ご了承ください。
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イラストを頂きました!
第1話に掲載中です。
1話後書きにURLも載っています。
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誤字を修正しました。
まぶたが重い。
薄く開いた視界は暗く、ぼんやりとしていて、そんな事よりも、体中が熱くてたまらなかった。
たまらず掛布団を退けて、両腕を出す。額にひんやりとした感触があった。
……見なくてもわかる。これは、姉さんの手だ。
硬い首を回して顔を向けようとすれば、額を軽く押されて留めさせられた。手が離れると、一瞬の寂しさと、直後に襲ってきた熱に眩暈がした。
無意識に伸ばした手を、姉さんが両手で包み込む。またひんやりとした感触。
目だけを動かして見てみれば、ぼやけた視界の向こうに、小さな影があった。
幼い頃の姉さんだ。両肩から下へ伸びる二本の赤い帯……。
学校から帰ってきてすぐ、俺の部屋に来たのだろう。
揺れる輪郭が重なり合うと、穏やかな表情を浮かべた姉さんと目が合った。さらりと流れる長髪が視界の端にちらつく。
姉さんは何も言わず、ただ、少しだけ微笑んでいて……それに安心してしまうと、途端にまた視界は曖昧なものに逆戻りする。
でも、いいんだ。
姉さんが、そこで見ていてくれるってわかるから。
体が軽くなる。頭の奥に居座っていた重い何かも、いつの間にかいなくなっていた。
手に意識を集中させる。
姉さん。
呼びかけようとしても、口は動かない。でも、俺が何か言おうとしたのを察したのか、姉さんは一度手を離して俺の額を撫でると、また俺の手を、その手で包み込んでくれた。
それから、俺が眠ってしまうまで、ずっとそうして手を握ってくれていた。
……姉さん。
俺は……。
◇
手袋の表面を引っ張って、きっちり指先まで嵌める。
二の腕で締まる袖のような青い布を目で確認してから、朝潮の衣服を抱え直して、木々の向こうを見据えた。
両足をくっつけるように揃え、トン、と地面を軽く蹴る。短い浮遊の後に、同じ場所へ着地して……直後に、前方へ飛び出し、駆け出す。
風を裂くように、木々の合間を縫って走る。背の高い草の塊から伸びる緑の葉が、スカートとソックスの合間、ちょうど剥き出しの足をビッと擦った。
気にせず先を行く。防護フィールドに包まれた体は、ちょっとやそっとでは傷つかないのだから。
少しずつ燃料が減っていくのを感じる。体力の減少とはまた違う、いわば、燃焼。未知なる喪失感には、もう慣れた。だが、まだ少し気にしてしまう。きっと海上では、これは致命的な隙になるだろう。直さないと。
森林を抜ければ、すぐ目の前に広い海岸が見えてくる。左右にずっと続く砂浜の、向かうは左側。今朝つけた足跡の大半は波に飲まれて消えていたけど、砂浜にはいくつか俺の足跡が残っていた。
それを辿って――といっても、一本道だけど――、
無造作に置かれて、時折波に当てられている壊れた艤装。光を照り返す熱い砂に倒れ、少し埋もれている修復バケツ。散らばったガラス瓶は、集めていた本数の内いくつかが離れた波打ち際で、寄せては返す海水に弄ばれていた。
瓶は放っておこう。今必要なのは、バケツと……そうだ、彼女の艤装も回収しておこう。重ねて持てるかな。重量は問題ないと思うけど……。
バケツの縁を掴んで持ち上げ、傾けて中の砂を落とす。上下に振ると砂粒がぱらぱらと出てきた。一瞬海水ですすごうかと思ったけど、この暑さですぐにべたつくだろうな、と思い、やめた。どうせ温泉の方に行くのだから、その時に洗えば良い。左手に持ってぶら下げる。服を落としそうになって、おっと、と体を傾けた。
お次は艤装だ。三つの塊がすぐ近くに落ちている。……落ちている、と言うには、ちょっと大きすぎる気がしなくもないけど。どれもこれも重箱みたいにでかい。なんとなく、自分の腕と見比べてみる。
(……普通だったら、この細腕であんな大きな物は持ち上げられないよな)
白手袋が上品さを演出しているから、余計にそう思うのかもしれない。……島風は、全体を見れば上品とは言い辛い気もする。
艦娘のパワーがあれば、持ち上げられないなんて事はないだろう。三つ重ねてもきっと余裕だ。
艤装の前にしゃがみこんで片手でがっしり鷲掴みにし、持ち上げつつ移動して、もう一つの箱っぽいのに丁寧に重ねる。いくら壊れているからって、乱暴に扱っていい理由にはならない。重ねる事が乱暴だと言われたら反論できないけど。
最後に艦橋を乗せてできあがり、だ。
「さて、いっ!?」
片腕で持ち上げるにはどうしようかと考えつつ手を伸ばすと、指先に鋭い痛みが走るのに、思わず手を引っ込めてしまった。
……なんだ、今の。……静電気?
じんじんと痛む人差し指を太ももに擦り付けつつ艤装を覗き込めば、陰から覗く棒状の何かが揺れていた。
先が尖った三股の、黒い物体。
「……げっ、妖精さん?」
もう少し体を傾けてみれば、見えてくるのは、三股の銛を持った小人だった。青髪のおさげに、ダイバーのようなゴーグルを頭につけた、なぜかスクール水着を着用した少女。……少女、でいいのだろうか?
縦長の黒目でじっと俺を見上げてくるのを見返していれば、彼女の背後からそっと顔を覗かせる妖精さんその二の姿が。こちらはボブな茶髪の、どこぞの高校の制服でも着ているような格好だ。小さく口を開けてこちらを窺う姿からは、あせあせと飛ぶ汗が幻視できそうな不安が感じられた。
「は、はろー……?」
顔の横で手をひらひらさせて挨拶すれば、キッと睨むような目つきで銛を突き付けてきた。あらー、これは……警戒されてるのかな。
ぬいぐるみみたいな見た目の妖精さん(仮)が敵対意思を見せてもこれっぽっちも怖くないが、しかし、敵意を向けられるのは気持ちの良い事ではない。
でも、彼女達を無視して艤装を持ち帰るという選択はとれそうになかった。手を近付ければ銛で突いてこようとするし……まさか、俺の最初の敵が深海棲艦ではなく妖精さんになろうとは……。
怖くないよ、攻撃しないよと語りかけても、険しい表情が和らぐ事はない。むむむ、いったい何が俺を警戒させているのだろう。
と悩みそうになったものの、答えはすぐわかった。彼女達は、俺が左腕に抱える朝潮の衣服をちらちらと見ていた。
ああ、そうか。この艤装は彼女の装備だ。その装備の妖精さんが彼女を心配するのは、何もおかしくない。
でもそうなると、ひょっとして、俺が彼女を誘拐したみたいな認識になっているのだろうか? ……凄い犯罪臭。警戒されるのも無理はない。
いや、でも、あれ? 今は俺も艦娘なんだけど……それでも警戒されているのはどうしてなのだろう。
……艦娘なのに、妖精さんと意思疎通できていないから……とか?
謎だ、と首を傾げれば、つられたように二人も首を傾げた。かわいい。
そんな彼女達に敵意を向けられるのは本意ではないので、なんとか誤解を解こうとしてみる。
衣服を指して、彼女を助けようとしている、と説明したり、彼女の艤装を回収しておきたいと説明したり。
「……?」
銛を構えながら小首を傾げる妖精さん。
……いまいち伝わってない気がする。
ううん、ええと、人の言葉で話そうとするからいけないのかな。艦娘専用の言語とかあるのか? 聞いた事ないけど。あ、暗号通信? 通信でのみやりとり可能だったとしても、彼女達からそういったアクションを受けた記憶はない。最初のチクリは違うだろうし……。
うむむと唸りつつ考える。ジェスチャーは駄目だろうか。悪い刺激にしかならない気がする。
…………。
「……あー」
「?」
ちょい、と空を見上げて声を出す。
なんとなくわかった気がする。
彼女達の意思を感じるには、こちらから語りかけるだけでなく、彼女達の声も聞こうとしなくてはならないようだ。
ふむふむ、なるほど……。じゃあ、さっそくそうしてみよう。
そう思った時には、すでに妖精さんの意思が伝わってきた。残念ながら明確な言葉ではなかったが、こちらが何者か、を問いかけてきていたようだ。
「見ての通り、艦娘だよ」
……たぶん。
彼女達の声を聞く事を意識しつつ語りかければ、やっとちゃんとした反応が得られた。といっても、怪しげな目で見られたあげく、二人でこしょこしょと言葉を交わしつつ俺をチラ見するという、なんとも言えない感じなのだけど。
というか、喋っていないはずの妖精さん達から『こしょこしょ』と音がするのはいったいなんなんだろうか。
声無きやりとりを見下ろしていれば、二人の間でなんらかの結論が出たのか、揃って俺を見上げてきた。同時に、銛の穂先を上げてくれた。警戒が解けたようだ。信用する、といった感じの意思が飛んでくるのに、ありがとね、とお礼を言う。気にするでない、みたいに手を振られた。かわいい。
妖精さん達の許可も得られたので、彼女達が登った艤装を右腕に抱えて持ち上げた。その際の、俺にとっては些細な揺れが、彼女達にはそうでなかったらしく体勢を崩して艦橋にへばりついてしまった。慌ててゆっくり動かそうとすれば、私達は大丈夫だ、とサムズアップされる。先程までおどおどしていた制服の子さえ、今はきらんと光る瞳でピースサインを出してきている。
「じゃあ、動くけど……ほんとに大丈夫?」
『問題なし』の応答。
そういえば、彼女達艤装の妖精さんは、海の上を走り、戦闘もこなす少女達についていっているのだから、この程度の揺れは本当に大丈夫なのだろう。いちおう気にかけてはおくが、無駄な心配になりそうだ。
事実、いつも通りの調子で走ってみても、彼女達は振り落とされる事はなかったし、文句も出なかった。ただ、時折歓声のような意思が飛んでくるのはなんなのだろう。速いって? それは、そうだろう。だって速いもん。
…………妖精さんの無垢な瞳が俺を射抜く。critical! ちょっと速度が緩んだ。
とかなんとかやっている内に川に合流し、そのまま沿って進めば、開けた場所につく。緩やかな下り坂の先にごろごろと岩が転がっている。今さらながら、あれらはどこからきたのだろうかと疑問に思った。
考えてもわからないだろうから、考えはしない。その合間から湧き出る温泉が俺にとって有益だ、という認識だけで良いだろう。温泉といえば火山だけど、俺に連想できるのはそれぐらいだ。
二十年余りの人生の中で多くの事を学んできたつもりだったけど、知らない事はまだまだあるんだ。艦娘という存在もそう。世界の定義もそう。自分という存在も、そう。
「……なんでもないよ」
妖精さん達が『どうした』と心配するので、笑顔を作ってみせてから、岩を乗り越えて温泉の前へやってきた。
近くの地面には、いくつか土の山があり、木の枝が刺してある。初めてここを訪れた時から変わらない光景だ。
まずは朝潮の服を洗って干そう。そう簡潔に考えて、あ、と短く漏らす。今、一人で決めて、一人で動こうとしてしまったけど、いちおう妖精さん達にも伝えておかなければまずいかな。
言葉でやりとりできないのだから、なおの事多くアプローチをかけなければならない。そうでなければ、たぶん色々と齟齬が生まれてしまうだろう。
艤装を下ろし、彼女達へ自分のやろうとしている事を伝えると、なにやらわちゃわちゃと手を動かして訴えてきた。……自分達が朝潮の服を洗う、だって。
できるのか、と一瞬疑い、次には、その言葉――そういうあやふやな何か――の意味を理解した。
俺は『朝潮の衣服を洗う』と単純に考えていたが、それってかなり危険だ。主に、俺の性別的な意味で。
……彼女の体を拭いたのだから、衣服程度は今さらな気もする。
それに、女性の服を洗うというなら、姉さんの物を毎日やっていたので、特に忌避感や何かはない。洗濯機にぶち込むだけなのと、この手で揉み洗う事に大きな違いはあるだろうが……ああ、駄目だ。なんか考えてたら、余計に意識してしまいそうな気がしてきた。
という訳で、衣服の洗濯は彼女達妖精さんに任せる事にした。
10㎝もない妖精さん達がえっちらおっちら衣服を持ち上げて移動していく姿を見届けた後に、バケツを持ち直してまずは川に向かう。バケツの洗浄のためだ。これはすぐに終わった。
妖精さん達を窺うと、俺がいつも洗濯に使っている穴の周りに陣取って、湯の中に服を投げ込んでいるところだった。見た目に似合わず豪快だ。ああ、そんな乱暴な……。ひらりと舞うパンツから目を逸らして、温泉に向かう。明日のパンツ、という単語が脳裏をよぎった。
重い……とはあまり思わなかったが、色々持てるだけ持っていた物から解放された妙な身軽さをむず痒く思いつつ、湯気を上げる温泉の前に膝をついた。
薄青色の湯にバケツを浸し、横へ動かして湯をすくう。ざあっと零れる半透明が、湯面を叩いて水滴を散らした。膝にかかった熱に、頬が緩む。
お風呂に入ってさっぱりしたい誘惑にかられつつ、両手で持ったバケツごと立ち上がろうとして、ふと湯に流れ込んでいるスライムに目をやった。
……この温泉の効能について、考えた事がある。
傷ついた体を瞬く間に癒すこのお湯は、普通のお湯といったい何が違うのか。
明確な答えが、この緑色のぷるぷるだ。触れればひんやりとして、ゼリーのような感触がする、よくわからないもの。これがお湯に溶けだして、回復効果をもたらしているのではないだろうか。
昨日指を怪我した時、突っ込んで確かめたから、たぶんあってると思うんだけど……。
彼女の体にあった傷の事を思い出しながら、バケツの中身とスライムを見比べる。
……どうせ持って行くなら、効果が強い方が良いよな。
「……よし」
そうと決まれば、と。
バケツの中身を捨て、今度はスライムで中を満たす。振るとぷるぷるして面白い。
スカートの位置を直しつつ、バケツ片手に妖精さん達の下へ戻れば、彼女達は洗い終えた服を眺めて何やら囁き合っていた。洗ったは良いものの、どこに干せばいいのかわからなかったのだろう。
そこは俺がやろうと提案すれば、いや手分けしてやろう、と返された。そっちの方が速いか。
そこら辺にある即席物干し竿に衣服を通すんだよ、と説明しつつ、手早く干していく。服が地面につかないように高い位置にある棒には、俺が通していく。
三人でやればあっという間だ。大満足のスピード。うん、はやいはやい。
「じゃあ、速く帰ろう」
手伝ってくれたお礼とともに彼女達を急かせば、意思や何かは飛んでこず、さっと敬礼一つ向けられた。おぅ。俺も返せばよかったのかな、敬礼……。
バケツを左手に、右腕に艤装を抱え、帰還の準備は万端。『ごぉごぉごぉ!』と妖精さんも準備万端。行きより速く走って帰る。
家に戻れば、彼女は
部屋の奥に艤装を下ろし、枕元に膝立ちになる。バケツを下ろすのと、艤装から飛び降りてきた妖精さん達が彼女へ群がるのは同時だった。
「く……、ぅ……!」
必死に何かを語りかける妖精さん達に反応せず、ただ目を強くつぶり、布を掴んで苦しむ朝潮。
「どいて、妖精さん」
布を取りだし、毛布をどかして彼女の体を拭く。汗でびっしょりだ。今朝の冷たかった体が信じられないくらいに熱くなっている。毛布の方にも汗が染み込んでいて、彼女がこの状態になって長い事を教えてくれた。離れたのは失敗だったかな。……ううん、とりあえず、毛布は違う布に変えなきゃ。
二度目ともなれば、少女の素肌を直視するのも、それを拭くのも慣れたものだ。それに、彼女の苦しそうな顔を見て、声を聞けば、邪な気持ちなどもはや浮かんでこなかった。それどころか、彼女の苦しみが伝播したみたいに、俺の額にも汗が流れるのを感じた。
用意していた、水を張った鍋で布を綺麗にし、彼女の体を拭いての繰り返し。それが終われば、今度はバケツに布を浸しておいて、傍の床から布を剥ぎ、綺麗な面を彼女にかけた。部屋の床はもう、ほとんど地面が剥き出しになってしまったけれど、気にする余裕はない。自分が離れている内に彼女の容態が悪化していた事に動揺しているのか、自分でも動きがぎこちなくなってしまっているのがわかって、いらいらする。
鍋から布を取り出し、水を絞り、畳んで、彼女の額へ。顔を反らして嫌がられたけど、なんとか乗せる事ができた。……こんな反応をするって事は、意識の回復が近いのか。……それすらわからない。
固唾をのんで見守っていた妖精さん達が、彼女を頼む、と強い意志を飛ばしてくるのに、うんと頷く。
「大丈夫。大丈夫だから……絶対死なせたりしない……。大丈夫、俺ならやれる……」
人が死ぬなんて、ない。艦娘が死ぬなんて、それも、こんな幼い子が……そんなのありえない。
ありえないなら、それはないって事だ。だから、大丈夫。この子は死なない。
スライムが染みつかない布を捨てて、手で直接すくう。それを、彼女の傷へと擦り込むために、手を伸ばす。
「っ、う、ぐぅう……!」
「……!」
腕の傷にスライムを塗り付ければ、傷が痛むのか、それとも別の要因か、今までにないくらい彼女が苦しそうにした。
それでも、傷が治り始めるのを見た俺は、手を止めなかった。
非難するような青髪の妖精さんの目も、不安げな茶髪の妖精さんの目も、気にしていられない。
ただひたすらに「大丈夫」を繰り返しながら、俺は手を動かし続けた。