にゃしぃいいいいいいいい。
案内編がようやく終わりを迎えました。司令官のおかげです。
艦隊帰投。
由良水雷戦隊・天龍と別れ、俺達は緊急出撃用の施設へと戻ってきた。
借り物の艤装はここで返却するらしい。整備員らしき妖精さんがわらわら出てきて、艤装を渡すとわっしょいわっしょいと運んでいった。なにあれかわいい。
『わりとサティスファクション』
『こわかった』
運ばれていく艤装から顔を出した妖精さん達が、そんな意思を伝えてきた。
爆雷の妖精さんは満足げで、探信儀の妖精さんは少し不満気。ごめんねとありがとうを伝えると、どちらも笑顔になった。
少し汚れてしまった服を払ったりして身嗜みを整え、出撃と帰還の報告をするために、提督の下へ向かう運びとなる。
……のだけど、ちょっとした不具合が生じているのに立ち止まって、とんとんと床を爪先で叩き、靴の調子を確かめる。
「……何をしているの。行くわよ」
「あ、はい」
ここに戻ってくる時も感じていたんだけど、なんだか靴の具合が悪い。ぐらぐらするというか、ギチギチ言うというか。なんだろう、ちょっと無理させ過ぎたかな。でも見た感じ、なんともないんだけど。
首を傾げつつ、俺を促す叢雲に返事をして、歩き出す。……ヒールに違和感。なんて思っていたら、出入り口の段差に引っ掛けてしまった際に、ぽっきり折れてしまった。あらまー……どうしましょ。
左のヒールはなんともないんだけど、よく蹴りに使ってた右足の方は駄目になっていたみたいだ。足を伸ばすと
「どうしたの? あら、ヒールが折れちゃったのね」
遅れている俺に気付いた夕張さんが戻ってきて、難儀している俺を見ると、あー、と理解したように頷いた。
なんだか恥ずかしい。自分の不注意で靴を壊してしまうだなんて。
あと、ヒールが折れるってアクシデントが、男性にはないものだから、そこも少し気恥ずかしかった。
「すみません」
「謝る事はないわ。それより、代わりがいるわね。……あ、ちょっと、そこの君」
近くにいた妖精さんに一声かけた夕張さんは、代わりの靴を用意するよう頼むと、ちょっと見せて、と片膝をついて俺の足に手を当てた。靴を覗き込む彼女の頭を見下ろして、それから、向こうの方で立ち止まってこちらを見ている叢雲へ目を向ける。……あ、不機嫌っぽい? ただ立っているだけにも関わらず、そんなオーラが見えた気がした。待たせちゃってるからかな。
「裏も……かなりボロボロね。結構無茶してるでしょ」
「……少し」
「ううん、少しでこうはならないと思うんだけど。どうすればこんな風になるのかしら」
募る申し訳なさに内心冷や汗を流していると、ヒールだけじゃなく、靴裏なんかも見ていた夕張さんに、咎めるようにそう言われてしまった。キックしまくってたらこうなりました、とは言い辛くて言葉を濁していると、妖精さんが靴を一足持ってきてくれた。いや、靴というよりはサンダルかな。そっか、サイズとか見てなかったもんね。ぴったりの靴を持ってくる訳ないか。
妖精さんにお礼を言って、靴を履き代える。うーん、靴を履いてるのに爪先立ちじゃないってのに、凄い違和感。あと、なんか目線が低くなった気がする。屋内では靴は脱いで動いていたから、気のせいだとは思うんだけど。
「こっちの靴は、そうね……うん、私が直してあげる」
「え、いいんですか?」
そこまでしてもらうのは気が引ける……というか、直せるんですか?
夕張さんは、にっこり笑って、もっと頑丈なのを
俺の靴も、妖精さんの手によってどこかへ運ばれていく。夕張さんが指示を出していたみたいだから、行き先は彼女の工廠かもしれない。
「お待たせしました」
ぱたぱたとサンダルを鳴らして急ぎ叢雲の下に行き、謝罪の言葉を口にする。彼女は何も言わずに背を向けて歩き出した。やっぱり不機嫌なのかなー。もたもたしすぎたか。
後ろ頭を掻きつつ、彼女を追って小走りに駆けだした。
◆
「失礼――」
「っと、ごめんよ!」
執務室の前まで来て、ノブに手をかけようとした叢雲は、扉が開いて飛び出してきた深雪に肩をぶつけられてよろめいた。慌てて夕張さんが背を押さえて転倒を防ぐ。
「うわ、本当ごめん、じゃない、すみませんでした!」
「深雪ちゃん、何やってるのー!?」
その場で駆け足しながら向き直って謝り直した深雪は、ぶつかった相手が叢雲だとわかると、大袈裟に頭を下げた。室内からぱたぱたと五月雨がやって来て、夕張さんに支えられて体勢を立て直している叢雲と、「マズった」とでも言いたげな顔をしている深雪を見回すと、す、すみません! となぜか謝った。
「……気にしないでいいわ。大事な用があるんでしょ? 行きなさいな」
「あー、そうそう! 朝潮の奴が帰ってきたって!」
朝潮?
……ああ、そういえば朝潮の話に深雪達の事が出ていたな。今思い出した。そうか、彼女達は朝潮と同じ隊だったのか。
それで、彼女の帰還を知らされて急いでいる訳だ。
「って訳で、ごめんな。よし、行くぜ五月雨!」
「あ、深雪ちゃん待ってー!」
じゃ、と軽く手を挙げた深雪が風のように駆けていくのを、五月雨がぱたぱたと追う。長い髪が揺れるのを眺めていれば、ふう、と叢雲が息を吐いた。
「大丈夫?」
「……ええ」
問いかければ、叢雲は二の腕辺りを手で払いつつ、目を細めて廊下の奥を眺めた。深雪と五月雨の去って行った方。
一種の寂寥感。そういったものが彼女の瞳から読み取れた……気がしたのだけど、叢雲がすぐに扉の方に向き直ってしまったために、本当にそうだったのかがわからなくなった。
推測はできるが、今は考え事をしている暇はないようだ。再度ノックをした叢雲がノブを捻って扉を押し開け、失礼するわ、とつんとした声音で言った。
叢雲に続いて入室する夕張さんの後にくっついていく。二度目ともなると、この豪華で踏み入り難い雰囲気の部屋に入る事には、抵抗を感じなくなってきた。
部屋の中央には、数時間前にここに来た時と同じように(とはいっても、顔ぶれは違うが)、天龍、響、睦月と由良の四人が中央に並んで立ち、提督と、机の脇に立つ電――おそらくは秘書艦なのだろう――と向かい合って、何事か話していた。
横一列の並びに加わる。俺は端っこだ。
なんだかこうしていると、学生の頃を思い出すな。お店でも同僚と横並びになる事はあったけど、なぜだかこういうのは学生の頃の印象が強い。そっちの方が長い経験だったからかな。
「お疲れのところすまない。報告を聞こう」
「ええ。まず最初に――」
提督が促すのに合わせて、叢雲が報告を始める。救援要請を受けてその場で艦隊を編成、助秘書の権限をもって出撃を認可し、緊急出撃。潜水艦による強襲部隊を撃滅。警備任務に従事していた天龍と共に無事帰投した。
纏めると、そんな感じ。……そういえば、ジョ……助秘書……って、なんだろう。たびたび名前を聞くけど、秘書艦の補佐? ああ、だから叢雲はそういった権限を持っていたのか。
うんと頷いた提督は、緩く片手を上げて、よくやってくれた、と俺達を労った。
「危うくかけがいのないものを失うところだった。感謝する」
「ですって」
「……不甲斐ねぇな。潜水艦程度にやられるなんてよ」
感謝を受けた叢雲がなぜか天龍に話を振ると、天龍も天龍で自分を責めるような事を言って天井を見上げた。……話噛みあってないんだけど、あれ、俺何か聞き逃したかな。
「いや、責めている訳ではない。対潜装備を最小限にしていた俺のミスだ」
「……司令官さん」
天龍をまっすぐに見つめて自責する提督を、電が咎める。俯きがちな顔に困ったような表情を浮かべているという弱々しい印象と違って、しっかりとした声だ。
提督が謝罪の言葉を口にした事に対しての言葉なのだろうか? 上が軽々しく頭を下げてはいけない、とか。
「この数年間、近海に潜水艦が現れる事はなかったから、仕方ないと思うな」
提督をフォローするように、由良が言う。彼女の容姿は、だいたい中学生かそこらに見えるのに、すっかり落ち着いた、ゆったりとした声だった。
見た目と年齢の違いにも、はやいとこ慣れないといけないかもしれない。
「ああ。温い環境にすっかり慣れちまってよ、おかげでこのザマだ」
ハッと笑って腕を広げる天龍。胸の下側や、裂けたスカートから覗くふとももを惜しげもなく晒しているのは……ああ、そんなところに目がいってしまうのは、うん、
「ううー、睦月、なんにもできなかったのです……」
「……」
少し服が汚れている程度の睦月がしゅんとして、制服の下半分が破れてお腹が出てしまっている響は、何も言わず帽子のつばを引いて、深くかぶった。
「気にするな……と言うのは酷か」
彼女達の事を想ってか、慰めようとした提督は、しかし途中で言葉を切り替えた。
なぜ? そこでそうやって許してやる事が心を軽くするのではないのだろうか。
しかし、天龍達の様子を見る限りでは、そうではないらしい。不満気で悔しげな……そう、叱責された方がマシだ、みたいな、そんな雰囲気があった。
「……A海域を使わせてくれ」
「ふむ……演習の予定はなかったな?」
「今日は、C海域で15時からだけなのです」
「よし、許可しよう」
提督が電に確認すると、彼女は抱えていた画板みたいなのに挟まれた紙束をぺらぺらと捲って、そう告げた。
A海域……とかってのは初耳だ。案内されてなかったし……でもどうやら、演習で使われる場所のようだな。演習ってのは、友軍とやるもののはずだけど、だとするとひょっとして、今この鎮守府には別の鎮守府の艦娘が来てたりするのかな。
「うっし、お前ら。風呂入ったら特訓だ。一から鍛え直すぞ」
「はい! お願いします!」
「……やるさ」
拳を握って強めの口調で言う天龍に、力強く頷き返す二人。提督は、そんな三人を見て、退室してよし、と言った。
「頑張ってね」
「よぉーし、睦月、頑張りますよー!」
「うん」
小さく手を振って励ます由良に、それに対しても頷いて返した睦月と響は、かなり気合いが入っているみたいだった。張り切ってるなあ。なんか、微笑ましい。
「何かあったらオレを頼れよ。借りを返すぜ。……じゃあな」
由良に一言投げかけた天龍は、睦月と響を引き連れて出て行った。その三人も退室の際、軽く頭を下げていた事から、やはりあれはそういう挨拶なのだろう。覚えておかねば。
「さて、まず……由良。君達の働きに見合った報酬を用意しよう。何がいい」
「あの子達の分も、由良が勝手に決めちゃっていいのかな」
「後で、でもいいんだ。今はとりあえず、君の望みを聞きたい」
「……由良は、みんなが朝潮とゆっくり話す時間が欲しいって思ってるんだけど……」
「休暇だな。うん、朝潮も少し休ませなければならないし……わかった」
他の二人からも何か要望があれば伝えてくれ。
提督が言い終わると同時、電が紙を一枚ぺらりと抜いて、由良へ差し出した。静かに礼を言った由良が受け取ると、それで由良への話は終わりらしく、退室を促された。
彼女が部屋から出て行く際、――ちょうど、室内へと向き直った時に――目が合った。ほんの数秒俺を見ていた由良は、特に何かを言う事もなく提督に顔を向けて頭を下げると、扉を開けて出て行った。
……なんで最後に俺を見てたのだろう。また、あれかな。誰だこいつって思われてたのかな。
「また助けられてしまったな」
扉の向こうに意識を割いていると、ふと提督に声をかけられている事に気付いて、ゆっくりと顔を向け直した。
「君にも報いたい。だから、何か望みがないかを聞きたいのだが……」
「……」
「ああ、いや。そうか、そうだな……たとえば……うーん」
望みがないか、なんて聞かれても、特に何も思い浮かばないので黙っていれば、提督は一人で何事かを納得して、うんうん唸りだした。
よく意味がわからずに首を傾げていると、見かねたのか、電が提督の耳元に口を寄せて、ぽそぽそと囁いた。ああ、と顔を上げる提督。
「それはお金でもいいし、お菓子や本などの現物でもいい。君に外出許可は出せないが、できる限りの事は叶えたい」
……ああ、何を悩んでいるのかと思ったら、俺が黙った理由の事か。
あの孤島で目覚めてからここに来るまでの記憶しかないと話している俺に、何が欲しいかと聞いても、どの程度の事を望めば
ご褒美って、お金とかお菓子とかなんだ。俺に外出許可が出せないのは……正式にここに所属している訳ではないから、だろうな。
他の鎮守府に自分が所属していたらを思って
……そうだ、彼女が俺の靴を直してくれるって言うし、対価は用意したいよな。
「じゃあ、お金が欲しいです」
「ああ、わかった。あまり大きな額は出ないが……一応聞いておこう。幾らぐらい欲しいんだい?」
「いくらくらい……? ……いくらくらいだろう」
「……どうして私の顔を見て言うのかな?」
靴の修理費はいくらかな、と夕張さんを見れば、不思議そうに聞き返された。ええと、理由は言わないでおこう。お金はいらないって言われそうだし。直った靴を渡される際に、電撃的に代金を渡してしまえば押し切れそうだ。そうしよう。
……あ、でも、いつお金もらえるんだろう。……聞くか。
「すぐに欲しいんだね。それもそうか。後で叢雲に渡しておくから、受け取ってくれ」
「わかりました」
お、そういうのの受け渡しも助秘書である叢雲の役目なのかな? それとも、相手が俺だから叢雲に頼まれたのだろうか。
続いて提督は、叢雲と夕張さんにも褒美は何が良いかと尋ねた。
休暇。それが叢雲の答え。珍しいな、と自然に思ってしまった。彼女とは数時間の付き合いだが、休みを取りそうに見えなかったのだ。でも実際は、彼女は端的に休みが欲しいと言った。
……それもまた、彼女の過去に関係のある事なのだろうか。
夕張さんの答えは、ネジ! だった。……ネジって、あのネジ? 改修に必要な……。
「……それはちょっと」
「ええー。一個だけ、一個だけでいいから、なんとかならないかなあ」
一本指を立ててせがむ夕張さんに、しかし提督は渋い顔をする。貴重な物なのだろう。もしくは、それを報酬とできるほどの働きではなかった、とか。
渋る提督に、一個だけ、と押し込んでいく夕張さん。
彼が助けを求めるように電を見ると、電はまた書類を捲って、「一つ余裕があるのです」と言った。
「ほんと!? それが欲しいな。欲しいなー!」
「わかったわかった。電、頼む」
「なのです」
「やったー!」
万歳する勢いで喜ぶ夕張さん。テンション高いなあ。好きな事をできるって喜びが大きいんだろう。隣にいる叢雲はうるさそうにしているけど。不機嫌メーターがあったら半分以上昇ってる感じ。
隣の部屋に向かった電が――地味なせいで扉に気付かなかったが、出入り口の他に、隣室に続く扉があった――封筒を持って出てきて、夕張さんにそれを渡した。それにネジが入っているのだろう。……小さいんだ、ネジって。
「ああ、念願の改修工廠開設……! 夢が広がるわ……」
両腕で胸に封筒を抱えた夕張さんは、恍惚としてそう言った。……この様子ではすぐには戻って来そうもない。
「……そういえば、叢雲。案内は終わったのか?」
「後は寮に通すだけよ」
「そうか。……そうしたら、そのまま休んで良い。引継ぎだけしてくれれば、後は自由にして良いぞ」
「わかったわ」
引継ぎ……あ、助秘書って、当番制なの?
そういえば秘書艦もころころ変えられたっけ。
叢雲が電から用紙を渡されると、そこで退室してよし、と言われたので、三人で部屋の外に出る。退出の挨拶はびしっと決めた。……それが硬く見えていたらしく、部屋を出た後に「緊張してた?」と夕張さんに心配された。無駄な力が入ってたみたい。まあ、まだ慣れてないから。……慣れてないから仕方ないのだ。何に慣れてないのかは自分でもよくわからないが。
建物を出て。T字路の突き当たり。夕張さんの工廠は左で、艦娘の寮へは右に行かなければならない。なので、夕張さんとはここでお別れだ。
「あ、あの」
「? ……どうしたの、島風ちゃん」
別れ際、彼女に靴が直るのはいつぐらいになるのかを聞くと、すぐとりかかるから、明日には返せるわ、と言った。
じゃあ、と肩まで手を上げて「じゃあね」を言おうとする彼女を制して、どうして靴がボロボロなのかを話す。
直してもらうのに、傷ついた理由を話さないのは何か違うと思ったのだ。
余計な事かもしれないが、話しておきたかった。
「ああ、そういう使い方……」
主に蹴りを主体で戦ってきたから、と伝えると、彼女はどこか納得したように頷いた。
「砲雷撃が苦手なので、それで……」
「そうなんだ? 駆逐艦の子でそういうのは珍しいわねー。ふふ、大丈夫、苦手はいつかなくなるから」
そういうの、とは、キック主体……つまり接近戦を仕掛ける事を指して言っているのだろう。駆逐艦の子では、という事は、戦艦やらは頻繁にやっているのだろうか?
「そういう訳じゃないんだけど、どうしても近付かれてしまう事ってあるのよね。力が強い戦艦の人なんかは、主砲を動かすよりも手を動かして応戦する方が速いって考えるみたいで」
「へえ。やっぱり、戦艦の方がずっと力は上なんでしょうか」
駆逐艦と比べれば、それは当然。俺の問いにそう答えた夕張さんは、駆逐艦の子は速さが武器ね、と
「スピードなら自信があります。私のキックなら、きっと戦艦だって倒せます」
速さといえばこの
びっと敬礼しつつ言うと、夕張さんは笑って頷いてくれた。でも、後ろで聞いていた叢雲は違ったらしい。
「自信があるのは良い事ね。けど、基礎を疎かにしてはいつか自分の首を絞める事になるわよ」
「う、はい……」
隣に来た叢雲に戒められて、しゅんとしてしまう。ちょっと調子に乗ってしまった。そうだよね、砲撃や雷撃がまともにできないなんて、艦娘としては欠陥品もいいとこだ。
ちゃんと訓練すれば、当たるようになるかなあ。
「そういう事なら、もっともっと頑丈に作るから、期待しててね」
「はい。お願いします」
俺の様子に苦笑していた夕張さんが、俺の戦闘スタイルに合わせて靴を直してくれると言ってくれたので、改めて頭を下げて感謝を示す。
それから、「またね」、と手を振って別れた。
駆逐寮は、ミニマンションの建ち並ぶ敷地に入ってすぐの、最前列組がそうだった。それぞれA棟だとかB棟だとか呼ばれているけど、そう呼ぶ人は少ないんだとか。
俺が寝起きする事になる場所は、一番右の建物だ。玄関に入ると、古い匂いがした。下駄箱があるからだろうか。それとも、内装が木造っぽいから?
先導する叢雲は、靴を脱いだりはせず、そのまま広い廊下へと上がった。……土足なんだ。じゃあ、この下駄箱はなんなんだろう。なんにも入ってないけど。
玄関からすぐの広間には、左右に扉、正面に昇り階段と、カウンターのようなスペースがあった。寮監のいた場所、らしい。その横に、もう一つ扉。
「寮監の人って、普通の人?」
「さあ?」
さあ? って。ここを管理、監督する人の事なのに、関心無さそうだ。……その人とは、あんまり関わりはないのだろうか。
今はいないの? と聞くと、今はもういないわ、と返された。出かけてていないのかって意味の問いかけだったんだけど……それって死んだって事かな。と思ったけど、そうでなくて、艦娘寮ができた初期の頃はいたらしいけど、現在は寮監はいないんだって。
右の扉の先は談話室で、左は宿直室……今は、物置になっている。寮監のいたカウンターの横の扉は、お手洗いだ。トイレ。
三段ほど上がると、小さな踊り場で折り返しになっている。正面の壁に掲示板があって、そこに広報紙が一枚だけ貼ってあった。これが噂の青葉作の新聞なのだろう。さっと目を走らせて確認した限りでは、俺の情報はなかった。それは当然か。
『新入荷 間宮さん特製スイーツとは』『木陰に伏せる人影の正体』『栄光の第一艦隊 正規空母赤城さんに突撃インタビュー 詳細は←』……うん? 詳細とやらがない。矢印を目で追っても、
その行方に思いを馳せる時間は、流石に無かった。流石の認識力か、横切る中でそれだけの情報を頭に入れ、考える事ができたけど、そこまで。
階段を一つ上がれば、小さな踊り場と、まっすぐ伸びる廊下があって、左右にいくつか扉があった。
「あ……」
……廊下の向こうの方、一つの扉の前に、朝潮がいた。五月雨と深雪の二人と何かを話している。艦娘の聴力ならば聞こえるだろう会話はしかし、耳に入ってくる事はなかった。
ただ、久しぶりに朝潮の姿を見た気がして、彼女と話したくてたまらなくなった。
でも、彼女は今、穏やかな微笑みを浮かべて二人と再会を喜び合っている。……邪魔しちゃ悪いだろう。叢雲は、三段ほど上で俺を振り返って待っていてくれているけど、それに甘えて朝潮の下まで行く気にはなれなかった。
……案内が終わった後なら、たぶん好きな時に会いに行けるだろう。今は、このまま先に進むとしよう。
妙な痛みを感じる胸をぐいと拭って、階上へと目を向けた。
叢雲を促して、もう二つ階を移動する。
三階。
最上階にあたるここの、真ん中辺りの部屋が目的地らしい。目的の部屋に行く途中に、給湯室を見かけた。コンロとか、やかんとかがある狭い部屋。
「ここね」
部屋の前で立ち止まった叢雲が、一度俺を振り返って確認してから、ノックはなしにノブに手をかけた。ええと、四番目の右の部屋、四番目の右の部屋……っと。うん、覚えた。
「あ、お帰りなさい」
「ぽい?」
部屋の中には、二人の少女がいた。黒髪一つ結びの吹雪に、金髪緑眼の夕立だ。前髪に赤いリボンが結ばれている。白いセーラー服の吹雪と、黒い……制服の夕立が対照的だ。
硬めのカーペットに直で座ってテーブルを囲んでいた二人のうち、吹雪が立ち上がった。……叢雲を迎えるためだろうか。立ち上がった理由は、俺にはよくわからなかった。
「そちらの方は……」
「新しいメンバーよ。最低三日はここで過ごす事になるわ。……ほら」
振り返った叢雲に促されたので、押して支えていた扉から手を離して、一歩前に進む。……ああ、扉の前だけ一段下がっていて、ここで靴を脱ぐようになっているみたい。
「駆逐艦、シマカゼです。少しの間お世話になります」
「初めまして。特型駆逐艦、吹雪型1番艦の吹雪です。よろしくお願いしますね」
「白露型駆逐艦、夕立よ。よろしくね」
吹雪はびっしと敬礼してはきはきとした挨拶を、夕立は立ち上がって緩い挨拶をしてきたので、二人に軽く頭を下げて、「よろしく」を返す。
ふと、机の上に目がいった。四角く大きな、四本足の木机の上には、様々な物が置かれている。といっても、ほとんどがお菓子だ。ずっと昔に食べたっきりで、最近はあまり目にする事もなくなった駄菓子などが散らばっている。懐かしいな、なんて呟いてしまった。
丸いモナカに色とりどりの小さなグミがたくさん入ってるのは、なんだっけ。くだものの森だっけ。爪楊枝も一緒に入ってる奴。よく姉さんにねだって、一緒に買いに行っていた。……小さい頃の話だ。
「私はまだ用事があるから、また出るわ。……何かあったら吹雪を頼りなさい」
それと、あんたたち、間食は程々にしておきなさいよ。
そうつけ加えた叢雲に向けて、感謝を伝えるために口を開く。
「わかりました。ここまでの案内、感謝します」
心からの感謝を伝えるも、叢雲は数瞬突き刺すような視線を俺に向けただけで、何も言わずに部屋を出て行った。残された俺はというと、敬礼しようと上げかけた手を中途半端な位置に浮かせて固まっていた。
「……あたしじゃ不足っぽい? むー。叢雲さんは意地悪っぽい」
「あはは。えーと、島風、ちゃん? 上がって? お茶いれるね」
呼びかけられるのに振り向けば、吹雪が笑いかけてきていた。テーブルを挟んで反対側では、スカートを手で押さえながら座った夕立がむくれていた。
知っているようで知らない二人の下に残されてしまった。……まあ、見た目子供相手に緊張する事などそうないから構わないけど、それでもどこか少し、居心地の悪さを感じつつ、二足並んでいる靴の横にサンダルを脱いでカーペットの上に踏み出した。
窓際の台にある電子ポットを用いてお茶を入れている吹雪の後姿を見つつテーブルに歩み寄って、駄菓子へと目を落とす。……大きなドーナツもある。
「プレーンシュガー?」
「……りんぐどーなつの事っぽい?」
なんとなく呟くと、訂正されてしまった。ふっと笑って腰を下ろし、床に手をついて正座する。やっぱり居心地は悪いけど、立っているよりは座っていた方がマシだと思ったのだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
俺の前に湯呑みが置かれるのに顔を上げれば、にっこり笑顔に迎えられる。眩しい。……昔君の事を地味だなって思ってごめん。正直この部屋に入って最初に目にした時も地味って思ったけどそれも謝っとこう。
なんて変な事を考えつつ、しかし声には欠片も出さずにお礼を言うと、どういたしまして、と柔らかい言葉。
「島風ちゃん……で、いいんだよね」
隣に座る吹雪を目で追う。距離が近いのは、テーブルの大きさの関係か。
頷けば、彼女も一緒に頷いて、あのね、と切り出した。
「私も夕立ちゃんも、ここに来て日が浅いんだ。だから、そんなに固くならなくっても大丈夫だよ」
「……そう、ですか?」
「そうそう。あたし達、とれたてぴちぴち、発生したてのぺーぺーっぽい」
へー、そうなんだ。発生したてって事は、彼女達はどちらも発生艦なんだ。
「それでもう艦隊に配属されてるんですね」
「あー……配属されてるっていっても、実戦はまだ経験した事ないんだ」
この第十七艦隊は、新人が入る自由艦隊らしい。とりあえず編成されて、来る深海棲艦との戦いに向けて練度を高めているんだとか。
といっても、現在新人はここにいる二人だけ。今、三人になった。新人じゃないのにこの艦隊に編成されるのは、演習のために一時的に来てくれる軽巡の先輩などで、練度が高いのに常時編成されているのは、別の鎮守府から来た叢雲くらいのもの……らしい。
そういえば、叢雲は「また出るわ」と言っていた。あの口ぶりからするに、彼女もこの部屋で寝泊まりしているのだろうか。
「ね。だから、敬語なんていらないんだよ。できれば、自然に接して欲しいな」
「ルームメイトになるんだから、仲良くやっていきたいっぽい?」
ね、と笑いかけてくる吹雪に、こくりと頷いてみせる。
普通に接して欲しいって気持ちはわかる。ので、少しばかり心の準備をして、意識を切り替えてから、彼女達と接する事にした。
「じゃあ、改めて、私はシマカゼ。よろしくね」
「うん! よろしくね、島風ちゃん」
はっしと両手をとられて握られ、輝かんばかりの笑顔を向けられた。溶ける溶ける。眩しいってば。
なんだろう、この子。なんか、普通の子って感じがする。朝潮や叢雲にあった、戦う人って雰囲気が無い。……新人だから?
これじゃあ、普通の子供と接するのと変わらなくて、戸惑ってしまう。
「もしかしたら、すぐお別れになっちゃうかもしれないけど……」
「大丈夫!」
戸惑いを押し隠してそう言えば、強めの口調で「大丈夫」と言われた。……何がだろう。
言葉が続く事はなかったので、その意味はよくわからなかったけど、彼女がテーブルに体を向け直すのに合わせて、俺も身体の位置をずらした。
「実は今、お菓子パーティしてたぽい。今から歓迎パーティに早変わりするっぽーい」
「駄菓子しかないけど……よかったら、食べて?」
……さっきから、なんなんだろう。優しさが身に染みるんだけど。
裏もなく影もなく、見返りも求めて無さそうな、純粋な好意ばかりがぶつけられる。この鎮守府にいる人はみんな良い人ばかりなのだろうか。相対的に、俺の心が汚く思えてくるんだけど……。
「ありがと。あ、コリコリ梅だ。なつかしー」
「ふわパチもあるっぽい。おすすめはどーなつっぽいー」
どれも見た事のあるラインナップだ。郷愁に似た何かに身を包まれて、じんとしてしまう。
二人があれやこれやと俺の前に駄菓子を寄せてくるのに苦笑しつつ、ありがたく頂戴する。安いのにおいしい、不思議な味の数々。大人になってから久しく口にしていなかったけど……こういった駄菓子の美味しさの秘訣は、みんなと一緒に食べるから、というのもあったんだと思う。
ねりねりねるのとか、素面でやれたもんでもないはずなのに、笑顔で促されて、色が変わる事にいちいちはしゃいで、一つ一つ感想を言い合って、一口ずつ、順繰りに食べてみて……そんな風にしていると、居心地の悪さなんていつの間にかなくなってしまって、俺は、自然と笑みを浮かべて、彼女達と話していた。
子供の頃に戻った気分……という訳ではない。なんだか不思議な気持ちだ。大人の精神のまま、子供みたいにはしゃいでいる。それが楽しい。そこに違和感がない。
「賑やかで楽しいっぽい! もっともっと食べちゃうっぽい!」
「たくさん食べるのが強さの秘訣らしいです! 今日はとことん食べよう!」
口の中に残った濃い甘みを緑茶で流しつつ、笑顔でいすぎたせいなのか、テンションが振り切れ始めた二人を眺めて口の端を上げる。猛然とにぎにぎフルーツグミを口に詰め込み始めた吹雪を眺めて、息を吐く。
新しい環境と人との関係に、一瞬で溶け込めてしまえた。それが驚きだった。でも、その驚きは小さくて……二人の様子を注意深く窺うなんて事をしなくても、今突然に話しかけたって、そのまま楽しくお喋りできるような仲をすでに築けてしまえたのは、深く考えずとも、この二人の心根のおかげなのだろうと思えた。
どれくらい話していたかは覚えてないけど、詰み上がった空の袋や、数度入れ直した緑茶の事を考えれば、相当な時間が経過しているのだろう。部屋に一つある窓の外は、まだまだ明るいが、少なくともお昼は回っていると思えた。
「ねぇ、吹雪ちゃん」
「ふむふむふぐ……ふぐ?」
ふぐ? だって。リスみたい。
流れでそう呼ぶ事になった彼女の名前を口にすれば、頬を膨らませた吹雪が、なあに、とでも言いたげにこちらを見た。両手で口元を覆い隠してもぐもぐやっている。
その手をとって、両手で握る。最初に彼女が俺にやったみたいに、少しだけ持ち上げて、彼女の顔をまっすぐ見る。……はやいとこ口の中のもの飲み込んでくれないと、笑っちゃいそうだ。……笑った。耐えらんなかった。
「っふ、吹雪、ちゃん……!」
「んっ、な、なあに?」
ごっくんと飲み下した吹雪が、不思議そうに小首を傾げる。
いや、ごめん。なんとなくこうしたかっただけで特に言う事はなんにもないんだけど……ああ、ほんとにごめん。
でも、とりあえずなんか言っとこう。
「センターの座はいただく」
「……那珂ちゃん先輩?」
どうやら俺のテンションも結構上がっていたみたいで、意味も理由もない変な行動に、汚い大人らしく理由付けをするために、宣戦布告をしておく。
いつか必ず、吹雪にとって代わって、あの宣伝ポスターの真ん中に映ってやる……とかなんとか。
「?」
「アイドル目指してるっぽい? でもでも、那珂ちゃん先輩は手強いっぽいー」
大きく首を傾げた吹雪の手を離せば、夕立がテーブルに突っ伏すようにしながらそう言った。……那珂ちゃん先輩? なんで那珂ちゃんの話が……ああ、センターか。
「ああ見えて那珂ちゃん先輩は相当強いらしいっぽい。たゆまぬ努力と鍛錬の賜物か、着任から僅か48日で二回の改造を重ね、二水戦の旗艦にまで上り詰めたっぽい。噂では、戦艦の先輩を投げ飛ばした事もあるっぽい~」
「そ、そうなんだ。那珂ちゃん先輩ってそんなに強かったんだ……知らなかったな」
なんだかとんでもない話を夕立がして、吹雪がしきりに頷いた。……その話、真に受けても良いんだろうか。今朝見た那珂ちゃんは歌って踊れるアイドルって感じではあったけど……。
「あ、夕立ちゃんは、結構物知りなんだ。面白い話をたくさん知ってるんだよ」
俺があまり話を信じていないとわかったのか、吹雪が補足をしてきた。物知り……夕立が?
いや、別に変だとは思わないけど。
机にほっぺたを押し付けている夕立を見れば、彼女はそのままの姿勢で、横髪を耳にかける仕草をして、それから、起き上がって、一つの空袋を手に取った。
「ねりねりねるので有名なcrankinの社長は、元々うだつが上がらない科学者だったっぽい。薬品どうしを混ぜ合わせる様子から着想を得て、一念発起して会社を立ち上げたっぽい」
「へー」
……雑学クイズ? その知識はいったいどこから仕入れてきたのだろう。
でも、妙に凄そうな話を聞かせてくれた夕立に、こくこくと頷いてみせておく。
満足気に笑った夕立は、次ににぎにぎフルーツグミの袋を手にして、雑学を披露しだした。
◆
「あっ、もうこんな時間!」
無尽蔵にわいて出てくる駄菓子を肴に、わいのわいのと盛り上がっていれば、不意に吹雪がそう言って膝立ちになった。つられて顔を上げ、窓を見る。外はもう暗くなり始めている。うわ、結構長い事パーティしてたみたい。時間の感覚がなくなってた。
「ゴミの山を片付けないと、叢雲さんに怒られちゃうっぽい~」
「叢雲ちゃん、怒るとすっごく怖いから……ええと、袋、袋……」
吹雪の探し求めているであろうレジ袋っぽいのを拾い上げて、手渡す。それから、彼女達を手伝って、こんもり山となっている駄菓子の抜け殻を集めて、袋詰めにしていった。
叢雲が戻ってきたのは、ちょうど全部のゴミを三つの袋に詰め込み終え、その口を縛り終えたところだった。
「……夕餉に誘いに来たのだけど……吹雪?」
「ああっ、あー……あはは」
三つ寄せられた、丸々太った袋を見て、それから俺達を見回した叢雲は、目を細めて射抜くように吹雪を見た。
ゆうげ……夕ご飯? 無理無理。絶対入んないですって。……とか言える雰囲気ではない。
「程々にしておきなさいと言ったはずよね? どういう了見なのかしら……?」
入り口前に立つ叢雲の体から赤い光が立ち上っている……。いやいや、気のせい。幻視だ。……あ、でも、これ、説教不可避っぽい。吹雪が笑って誤魔化そうとしても、叢雲の表情は少しも変わらない。
そろそろと立ち上がろうとすると、ぎんっ! と睨まれて身が竦んだ。こ、こわい。
やっちったっぽい、と蚊の鳴くような声で夕立が言うのが聞こえた。それが最後の言葉だった。
その後に三人揃ってこってり絞られたのは、言うまでもない事だった。