島風の唄   作:月日星夜(木端妖精)

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シャッシャッシャッ


抜けがあったので一文追加しました。


   小話 『提督ノオ仕事!』

 金曜日の鎮守府は、いつもと変わらず静かで、ところどころ騒がしい。

 朝の陽射しが差し込む執務室では、この鎮守府の司令官である藤見奈仁志が、積み重なった書類と格闘していた。

 

「お茶が入ったのです」

「ありがとう。そこに置いてくれ」

 

 隣の部屋から、秘書艦の電がおぼんを持ってやってきた。金と白からなるティーカップが重厚な木机の上に置かれるカチャカチャという音に、藤見奈は少しの間手を止めて耳を傾けていた。

 

「……どうしたのですか?」

「ああ、いや。……君の周りの音は、いつも綺麗だな、と思って」

 

 クサい台詞を恥ずかしげもなく口にする藤見奈に、電は自然に笑みを零して、自分の机にもティーカップを置いた。

 おぼんを抱えて藤見奈の隣に移動すると、彼が作成していた書類を覗き込んで、感心したように息を吐いた。

 

「やっぱり司令官さんは、仕事が速いのです」

「そうか? 他と比べた事がないからよくわからないが……電がそう言うのなら、そうなんだろうな」

 

 分厚く積み重なった書類は、すでに片付けられた物だ。規則正しく生活し、これだけの仕事をこなすのは、さすが多くの艦娘に慕われる提督なだけはある。

 おぼんを片付けてきた電が、今度は書類の束を隣の部屋へ運んでいくのを眺めて、藤見奈はティーカップに口をつけた。華やかな香りの紅茶は、朝に飲むのにちょうど良い爽やかさだ。

 しかし藤見奈の表情は曇っている。

 多少疲れはあるが、それが原因ではない。仕事も、今やるべき事は粗方片付いている。

 では何が彼に渋面を作らせているかといえば、この書類仕事をする事になった原因だ。

 そもそも、朝にやる書類関係の仕事は、いつもはこんなに多くない。多い時といっても、精々が十枚かそこらだ。食後の紅茶を楽しみながらでも終わる程度である。

 それがなぜこんなにも多いかといえば、つい先日、第四艦隊と第十七艦隊が合同で当たった海上護衛任務が原因だ。

 任務自体は成功している。艦娘達は一様にボロボロだったが、誰一人欠ける事なく帰還している。その傷も、すでに癒えているだろう。商船の乗組員達からは、感謝する旨の手紙と品が送られてきている。一緒に請求書も届いているのはご愛嬌だ。本来護衛対象が損害を出した時、その修理費の一部をこちら側で負担するという取り決めが行われているのだから、請求書がくるのは真っ当な話なのだが、水上バイク一台分の請求なんかも丸々きていて……それはまあ、藤見奈の悩みにはあまりなっていないのだが、一端である事は確かだった。

 こめかみを揉む仕草をしながら紙面を眺めた藤見奈は、電が戻ってくると、上目でその動きを追った。彼女が隣に座り、筆を執るのを見届けてから、目をつぶってまぶたの裏で視線を外すと、背もたれに背を預けて伸びをする。

 

 なんだか最近、大変な仕事が増えている気がするな、と藤見奈は思った。

 

 それもこれも、海上に突如として現れる霧が元凶だ。

 原因不明の霧があるから朝潮が行方不明になり、そして一人の艦娘を連れて帰ってきた。正体不明の霧があるから、高練度を誇るが、少々手に余る叢雲がこの鎮守府に転属してきた。そして、意味不明な霧の発生はとうとう目に見える形で藤見奈達の前に立ちはだかった。

 近海に発生し、強敵を送り込んでくる、異様な霧。

 上層部ではこれまでにその霧は、艦娘を攫う神隠しの霧と呼ばれていたが、藤見奈が見聞きした事を合わせると、何か超然とした者の意思を感じさせられて、身震いした。

 

「司令官さん?」

「いや、大丈夫だ」

 

 藤見奈の些細な動きを見逃さず、電が声をかければ、藤見奈は頭を振って安心させるように微笑んだ。

 体の奥底を冷やす、畏怖に似た感情を誤魔化すように、指を組んで両肘をつく。

 海上護衛任務から戻った面々は、服や体こそ大きな戦闘を思い起こさせるような損害を負っていたが、みんな、顔は晴れやかで、瞳は輝いていた。

 全国規模で驚異的に思われていた霧の発生を切り抜けただけでなく、撃退にまで成功した。話に聞いていた『レ級』と呼称される個体は出現しなかったようだが、それはあまり気にならなかった。

 それぞれが、世界に貢献した喜びと、困難に打ち勝った自分達への自信と信頼、提督である藤見奈への期待を持っていた。そういった感情が折り重なって、彼女達を輝かせていた。ただ一人を除いて。

 

「……彼女の様子はどうだい」

「……島風ちゃんの事なら、何も変わった事はないのです」

「そう、か」

 

 あの時、報告のために、体を押して執務室へやってきた面々は、藤見奈の労いの言葉に、些細な仕草や言動に笑みを浮かべていた。藤見奈が気にするシマカゼもそうだ。たしかにシマカゼは、並んだ艦娘達の真ん中に押し出され、頬を朱に染めてぎこちない笑みを浮かべていた。

 正面にいた藤見奈だからこそだろうか。その笑みに、どこか陰りを感じたのは。

 それだけではない。痛みを堪えるかのように体を縮こめていたし、心ここに在らずといった風にも感じられた。

 全て些細な動きや表情の変化から読み取ったものだ。藤見奈にも、それが何か悪い事でそうなっているのか、怪我の痛みや、霧の中で出遭った強敵との戦闘が尾を引いているのか判断付かなかった。

 数年かけて培われた司令官としての『なんとなく』で、秘書艦の電や、助秘書の叢雲にそれとなくシマカゼの様子を見てもらっていたのだが、数日間の観察の結果は双方ともに変わりなく、いつもと同じ、だった。

 入渠から上がってすぐ、通常の生活に戻ったシマカゼにおかしなところはない。今は第四艦隊、第十七艦隊は一週間の休みとなっているのだが、藤見奈が頭の中のどこかで危惧していたような問題は未だに起こっていない。

 筆を手に取り、動かしながら、どこか引っ掛かりを覚えた藤見奈は思索を続けた。

 

 やがて報告のための書類が仕上がり、それを纏めて、後は郵送するだけ、となると、電は他の書類を持って来て一緒に纏めながら、少し休憩しましょう、と藤見奈に提案した。

 椅子から離れ、窓から差し込む光を体全体で受け止めて大きく伸びをしていた彼は賛成し、手早く後片付けをすると、軽くつまめる駄菓子を用意して紅茶を楽しんだ。

 

「……あの子は最近、自分の能力が僅かずつ落ちているのを気にしていたな」

 

 ソーサーにティーカップを置いた藤見奈は、誰にともなく呟くと、立ち上がって窓際に移動した。

 シマカゼの身体測定が行われたのは、もちろん藤見奈の指示だ。通常を上回る彼女の力に目をつけ、報告を聞いて確信し、能力を伸ばすために集中的に練度を高めてきた。

 だがここ数週間の間に、緩やかながらも右上がりだった成長の曲線が平行になり、そして下り始めていた。シマカゼは自分の変化に戸惑い、悩んでいたはずだ。

 

「……それか」

 

 彼がシマカゼに見た陰りは、それだったのだろうか。

 少しの間顔を合わせていなかったから、彼女の戸惑う様子を忘れていて、改めて向かい合った時に認識し直したというだけなのだろうか。

 何も起こっていない現状を顧みるなら、それが一番有力な説だろう。藤見奈の勘違い。彼女には、今まで以上の悩みなんかは増えていない。

 

「だといいんだがなあ」

 

 自分がそう決めつけて、いざ何か起こったらを思うと、藤見奈は不安になった。

 直接「何か悩みはないか」と聞いてしまっても良いのだが、艦娘というのは不思議なもので、この世界で形になってから過ごした時間で多少変わりはするものの、多くは外見に見合った精神年齢を持ち合わせている。つまりは、駆逐艦のシマカゼを相手にするのは、年頃の女の子を相手にするのと同じなのだ。

 もし悩みがデリケートならば、見た目の上では父と子ほど――少し苦しいが、年の離れた兄と妹くらいの藤見奈にずかずか踏み込んで欲しくないかもしれない。そして一度踏み込んでしまえば、酷く傷つけてしまう可能性もあるのだ。

 艦娘達が提督に寄せる無条件の信頼を当てにして、無神経に事に当たるのは上手くない。

 無骨な手でシャボン玉を包み込むように、丁寧に、優しく……。常に真剣に向き合わなければ、心は繋がらない。

 

 そっと隣に寄り添った電が、一緒になって窓の外を覗き見た。

 時計塔の根元、三階の中心に位置する執務室の窓は、建物の背中側についたこの一枚だけだ。

 そこから見えるのは、雄大な海と、こじんまりとした港と、建物の下の通り道。

 藤見奈は、毎朝早くにそこを走る少女の姿を、コンクリートの道に思い描いた。

 

「いつも、まだ空が暗い時間に、あの子はここを……ちょうど、この下を通る」

 

 後ろ腰で手を組んで、穏やかな笑みを浮かべて言う藤見奈を、電は何も言わずに見上げた。

 

「走っている時の彼女は、楽しそうなんだ」

「楽しそう……ですか?」

 

 不思議そうに聞き返す電に、藤見奈は苦笑して、彼女を見下ろした。

 

「ああ。髪をなびかせて、風の中を走っていく。その時の彼女には、悩みや何かは感じられないんだ」

「……走ると、気分がよくなるのですか?」

「はは、まあ、あまりわからない話かな? ……走るのって、楽しいんだ」

 

 いまいち理解できていない様子の電に、藤見奈は窓の外に顔を向け、ゆっくりと語った。

 

「熱くなった体も、重い脳も、走っている時はどこか遠くにあって、見えているのはずっと続く道だけで、流れる景色の中にいると、まるで別の世界にいるような気分になる」

 

 俺はそれが好きだった。

 そう締め括った藤見奈に、電はほのかに目を輝かせて、「なんだか、電も走ってみたくなったのです」と言った。その後に、頬を膨らませて床に視線を落とすと、「そのお話は、初めて聞いたのです……」とふてくされたように呟いた。

 

「ごめんな」

「……司令官さんが謝る事じゃないのです。司令官さんの事を知れて嬉しいのです。でも……でも、司令官さんの事を知らないのが……電の知らない司令官さんがいるのが、どうしてか悲しいのです」

「ごめん」

 

 俯いたままの電に、藤見奈は、小さな肩に手を置くと、重ねて謝った。

 頭を振って、謝らなくて良い、と示す電。肩を撫で、揺れる髪を手に取って梳き、頭を撫でた藤見奈は、間を置いて、こう話した。

 

「俺の親父は、陸上選手だった。走る事が好きで、才能があったから、長距離の種目で優秀な成績を残した事もあった」

 

 平和な時代、まだ深海棲艦がいなかった頃、幼い藤見奈に、彼の父は、走る事の楽しさを教えた。

 特別な事ではなく、誰でも、いつでもできる事。だから藤見奈は走る事に惹かれ、楽しむ事を目的に、そういったクラブや部活動に所属していた。

 そうして走っていられたのは、幼い時だけだ。深海棲艦が現れてしばらくすると、娯楽を中心にスポーツが規制……圧迫される動きがあった。それはすぐになくなったが、藤見奈が部活をやめるきっかけになった。

 艦娘が現れ、人類の敵と戦う準備が始められると、もうそういった活動に戻る事はできず、才能を見込まれた藤見奈は、試験的な育成校に進学する事になった。

 結果は、この鎮守府の二人目の提督としての現在だ。

 

「走る事はやめたが、俺の気持ちはまだ走り続けてる。君達と一緒にだ。この戦争が終わるまで、きっと俺は止まらない」

「司令官さんは……楽しい、ですか?」

 

 走る事は楽しい、と聞いていた電は、今なお走る事をやめていないと言う藤見奈にそう問いかけた。

 ああ、と藤見奈は頷いた。それは、戦争を楽しんでいるとか、そういう意味ではなかった。

 

「君達と出会い、一緒に過ごして、こうして語り合う事ができるのは楽しいよ。俺が走るのをやめていたら、きっと今はなかった」

「そんなの、嫌なのです」

「大丈夫だ。やめないって言っただろ? 俺はここにいる」

 

 白い袖を握られて、藤見奈は優しい声でなだめながら、電の手に自分の手を重ねた。不安を拭い取ってやるように手の甲を一撫ですれば、電は力を抜いて、胸に手を当てた。

 

「ああ……なんの話だったかな」

「……最初は、この下を走る島風ちゃんの話をしていたのです」

 

 そうだった、と手を打つ藤見奈に、電は呆れを含んだ視線を向けた。

 彼の身の上話を聞けるのは嬉しいが、毎回こう、話していると脱線していくのは、あまりよろしくないだろうという思いからだった。それで色々聞けるのなら、電としては良いかもしれないが……司令官たるもの、しっかりしてもらわないと困るのだ。

 

「いつもは、楽しそうに走る彼女が、ここ数日は……」

「楽しそうじゃないのですか」

 

 そうなんだ。

 頷いた藤見奈は、自分の言葉に納得して、再度、そうなんだ、と頷いた。

 

「陰りがあった。あんまり楽しそうじゃなかった。ここから覗いていると、こっちまで気落ちしてしまうくらいで」

「やっぱり、悩みがあるのでしょうか」

「大きい小さいに関わらず、あるんだろうな。一つは彼女の能力の事。もう一つは……こればっかりはわからないな」

 

 肩を竦め、息を吐く藤見奈に、電は窓の外を見やって、シマカゼのもう一つの悩みとはなんだろうか、と考えた。

 藤見奈も一緒になって、何か思い当たるものはないかと記憶を探る。

 沈黙が、二人の間に漂った。

 重苦しかったりはしない、自然なもの。

 外の音が窓越しに伝わり、部屋の中を通り過ぎていく。

 やがて、何も思いつかなかった二人は、どちらからともなく顔を合わせた。

 

「……そういえば、司令官さん」

「なんだい?」

「最近は夜に目が覚めてしまう事が多いのですか?」

 

 ああ、と藤見奈は息を吐いた。

 日が昇る前に走るシマカゼの姿を何度も見ているというのは、そういう事だ。

 藤見奈は、ここ最近、ふと起きだしてしまう事が多くなっていた。

 というのも、前に一度、快眠のために早起きしすぎてしまった時、シマカゼの姿を見ていたのが原因かもしれない。

 それから、その時間帯に目を覚ましては、なんとなく窓の方へ寄って行って、通り過ぎていくシマカゼを眺めるのが日課になってしまった。

 

「体は温かくしてますか? 電も、ご一緒した方が良いのでしょうか」

「いや、そこまでは、しなくていいんだが」

 

 夏の時期なので、朝早く起きだしても寒さは無い。別の季節だったなら毛布の一枚でもかけなければ、窓の前に立つのは難しいだろうが、今はそうではない。

 

「司令官さんのお体に何かあったら、電は……」

「大丈夫だよ。ほら」

 

 心配性の電に、藤見奈は手を寄せてみせて、健康なのをアピールした。どこにも異常はない、そう伝えるために出した手を、電は両手でそっと包んで、自身の頬に当てた。手の内に流れる血の熱が、電の高い体温と混じり合った。

 

「明日、街の方で花火大会が催されるらしいね」

「青葉さんの広報誌に書いてあったのです」

 

 話題は、明日土曜に開催される花火大会に及んだ。

 二人は司令官とその秘書という立場だ。仕事を休んで街に繰り出すという事は、あいにくできない。

 窓から眺めようにも、街は反対側だ。この場に立っていても、見えるのは、様々な色に照らされる海だけだろう。

 それはそれで雰囲気はあるかもしれない。しかし電としては、ちゃんと空に咲く光を見たいようで、藤見奈はその気持ちを汲んで、こう提案した。

 

「明日、仕事を片付けたら、一緒に上に行こうか」

「上……三原先生の所でしょうか」

「ああ。あそこからなら、きっと何にも邪魔されずに、花火を見れるよ」

 

 時計塔の、上階付近。そこにある三原真の部屋は、不思議な造りをしている。藤見奈はその秘密の一端を知っていて、だから、電を誘ったのだ。窓の無いあの部屋は、しかし特等席なのだ、と。

 

「二人だけ、ですか……?」

「寂しいか? 三原さんに頼めば、もう少し人が入れるようにしてくれるかもしれないから……そうするか?」

「い、いいのです! 二人だけで、いいのです」

「あっ……そ、そうだな」

 

 電の言葉の本当の意味に気付いて、照れたように言い直す藤見奈に、「司令官さんは、少し鈍いのです……」と電は呟いた。

 

「……さ、そろそろ休憩は終わりにしようか」

「はい。……あの、司令官さん」

 

 窓から離れ、机の方へ向かおうとした藤見奈を、電が呼び止めた。

 ただ、それきり口を閉ざして、俯きがちに立つだけになったので、藤見奈は笑みを浮かべて窓の前に戻り、彼女の背を押して、机の方へ誘導した。

 何かをいいかけて言わずじまいなのは、電には珍しくない。その後も、何を言う訳でもなく別の事をし始めるから、こうしたやり取りは慣れたものだった。

 

 仕事をこなす二人の下に、シマカゼから外出許可を願う声が届いたのは、夕方の事だった。


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