島風の唄   作:月日星夜(木端妖精)

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第四話 看病

「大丈夫ですか!」

 

 波打ち際に伏せる少女を見つけて、さっと血の気が引くような感覚とともにバケツを取り落とした俺は、安否を確認しながら少女へと駆け寄った。近寄ってみてわかる少女の小柄さ。投げ出された両腕にはよくわからない物体が取り付けられている。それと似たような物が少女の背にもあった。

 

「意識は……!」

 

 ない。

 問いかけにも反応がなかったから、察しはついていた。

 すぐ傍にしゃがみこんで、口元に手を寄せる。息をしていない。いよいよもってパニックになりそうだったが、荒くなりそうな息を無理矢理に飲み込んで、重く濡れた少女の黒髪の中へと手を潜り込ませて、首筋に触れた。脈は……だめだ、わからない。

 

「素人知識じゃ……ああ、どうしたら……!」

 

 焦りばかりが募って、早口で呟く。その内容すら頭に入らない状態で、無意味に脈の位置を探ろうと指を動かす。もしかすれば既に手遅れかもしれない人間に触れていると思うと、指先が震えて、なおさら上手くいかなかった。

 

「そうだ……!」

 

 何度やってもわからない中で、奇跡的に打開策を閃く。それは、防護フィールドを纏う事だった。艦娘としての技能を引き出し、能力をアップさせれば、指先から伝わる冷たい体温の感覚ははっきりと感じられるようになった。

 気分の高揚が焦りを吹き飛ばしていく。頭の中にかかった靄が晴れるような清々しさ。それでもまだ、事態に対する危機感は消えない。

 鋭敏な感覚を駆使して脈を探り当てれば、たしかな血流を感じる事ができた。血が流れている。心臓が動いている。……まだ、生きている。

 

「でも、息が」

 

 呼吸がない。もう一度口元に手を寄せて確認してみても、息をする気配はなく、少女は危険な状態にあるといえた。

 こんな場所にいるのだ、きっと溺れたのだろう。なら大量の水を飲んでしまっているのかもしれない。吐き出させれば息は戻る? 人工呼吸をしなければ無理か?

 それもわからない。そんな知識は持ってない。

 乱暴に額を拭って前髪を退かす。汗は流れていない。全身が熱を持つような寒気に襲われているのに、体は正常だった。とにかく、こういった場合の対処法を必死に思い出そうとしつつ、まず気道の確保を試みようとして、彼女が身に着けている背中の機械が邪魔で、仰向けにできない事に気付いた。

 考える事無くそれを外そうと手をかけ、覚えのある感触に目を細めた。鉄に近い何か。これは……?

 今さらながら、それが何かに気づく。認識すればすぐにわかった。これは、艤装の一つだ。おそらく艦橋(かんきょう)と呼ばれるもの。つまりは、彼女は艦娘なのだ。それを認識しても、俺に驚きや何かはなかった。それどころではないからだ。それより、艤装がどういう訳かボロボロなのが気になった。この酷い損傷具合は……いや、少女自身の服や肌にも傷があるのを見れば、深く考えずともわかる。ダメージを受けて中破か大破している状態なのだろう。その上で呼吸が停止している。非常にまずい状態であると言えた。一刻も早く息をさせなければならない。

 そのためにはこの艦橋が邪魔なのだが……!

 片手で掴んだまま少し持ち上げると、少し引っ掛かりを覚えた直後にビッと短い音がして、あっさりと外れた。機械上部と下部の両端から、途中で切れた青色の帯が垂れている。どうやら辛うじて繋がっていたのにとどめを刺してしまったらしい。

 悪い事をしたかもしれないが、今はそんな事を気にしている場合ではない。ザッと砂の上に置いて、今度こそ少女を仰向けに転がす。だらんとした腕が揺れ動き、重く濡れた黒髪が砂粒を纏わせて流れた。

 

「……あ」

 

 目を伏せてぐったりとしている少女の顔は、果たして、見覚えのあるものだった。

 艦娘。駆逐艦。朝潮型の一番艦。

 彼女の名は朝潮だ。死に体のように青褪めた顔で気絶する姿などは当然見た事ないが、その姿は三次元に描き起こしても、ゲームで見た姿そのものだった。

 

「ゃ、んな場合じゃないって」

 

 自分以外の艦娘との初遭遇に、今さらながらに驚愕するのも数秒、すぐに気を取り直して、うろ覚えの応急処置を施す。気道の確保は顎を上げて……それから、心臓マッサージ、を……?

 焼け焦げて破れたブラウスから覗く、薄青色のジュニアブラが覆う僅かな膨らみに一瞬ためらったものの、人命救助に煩悩の入り込む余地などないと頭を振って、すぐさま心肺蘇生に取り掛かった。

 人工呼吸には足踏みしたが、繰り返し胸部を圧迫しても息を吹き返さない少女に、躊躇いよりも焦りが勝って、唇を重ねて息を吹き込んだ。いつか感じた強い塩気と生々しい柔らかさ。これはノーカンだ、と頭の奥で誰かが言った。

 ああもう、馬鹿な事を考えている場合ではないと何度言えばわかるのだろう。人の命がかかっている局面でそんな事を思い浮かべるとは、自分のあほさ加減に心底呆れてしまう。

 根気よく心臓マッサージと人工呼吸を繰り返して、数分経った頃に、ようやく少女……朝潮が自力での呼吸を始めた。

 

「ぅ……」

「っ! 大丈夫!? 聞こえますか!?」

 

 顔をしかめ、呻くように身動ぎした朝潮に呼びかけるも、反応は返ってこず、まだ安心できる域ではないと判断する。

 ええと、息を吹き返した後は、安静にさせて、救急車を……ああっ、救急車なんて呼べないし、呼んでもこんなとこには来られない!

 ではどうすればいい。彼女が意識を取り戻すまでこのままここで待つか?

 いや、でも。

 先程から幾度か触れた彼女の肌から感じる体温は低く、冷え切ってしまっているのがわかっていた。

 だから、たぶん、俺がするべきなのは彼女の体温を平常まで回復させる事だろう。

 

「ごめんね……!」

 

 彼女の両腕に備えられた、壊れた艤装を慎重に取り外して横に置く。彼女の体を運ぶには、それらは邪魔になるから、そうするしかなかった。

 初めて触れた武器や装備に感動する暇など無く、彼女の手を胸の上へ交差させて置き、首の下――いや、脇と膝の下に腕を差し込み、立ち上がると同時に持ち上げた。ぐったりとして重い体は、しかし苦も無く持ち上がる。今の俺にとって、彼女は羽毛も同然だった。垂れた髪が腕を濡らす。脱げかけたサンダルのような靴がぷらぷらと揺れ、足には水滴が伝っている。体に密着させるように抱え込めば、いっそう氷のような冷たさが伝わってきて、これが人の温もりだとは信じられないくらいだった。

 ザリ、と砂を削る。

 

「飛ばすよ」

 

 なんとなしに呟いて、砂を蹴散らして走り出す。当然彼女の体を気遣いながらだが、全速力で住処へと向かった。

 

 

「ただいまっ!」

 

 家に飛び込んでいの一番に、普段自分が寝ている場所へ彼女を寝かせた。靴を履いたまま上がってしまっている事や、彼女に付着した砂や何かが毛布の上に散らばってしまうのは、この際仕方ない。

 素早く部屋の中を見渡し、端っこに駆け寄って、そこに敷かれている毛布を巻き取る。当然、汚れている方を内側にして、だ。それを、彼女の下へ持って行って、枕代わりに頭の下に敷いた。重く濡れた髪に触れると、手袋にじわりと染みができる。手の甲で彼女の頬に触れれば、布越しに伝わる低い体温に、改めて、まず体を温めてやらなければ、と思った。

 体を温めるのには二種類の方法がある。外から暖める方法と、内側から暖める方法だ。この場合、後者は選択できない。内側から――つまりは、温かい飲み物などで彼女の体温を高めるには、彼女に意識が戻っていなくてはならない。よってとれる選択は一つ。湯を沸かして、布で彼女の身を拭き、毛布をかぶせてやる事だけだ。

 一瞬温泉に浸からせてやれば、と考えたけれど、それがもたらす危険性を想像もできなかったので、その手段はとれなかった。今も行き当たりばったりとはいえ、確証の無い方法を施すには、この状況は重すぎた。自分で判断した結果だけど、俺は今、一つの命を預かっているのだ。

 息を取り戻したばかりの彼女には知れた事ではないだろうが、その責任と義務感が、重くのしかかってきていた。

 こんなに身近に死が迫っている人間を――艦娘だが、艦娘も人だ――、俺は二十数年の人生の中でも、見た事がなかった。だから、こんなにも動揺している。絶え間なく流れる思考は、そのほとんどが意味をなさず、体の動きを鈍くさせるだけの邪魔者になっていた。

 それでも、緩やかに体は動く。

 

「ええと……」

 

 ポリタンク。そう、ポリタンクの水を、外の鍋に移して、熱湯を作らなければ。

 ようやく明確な行動が頭に浮かんで、すぐさま実行に移す。水の入ったタンクを抱えて外に飛び出し、火を起こして鍋をかける。そわそわと身を揺らしながら沸騰を待ち、防護フィールドの性能を信じて、熱せられた鍋を直接掴んで持ち上げた。

 

「あつっ……くぅ……!」

 

 当然、火傷しそうなほど熱い。でも、我慢できないほどじゃない。

 願った通りの性能を発揮してくれた防護フィールドに感謝しつつ、家の中に鍋を運び、少女の頭側の、少し離れた位置に置いた。

 

「…………」

 

 そこでまた、彼女を見つめたまま動きを止めてしまう。緩やかに上下する胸。青白い頬。ばらけた髪。投げ出された腕に力はなく、半分死んでいるような印象を受けた。

 破けた個所から露出する肌は、切り傷だったり打撲痕があったりで痛々しい。時折彼女が呻くのは、それが原因なのだろう。

 手当てを。

 短く考え、座ったまま彼女の横へ寄る。剥き出しの肩に手を当て、焼け焦げた布に指を引っ掛け、それから、うんと頷いて、吊りスカートの帯に手をかけた。

 躊躇い交じりにするりと外す。彼女の背に敷かれた分の帯は引き出せないが、腕をとって持ち上げれば、とりあえず服を脱がせるのに支障がない状態にはできた。

 ――そう。脱がせるのだ、服を。

 彼女は汚れている。そのままの意味で、体中、煤だったり、砂だったりで汚れているのだ。

 このまま毛布をかぶせるよりかは、熱く湿らせた布で体を拭いてやって、その後に毛布に(くる)んだ方が良いだろう。

 これは俺の浅い考えでしかなく、それが正しい対処かわからないけど、そうした方が良いという考えの下に実行に移そうとしていた。

 手は止めない。

 止めると、今自分がしている非常識な事――常識的ではあるが、内面を考えれば非常識というか、犯罪的というか――に頭がいってしまって、手当てどころではなくなりそうだから。

 今でさえ危うい。女性経験に乏しい俺には、少女の肌に触れる事や、あまつさえ脱がせるなんて、刺激が強すぎる。

 こんな幼い少女を性的な目で見るなど、よほど愚かで倒錯的で不健全だが、そこはどうしようもなく、自分では制御できない部分だった。だが、そんな気持ちは焦りや彼女を救いたいという気持ちに比べれば、小さなものだ。

 だからこそ、こうして彼女の服を脱がせる事ができている。俺がシマカゼとして生きる事を誓っている事も後押ししているのだろう。シマカゼは艦娘で、当然少女なのだから、同じ少女にそんな欲望は抱かない。だから俺がそんな気持ちを持つのは間違ってる。そう思ってしまえば、本当にその通りになる気がした。

 

「ぅ……」

 

 眉を寄せ、苦しげに呻く彼女のブラウスのボタンを外して開く。片側が上半分消失してしまっているから、手間はかからなかった。先程と同じように腕を持ち上げ、脱がせていく。ジュニアブラも外さなければ。

 砂にざらつく薄青色の布を苦労して外し、スカートや下着も同じようにしていく。なぜだか俺は泣きそうになっていた。その感情の推移は、自分でもよくわからなかったけど、黒いハイソックスを脱がし終え、服を畳んで脇に置いた時には、感情の波は治まっていた。

 この服も洗ってやらないと。……その間のこの子の服はどうすればいいんだろう。

 新たな問題にぶつかりながらも、大きめな布の切れ端を持ってきて、数度畳んでから湯に浸した。もちろん、手袋は外してある。一見清潔に見える白手袋だが、何が付着しているかわからないし、第一わざわざ濡らす意味もないので、今は足の横に無造作に置いてある。

 

 布を挟む肌色の指が、鈍く暗い鍋の色に染まる湯に沈むと、ひりつくような痛みを感じた。火傷の前兆? 火傷の最中? それとももう、火傷を負ってしまっているのだろうか。防護フィールド越しに触れる湯の熱は、ただただ痛くて、よくわからなかった。

 布を絞る。ギュ、ギュと音が出るくらいに固く絞って、余分な湯を鍋に戻す。滴り落ちる湯の一滴一滴に映るシマカゼの顔は、焦りを内包しているとは思えないほど冷めていて――。

 

「…………」

 

 零れて湯面を揺らすまでの一滴をじっと見つめて、自分自身と目を合わせ――――ふと我に返れば、両手にそれぞれ千切れた布を握っていた。

 

「……っ、なにやってんだ俺」

 

 何をぼうっとしているのか知らないけど、今はそんな事してる場合じゃないって何度も……ああ、自分に説教したって意味なんかない。さっさと立って、新しい布を取ってこないと。

 

「…………」

 

 そう思っているのに、どうしてか俺は、布を手にした両手を膝に置いて、朝潮へと顔を向けていた。

 薄く上下する胸。自分以外の呼吸音。低くても、そこにある人の熱。

 この数日間を通して、俺はこの世界を現実だと認識していた。でもそれは……それも結局現実逃避の一時凌ぎに過ぎなかったのかもしれない。

 だって、俺は今、こんなにも目の前の少女を現実として重く受け止めている。自分以外の存在――それも、瀕死――を通してようやく、本当にこの瞬間を現実なのだと認識できたのかもしれない。

 だからこそ、焦りや何かが消えてしまうくらい、彼女の生殺与奪を握るこの状況が、息苦しくてたまらなかった。

 怖い。

 命という確固たるものに向かい合うのが、怖い。

 夜の闇の向こうを直視するのと同じような恐怖だった。

 その気持ちが、いったいどこから、どのような要因でわきあがってくるのかはわからなかったが、ともすれば震えてしまいそうなくらいで、知らずの内にきつく手を握り込んでいた。

 

「……っ、ぁ」

 

 苦しそうに顔を歪める彼女を見たのは、今日何度目か。眉を寄せ、体を強張らせる彼女に、ようやっと正気を取り戻す。そうすると、先程まであった恐怖は影も形も無くなって、拍子抜けしてしまった。

 ……何を恐れていたのだろう、俺は。

 膝に手を当てて立ち上がり、部屋の奥に積まれた雑貨の前に移動する。尖った石や綺麗に割れた瓶に、布の切れ端が何枚か重ねて置いてある。そこへ千切れてしまった布を戻し、他の、比較的清潔そうな布を選んで鍋の(もと)に戻った。

 熱湯に浸し、揉み洗いをして、汚れを落とす。目に映るほどの何かが湯に溶けだすなんて事はなく、ただ波紋だけが広がるのに、よし、と小さく頷いた。この布ならば、彼女の体を拭いても大丈夫だろう。

 今度は布を千切ってしまわないよう、力加減に気を付けて布を絞り、一度広げてしわを伸ばしてから畳んだ。

 朝潮へと向き直る。そうすると、傷ついた裸体を晒す彼女の姿に対して、体の中のどこか深いところで濁った気持ちが流れるのに、むっとむくれてみせた。

 不謹慎。

 傷つき倒れた艦娘に、そういう気持ちを抱くんだ。へぇ、そうなんだ。

 つまり君はそういう奴だったんだな。

 

「…………」

 

 自らに蔑ずまれた俺は、そんな心の移し方をした自分に呆れながらも、それで汚い欲望から完全に目を逸らす事ができた。これは、なかなか難しい事だった。

 痛々しい傷跡や打撲(こん)があり、顔が青ざめていようと、彼女は紛れもなく美しい少女だ。端正な顔立ちは今は陰っているが、初心な俺の心をくすぐるには十分だった。

 しかしそれは、さっきまでの話。

 自分を戒め、正しい心を持とうと努力した今の俺には、彼女は庇護するべき対象にしか見えない。だから冷静に、彼女の頬に布を当て、汚れを拭き取り始めた。

 膝立ちになり、前のめりになった俺の髪が流れて、彼女の頬にかかるのを手の甲で退()かし、髪が彼女にぶつからないよう、膝を擦って移動して位置を調整する。伸ばした左手は、彼女の顔のすぐ左に。曲げた右腕の先に持つ布で、海水にふやけた彼女の唇をそっと(ぬぐ)った。

 布越しの指に、柔らかな肉の感触がして、ふいに脳裏に、唇を重ねた瞬間が浮かんだ。あの時は必死だったから、感覚のほとんどを感じられていなかったのだが、どうやら脳は鮮明に覚えていたようだ。息を吹き込むために抉じ開けた口。離れた際に伸びた細い光の糸……。

 唇を重ねたのは、一度や二度ではない。幾度となく行われたそれは、確かな熱を俺の唇にも残していた。

 

「…………やめた方が良いよ、そういうの」

 

 酷い妄想が脳を駆け巡るのにぼそりと零して、止めていた手を動かす。いつまでも彼女を裸でいさせる訳にはいかない。湯の熱は、さほど彼女の体を温めてはくれないだろう。それどころか、冷めてしまえば、余計に彼女の熱を奪うはずだ。

 首筋を拭い、肩を流れ、二の腕に斜めに走る傷の上をそうっと滑らせて、手の平や指の合間も綺麗にする。一度体を起こして鍋へ布を入れ、ついでに湯の温度を確認する。立ち上る白煙を見てわかってはいたが、まだまだ相当熱い。すぐには冷めないだろう。

 湯が水に戻ってしまう前に決着をつけよう。

 口を引き結んで気合いを入れ、ぎゅうっと布を絞ってから、再び彼女に向き直る。……体の横に手を置いて覗き込むようにして、はたと気付いた。……さっき顔を拭いた時の体勢もそうだけど、これでは覆いかぶさってしまっているような……。

 ううん、これで上手く体が拭けるのだから、この際体勢など気にしていられない。意識してしまうと、消し去った筈の煩悩が胸の内を駆け巡り、そのたびに心臓がどんどんと揺れるのだけど、ああ、もう。

 

「速く終わらせちゃおう……」

 

 自分に言い聞かせるような言葉を口にしつつ、少しスピードを上げて、彼女の胸を布越しに撫ぜた。

 起伏の無い肌をこれ以上傷つけないように、慎重に、しかし、できる限り速く手を滑らせる。

 

「ぅ……!」

「あっ、あ、痛かっ……た?」

 

 

 びくりと震える朝潮に、こっちまでびっくりしてしまって体が跳ねた。びょいんと揺れ動いたうさみみカチューシャが重く髪を揺らす。気遣うように声をかけてみたが、少し息を荒げている以外に反応はなかった。……まだ、意識は戻っていないようだ。

 ほう、と息を吐いて安心する。……安心? なぜ今俺は安心したのだろう。

 理由がわからず首を傾げると、また、頭の上でリボンが揺れた。ちょっと重い。いや、だから、今は余計なこと考えてる暇はないんだってば。

 何か考えるから、思考が逸れて手が止まってしまうのだ。だったらもう、何も考えずにやろう。

 お腹を拭くのも、足や股を拭くのも、もはやただの映像としてしか受け取らない。頭の中は空っぽだ。反復練習した作業をこなすように、ひたすら心を無にして取り掛かれば……ほら。

 

「ふぅい」

 

 ぐい、と額を拭って一息つく。やっと彼女の体を拭き終える事ができた。だが、まだだ、何かを考える前に立ち上がって乾いた布を取ってきて、再度彼女の体を拭いた。必要な事だ。濡れたままにしていては風邪を引いてしまうかもしれない。いや、今の彼女の状態だと、そのまま命を落とす可能性も――。

 

「髪も拭いちゃいましょうねー」

 

 ふきふき、ふきふき。

 擬音を口にしながら彼女の頭を抱え、大雑把に髪を拭いていく。さすがに水分を吸い切る事もできなければ、砂や汚れを完全に落とす事もできなかった。

 ん……。どうでもいけど、今、俺、凄く幼稚だった気がする……。

 何も考えないというのは、馬鹿になるという事ではないのに。

 

 いつも俺が使っているとっておきの掛布団――といっても、ただの毛布だけど――を彼女の肩までを覆うようにかぶせて、一応の完了とする。

 隙間ができないように、彼女の体のラインに沿うように毛布を詰めて、熱が逃げないようにし、数秒、彼女の顔を眺めた。時折呻くのは変わっていないが、ほんの少しだけ顔色が良くなったと思えるのは、気のせいだろうか。

 鍋の中身を外に捨てて、部屋に戻れば、今度は水の入った瓶を手に取る。冷えてなどはいないが、熱くなってもいない。その中身を鍋にいれ、空になった瓶を転がして、もう一本手にし、彼女の枕元に戻った。

 水を張った鍋は、もし彼女が熱を出した時の看病のため(現状、そうなる可能性は低そうだけど)と、彼女が目を覚ました時、すぐに水分を補給できるようにするため。

 正直どういう風に対応すれば彼女の命を救えるのか、未だにわかっていないから、備えられるだけ備えておこうと思ったのだ。

 

「っ、ふ、ぅ……!」

 

 身を捩るように苦しむ彼女にはっとする。ただ眺めているだけでは、きっと救えない。

 でも、体を拭き、体温を保たせようとする以外に、今の彼女に俺ができる事ってあるんだろうか。

 はっ、はっと息を荒げ、俄かに汗を流し始める彼女に、とりあえず、汗を拭く事はしてあげられそうだけど、と思ったものの、それ以外には何も思いつかなかった。

 

「……ううん」

 

 いや、一つだけ、思いついた事がある。

 といっても、彼女の容態を劇的に回復させる方法とかではない。

 ただ、今苦しんでいる彼女が、病床に伏せっている誰かの姿とかぶって見えたから、だから……。

 毛布を突っぱねるように端から飛び出してきた朝潮の手に目を落とす。

 それから、壊れ物を扱うように、そっと手を握った。両手で包み込んだ彼女の左手は、まだ冷たかったけれど、少しずつ熱を取り戻せているように感じられた。

 カーペット代わりの布に手の甲を押し当て、彼女の手が、自然な高さになるよう調節する。負担はかけさせたくない。たとえそれが、腕を持ち上げるだけの小さな力でも。

 

 数時間もすると、だんだんと朝潮の顔から力が抜けてきて、最後には、呻く事もなく静かになった。

 死んだのではない。彼女の手には、今やしっかりとした熱が戻っている。……少し熱いくらいだ。それは、冷たい彼女の体を知っているからそう感じるのだろうか。

 穏やかな寝息をたてる彼女をしばらく眺めていた俺は、そうした時と同じように静かに手を離すと、立ち上がって、家の外に出た。

 強い日差しが降り注ぐのに、手でひさしを作りつつ空を見上げる。

 

「救えた……の、かな」

 

 呟きは、風に流されて消えた。

 まだわからない。幾分顔色が良くなったと言っても、彼女の正確な状態は、医者でもない俺にはわからなかった。

 急に死んでしまうかもしれない。そうでなくとも、凄く苦しむかもしれない。

 そう思うと、あまり傍を離れたくないのだけど、どうしてか俺は外に出てしまった。

 たぶん、頭の中や胸の中で渦巻く様々な感情のせいだと思う。

 艦娘に出会う。その艦娘を救う。艦娘がいる。艦娘以外もいる。世界が広がっている。時が流れている。

 そんな、現実味のある感情や常識がいっしょくたに襲ってくるから、その処理に手間取っているのだ。

 いったい何から手をつければいいのかわからない。ゲームではないから、攻略本なんかない。俺の行動のどれが正解かも、わからない。

 それが現実だ。それを実感していた。

 腕を回し、肩を回し、背中に両拳を当ててぐいっと背を反らせて、伸びをする。うぅぅー、と低音ボイス。

 伸びが終われば、頭を振って、二度、頬を軽く叩く。

 意識を切り替えるための一連の動き。

 

「……まずは、えっと……そうだ、そうだった。彼女の傷を治してあげなきゃ」

 

 口に出して確認する。

 傷をそのままにすると、大変な事になるという知識くらいは、俺にだってある。

 そして、その傷を治す手段を知っているのだから、これを使わない手はない。

 あの温泉だ。緑色のスライムみたいなのが流れ込んでいる温泉のお湯。……艦娘である俺の傷に効くのなら、同じ艦娘である彼女に効かない道理はない。

 ……俺が艦娘であるのかは、ちょっと断言できないかもだけど。

 

 ああ、温泉に行く前にまずは海岸へ行こう。砂浜に空のバケツを置いたままだ。あれがあれば、より多くの湯を汲めるだろう。持ち手があるから、運ぶのも容易だ。

 

「っし、……私、ふぁいとっ」

 

 気分を盛り上げるためにロールプレイをしつつ、胸元で拳を握り込んで、おー、と抜けた声をあげた。

 さあ、日が出ている内に海岸へ急ごう。


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