれば、残るのは少女のみ。

 ……いや。

 

『ガ、ァ……ゥゥ……!』

 

 よろめく深海棲艦が出現していた。

 焼け焦げ、布切れと化したレインコートを身に纏う、青白い肌の少女――戦艦レ級。

 死に体の彼女は、一歩一歩に全力をかけて少女の前まで歩み寄ると、膝をついて、その肩に手を置いた。

 びくりと少女が震える。

 

『ナァ……私ガ、沈ンデモ……イイ、ノカ?』

『――……』

 

 少女は、顔を隠したまま、ふるふると首を振った。長い黒髪が海面を撫でて、濡れる。

 ひっく、としゃくりあげた少女の肩が跳ねると、レ級は頷くように腰を折って、少女に顔を近付けた。そのまま、背中に腕を回して抱き付く。

 慈しむように目をつぶり、愛しげに唇を結んで、肌を押し当てた。

 

『――――』

 

 音もなく、一人が消える。

 レ級の姿がなくなると、少女はまた、声を上げて泣いた。

 永遠に続く慟哭が、霧に塗れた空へ吸い込まれていく。

 天を見上げた少女の頬を一筋の涙が伝う。

 滴り落ちた熱い水が海面に飲み込まれれば、しばらくして……ぐぐっと、水が持ち上がった。

 水柱が立つ。

 水滴が雨のように降り注いでも、少女は濡れなかった。雨音に似た、バタバタと鳴る水滴が落ち切ると、人影が伸びた。

 少女の目前に、海面を突き破って飛び出してきた深海棲艦が立った。

 黒皮のレインコートに、背負ったリュックのような艤装。首を覆うマフラーに似た何かは風になびき、揺れている。

 青白い肌は、大胆にも胸元からお腹にかけて開かれていて、黒い水着が小振りな胸を覆い隠す。

 フードに隠された顔は、そいつが指で布の端を掴んで押し上げれば、鋭い目が外気に晒された。

 左目に灯る青い(ほのお)が、風もないのに横へ流れて欠片を散らす。

 黄金の光を纏ったレ級は、背中から生える尻尾を揺らし、片足を下げて上体を捩ると、背後の少女へと振り向いた。

 

『続キヲ、始メヨウカ――』

 

 持ち上げられた右手が額に当てられると指にかかった前髪がかさりと動いた。

 狂気的な笑みが敬礼に飾り立てられている。

 

 ぱたりと、少女の目元を覆っていた手が膝に落ちた。

 

 少女は、泣いている。

 ずっとここで、泣いている。




TIPS
・龍田
最近キック必殺技に嵌まっている。
天龍ちゃんにもおすすめしているが、反応は芳しくない。

・レ級
戦艦レ級改flagship。

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