霧が満ちていた。
日の光も月の光も通さない分厚い霧が、海を覆っていた。
何かの爆ぜる音がする。バチバチと断続的に……それと、燃える音。
海に沈みゆくものが最後に放つ力強い光。揺らめく炎が吐き出す火の粉は、白粒の霧を照らし、明かりの役割を果たしていた。
静かな海に、水音が響く。パチャ、パチャ……海面を歩行する音。ズルズルと、何かを引き
霧が押し退けられていく。奥から小柄な影が歩み出ると、この霧は、舞台に役者を迎えるように、自ら後退していった。
赤い光だった。
血色を瞳に灯す人型の、されど人でない者が、そこにいた。
レインコートに似た黒い皮を纏う、人類の敵。深海棲艦。
両手はコートに入った切れ込みに突っ込まれていて、腰から伸びる巨大な尻尾は、死んだように海面に横たわっていた。
『――――』
目だけで辺りを見回した異形――戦艦レ級と名付けられた少女は、誰にも聞こえない声量で短く呟くと、にぃっと口の端を吊り上げた。狂気の笑みだった。
周囲に広がるのは、炎を吹き上げる亡骸たち。
死体に囲まれてなお笑う少女……。なんてことはない。これは彼女が作り出した光景だった。
いつものように目障りな奴を、いつものように
だから今、彼女は機嫌が良かった。今なら、たとえ深海棲艦に敵対する艦娘が一人で自分の前に現れても、適当に甚振ってから死に方を選ばせてやろうと思えるくらいには。
すすり泣く声がした。
レ級の背後……霧の向こう側。
幼いような、それでいて、普通の女性のような声。
声を抑え、息を呑んで、涙を
『五匹』
くぐもった響きを持つ声が霧の中に広がる。
前触れなく、レ級が声を発した。
『壊シテヤッタ』
今日の天気は晴れだった……そんな風に、当たり前の事を当たり前に告げるみたいに、レ級が言う。
すんすんと、すすり泣く声。顔からゆっくり振り返ったレ級は頭を傾けて、霧の向こうを眺めた。
『次ハ……』
霧が晴れる。
局地的に。
レ級が見つめた方だけが、逃れ行く霧のために、海面が露わになる。
黒く澄んだ、波の無い海の上に、座り込む少女がいた。
両手で顔を覆って、肩を震わせて、背を揺らして。
泣き声の正体だった。一人の、艦娘。
布が擦れる。レ級が足を伸ばして、その少女へと歩み寄っていく。青白くも艶めかしい足が、低い波を割いて前へ出て行く。
あと数歩のところで、レ級が止まった。持ち上がった片手が、その指先が一度艦娘へと向けられて、でも、そこでは止まらずに動く。頭を覆う布にかかった指先が端をつまむ。
尻尾が動く。巨体を震わせ、頭を持ち上げると、鋭い歯を噛み合わせて揺れた。鋭角な下顎から水滴が滴り、海へと消えていく。身を捩って振り返った尻尾は、レ級と並ぶようにして少女へと顔を向けると、金属音を鳴らして口を開いた。
ズラリと並ぶ鋭い歯の奥には、深い闇が続いていた。その中に一つ浮かんだ薄紫の光が、人魂のように妖しく揺らめく。
頭の両脇に備えられた冷たい砲身も、口の中のその光も、凶器と言える異形の尻尾も、狂気の笑みを浮かべるレ級の目も、全てが泣いている少女に向けられていた。
『サァ、誰ヲ沈メヨウカ』
海に沈みゆく仲間に囲まれて、少女は一際強く、声をあげて泣いた。
◆
「んー、良い天気!」
甲板に出てぐぐーっと伸びをすると、青空から伸びる日光が頭のてっぺんから体までを照らして、暖かさに体が震えた。血の巡りが心地良い。
僅かに揺れる足下に目を落とし、後ろ腰で手を組んで、しばらく揺れを楽しむ。
海上護衛任務。
第四艦隊と第十七艦隊が合同で行っているのは、輸送船の護衛だった。
当日作戦内容を伝えられた時は、遠征任務という事で気が抜けたのだけど、それは間違いだった。
かつて俺が提督だった時には、遠征任務は艦娘に損害が与えられる事は絶対にない安全なものだったけれど、これが現実になるとそうもいかない。深海棲艦が現れれば戦うし、攻撃を受ければ損傷するし、最悪轟沈もする。
出撃も遠征も、危険度にさほど変わりはないのだ。
そう認識を改めたは良いものの、港に現れた船に乗り込み、僅かな船員と挨拶を交わし、鎮守府を出港すると、海は平和そのもので、船内外の巡回なんかをしていても、こう、どんどん気が抜けてきてしまう。
初めてのまともな任務って事で緊張していた俺はどこへいったのだろうか。
「あつっ」
広い甲板の最先端へ歩いて行って、鉄製の手すりに腕を置けば、予想外の熱に背が跳ねた。
腕を擦りつつ手すりを睨みつけて、ああそうだった、と独り言ちる。こう天気が良いと、元気な太陽さんによって鉄は熱せられるのだ。生体フィールドを纏ってない時の艤装――12.7cm連装砲と61cm四連装魚雷――や連装砲ちゃんなんかもそうだし、だから、引っ付かれると困るので、今は三匹とも離れた場所でじゃれあっている。
ここだけ見ると暢気でのどかで、任務ってなんだっけって思えてしまうのだけど、いけないいけない。気を引き締めなければ。今も船の周りには、由良、深雪、五月雨、そして、朝潮が滑り、周囲を警戒している。彼女達だけでなく、船員達も真剣だ。命懸けなのだから、当然。それで俺がぽやぽやしてたら失礼にも程があるし、信用もなくしてしまう。
でも、今はそう、休憩中みたいなもので……結構大きなこの船を囲むように走る先輩方の、その一人を上から覗くくらいは許されるだろう。
といっても、ここから見えるのは由良だけだ。カタパルトで飛ばした水上偵察機をキャッチして(!)回収した由良は、おそらく中の妖精さんと二言程交わしてからカタパルトにセットし、シュパーンと射出した。
空へと舞い上がっていく水偵を見送ってから、手すりに背を向けて体を預け、腕を組む。
今この船には軽巡が四人いる。由良に、川内先輩に、那珂ちゃん先輩に、神通先輩。みんな海上護衛向けの装備になっていて、全員が水偵を装備している。艦娘だけならまだしも、守るべき対象がいるこの任務では、先んじて敵を見つける事は最重要なのだ。
この船自体もソナーだかなんだかで敵の接近を察知しようとしているらしいけど、詳しい事はわからない。
初めてこういった任務にあたる俺に、川内先輩は言った。最初は自分でやれる事だけをやっときな、と。
俺が今やれる事は、こうしてここで、敵が現れるか、交代の時間まで体力や燃料を温存しておく事だ。
やれる事からやっていくのは大事。慣れたら自己判断で動けるようになるだろうけど、今はこうして空を見上げるか、ぶらぶら歩き回るくらいしかできない。
他のみんなはどうしているのだろう。慣れている軽巡の先輩方はさっさと散ってどこかへ行ってしまったし、吹雪と夕立は男の人に何かを聞いていた。俺も一緒に聞くべきだったかもしれない。先輩方にならって外に出たのが間違いだった……かも。
背を跳ねさせて手すりから離れ、そのまま歩き出す。二人は何を聞いていたのだろう。今さらながらにそれが気になってきた。
……が、向かった先は、最初にいた船内ではなく、船の側面。手すりから海を眺めれば、離れたところを走る朝潮の姿を見つける事ができた。目を凝らせば、この船と並走する彼女がぐっと近くに見えて、水飛沫の中に流れる髪やきめ細やかな肌も、凛々しい横顔も、はっきりと目に映った。艦娘の身体能力の無駄遣いだ。
朝潮は、真剣な顔をしてまっすぐ前を見つめ、スケートみたいに滑っている。時折横……船とは反対の方に目が向けられるのだけど、なんだろう、その仕草が、格好良いというか。……無駄がない? 上手い言葉が見つからないけど、いうなれば、そう、慣れている……か。
たぶん彼女は、護衛任務はもう何度となくこなしているのだろう。迷いが見えない。気も緩んでない。そういうのになんとなく憧れてしまうのは、俺が新人だからだろうか。
……新人って言っても、出撃を繰り返して改にまでなってるんだ。そろそろ新入り気分も卒業しないと駄目か。あんまり『新人だから』を連呼してると、それを免罪符に大小問わず失敗してしまいそう。そういう経験があるから、なおさらそう思った。
自分に厳しく。自らを戒めなければ、自分だけでなく周りにも迷惑をかける事になる。今はそれが生死に繋がる。真面目にやんなきゃ。
だから今は、朝潮ウォッチングをしている場合ではない。直接顔を合わせられないからって、一方的に姿を見れるのを幸いと覗き見るのは卑怯な気がしてきたし、そろそろ吹雪達の下へ行って指示を
「…………」
ふと、頭が重くなった。
とばりが下りるみたいに視界が暗くなって、でも、すぐに光が戻る。
立ち眩みに似た現象。思わず目元を押さえて、しかしその時にはもう、症状は完全に引いていた。
連装砲ちゃん達に声をかけて、だっこだっこと手をぴこぴこさせる砲ちゃんに、仕方ないので熱さを我慢して抱き上げてやってから、船内に足を運んだ。外は波と風の音だけだったけど、中へ降りるとまた別の音が耳に届く。部屋や何かが細かに振動する音や、機関部か何かの駆動音。それから、足に響く重低音。
狭い通路を進んでいくつかある部屋の内の一つに足を運べば、そこに吹雪と夕立がいた。十数人いたはずの船員は今は一人しか残ってない。
「そう、元々この船は漁船だったんだよ。そしてこの漁船は、商船を改造した物だったんだ」
ラフな格好をしている男性は、ガタイの良い見た目通りの重い声で、しかし微かな笑みとともにそう言った。……なんの話をしているのだろう。船の歴史?
というか、あの人は船長じゃなかったっけ。年長の人。永井さん、だっけ。
「あ、島風ちゃん」
二人に歩み寄れば、最初に吹雪が気付いて俺を見た。続いて夕立も振り返るのに、軽く手をあげてみせておく。どうも、と船長にも挨拶をすれば、彼は頷いて、すぐ踵を返すと、部屋を出て行った。
去り際、よろしく頼むよ、と言われたのはいいけど、ええと、会話の途中ではなかったのだろうか。何か気に障るような事したかな。
「ああ、それはたぶん……」
何かを言いかけた吹雪が、あー、と言い淀むと、口を噤んでしまった。え、教えてくれないの?
気分を害してしまったようだったら、謝らなきゃいけないと思うんだけど……。
困ってしまって、砲ちゃんを抱き直すと、ううん、と夕立。
「怒ったとか、そういう訳じゃないっぽい。私達の邪魔をしないようにってだけぽい?」
「そうかな。そういう感じじゃなかったけど」
「ううん、きっとそうだよ! ほら、じゃあ、えーっと……どうしようか?」
……そうなのかなぁ。
なんか腑に落ちないけど、吹雪が違うっていうんなら違うんだろう。
気を取り直して、お仕事の話をしよう。
俺はそれを聞きにきたんだから。
「何をすれば良いかは事前のブリーフィングで教わってるよね?」
「うん。でも、具体的な内容は……」
「教えてくれないって事が、教えてくれてる事っぽい?」
軽巡の先輩方も、他のみんなも、俺達が初めてだって事を知ってても何も教えてくれなかった。
でもそれは、逆に言えば、教える事はないって事なんじゃないかと夕立が言った。
こういう風に船内で話していたって良いし、気を張って船の上から周囲を警戒していたって良い……そういう風に、自由に動くのが正解だって事?
「敵が発見されれば短距離での妖精暗号通信か、船内放送で伝達されるから、夕立達は心構えだけしておくのが良いっぽい」
「燃料の消費を抑えて行動しなくちゃだから、艤装を身に着けている今は、あんまり動き回らない方が良いと思う」
二人の意見は、ここでこうして出番がくるまで待つ事、だった。たしかに、生体フィールドを纏ってない時の艤装はそこそこ重い。あっちにこっちに移動していれば余計な体力を食う。それがいざって時に影響するかもしれない事を考えれば、動かないの方が良いのかもしれない。
「私もここにいていい? どうせなら纏まってた方が良いよね」
「そうだね。歩き回ってたら、船の人達の迷惑になっちゃうかもしれないし」
俺の言葉に同意を示す吹雪の言葉に、『船の人達』って俺達の事じゃない? なんて思ってしまった。艦娘も元々は船だった。つまり今、船の上に船が乗っているという状況で……。いや、だからなんだっていう話だけど。
横髪を指で押して耳にかけつつ体の向きを変えて、歩き出す。コツコツと踵が床を踏む音。連ちゃんと装ちゃんがちょこちょこと後をついて歩く音。
「ここにいるつもりはないっぽい?」
「ん?」
部屋と廊下を分ける壁には、扉の無い出入口がある。夕立が問いかけてきたのは、ちょうどそこを通り抜けようとした時だった。
ここに……ああ、そう、ここにいようとしてたんだっけ?
ちらりと廊下の方に目をやってから、少し考える。……結論はさほどせずに出た。
すぐに戻るよ、と夕立に告げて、部屋を後にする。
何か用事があって甲板に上がる、という訳ではない。なんとなく外に出たかったのだ。
『敵艦見ゆ。二時の方向。各員戦闘態勢』
甲板に出ると、妖精さんの意思が飛んできた。計ったようなタイミングだ。船の速度が二段階ほど遅くなる。後ろの方で、船内放送が流れるのがくぐもって聞こえた。
「よぉーっと!」
「うわ!」
ズダン! と大きな音を立ててすぐ傍に川内先輩が降ってきた。位置的に……艦橋の上から飛び降りてきた?
引いてしまった体を戻しつつ川内先輩に声をかけようとして、彼女の周囲の床に二つ影があるのを見つけて口を閉ざした。薄く丸い影が見る間に濃く大きくなっていくのに、空を見上げつつ素早く身を引く。
視線が上がった時には、すでに二人は着地していた。ズダダン、と床を鳴らして、僅かに膝を曲げていた二人が背を伸ばす。神通先輩と那珂ちゃん先輩だ。三人揃って上の方にいたらしい。こんな時でも着地と同時にポーズを決めている那珂ちゃん先輩のアイドル根性に感心しつつ、川内先輩の手振りを読み取って近寄っていく。
「戦闘に入る時の手順は覚えてる?」
「はい。号令と同時に集まって、隊列を組んで、対応に当たります」
「正解。でもそれ、形式なだけだから、実際は敵が来たってわかったらさっさと船から下りて。合流と隊列組むのは海の上でも遅くない。吹雪達にも伝えといて。私達は先に行くから」
「は、はい」
早口で確認した川内先輩は、俺が答えない内に床を蹴りつけて、一度の跳躍で手すりの向こうへ消えていった。二人もすぐに続いて跳躍する。
比較的軽い艤装だからこそなせる移動法? ていうか、川内先輩、まだ改二じゃないのにもう忍者っぽい……。
いや、改二になっても忍者にはならないけど。
「島風ちゃん!」
「ど、どこ集合っぽい!?」
魚雷の側面に掛けてある砲を手に持つべきか悩んでいると、吹雪と夕立が息せき切って駆けてきた。二人を手すりの方へ誘導しながら、川内先輩の教えを聞かせる。吹雪なんかは事前に聞いていた話との違いに目を白黒させていたけど、夕立はすぐに呑み込めたみたい。
「つまりは、すぐ戦っても良いって事っぽい!」
そこまでは言ってなかったような。
あ、でも、下りた際に目の前に深海棲艦がいたなら、無視して合流しに行こうとするなんてできないだろうし、その結論は間違っていないのか。
「詳しい事は、戦闘が終わってからにしよ。それで、島風ちゃん、どうやって下りるんだっけ?」
手すりに手をかけた吹雪の問いかけに、俺はすぐに答えられなかった。波を
「ええっ、と、飛び降りるの?」
「夕立は一向に構わないっぽい。もたもたしてると――」
『敵五隻、艦種軽巡一、軽空母一、駆逐三』
「もたもたして――」
『軽空母撃沈、駆逐大破一』
「もう行くっぽい!」
話している間に状況は変わっていく。船を護衛している由良水雷戦隊は、敵が現れた場合船の周りを固めるために戦闘に参加できないので、今の妖精さんの報告は三人の先輩方によるものだとわかる。
残り四隻と知った夕立が焦って手すりを乗り越え、海面へと落ちていった。あっと声を上げた吹雪を横目に、俺も手すりに足をかけて、蹴りつけて飛び込んでいく。あああっ、と吹雪の情けない声が遠のく。船に沿うように上がる飛沫と波を避けるためにできる限り遠くへ着水できるようジャンプしたんだけど、生体フィールドさえ纏っていれば水は関係ない事に思い至って、海面に立って早々疲れた気分になった。
行動に無駄が多い。わかってるけど、うんざりする。このやるせなさは敵にぶつけて晴らそう。イ級あたりなら今の状態でも必殺キックで仕留められるだろう。
敵艦隊にイ級さんがいるかどうかは知らないが、っと。
「わ、わ、わ!」
両手は胸元に、膝は緩く曲げて、まるで縮こまった状態で少し離れた場所に降ってきた吹雪が、波に足を取られて案の定バランスを崩しかけたので、滑っていって手を貸した。
上手い具合に掴んだ手を引っ張って体勢を整えさせて、ついでに腰も支えると、目線がかちあった吹雪は、声を跳ねさせながらお礼を言った。その後に、彼女の横腹に添えた俺の手に目をやると、「なんか、凄いね」とはにかんだ。
……どういう意味だろう。
身体能力なら、吹雪だってこれくらいはできると思うんだけど。
「そうじゃなくてね」
「……あ、ちょっと待って」
頬を掻いて何かを言おうとする吹雪を制し、彼女から離れて、額に手を当てる。
ここ最近の不調の種類にはいろいろあって、前兆があるものってのもある。それを感じたのだ。
うー、きたきた。脳みそざわつくー。
「どうしました!」
「二人とも、遅いっぽい~!」
船の進行に合わせて移動していた朝潮が傍までやってくるのが、声でわかった。険しい声がすぐ傍でしたかと思うと、ざあっと水音がして、人の気配が横に。
あいにくと視覚が馬鹿になっている今は、それが誰かは確認できないけど、朝潮だって事はなんとなくわかった。
夕立の急かす声も遠く、「だ、大丈夫?」と心配する吹雪の声もまた遠い。
……いけない。耳鳴りまでしてきた。ていうか、すっごく、気持ちわる……。
「気分が悪いのでしたら……私がついています。あなた達は先に行って……すぐ追いつきます」
「う、うん。じゃあ、島風ちゃん……私達、行くね?」
気配が遠ざかっていく。……変なの。吹雪ならもうちょっと何か言いそうなものなのに、あっさり行ってしまった。
それがなんでか寂しくて、寄り添ってくれている朝潮っぽいのに体を預ける。
あー、あったかい。
肩に回した腕から伝わる熱。俺を支えようと身を寄せる彼女の柔らかさも……目も耳も聞こえないからか、より強く感じられた。
……あ。
「?」
「治った」
強い光が広がる。キィィ、と遠くの方から音が戻ってきて、正常を取り戻した。
横を見れば、怪訝そうに俺を覗き込む朝潮の顔が間近に見えた。
「それは……本当ですか? 本当に大丈夫なのですか?」
怪訝そうに、というよりは、心配しているみたい?
こんなに近くに朝潮の顔があるのに、その表情の種類さえわからないなんて、まだどこかおかしくなってるのかな。
いや、体は正常だ。思考もクリアだし、砲撃音だって耳に届いている。うん、大丈夫。
「朝潮が来てくれたおかげかな」
「何を……。大丈夫なようでしたら、あなたも戦列に加わってください」
「りょーかい。ありがとうね、朝潮」
言葉を交わしつつ、滑り出して、少しずつ速度を上げていく。
船護衛組の朝潮は今、船の側面から離れられない。一緒に行く、という訳にいかないのは残念だ。
いえ、と短く言った彼女と少しの間目を合わせて、それから、戦闘が起こっている方へ走る。
なんだか不調になる前よりも気分が良いような気がした。力や速度も元通りになっている気さえする。朝潮パワー? ……まあ、気のせいか。
船の前方、ずっと先に黒い影と黒煙が見える。動き回る艦娘と深海棲艦。すでにいくつか浮かんでいるだけの奴らがいる。それが、先輩方にやっつけられた敵の姿だろう。
残ってるのは、駆逐級が二隻と、軽巡級……今神通先輩に向けて砲撃したのは、軽巡ホ級だろうか。異形に食われているかのような女性の姿……上顎に覆われた頭の上半分は、狂ったように揺れ動いて、しかし完全に神通先輩をロックオンしているようだった。奴を囲む川内先輩と那珂ちゃん先輩には目もくれていない。吹雪と夕立は、赤いオーラを纏った駆逐イ級を相手に撃ち合っていた。……今飛び跳ねたあいつ、足が生えていたような……。後期型、だっけ? ちょっと強いやつ。
戦場とは少し離れた場所で漂う駆逐……ロ級が、まだ誰かを攻撃しようというのか、口から砲身を覗かせてもがいていた。ただ、砲身は折れ曲がってるし、体からは黒煙が上がっているし、とても戦えるようには見えない。
だが放置すれば、万が一背中から撃たれる可能性もある。
……決めた。俺の相手はあいつだ。死にかけだけど、とどめを刺す。
キックで決めよう!
速度を上げる。走り出す。足裏を海面に叩きつけ、一歩一歩に力を込めて、やがてくる瞬間のために力を蓄える。
距離はさほどない。でも問題ない。元々速さは出ていた。
このまま突っ込む!
小さく前へ飛ぶ。両足を揃え、着水の瞬間、跳ね返ってくる衝撃も含め、全部の力をバネにして跳躍する。
足を振り回し、体の向きを変えていく。頭は海へ、足は空へ。
背に備えた艤装で揺れる砲を手にかけ、引き抜く。狙いは、動かない深海棲艦へ。刹那に照準を合わせ、グリップを握り込み、指の腹でトリガーを押し込む。
『――――!』
砲口が火を噴いた。跳び出した砲弾が寸分違わずロ級の頭を撃ち抜く。
低い水柱の中に、声はなかった。
体勢を整え、バシャアン、と水を跳ね飛ばして海面に下り立つと同時に、片膝をつくようにして衝撃を逃がした俺の背後で爆発が起こる。
突風に運ばれた熱が背を撫で、髪を前へ流していく。
「っよし!」
立ち上がって、控え目にガッツポーズ。決まった決まった。
やるねー、俺。その気になれば音より速い! なんてね。
僅かな興奮を散らすように、心の中で声をあげておく。
「ん、あっちも終わったみたい」
先輩方の方を見れば、軽巡はすでに姿はなく、イ級eliteも五人がかりで袋叩きにされればひとたまりもなかったようで、腹を見せて浮かんでいた。
川内先輩がトドメの一撃を放てば、貫かれたイ級が爆散する。それでもう、何も残らなかった。
「はーい、みんな集まれー!」
那珂ちゃん先輩が手を挙げ、声を張り上げて呼びかけるので、小走りで駆け寄っていく。
「まだ気を抜いちゃ駄目だよー、右見てー、左見てー、よーし?」
左右を指差し、顔を巡らせる那珂ちゃん先輩にならって、俺と吹雪と夕立が、そろって前後左右の確認をした。
周囲に敵影なし。よーし、だね。
「お疲れ様です。由良さん達と合流し、報告を行います。そろそろ時間なのでそのまま交代し、今度は私達が船の周囲につく事になりますが……大丈夫ですか?」
神通先輩がこの後の動きを説明してくれた。大丈夫、とは……あれ、俺の事?
怪我したり疲れてる人はいないか、って事でもありそうだけど、これは俺の事っぽいな。
「大丈夫です、問題ありません」
「あたしも大丈夫っぽい」
「損害ありません。大丈夫です!」
それぞれが答えたところで、船が近付いてきた。まだ速度は緩めたままだ。完全に危険が去ったとわかるまでは速度は戻さないみたい。
艦首の前を滑る由良へみんなで近付いていく。
とりあえずは、流れはわかった。こんな感じで護衛をしていけばいいんだね。
交代一回目……って事は、あと二時間ちょいか。
頑張ろう。