島風の唄   作:月日星夜(木端妖精)

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第二話 島風にはならない

 朝日が海を照らす。

 青と白が煌めき、絶え間なく押し寄せる波が、朝の到来を告げていた。

 一睡もせず、膝を抱えたままじっと海を眺めていた。

 徹夜明けの頭の重さと、じんと脳に浸透する疲れ。

 足の裏は熱くて、なのに、ちっとも眠くない。

 こうしてずっと座っている間、考え事をしていた。

 最初は、夜を凌ぐために寝床を探さなければ、と思った。

 でも、そのためには、夜間の森林に足を踏み入れなければならなかった。

 女の子になってしまっているだなんて現実味のない世界の中でも、暗闇や、未知に対する恐怖はわき上がる。

 森に入るのが怖かった。

 だって、何がいるかもわからないのに。

 大型の野生動物がいるかもしれない。毒を持つ蛇や植物がいるかもしれない。

 言葉の通じない人間がいるかもしれない。

 そのどれもが頭の中にあって、だから、結局朝まで動けなかった。

 そうすれば何かが変わるかもしれない。何かが解決されるかもしれない。そういった期待もあった。

 でも、朝日が昇り、俺の体を照らし出しても、何も変わりやしなかった。

 相変わらず髪は長いし、声は高いし、胸はあるし、スカートは短い。

 でも、幾分か、混乱は収まった。

 そして冷静になれば、今度は別の不安や心配が出てくる。

 姉さんは大丈夫かな。会社での扱いはどうなるんだろう。

 昨日は婚活に向かっていた姉さんだ、もしかしたら外食で済ませているかもしれないから良いとしても、今日は……。

 昼は、夜は。明日は、明後日は。

 俺がいなきゃ、きっと姉さんはコンビニ弁当やらで済まそうとするだろう。

 だから俺がいるのに、その俺は、こんな場所にいる。

 姉さんの食生活が心配だった。

 それに、会社の事も。

 ちょうど忙しい時期は終わったとはいえ、一人欠ければそれだけで大きな穴があいてしまう。

 大迷惑なうえに、無断欠勤で俺の評価にも大きな傷がついてしまっただろう。

 これまできっちりやってきただけに、どうしようもない事態であろうと、やりきれない思いでいっぱいだった。

 

 でも、夜通し考えていれば、少しずつ心配は薄れていって――姉さんへの心配は強く残っているけれど――今度は自分の身に考えが及ぶようになった。

 なぜ島風になってしまっているのか、なんて事は考えない。

 きっとそれは無意味な思考だ。答えが出れば元に戻れるというのなら死ぬ気で考えるけど、たぶん、そうはならないだろう。

 考えるのは、『自分の状態』と『これからどうするか』の二点だ。

 ……そう決めて考え始めたはいいものの、頭は軽いような重いような感じでふらふらするし、思考はどうしても「なぜ俺が島風になってしまっているのか」に及んでいく。

 考えまいとしても意味がない。どうやら俺は、そこのところをはっきりさせたくて仕方がないようだ。

 まったく困った奴だ、なんて胸中で独り言ちてみても、現状はおろか、不安も恐怖も消えはせず、一度目をつぶって心を落ち着けた。

 ただ座っているだけなのに、何十分かおきに大きな感情が幾度も襲ってきていた。

 様々な思いや考えは今の頭では到底処理しきれないから、解決できずに、再び感情に襲われての繰り返し。

 傍に落ちているカチューシャに手を伸ばし、砂で汚れた布を掴んで、膝に回した両手の先で握る。ざらざらとした手触りが手の平にあって、それに意識を集中させて、再び思考に没頭する。

 なんで、こんな事になったのだろう。

 こうなる前までの記憶を遡って考えてみても、風呂に入ったところまでしか思い出せず、特別何かあった訳ではないとしか思えない。

 

「――――……」

 

 ふと、何か声が聞こえたような気がしたが、耳を澄ましても波の音か、木々のざわめきしか聞こえず、気のせいだと判断した。

 

 ……それでも結論付けるならば、前触れもなく突然に島風として生まれ変わってしまったか、憑依してしまったか、だろう。

 ではこの島風は、俺がこうなる前はどうしていたのだろうか。

 いきなり俺が入り込んでしまったから、消えてしまった?

 それともこの海で突然に生まれ、島風という艦娘の魂が入る前に俺の魂が入ってしまった?

 ……いくら考えても答えの出ない事だが、いずれにせよ、俺が島風を乗っ取ってしまっているのには変わりない。

 そう考えると、酷く悪い事をしているような気がして、罪悪感にいっそう身を縮こまらせた。

 ……なりたくて、なった訳じゃないのに。

 こんな体――こんな、なんて言うのは失礼かもしれない――になるだなんて予想もしてなかったし、なりたいと思った事もない。

 日常に嫌気が差して、何か非現実に逃げ込みたいと思った事もここ数年はない。

 だから急にこんな事になっても、今すぐ元に戻りたいとしか思えなかった。

 

「戻れる……の、かな」

 

 弱々しく呟けば、か弱い少女の声となって耳に届く。

 これが夢でないならば、どうすれば俺は島風から元の俺、福野(ふくの)翔一(しょういち)に戻れるのだろうか。

 ……戻れないだなんて考えたくない。

 考えたくないのに、もし戻れないなら、まずは最低限生きていける環境を見つけるか作り出さなければ、なんて考えてしまって、カチューシャの布を強く握り締めた。

 砂粒同士が擦れあう音さえ嫌になる。

 なんで、今の状況を受け入れようとしているのだろう。

 それが、人の持つ生きようとする力なのだろうか。

 こうして考え続けていても、動かなければいずれ死ぬだけだから、体が生きる道を模索しているとでも言うのだろうか。

 馬鹿馬鹿しかった。

 それよりも、今すぐ元に戻りたかった。

 日常を送る中で、何かしらの変化を望んだ事はあるけど、こんな変化は望んでない。

 ……でも。

 なってしまったものは、仕方ないじゃないか……。

 

「…………」

 

 布から右手を離し、叩き落すように地面に置く。爪を立てて砂にめり込ませれば、込めた力の分、指が震えた。

 苛立たしさも、何もかもを右手で発散する。

 そうでもしなければやってられなかった。

 得体のしれない、何か暗い感情に押し潰されてしまいそうだった。

 だから俺は、勢い良く立ち上がり、同じように、勢い良く両頬を叩いた。

 

「――っし、こんな事しててもしょうがないぞ!」

 

 自分自身に言い聞かせる。

 今するべき事はうじうじと女々しく過去を想う事ではなく、生きるために未来を見る事だ。

 未来とは、あの森林にある。雨風を凌ぐにも腹を満たすにも、水の確保も、きっとそこでできる。

 でも、ろくに森の歩き方も知らない、植生も知らない、サバイバルの知識もない俺が、ただ森に入って無事でいられるのか。

 ……なんて考えは、一度丸めてそこら辺にでも捨てておこう。

 きっと、たぶん、なんとかなる。

 そう、ポジティブにいこう、ポジティブに。

 それで、なんか楽しい事でも考えておこう。

 そうすればきっと楽しくなって、なるようになるに違いない。

 

 流れるようにそう考えてから、カチューシャに目を落とす。

 砂まみれの、兎の耳でも模したかのような黒いカチューシャ。

 姉さんや会社への心配に、俺自身への心配ときて、次は彼女への心配が出てきた。

 もし俺が元々の彼女を塗り潰してしまったというのなら、俺が言うべき事は、「なりたくてなった訳じゃない」なんて後ろ向きな事ではなく、「君の分まで生きさせてもらう」という前向きな言葉なのではないだろうか。

 じゃなきゃ、彼女が浮かばれないだろう。

 彼女の分まで生きる。それが当面の目標だ。今、決めた。

 目的ができれば、だいぶん頭も心も落ち着いて、しっかりと前が見えるようになった。

 眠気や疲れは遠く、代わりのように、喉の渇きと、空腹。

 

「……艦娘も腹が減るんだな」

 

 ――そんな事は当然、知っているのだけれど。

 なんとなく声に出しつつ剥き出しのお腹を擦れば、乾いた砂がぽろぽろと落ちて下腹部をこしょぐっていった。一瞬妙な脱力感に襲われて、体を折りかける。

 体も服も洗わなければ。いつまでも砂まみれではいたくない。

 まったく、風呂に入ったばかりだってのに、なんてぼやきつつ、森林の方へ体を向けて歩き出す。

 森に踏み入る事への心理的抵抗や不安は隠せなかったが、足は止めなかった。

 止まればずっとそのままな気がした。自分をそんなに弱い人間だとは思いたくなかったが……そんな自尊心の裏では、きっとそうなるだろうという確信があったから。

 背の低い草や木々の立ち並ぶ前まで来て、青臭い匂いや土の香りが鼻腔をくすぐると、不意に自分がなんの装備も持っていない事に気付いた。

 

「…………」

 

 連装砲ちゃんも、背負っているはずの魚雷発射管もない。あるのは体一つ。

 そんな、ヒーローでもないんだから、体一つでどうしろというのだろう、なんていう新たな不安を抱えつつも、俺は無謀に、森へと入って行った。

 

 

 艦娘は人ではない。

 限りなく人に近いが、根本的な所で違っている。

 艦娘が生きるのに必要なのは資材だ。鋼材に燃料。艤装(ぎそう)を使うには弾薬が必要だ。艦種によってはボーキサイトも必要になってくる。

 だが、今俺にとって重要なのはそこではない。

 艦娘は、人と同じ姿をしているが、人を遥かに凌駕する力を持っている。その一点が、俺にとっての望みだった。

 着の身着のまま漂着したらしいこの場所で、駆逐艦・島風となった俺の希望は、戦う船の現身たる彼女の身体能力だった。

 ……のだけど。

 

「……思ったより力、ないなあ」

 

 てきとうな木を押してみながら、ぽつりと呟く。

 それでも、俺よりずっと身体能力は高いのだけど……なんだろう、イメージと違う。

 俺の中のイメージや、読んだり見たりしてきた創作物からでの知識では、相当な力を有しているはずなんだけど……目の前の細い木をへし折る程度もできず、めいっぱいジャンプしたって何十メートルも飛んだりはしない。

 何か間違っているのだろうか。この体はすっかり俺に馴染んでいるけれど、まだ、俺にはわからない使い方があるのだろうか。

 そう考えて記憶を探ってみるも、妙に薄い、船だった頃の記憶ぐらいしか思い浮かばず、やはりこの島風がどこで生まれて何をしていたのかだとか、力の使い方だとかはわからなかった。

 ……艤装の使い方はなんとなくわかるんだけど、装備がない今はなんの役にも立たない。

 木々に囲まれた森の中、腕を組んでううんと唸る。

 

「……やっぱりあれかな」

 

 こう、力を込めて「はっ!」とかやんないと艤装とか出てこないのかな。

 それとも、自分の意思で出し入れはできなくて、現物を装備しなくちゃいけないのかな。

 だとすると困った。普通の駆逐艦ならいざ知らず、島風の装備は一点ものが多いのだ。揃えるのも一苦労だろう。揃えるったって、どうやるのかなんて見当もつかないけど。

 ……で、ここどこだ?

 今さらながらその疑問に辿り着く。

 迷った訳ではない。方向感覚は結構しっかりしていて、どの方から来たのかくらいわかる。

 俺が首を傾げたのは、この世界自体の事だ。

 地球や太陽系を飛び越えて、この世界全体への疑問。

 ここは俺のいた地球なのだろうか。深海棲艦なんて侵略者はおらず、日本には俺の帰るべき家があるのだろうか。

 それとも、まったくの別世界で、家も姉さんもいないのだろうか。

 ……この姿で姉さんの元に戻ったら、確実に売り子(見世物)をやらされそうだな。

 こんな露出の多い格好で人前に出ようなんて、さすがにちょっと無理だ。

 ……この思考、島風に失礼だろうか。

 いやでも、だって、このスカートとか、縦に十センチもないんだぞ? ぴょんと跳ねれば捲れ上がって、黒い下着とこんにちはだ。見せ下着だとかそんな事は関係ない。下着も肌も見せるのは恥ずかしい。

 ……これもまた、今考えても仕方のない事だ。見せる見せない以前に、ここに人の気配など無いのだから。

 

 

 細い川を発見して辿れば、森の深くに池を見つけ出す。この場合は沢というのだろうか。湖? そこら辺の分け方を深く知らないから、とりあえず池と呼称しよう。わりかし深そうで、水は綺麗に透き通っている。それでも大小何匹もの魚が無警戒に泳いでいるのを見つける事ができたので、栄養は豊富なのだろう。

 酷く悩んだが、喉の渇きと空腹には勝てず、水辺に走り寄り、近くの魚が逃げ出したりしない事に関心しつつ座り込んで、水を手にすくって口に運んだ。

 飲んで大丈夫か、お腹壊したりしないだろうか。なんて思ったのは、飲む前と後だけ。

 飲んでいる最中は、ひたすら冷たい美味いとしか考えてなかった。単細胞の馬鹿、という言葉が脳裏をよぎる。我ながらちょっと考え無しだったかな、なんて思いつつ、お次は空腹を満たすために魚に狙いを定めた。

 ……とはいえ、釣り具なんてないし、どうしよう。泳げばいいかな。……見たとこ虫もいないし、綺麗な池だ。嫌悪感はわかない。問題は、服をどうしようって事だ。

 

「……女の子、なんだよなあ」

 

 今の俺。

 しかも、島風というれっきとした少女。見ず知らずの誰かではなく、俺の生み出した妄想の権化という訳でもない。

 画面の向こう側のみでも、知っている相手を剥こうだなんて気が引ける。でも脱がなきゃ水には入れない。水に入れなければ魚は()れない。

 困った困ったとわざとらしく腕を組んでみたが、答えはもう決まっていた。

 当然、このまま飛び込む、だ。

 服を脱ぐのはちょっと無理だ。

 それに、ほら、ちょうど体中砂で汚れてるし、洗濯だ、洗濯。

 

「そーと決まれば……!」

 

 立ち上がって池から距離を取り、カチューシャを落として走り出し、水辺で足を揃えてジャンプ。一気に飛び込む。

 揃えた両手を前に、矢のように突っ込んでいけば、体中が水の中に沈んだ。

 水を掻き、浮かび上がる幾百の水泡の合間から近くの魚を見つけ出す。さすがに驚いて逃げ出しているようだが……。

 ぐい、と両腕を後ろに動かし、体を押し出す。たった一動作。それだけで、ぐんと体が突き進む。やはり常人より身体能力が格段に高い。あくまで人間のレベルだろうけど、それでも、一掻きでこのスピードを叩きだすのは、やはり艦娘ゆえなのだろう。もしかしたら島風だからこそなのかもしれないけれど、今は、どちらでもいい。

 もう一掻き二掻きすれば、手の届く範囲に尾ひれを振る魚の姿。腕を振るって捕獲を試みれば、ぐんと腕にかかる水の圧力に捕らわれて、逃してしまった。

 右へ旋回するように泳ぎゆく魚に狙いをさだめ、足をばたつかせて接近。手刀を突きだすようにして水を切り進み、魚の腹をがしりと掴んだ!

 力強く暴れて逃げようとする魚を胸に抱え込み――ぐにぐにと胸の肉を変形させられるのに、ちょっと怯んでしまったけれど――、逃さないように水面へ(のぼ)っていく。

 

「ぷはっ!」

 

 水の上に顔を出せば、大きく息を吐き出してはーはーと呼吸をする。

 息はまだまだ続いたけれど、水面に出た以上、息を止めている意味はない。暴れる魚を持ち上げて掲げれば、ぴちぴちピチャピチャと跳ねる水。大きく重い魚を両手で持ち上げつつ、獲ったどー、なんて言ってみた。少しテンションが上がる。

 前髪から垂れる水滴を腕で拭ってから、魚を水上に出したまま両足だけで泳いで、陸地に戻る。草の上に戻れば、ぶるぶると体を振るって水を飛ばした。

 

「ふぃー、ゲットゲットっと」

 

 ぱくぱくと口を開閉させる魚と目を合わせ、すまんね、と短く呟きつつ、足をぴらぴらやって靴の中に入った水を流し出す。靴くらいは脱げばよかったかもしれない、と後悔した。

 さて、魚の捕獲に成功した。あとは調理して食べるだけ……だけど、えーと、包丁もまな板もないし、火もない。何よりお腹が空いて空いてしょうがない。枯れ木や乾いた木とか集めておくべきだったか。いや、集めてても、火を起こすには時間がかかる。待ってなんかいられない。

 しょうがないので、手で活け締めする事にした。生魚などよく触るし、生きてるのを捌いた事もある。これくらいはなんて事なかった。

 さて、どう取りかかろう。細いというより太く平たい大きな魚だ。今の俺の腕よりも横幅がでかい。サバを折るようにはいかないだろう。

 とりあえず指でエラを引っこ抜いて血を抜いてしまおう。地面に置いた名前も知らない魚を膝で押さえつつ、手袋を外す。……手袋とか、後で洗おうと思ったけど、そうなると結局服も脱ぐ事になるな、なんて思い至った。

 

「んっ……硬い……!」

 

 華奢な手だからか、少し苦戦しつつもいちおうの処理を終える。そこら辺にあった石でうろこを削ぎ落し、ちょっと悩んでから、指で腹を開いてはらわたを取り除いた。

 何度か足で地面を蹴飛ばして開けた穴に、池から水を移して魚を洗う。頬にかかる髪を腕で拭い、肌に張り付く髪をぺいと剥がしていれば、あっという間に終わる。後は食べるだけだ。

 

「……死んで間もないから、寄生虫は……たぶん……いないといいな」

 

 この魚の名前も種類もわからないけれど、エラも内臓も取り除いたし、口の中や体にはなんにもついてないし……身の中に入ってたら目視はできないけど……。

 いいや、食べよう。

 まだどこか現実味のない今に身を任せて、腹の方からかぶりついていく。大きいだけあって食べ応えはあるかな。

 

「……あんまりおいしくない」

 

 塩か醤油が欲しい。焼けばちょっとはマシになったかもしれない。

 なんて魚に失礼な事を考えつつ、何度も執拗に咀嚼してから飲み込む。

 寄生虫なんて、よく噛めば死ぬって伝説の英雄も言ってた。とりあえずもぐもぐしとけば問題ないだろう。……もし生きていて摂取してしまってても、この艦娘ボディならなんとかなるような気がする。

 食べ終えれば、先程掘った穴に残骸を埋めて、池で口元を洗う。

 お腹は満たされたけど、なんとなく、どこか足りない気がする。何が足りないかはわからないけど……肉とか野菜?

 まあ、とりあえずこれで空腹と渇きを癒す事はできた。水場も確保したし、危険な生物さえ現れなければ、当面はこの場所を拠点として生き延びる事ができるだろう。

 

 

 少し体を休めてから周辺の探索に乗り出した。

 てきとうな果実を見つけては木に登って採ってみたり――微妙な甘さだった――、倒木から太めの木を手に入れたり、枯れ枝や枯葉を集めてみたり。

 その最中、妙なものを発見した。

 

「なんぞこれ」

 

 池に続く小川の先、岩場の合間に湧き出すスライムのようなものが見えて、木の棒の束を置いて近寄り、観察してみた。

 濃い緑色をしていて、でも透き通っているそれが流れる先からは、白煙(しろけむり)が漂ってきている。

 

「……天然温泉?」

 

 身軽に岩に登って向こうを覗いてみれば、これもまた岩場の合間から湧き出している湯がすぐ傍の窪みに流れ込み、小さな温泉染みた湯溜まりを形成していた。溢れた湯は川とは反対の方へ流れていって、緩やかな坂の下に消えている。

 すたっと下り立ち、水面を見てみれば、白く……それと、薄青色に濁っていた。顔を近付ければ、むわりとした熱気が顔にかかって、ぱっと上体を反らしてしまう。頬を撫でながら再度水面を覗き込めば、濁りの中に底が見えた。でこぼこ石があるものの、座れそうなスペースがある。人の手が入っているかは判断できなかった。もし入っていたとしても、長い間管理はされていないだろう。底には幾つも石が転がっているし、周囲には人が来たような形跡は――俺がわかる範囲では――ないし。

 尖った石が邪魔だな。それに、ちょっと浅すぎる。俺だと膝の下ぐらいまでしか浸かれないんじゃないかな。体を寝かせて入ろうにも、それにはこの温泉は大きさが足りないし……などと、もう入る気で考えを進めていて、色々な問題に考えを廻らせる。

 うーんと首をひねると、顔の横にはらりと髪が流れた。鬱陶しい。特に何を考える事も無く指で耳の後ろに掻き上げて、ふと、水面に映る島風()の顔に、あっとなった。

 

「やった!」

 

 ぺち、と手を叩いて、喜びを表す。そういえば、俺は今島風なのだった。成人男性である翔一ではないのだ。この体の大きさはいまいちわからないが、島風ならこの小さな温泉にも肩まで浸かれるだろう。

 頭の上に水平にした手をかざして前へスライドさせ、高さを測ってみる。うーん、実際この体になってしまうと、元々の自分の身長もよくわかんなくなってきた。

 それでもだいたい想像できる。俺がこれくらいだから、島風は……ざっくり150㎝前後?

 あ、この靴常時爪先立ちみたいなもんだから、もうちょい低いかもしれない。

 ……低い、のかなあ。あんまりそういう印象はない。実際にこの体を動かしてみても、目線が低いとは感じないし、腕や足が短いとも思えない。

 それは、島風になっているからだろうか。そこのところの感覚ははかりようがないから、ちょっと困りものだ。

 いや、別に、何も困る事はないか。

 

 温泉の近くで土を盛って小さな山を作り、少し離れた場所にももう一つ、土を盛って山を作る。

 置いてきていた木の枝を持ってきて、それぞれ一本ずつ山に刺し、その二本に繋がるようにもう一本を置く。

 即席の物干しの完成だ。土の山で棒の高さを調節すれば、このみょうちくりんなセーラー服でも地面につかないように干せるだろう。

 そこからまた数歩離れ、つま先で地面を蹴って穴を穿ち、傍の拳大の石を拾って穴を広げる。服を洗濯しようという魂胆だ。すぐ近くに川があるけど、せっかくだしお湯で洗いたいので、穴を掘って湧き出している湯を流し込もうと考えた。

 特に苦も無く湯を引き込む事に成功する。溢れて流れ出てしまうのは、まあ、しょうがない。土混じりの濁った水は、少し経てば、白と青の濁りだけになった。

 

「あちっ」

 

 ちょんと指を入れてみれば、痺れるような熱さに、思わず引っ込めてしまう。

 ……ん、でも、すっごく熱いって訳じゃない?

 よく考えてみれば、俺は一晩野ざらしでいたのだ、体が冷えていてもおかしくない。それにさっき、池を泳いだ訳だし……ことさら湯の熱を感じ取ってしまったのだろう。

 もう一度さっと指を突き入れて温度をはかる。正確には無理だけど、少なくとも入ったら茹でだこにはならないだろうってくらいなのはわかった。

 指先を全部湯に浸し、熱に慣れれば、そのまま手首まで沈めてみる。

 

「おっ、おおお~……?」

 

 くたくたと体から力が抜けるような感覚に、間の抜けた声が出てしまった。

 じんと手に走る暖かさと気持ち良さ。なんだこれ。なんか、風呂や銭湯に入るのとは違った感覚だ。

 心なしか、じゃっかん疲れが抜けたような気がする。

 ひょっとして、あのスライムみたいなのの効能か何かだろうか。疲労に効きます、とか。

 ……そこら辺の知識もないので、なんとも言えない。でも、一つ言える事がある。

 温泉に入らない訳にはいかないって事だ。

 体を温められる所を見つけられるなんてラッキーだ。活用しない手はないだろう。

 しかも川を辿って来れるから、迷う事無く往復もできる。

 運がいいなあ。……いいのかな。島風的に。

 

「ま、なんでもいいや」

 

 温泉なんて目にしてしまったから、さっきから体や服についた砂や汚れが鬱陶しくてたまらない。

 池に入っただけでは落ちない頑固な汚れも、この不思議なお湯で洗い流してしまおう。

 

「……あー」

 

 ……と、思ったのだけど。

 ……洗濯するには、服を脱ぐしかない事に思い至って、参ってしまった。

 脱ぐのには抵抗がある。いや、もちろん元の自分であったなら、こんな誰もいない場所でならさっさと脱ぐ事ができるけど、今は女の子な訳なんだし……何より、体を見てしまうのがなんか、こう、嫌というか。

 自分の体になっているのだから、不可抗力だよ、なんて自分を誤魔化そうとしても、上手くいかない。この島風に無断でそんな事をしていいのか、という疑問があって、答えが出ずに溜め息を吐いた。

 後ろ頭を掻けば、引っかかっていた葉が落ちる。

 ……うん、良心の呵責だとか自制心だとかをぶっちぎって、汚れている事への不快感がマッハだ。もういいや。島風になってしまっている以上、遅かれ早かれ自身の体を見る時が来る。なら今の内に慣れておいた方が良いだろう。何事も素早く済ませてしまった方が良いのは経験則で知っている。知ってても中々やらない事が多いんだけども。

 胸元の黒いリボンをシュルリと引いて地面に落とす。

 

「……むー……」

 

 それだけでもう、なんか背徳感のような変な感情がわきあがってきて、顔に血が上るのがわかった。

 意識しない方が良いのに、リボンを引き抜いた際の首回りの摩擦熱や、胸に触れた腕の感触だとか、衣服を一つ脱ぎ捨てた事への緊張だとかが一気に襲い掛かって来て、眉を寄せて屈んだ。

 ……思った以上に恥ずかしい。ただ洗濯して、風呂に入ろうというだけなのに。

 上着を脱ごうと服のふちを掴めば、否応なしにお腹と接触する。男の俺とは違う、どこか柔らかい、すべすべとした肌。遠く、木々の向こうを眺めつつ、なんとか手に集中しようとする意識を引き剥がして、何でもないとでも言うように上着を捲り上げた。(えり)部分が少し引っかかってしまって、脱ぐのに手こずる。でも、脱いでしまえばそれだけだ。

 肌着なんてものはないので、一枚脱げばもう半裸だ。厚手の布とはいえ、下に何も着ないというのはどうかと思うな、なんて誰かに苦言を呈しつつ、腕で胸を庇って、スカートに取り掛かる。

 ……自分の目に映らないように隠したのに、押し当てた腕から鮮明に伝わる感覚と、腕からはみ出す僅かな肉が、余計に扇情的で、一瞬おっと思ってしまった自分をひっぱたきたくなった。

 いけない、劣情に囚われては生き残れない。というか、なんか、単純に嫌だ。艦娘にそう言った感情を抱きたくない。そう常々思っていたはずなのに、意識は全力で腕にある感触に向いているし、もうそれでいいんじゃないかな、なんて諦めも顔を出し始めている。これも男の悲しいサガか。

 

「なんて馬鹿やってる暇はない」

 

 ここは安全の保障された脱衣所なんかではないのだ。いつ危険生物と顔を合わせる事になるかわからない。そうでなくとも、サバイバルの経験などないのだから、常に周りに注意を払っていなければ……ああ、ほら。いつの間にか、太ももに横一本の赤い線が走っている。

 いったいどこでつけたのかわからないけど、細い切り傷があるのに今更気づいて、自分の不注意さに落ち込んだ。

 

「こんな簡単に傷がつくなんて思ってなかったし……」

 

 言い訳のように呟く。

 その通り、艦娘ボディにこんなにあっさり、おそらくは植物の葉か何かで傷がつくだなんて、思いもしなかった。もっと頑丈だと思っていたのだ。

 砲撃を受けて耐えられるのだから、そう考えるのが自然なはずなのだけど、今腕を通して感じる胸の柔らかさや、体の脆さを認識してしまうと、考えを改めなければならないだろうと思った。

 立ち上がり、スカートを落とす。足の付け根に掛かっているだけの下着も、躊躇なく脱いだ。木を集める際、手が塞がってしまったために仕方なく着けていたカチューシャも外す。靴を脱ぎ、縞々のニーソックスも脱ぎ去ってしまえば、生まれたままの姿になる。

 ……艦娘って生まれた時からすでに服を着ているのだろうか、なんて疑問が()ぎるも、考えても仕方ないと捨て置いて、いそいそと服を洗い出した。

 無心だ。

 風が足の合間を擦り抜けていくのに、なんとなく正座した以外は、特に動きも言葉も無く、黙々と洗濯に勤しんだ。

 肌をくすぐる髪。畳んだ足同士の触れ合い。揉み洗いで汚れを落としている服。

 わざと気難しい顔をして気持ちを抑え込みつつ、洗い終わった傍から即席物干しに通していく。

 二つ目の物干しを作っては洗い、干して、作っては洗い、干して。

 最後に二本立てた棒にそれぞれ靴を引っ掛ければ、それで洗濯物はおしまい。

 お次はいよいよ温泉だ。

 怒った顔を作っていたのに、温泉へと歩を進めると、自然に頬が緩んでしまう。先程の、手だけ沈めた時の気持ち良さや、お風呂の時の心地良さを思い出せば、しょうがない事だった。

 足の先でちょいちょいと湯面をつつき、ゆっくりと入っていく。安全な底を選んで足をつければ、もう片方の足も湯の中に。太ももの半ばまで湯に浸かれているので、これなら肩まですっぽり入る事ができるだろう。

 足で底の石をどかして、座る分のスペースを作り出す。

 

「ふえーい」

 

 そうして腰を沈めれば、思わず溜め息が出てしまった。熱が体中を包んで、ぶるりと体が震えてしまう。

 肩どころか首まで浸かると、流れていく湯がいい感じに体を押して、最高だった。

 それに、妙に気持ち良い。

 ん、いや、言葉で言い表すのは難しいけど、この気持ち良いは、普通の気持ち良いとは違う。

 ゆっくりと、でも急速に体がリフレッシュされていくような感覚。疲れが抜け出て、湯に溶けていくのが感じられる。そんな不思議な気持ち良さ。

 冷えた体に染みるー。極楽。

 なんて気の抜けた声を出してみれば、体がふにゃっとして、壁に背を預けて空を見上げた。

 視界の端には常に葉の緑が揺れている。その合間から、青い空が垣間見える。この清々しさは、なかなか味わえるものではないだろう。

 胸を圧迫する湯の圧力に、ふえーい、ともう一度声を出す。あはは、なんか変。島風の声で、こんな台詞。

 なんとなしに腕を擦りつつ、あー、あー、と声を出して確認する。間違いなく彼女の声だ。俺の重くて喉の奥に引っ掛かるようなのとは違う、よく伸びる高い声。

 こんな事になってしまって混乱していたけれど、今の緩やかな気持ちで改めて考えてみれば、この不思議体験はわりかし悪いものではないような気がしてきた。

 そりゃあ、困ってはいるけど、でもそれはどうしようもないし。

 ならやっぱり、無理にでも良い方向に考えた方が精神的にも良いだろう。

 たとえば、ほら。むさい男から、こんなかわい子ちゃんになれちゃったんだ! だとか、やほー声がよく通るよーだとか。……言ってて寒いなあとは思うけど、ちょこっと本気なのが混じってたりするから困る。一時期、自分の声がコンプレックスになってたんだよな。すぐ治ったけど。でもやっぱり、こんな風に引っ掛かりなく出せるような声には憧れてて。

 だからこれは良い点の一つ。もう一つは、えーと、あー。

 ……あー、いちおう、いや、いちおうというか、うん。島風は好きだし、彼女になれて良かった、だとか。

 深海棲艦になってたりしたら目も当てられなかったかもしんないし、などと悪い可能性を考え、今の状況を良い方に捉えてみる。

 五体満足で、健康で、前より身体能力が高い。

 ああー、とっても素敵な事だあね。

 

 つらつらと自分を洗脳していれば、その内にそんな気になってくる。

 島風さいこー。島風かっこいー。

 そんな島風になれて幸せです?

 …………たぶん、そうなんだろう。

 未知の体験をしている訳だし、仕事から解放された訳だし。

 やろうと思えば引きこもり生活も夢じゃないかもしんない。

 そのためにはより良い環境を求めて動かなきゃいけない訳だけど。

 

「ん……」

 

 益体もない事を延々考えていると、前触れもなく何かが頭の中で瞬いた。

 それは、記憶だった。一片の記憶。

 体中に血が廻っていくように、ただ一つの知識がこの身に浸透していく。

 ほんの数秒の間に、俺は艦娘としての生き方を知った。

 

「…………」

 

 そして、島風としての自分に緩やかに侵されている事を知った。

 それは、昨日、意識を取り戻した時からすでにあった侵食だった。

 俺の意識も心も、島風という艦娘に近付いていく。

 本当は、ずっと感じていた。森の中を当ても無くさ迷い歩いている時も、水の中を泳ぎ、魚を追いかけている時も。

 体の中のどこか大切なところで、細く流れてくる何かに俺が飲み込まれ、塗り潰されていくのを。

 このままではいずれ、俺は俺だった事の何もかもを忘れ、一人の島風となってしまうだろう。

 直感だった。危機感に近い、直感。

 恐怖はもう、昨日の内にさんざん感じた。だからもはや、この現象に恐れを抱く事はない。でも、だからといって黙って受け入れる事なんてできなかった。

 島風にはなりたくない。俺は俺のままでいたい。

 

「…………」

 

 でも、それじゃあこの島風はどうなる。

 俺が乗っ取ってしまった、もはや姿しか残っていない彼女の存在。

 俺がなくなるのは嫌だ。消えてしまうのは嫌。……だけど、彼女の存在を蔑ろにしてのうのうと生きるのも嫌だった。

 

「……なら、どうする」

 

 どうすれば彼女を残せる? 俺の心を騙せるのだろうか。

 彼女を尊重しているつもりになって、何も考えずに笑って過ごせるようになるには、俺はどう生きていけばいいのだろうか。

 ……なんてダークに考えてみたけれど、どうしようもない、しょうがない事にこんなに思いつめても意味はない。意味のあるなしで感情をどうこうできるなら、俺はもっと素晴らしい人生を送ってるだろうけど。

 両手で水をすくい、ぱしゃりと顔にかける。ごしごしと擦ると、少しだけ気分が晴れた。

 

「じゃあ、こうしよう」

 

 島風の要素もきっちり残して、俺も残す。ハーフ&ハーフだ。ちゃんと島風を尊重する。彼女のために、彼女のように戦う。連装砲ちゃんが手に入ったら一人遊びだってする。……は何か違うか。

 

 オッケー。考えが纏まった。俺は、島風じゃない。でも、翔一でもない。今日から俺は……駆逐艦・シマカゼだ!

 

「新たな艦娘の誕生にかんぱい!」

 

 うおー、と両手を上げて叫べば、どこかで鳥の飛び立つ音がして、びくっと身を竦めてしまった。なんとも締まらない。

 ……おふざけを抜きにして考える事にして、えーと、俺が俺のままでいるためには……俺を色濃く残すには、はっきりとしたものを前面に押し出していくしかない。

 

「たとえば、一人称が『俺』とか」

 

 ……うーん、あんましこの声に似合わないけど。でも、わかりやすく、自分の元々の性別を認識できるし、口にするたび確認できる。自分が福野翔一なのだと思い出せるだろう……たぶん。

 ……や、それだけじゃ足りない。なんとなくわかる。それだけでは、やっぱりいつかは島風になってしまうだろう。島風の要素を残そうというのだから、余計にそうだ。

 俺であって島風でもある、『シマカゼ』になるには、なんかもっとこう、他にはない、インパクトのある、かつ俺の要素をいれなければ。

 俺の要素ってなんだろう。世間一般でいうところのオタクで、未婚で……と、特色のない普通の人間だな。思ってて悲しくなるくらいに。

 

「……む」

 

 ぴーんときた。

 普通の人間。普通の人間ではしないような、でも、俺ならするような事を大袈裟にやればいいんじゃないかな。

 

「たとえばー、この年になって、ヒーローごっことか……」

 

 ……ぐさりと胸に何かが刺さった気がした。

 この年になってヒーロー……たとえば仮面ライダーだとかの真似っこなんて、常識で考えれば恥ずかしいしおかしい事だ。

 うん、おかしな事に、時折俺はやっている訳だけど。

 部屋で一人で変身ポーズ……うわー、やってる時は微塵も思ってなかったけど、絵面ヤバいなあ。

 ……でも、俺の趣味の一環であるそれは、多少の恥ずかしさも含んで、より俺を前面に押し出せる気がする。

 

「…………この路線でいってみるか」

 

 今決めた。これでいこう。いくったらいく。伊19ではない。

 むんと胸の前で両拳を握って気合いを入れて、一つの決定事項を作り出す。湯を跳ねさせる勢いで右手を左へびしっと伸ばし変身ポーズ。

 ……大の大人の俺ならいざしらず、島風なら結構いける気がする。

 

「……まあ、うん」

 

 なんか恥ずかしい事に変わりはないけども。

 それで、島風の方の要素はどうしようか。

 姿だけって言うのは尊重するなんていえない。常にスピードを追求する?

 いや、既に最高のスピードは得ている。俺が持つべきなのは、プライドだ。

 島風……いや、シマカゼが持つ長所、この速度。そして名前。今からそれが俺の誇りだ。こればっかりは誰にも譲れない。負ける訳にはいかない。

 

「おっ、私には、誰も、追いつけないよっ!」

 

 俺、と言いかけて慌てて直しつつ、一言一言、彼女の言い方を思い出しつつ真似て、言ってみる。

 異様にしっくりした。やっぱり、一人称に俺は似合わなさすぎる。口に出して言う分には、一人称は私で良いだろう。心の中では、俺で。……常時公務状態か何かだろうか。まあ、私と言うのなんて仕事中ならば常にそうだし、苦にはならないだろう。加えて、よく使う一人称でもあるので、これのせいで島風化が加速するなんて事もないはずだ。

 意識を切り替えていく。自分に言い聞かせる。今から俺は新たな存在となるのだ、と。生まれ変わるんだ、と。

 そうして、この世界で生きていく事を決める。半端に未練を残しては、きっとここでは生き抜けないだろうから。

 

「よっ、と」

 

 (ふち)に手をかけ、立ち上がる。ばしゃばしゃと水が落ち、胸の間から水滴が流れて、へそに受け止められた。む、今の、胸の存在を強く感じてしまった。

 意識を切り替えるとはいえ、そう簡単に女の子の体には慣れる事はできないだろう。本当に今さらだけど、息子が行方不明な事に違和感を覚えているし……。

 そんな事、今はどうでもいいんだ。

 

「っしょーい」

 

 半端な掛け声をかけつつ、片足でぴょんと跳び上がる。湯面から飛び出ると、両膝がお腹にくっつくくらいに畳んで、その一瞬に、先程『思い出した』艦娘としての技能を使用する。

 短い滞空時間は終わりを告げ、下ろした足が湯面を叩く。跳ねた水滴の中に足は――。

 沈まなかった。

 たん、ともう片方の足も湯面に落ちて、そのまま揺らめく湯の上に立つ。

 

「う、む……っとと」

 

 両腕を左右に広げてバランスを取りつつ、揺れる体を安定させれば、ついに俺は水上に立つ事を可能とした。

 これが、ほぼすべての艦娘が備える技能。水上を移動するための、船としての力。

 知識として、今自分がどんな状態にあるのかがわかる。

 

「……ふふふ」

 

 達成感とも興奮ともつかない感情がこみ上げてきて、自然に笑みが零れてしまった。

 艦娘としての、初めの一歩。この俺が、彼女達に仲間入りしたこの瞬間を、嬉しく思う。

 なぜならば、俺が思い描いた通りの結果を出す事ができたからだ。

 この調子なら、俺が島風に飲まれる事はなく、かつ彼女を尊重して生きる事が可能になるだろう。

 それを嬉しく思わないはずがない。

 

「んっ」

 

 声に出す必要はないけど、息を吐きつつこの状態を解き、湯に沈んだ。膨れた湯面が溢れ出し、土の上に流れていく。この温泉に流れ込んできている緑色の液体を眺めつつ、とりあえずは、服が乾くまで風呂に入っていようと思った。


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