島風の唄   作:月日星夜(木端妖精)

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やりたい事の一つができた。
吹雪主体のお話。


   小話 『吹雪ノ一日!』

 夏も半ばに迫り、いよいよもって朝は寝苦しさで目覚める事が多くなってきた。エアコンなんていう便利な物は大きな施設にしかなく、艦娘寮の各部屋には、どこからか引っ張り出されてきた扇風機が鎮座していた。この部屋の救世主は、今は項垂れていて動いていない。

 

「ぅ……ぅん……」

 

 涼を求めて掛布団から両手を出し、暑さに呻いた吹雪は、どろっとした体中の感覚に目を覚ました。もう少し涼しければ布団の中でまどろむ事もできただろうが、この暑さだ。とろんとした目をしていた吹雪は、眉を寄せて布団を退け、足の先からベッドの外に出していった。腕をついて身を起こし、縁に腰掛ける。いつもは結ばれている髪は、今は下ろされて、寝癖がついていた。

 小さなあくびを噛み殺しながら立ち上がった吹雪は、寝汗で濡れた体の不快さにカーテンを開こうとした手を止め、シャワーを浴びに行こう、と端的に考えた。

 シャッとカーテンを開けば、朝の陽射しが部屋いっぱいに降り注ぐ。視界が白く染まってしまうほどの光。左手を目元にかざして視界に入る光量を制限した吹雪は、そこで、傍のベッド……その下の段にいるシマカゼが、もう起きている事に気付いた。

 

「おはよう、島風ちゃん」

「おはよ、吹雪ちゃん」

 

 眠気を含んだ吹雪の声とは違って、シマカゼの声は溌剌(はつらつ)としていて、起きだしてから時間が経っている事が窺えた。格好も青いパジャマではなく、彼女を象徴する丈の短い服だ。うつ伏せになって枕に顎を乗せているシマカゼは、どうやら本を読んでいたらしい。グルメ系の雑誌は、夕立が貸した物だろう。

 

「みんなも、おはよう」

『キュー』

 

 ベッドに近付いた吹雪は、腰を折って、シマカゼの周りに埋まっている艤装達に挨拶をした。

 先日夕張の睡眠と引き換えに開発が完了し、シマカゼの手に渡ったD型……自立稼働兵装だ。大中小と揃ってヘラのような手を上げ、返事をする。

 四角い頭に円柱状の体。頭には二本の角のような砲身。顔はデフォルメされていて、太い長方形の黒い線を縦にした目に、ωを描く口があった。これらはただ描き込まれているだけなのではなく、彼らの感情によって変わっていく。

 大きいのだけが救命浮き輪をしていて、右から左に読む形式で『しまかぜ』と書かれている。

 シマカゼはこれを連装砲ちゃんと呼んで可愛がっているようだ。大きいのが連ちゃん、中くらいのが装ちゃん、小さいのが砲ちゃん。ネーミングセンスの欠片もない。

 近い位置にいた小さいの――砲ちゃんの頭を撫でて喜ばせていた吹雪は、ふと、シマカゼが自分をじぃっと見つめてきている事に気付いた。

 

「なあに、島風ちゃん。……どこか、変?」

 

 ボタンでも外れているのだろうか、と自身の体を見下ろす吹雪だが、パジャマの前部分はきっちり閉じられているし、汚れや何かは見当たらない。ひょっとして、寝癖だろうか。さわ、と髪に触れた吹雪は、しかしそこまで髪が跳ねたりしていないのに、小首を傾げた。

 理由がわからない。

 でも、まあいいか、と吹雪は思考を放棄した。

 

(島風ちゃんが見つめてくるのは、よくある事だし)

 

 こうしてシマカゼが誰か、または何かを黙って見ている姿は珍しくない。七日ほどの付き合いである吹雪だが、寝食を共にしていれば、そういった癖ぐらいはわかるようになっていた。興味の対象や、それについて何かを考えている時によく、彼女はこうしてじっとその眼差しを注ぐのだ。

 つまり今は、吹雪について何かを考えている、という事。その内容は少々気になるものの、シマカゼが声を発する気配がないので、吹雪は難敵夕立を起こしに向かった。

 ベッドの上。夕立は奥の壁に背を預けて、深く頭を落としていた。穏やかな寝息が聞こえてくる。起きようという努力が垣間見えたが、結局寝てしまっている。これを起こすのは一苦労だ。少なくとも、自分だけでは。

 そう判断した吹雪は、はしごの上で振り返って、シマカゼへと声をかけた。

 

「島風ちゃん、夕立ちゃんを起こすの、手伝って」

「いいよ、任せて」

 

 二つ返事でベッドを出たシマカゼと交代するためにはしごを下り、一歩退いた吹雪は、代わりにはしごを(のぼ)って夕立を起こしにかかるシマカゼを眺めた後に、一言断ってから着替えを纏めて簡易シャワー室へと急いだ。

 手伝ってとは言うものの、ここ最近の夕立の目覚ましはシマカゼの役になっているのだ。いてもしょうがない吹雪は、身繕いするために部屋を出たという訳だ。

 

 服を脱いで洗濯機に放り込み、スイッチを押して回す。ゴウンゴウンと重い音をたてて稼働する洗濯機から離れた吹雪は、そのまま浴室内に足を踏み入れた。冷たい床に背筋が震える。でも、温かいシャワーを浴びれると思えば、耐えられる。

 簡易とは名ばかりの広いシャワー室。天井付近には黒い鉄パイプが何本も走っていて、壁にかけられたシャワーの数は十を超えている。その内一つに向かった吹雪は、ノズルを手にとり、下部にある栓を捻って水を出した。一分もせず湯気が立ち始める。それでようやく、シャワーを浴びる事ができる。

 

「ふー……」

 

 べたついていた体をお湯が洗い流していく。表面から浸透する熱が穢れを剥がしていく。肩を撫ぜ、胸を撫でた吹雪は、芯からも発せられる心地良さに、熱い吐息を漏らした。

 床を打つお湯が、がらんどうの浴室に雨の日のような音を響かせる。立ち込める白煙が、誰かの視線から守るように、吹雪の体を覆い隠していった。

 

 泡が落ち、寝癖が消えて、使われたアカスリが元の場所にかけ直される。

 一通り身を清めた吹雪は、ここには無い浴槽に浸かる代わりに、熱いお湯を体の前面に当てて堪能した。

 ノズルが吐き出す幾筋もの湯が鎖骨の間に当たって弾け、透明の線が胸の間を滑り、腹から太ももへと流れていく。天窓から差し込む光の加減で、一筋の湯はなだらかな曲線を通るたびに明滅した。水の玉となって足の付け根に留まっていた水滴が、後続の湯に流されて、名残惜しげに排水溝へと消えていく。

 濡れた髪を持ち上げる腕は、健康的な白さの中に赤みが混じっていた。体が温まったゆえに、頬はほんのり赤く染まっていて、ほう、と湯の雨に紛れた吐息は少し熱い。二の腕を優しく擦り、再度胸へ当てた吹雪は、目を閉じて上機嫌でお湯を受け止めた。

 柔らかな肌の上を水滴が伝う。細い腕に隠された発展途上の胸は薄く、艦娘ゆえに成長の余地はない。改造による胸のタンクの増量は、夕立ならともかく吹雪には期待できないだろう。

 そんな未来への不安はこの少女には無いらしい。改造された自分の存在を知らないというのもあるし、艦娘が成長しない事について深く考えた事がないというのもある。何より、薄ぼんやりと『いつか大きくなるだろう』と考えているのが大きい。

 期待が裏切られるのはいつになるだろうか。いずれにせよ彼女は、ずっとこの姿のままだ。

 神秘のヴェールに包まれた柔らかな肢体は、解き明かされる事の無い不思議を秘めたまま、戦う乙女のために色づく。

 キュ、と栓が閉められて、お湯が止まった。ノズル口から滴る水滴もまた、どこか名残惜しそうにしていた。

 

 

 さっぱりした吹雪が部屋に戻ると、ちょうど夕立が起きだしてきているところだった。今日は起こすのに随分時間がかかったらしく、はしごを下りる夕立をシマカゼが急かしている。

 きっと夕立もシャワーを浴びに行くだろう、と、吹雪はタオルを用意する事にした。さすがに服まで引っ張り出す事はしない。親しい間柄とはいえ、そこまではできないからだ。

 日常の中で培われた気遣いをみせる吹雪を尻目に、特に何も考えていなさそうなシマカゼがベッド下の引き出しから夕立の着替えを引っ張り出していた。遠慮がないというべきか、羞恥心が無いというべきか。

 しかしシマカゼは、夕立に衣服を手渡した際に、ん? と怪訝な表情をして、次には「あっ」と声に出して体ごと明後日の方向に向けた。たんに何も考えていないだけだったようだ。

 恥ずかしいと思ったのかな。夕立にタオルを渡しながら思う吹雪だった。

 

 朝食を済ませ、部屋に戻った三人は、それぞれ準備を始めた。今日も吹雪と夕立は授業だ。本日からここにシマカゼも加わる事になった。島風ちゃんと一緒にお勉強できるんだ、と嬉しそうにしている吹雪とは違って、夕立はいつも通り面倒くさそうにしている。シマカゼは、少女向けの文房具である小さめの筆箱を見つめて、何かを考えているようだった。

 

「……どうしたの? お古は、やっぱり嫌?」

「ううん、そんな事ないよ」

 

 自分が渡した筆箱を眺めるシマカゼに不満の色を見た吹雪が声をかければ、彼女は薄く笑って否定した。

 ただ、私にはちょっとかわいすぎるんじゃないかな、なんて言って、手提げ袋の中に筆箱を押し込む。

 

「そんな事ないよ」

 

 かわいすぎるのでは、という疑問に反射的に口を開いた吹雪だったが、何が「そんな事ない」のか、「かわいすぎる」とは何か、その正確な意味を理解しての事ではなかった。シマカゼの声に自虐が混じっていたのをうっすら感じたから、否定したというだけ。……いや、自虐というのは些か大袈裟すぎるかもしれない。シマカゼの精神性を考えれば、薄桃色の筆箱は、自分には合わないと感じるのも当然だろう。

 

「ありがと、吹雪ちゃん」

「……んーん」

 

 お互いが完全に理解して発した訳ではない言葉で伝わらなくとも、感情でのやりとりはできている。気遣いと、それを嬉しいと思い、感謝する気持ち。微笑みあう吹雪とシマカゼに挟まれた夕立は、特に意味もなく口の端をつりあげて悪い笑みを作った。

 

 

「おはよう」

 

 教室は、本棟一階の南側に位置している。三人が連れだって教室に入ると、教壇に立つ長身の女性が静かに挨拶した。

 

「おはようございます」

「おはようっぽい」

「……おはようございます。今日からよろしくお願いします」

 

 吹雪、夕立、シマカゼの順に挨拶を返し、頭を下げる。女性は、シマカゼを一瞥してから、教室内へと顔を向けた。それぞれの席には、十数人の艦娘がついている。いずれも駆逐艦だ。比較的経験の浅い者から、実戦経験のある者まで幅広くいる。

 三人は教室の後ろの方の席に着いた。黒板の上にかけられた丸時計は、八時二十七分を指している。ギリギリの到着だ。

 

「ねぇ、先生って人間なの?」

「島風ちゃん、その言い方はなんか……」

 

 机の脇に手提げ袋を下げたシマカゼは、さっそく前の席の吹雪に疑問を投げかけた。そっと振り返った吹雪が小声で返すと、シマカゼは「あ、ごめん」と誰かに対して謝罪しつつ、口を手で塞いだ。

 

三原(みはら)(まこと)先生。海軍の人ではなくて、普通の人間っぽい。好きなものは長ネギのお味噌汁で、特技は手品っぽい」

 

 教師用の大きな机の後ろに立つ女性の素性をシマカゼに教えたのは、斜め前の席に座った夕立だ。

 三原真。腰まで届く長い黒髪を一つに束ねて垂らし、黒いスーツを着用した女教師。紅い目は鋭く細められていて、すっとした鼻と口は、彼女を見る人に中性的な印象を抱かせる。スーツが腰の部分できつくしまっていて、その細さを知らせてくれなければ、一目で彼女を女性と見抜くのは難しいかもしれない。人を惑わす妖しい美しさ。そういった意味では、彼女は普通の人間とはいえないのかもしれない。

 シマカゼは、そんな彼女を薄いながらも僅かにある胸で女性だと判断した。培ってきた観察眼の賜物だ。本人の前でそれを言えば拳骨を頭に落とされる事は間違いないが。

 時計の針が八時三十分に到達する。チャイムはない。この『教室』にもスピーカーはあるが、そういった用途には使われていないようだ。

 教壇に立つ真が机から引き出したのは、出席名簿だ。くっついているペンを手にすると、一人一人、艦娘の名前が呼ばれていく。いろはにほへと……ではなく、あいうえお順だ。『さ行』に差しかかって、自分の名前が呼ばれるのを身構えていたシマカゼだったが、何事もなく『た行』に移ってしまった点呼に拍子抜けしてしまった。

 

「お前達と共に学ぶ新しい仲間が参加している。島風、自己紹介をしなさい」

「あ、はい!」

 

 最後に夕立が呼ばれるまで、名前を呼ばれなかったシマカゼは、ひょっとしてこのまま何もなしで授業が始まってしまうのではないかと焦っていたが、名簿をしまった真が思い出したようにそうつけ加えるのに、慌てて立ち上がった。瞬間、何十本もの意識の糸がシマカゼの体に突き刺さった。

 (ひびき)、 (あかつき)、 (いかずち)、 初春(はつはる)、 子日(ねのひ)、 若葉(わかば)、 初霜(はつしも)、 (かすみ)、 綾波(あやなみ)、 如月(きさらぎ)、 睦月(むつき)、 菊月(きくづき)、 長月(ながつき)、 春雨(はるさめ)……。

 教室中の視線を一身に集めたシマカゼは、緊張に体を硬くしながらも、無難な自己紹介をした。

 

「本日からみなさんと一緒に勉強する事になりました、シマカゼです。よろしくお願いします」

 

 格好とは違った真面目な挨拶に、ぱちぱちとみんなが拍手で迎えた。その音は大きくなかったが、受け入れられた安心感に、シマカゼはほっとして着席した。椅子の足下に(つど)っていた連装砲ちゃんが(いた)わるように『キュー』と鳴く。

 八時四十分から一時限目が始まる。保健の授業。艦娘の体や性能についての知識を深めるための授業だ。

 最初に、宿題に出されていたプリントが回収される。係りの子が事前に集めていたものを先生の下まで運んでいくだけだから、そう時間はかからない。

 今日の授業内容は、『燃料の必要性』だった。艦娘に必要不可欠な燃料とはどのようなものなのか。どう補給するのか。燃料がなくなると、艦娘はどうなってしまうのか。

 そこでシマカゼは、孤島で朝潮が(おちい)っていた呆然自失とした状態が、燃料を失い、補給しないまま一定時間を過ごした結果だと知った。燃料は何かを食べる事でも得られるが、それすらできていないと、非常に危険な状態に陥り、他者の手を借りなければ動けなくなる。そして、助けがなければ朽ちていくだけ……。あの時の朝潮は、かなり危険な状態にあったという訳だ。

 五十分にわたってその関連の話が詳しく語られ、黒板に走る白字を生徒達がそれぞれノートに書き写していく。

 カリカリという、シマカゼにとっては懐かしい音が教室に満ちていた。

 

「海上に現れる霧の話を知っているか?」

 

 授業の終わりに、真はそう切り出した。

 数人が知った反応を返す。シマカゼもその一人だ。海上に現れる霧。それは、あのレ級が潜む不思議なものに他ならない。

 

「その内知らせが張り出され、注意喚起がなされるだろう。お前達には先に私から伝えておく」

 

 霧の向こうの強敵。それと出遭ってしまった時、どうすれば良いのか。心構えと対策。

 

「この話を聞いて……海に出たくなくなったら、言いにきなさい」

 

 そう締め括った真は、プリントと名簿を抱えて教室を出て行った。

 次の授業は体育だ。体操着に着替え、外に集合しなければならない。扉が閉まるその瞬間まで静寂に満ちていた教室中に、慌ただしい気配が広がる。

 体操着が間に合わなかったシマカゼはそのままの格好で行く事になる。彼女にとってそれは違和感がないらしい。そうでなければならないとも考えているようだ。幸い、格好が違うからといって彼女を責める艦娘はここにはいなかった。

 

 

 三時間の授業を終えれば、昼食だ。賑わう食堂に到着した三人は、いつものように昼定食ABCを選んでカウンターまで持っていくと、急いで空いている席を確保して座った。

 

「どうしたの、島風ちゃん」

「んー……朝潮、いないね」

 

 きょろきょろとシマカゼが辺りを見回しているのを不思議に思った吹雪が問いかけると、彼女は身を捻って入り口の方を眺めながら答えた。授業の合間も同じことを言っていた。どうやらシマカゼは、教室にはいなかった朝潮の姿を探し求めているらしい。

 

「島風ちゃんには残念だけど、朝潮は遠征に出てるっぽい」

「え、そ、そうなんだ」

 

 そうと知らずに朝潮を探し続けていたのが恥ずかしいのか、俯きがちになってさっさかと髪を梳き始めるシマカゼに、吹雪は頬杖をついて、ふふ、と笑った。

 

「……なに?」

「……島風ちゃんは、本当に朝潮さんの事が好きなんだね」

「え? 私が? うーん……」

 

 きょとんとして、次には悩み始めてしまったシマカゼだが、いつも何かにつけて朝潮の話をする彼女を見てきた吹雪には、それが照れているように見えた。

 実際そうなのだろう。悩んでいたのは最初だけで、何か思い出した様子をみせてからは、上気した頬に指を当てて明後日の方を見ていた。吹雪と夕立の視線に気付くと、こほんとわざとらしい咳払いをして、それから、「そう、かも」と呟いた。

 自分の中で納得したのか、うんと一つ頷いたシマカゼが顔を上げた時には、顔の赤さは消えて、ただ、綺麗な笑みが浮かんでいた。

 

「私、朝潮の事、好きだなあ」

 

 異性としての好きではなく、同性として、に近い意識。愛情ではなく友情。短くも濃い苦楽を共にした仲間。最初に出会った艦娘。自分を孤独からすくい上げてくれた女性(ヒト)。ここまで要素が積み重なれば、好意を抱かない訳がない。

 それはまっすぐで、穢れのない気持ちだった。

 朗らかな笑顔と共にされた告白は、聞いた吹雪の方が少し恥ずかしくなってしまったくらいだ。

 シマカゼにとっては、その質問も、気持ちを外に出す事も、『恥ずかしい』より『嬉しい』が勝っている。彼女にとって、朝潮とはそういう存在なのだ。

 ただ、吹雪や夕立には、そういったシマカゼの気持ちの深いところまでは読み取れない。

 

(なんだか、素敵だな)

 

 膝の上で指先を絡めた吹雪は、対面に座るシマカゼの笑顔に、無意識に笑みを浮かべながらそう思った。

 

 男の子みたいに笑う子。それが彼女に対する最初の印象だった。

 ――なんていっても、提督以外の男性を見た事は無いんだけど。

 島風ちゃんは、朝潮さんの話題をよく出す。自分では気づいてないと思うけど、その話をする時の島風ちゃんは、ずっと女の子らしく笑う。

 それはまるで……まるで。

 ……なんだろう。わからなくなっちゃった。

 

 心の中に浮かべた言葉の途中で、相応しい言葉を見失ってしまった吹雪は、行き詰った思考をいったん閉じた。

 それでもこみ上げてくる微笑ましさのようなものがあって、だから吹雪は、しばらくの間笑顔をやめられなかった。

 

「そろそろご飯ができるっぽい。とりに行こ」

「ん、そうしよっか」

 

 夕立の提案に乗った二人が席を立つ。ちょこちょことシマカゼを追う連装砲ちゃんが、小さな鳴き声をあげた。

 

 

「お、来てくれたんだ!」

「はい。今日も、よろしくお願いします」

 

 昼過ぎの、自由時間。吹雪は、体育館に足を運んでいた。

 この時間の体育館は、那珂ちゃんの練習場に変わっている。主戦力に食い込めるほどの戦闘力を持つ彼女は、かつては出撃の機会が多かったが、前に上げた大きな戦果と引き換えに、こうして使われていない時の体育館を自由にする権利を得て、その休日の大半を練習に当てている。

 動きやすい短パントレーナー姿でやってきた吹雪は、入り口付近で準備運動らしき動きをしていた川内(せんだい)と言葉を交わした。

 茶髪のツーサイドアップに、同じ色の瞳。吹雪よりも頭半分高い軽巡のお姉さんだ。

 

「それじゃまず、ランニング、軽く十周いってみよう!」

「はい!」

 

 先導する川内に続いて、線の引かれた館内を走り始める吹雪。

 彼女がなぜこんな事をしているかと言えば、それは数日前にまで遡ったあの日に原因がある。

 シマカゼがこの鎮守府を去り、別の鎮守府へ行ってしまう。その前に朝潮に会いたいという彼女の気持ちに応えるべく、共に生真面目な少女の姿を探し求めて敷地内を歩いていた時、この体育館に寄った吹雪は、那珂ちゃんの一声で強制的に親衛隊にされてしまった。

 一緒に歌おう、踊ろうと言われても、突然すぎて意味が分からず目を白黒させていた吹雪だったが、川内と神通(じんつう)に押し切られて、彼女達の練習に付き合う事になったのだ。

 最初はシマカゼの事を心配していた吹雪だったのだが、教えられたステップを踏み外して転んだ際、手を貸してくれた那珂ちゃんの顔がどこまでも真剣だった事に心を入れ替え、真面目に練習に取り組み始めた。

 吹雪は実直だ。だがどこかずれている。汗を流し、川内と神通の二人に合わせて踊る一体感を覚え、那珂ちゃんに「センスがある」と褒められると、ほんの少しその気になってしまった。

 

「はっ、はっ、ふ、……はぁー」

「よし、ちょっと休憩。三分ね」

 

 陸の上をひた走る経験はあまりなかった吹雪は、こうして自分の足を回して地上を走る事に、海の上を滑る時と同じ喜びを感じていた。それがどこからくる感情なのかはわかっていないが、とにかく、走る事は苦しくも楽しく、温まった体は、この後の練習でさらに熱くなっていくだろう事を思うと、よくわからない、でも良い気持ちがわきあがってくるのだった。

 

「姉さん」

「お、音響の設置は終わったね」

 

 ステージ横の準備室から出てきた神通が、二人の下にやってくると、そのまま体育館後方の、長いカーテンがかけられた壁際まで移動した。

 ――神通。姉妹と同じ茶髪は肩辺りまで伸びて、毛先が外に跳ねている。後頭部に結われた緑色のリボンでハーフアップにしている。前髪が左右に大きく跳ねているのが特徴的だ。どこか気弱そうな表情も、特徴といえば特徴か。

 

 川内と神通がカーテンを両端まで捲れば、巨大な横長の鏡が現れる。これも那珂ちゃんの要望で備えられた物だ。任務の報酬。お金がかかっている。

 

「はいはーい、那珂ちゃんとうじょーう! 今日も一緒にがんばろーね! きゃはっ☆」

 

 吹雪が彼女達の踊りや歌の練習に参加するのは、これで三度目だ。二回目は様子見と言った感じだったが、今日、吹雪が自主的にここに足を運ぶと、本格的に歌に合わせた踊りの練習が行われる事になった。

 茶髪のお団子頭に、ぱっちりとした目。アイドル衣装ではなく、上下ジャージ姿で――それでもどこか華がある――現れた那珂ちゃんは、きらりんと星を飛ばしながら吹雪に言って、跳ねるように鏡の前に出た。元気いっぱいの笑顔に、はい! と吹雪が答える。

 吹雪の隣に並んだ川内と神通も、お揃いのジャージ姿だ。

 

「……ほんとに、君が来てくれて助かったよ」

「え……?」

 

 体を動かして感覚を確かめている那珂ちゃんを眺めていた吹雪は、肩を抱かれるのに目を瞬かせた。那珂ちゃんから離れながら、川内が囁く。内緒話だ。

 

「なんてーかさ、君もすぐ逃げちゃうと思ってたし」

「逃げるだなんて、そんな……私『も』?」

「あー、まあ……」

 

 反射的に否定しようとした吹雪は、川内の言葉に引っかかるものを感じて、彼女の顔を見上げた。頬を掻きながら顔を逸らす彼女は、明らかに何か言い辛いものを抱えていた。

 

「……あの子ねー、ここじゃ結構やり手だったからさ。『一緒にアイドルやろう』なんて言っても、印象の違いに戸惑って逃げちゃう子ばかりでさ」

「はあ……」

「こないだも、えーと……白髪(はくはつ)の…………あー」

「菊月です、姉さん」

「そうそう。菊月ちゃんね」

 

 那珂ちゃんの武勲に憧れたのか、話を聞こうと――その技術を教授してもらおうとやってきた菊月に、ソロでの活動に疑問を抱いていた那珂ちゃんは、これ幸いと猛アピールしてアイドル道に勧誘した。

 結果は、川内の話した通りだ。噂にあった那珂ちゃんの姿との違いに驚いた菊月は、去ってしまった。

 

「ああ見えて結構傷つきやすい子でね。それからも何度か駆逐艦の子に声をかけてたみたいなんだけど……失敗するたびに目の周り赤く腫らしちゃってさ」

「……私は」

「姉さん。それ以上は……」

 

 そんな話を聞いてしまっては、吹雪はもう、ここから抜け出す事はできなくなった。元々自分の意思で練習を続けようとここに来たのだ。でも、それはまだ、どこか軽い気持ちだったのかもしれない。ついていけなかったらすぐにやめてしまうような、そんな軽さ。

 神通が川内を止めたのは、吹雪がそうなってしまうのを……そうさせてしまうのを止めるためだったのだが、それは些か遅かったようだ。

 

「私、頑張ります! どんなに辛くったって、途中で投げ出したりしません!」

「吹雪ちゃん……」

 

 気合い十分、数割増しで声に力を入れた吹雪が、胸元で拳を握って、強い口調で言い放った。

 那珂ちゃんの話をすれば、彼女がこうなるのは明白だった。川内の狙いはそこだったのだ。一人で頑張る那珂ちゃんの望みを叶えるために、卑怯だとわかっていても、この話で吹雪の意思を絡め取った。

 神通だって、話を止めたものの、想いは同じだ。誰よりも早く強さのステージを駆け上がって、大好きな歌と踊りを封印して鍛錬に励み、その果てで自由に歌う権利を勝ち取った彼女に、どうしても好きな事をさせてやりたかった。

 彼女の欲しがるパートナーを与えるには、川内と神通には練度が足りない。艦種によってある程度上下関係が決まるのはどこの鎮守府でも共通の事項だが、戦闘力によって発言力が変わってくるのも、また共通事項だった。

 ギリギリ改になったばかりの二人では、(しん)の仲間を探し出してくるのには多大な時間がかかるし、その間、本業である戦闘も、そのための備えである演習や自主鍛錬も、那珂ちゃんの相手さえも疎かになってしまう。だから中々時間が取れずに困っていたのだが……ここにきて、期待の新星の登場だ。

 那珂ちゃんの武勲をさほど知らず、知ってはいても、戦時において鬼のような強さを発揮する彼女を……戦艦すら投げ飛ばす彼女の姿を見た事のない新人で、『アイドルしよう』と言われても、混乱しながらも話を聞こうとする姿勢を崩さなかった吹雪ならば、那珂ちゃんと共にやっていけるのではないかと思えた。

 だから引き込んだ。だがそれは、川内や神通が認識している『無理矢理』ではない。彼女達の話は確かに吹雪の認識を変えた。でもそれだけだ。

 吹雪がアイドルを、その練習をやろうとしたのは、同情や何かのためではない。……それも少しは混じっていたが、大本は、吹雪がそうしたいと思ったから、だ。

 改二に憧れた夕立が勉強より実戦を優先し、いつかの出撃を夢見て演習に積極的に参加しようとしているのと同じように、また、実戦を経験し、駆逐艦の身で重巡すら打倒したというシマカゼのように、自分も、赤城に憧れるだけでなく、何か明確で、強い気持ちで向き合える、大きな努力が必要な事を成し遂げなければならないと思っていた。

 だから自分の足で踏み込んだ。アイドルの世界に。その入り口に。

 それは吹雪の意思だ。それはきっと、吹雪にとって譲れない部分。

 

「吹雪ちゃん! 意気込みは十分だね! でも、アイドルへの道は厳しいよ!」

 

 ふと大きな声が聞こえて三人が振り返れば、練習の準備を整えたのか、那珂ちゃんが大振りに手を振っていた。輝くような笑顔からは、彼女が落ち込んだり、はたまた苦痛を噛みしめて戦闘に身を投じる姿は少しも想像できない。穢れを知らず純粋で、力仕事なんて知らないように手足は細くて、爆発するような元気の中に儚さも併せ持つ不思議な魅力。

 

「すぐ行くよ! ……よろしく頼むね、…………特型駆逐艦」

「吹雪ちゃんです、姉さん」

「……よろしく頼むね、吹雪」

「あー……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 那珂ちゃんに返事をした川内が、小声で吹雪に言う。……名前を忘れていたようだが、神通が助け舟を出すと、何事もなかったかのように真面目な顔で続けた。

 その締まらなさにどういう顔をしていいのか一瞬悩んだ吹雪だったが、結局表情を引き締めて、真剣な顔で、自分の意思を表明した。

 満足したように微笑んだ川内と神通に連れられて、那珂ちゃんの下に来た吹雪は、「内緒話してたねー!」と頬を膨らませる那珂ちゃんにたじたじになりながらも、これからの自分の事を考えて、きつく手を握り込んだ。

 きっとこれが、自分の未来を切り開く。だから一生懸命頑張らなくちゃ。

 

 決意も新たに、ダンスの練習に挑む吹雪。

 彼女がステージに立つのは、そう遠くない未来かもしれない。

 ついでに、それを見たシマカゼと夕立が揃って口を半開きにして呆けるのも、遠くない未来……かも、しれない。

 でもそれは、また別のお話。


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