第一話 俺の体はなぜ島風になったのか
島風は、まだ……たたかえる……――
□
始まりはいつも突然だ、なんて、誰が言ったのだろう。
どこで聞いたのかも、誰から聞いたのかも思い出せないが、その言葉は本当なんだろうな、と思ったのは、最近の事。
何をもって『始まり』とするかはわからない。
でも、『俺達』にとって、それは『始まり』以外の何物でもなかった。
全身の筋肉が躍動を望むような悲嘆と、狂おしい程の喪失感がもたらした新たな世界。
吹く風さえも新しいのに、踏み出す一歩は重く大切で、だから、きっと。
走り出した先に待っているのは、輝かしい未来なんだろうなって思えたんだ。
◆
降り注ぐ、熱い雨。
疲れた体に染み渡る湯の圧力は、風呂桶いっぱいに溜まったお湯に肩まで浸かり込むのとはまた違った気持ち良さがある。
湯気で曇る視界をそのままに、肩や胸に手を這わせ、擦る。
それから、わしゃわしゃと頭髪を乱して、このいっときを堪能する。
「……ふぅー」
二時間も入んないけどな、なんて自分にツッコミを入れつつ(『いっとき』の意味の事だ)、蛇口に手を伸ばして栓を捻り、湯の雨を止める。それからシャンプーをちょいちょいと手にとって洗髪を始めた。
「――おっ?」
腰かけた風呂椅子が少しずれて、そのひょうしに、膝の高さにある台から何かが落ちる音がした。スポンジ……ではない。もっと硬いが、音からして中身の残り少ない物。
ボディーソープか。そういえば詰め替えは買ったかな……なんて思いつつ床に手を伸ばす。まぶたの裏の暗闇の中では、なかなか目標の位置が掴めない。音はこっちからしたと思ったんだけど……風呂の中だ、反響して、判断を誤っているのかもしれない。
固くつぶった目に泡立った液体が流れてくる。
ぐいと右目を拭って、息を吐いた。ちょっとした息苦しさがあり、また、顔の上部に留まる洗剤が、なんとなく口元まで下りてきている気がして、口内に変な味が広がるのにうへぇと呻いた。余計に味が広がって渋い顔になってしまう。
仕方ない。少しの間目を開けて容器を拾ってしまおう。
覚悟を決めて、比較的シャンプー液の脅威に晒されていない左目を薄く開く。ぼやけた視界に白煙。それでも、見えない事はない。
思った通り、ボディーソープの容器が落ちていて、台の下に転がっていた。
体を折り、お腹と膝をくっつけるようにして台の下に手を伸ばす。
う、拾った後、蛇口や台に頭をぶつけないよう注意しなきゃな。
『――――』
表面に水滴の流れる冷たい容器を手にした時、ふと、誰かの声が聞こえた。
遠く、不思議に響く声。聞いた事のあるような、でも、知らない女の子の声。
……『声が聞こえた』という事象に動きを止めていた俺は、一瞬後に背筋を凍らせた。
風呂で、シャワーを浴びている時に、女といえば。
……いや、そんな、まさか。
でも、水場は幽霊を引き寄せやすいって言うし……。
いやいやいや、だが、そんな非現実的な事は……!
背後に人の気配。
……おそらく気のせいだが、人の気配がするのに、身震いした。
静寂が耳に痛い。浴室内にこもる熱と何かが、人の呼吸に似た音を作り出す。
それはきっと、自分自身の呼気だ。それを他人のものと錯覚しているだけ……。
だいたい、背後に見知らぬ女だとかが現れる原因になる事を、俺は何もしてない。
頭を洗ってる時だって、今夜の献立を必死に考えていただけで『だるまさんがころんだ』を三回唱えていたりはしないし、誰かの手が俺の頭を洗い出すなんて事も無かったはずだ。
『――き――』
だが。
たしか身を屈める一瞬、目の前の大きな鏡に、誰かの姿が映っていたりはしなかったか……?
「…………」
それは俺だ。俺の姿だ。
……見えた影は、俺なんかよりずっと髪が長かった気がするが、俺だったら俺なんだ。
もし違うとするなら……ははは、きっと姉さんが俺を驚かそうとこっそり忍び込んできたに違いない。
姉さん悪戯好きで子供っぽいからなあ。仕方ない人だ。今夜は好きなもんでも作ってやろうと思っていたが、こんな悪戯を仕掛けてくるなら、嫌いな物・オンパレードにしてやろうか。とうふ一色とか。
なんて現実逃避をしていれば、微かに聞こえる声。
くぐもって、薄い壁一枚を隔てた向こうからするような、弱々しいもの。
隣の部屋の誰か……なんて可能性はない。うちは二階建ての一軒家だ。姉と二人で暮らしているだけで、他に人はいない。その姉も、今は友達やらとコンカツに行っている。
だから、この家には今、俺しかいないはずなのだ。
『――――』
……聞こえる。
俺を呼ぶ、みんなの声が。
……なんてネタに走ってみても、俺の心から恐怖心が去る事はなく、居直り強盗よろしく居座っている。
はっきりしない声の残滓が、寒気と共に身を包む。
耳の奥で耳鳴りがする。勘弁してくれと嘆きたくても、口は固まったままで動かなかった。
身動きをしなければ、その分だけどんどん怖さが増していって、そろそろ耐えられそうになくなった時……不意に、耳鳴りの正体に気付いた。
水だ。
水が、耳に入っている。
――飯、作ったら、なんか映画でも見ようかな。
頭の中に自分の姿を思い描いて、それを動かし、料理をさせて、配膳をさせて、返却期限間近のDVDを探させる。
そうやって順序立てて動かす事に集中していれば、恐怖が薄れる気がした。
得体の知れない声や影が、俺の中に落ちていく。
午後だ。
いや、今はもう夜だが、午後三時はとっくのとうに回っている。
艦これ、やろうかな。
ゲーム画面を開くイメージ。
ぷかぷか丸が延々揺れ動く中で、その先で待つ秘書艦の姿を思い浮かべる。
島風が連装砲ちゃんを抱いて暇そうにしていた。
ああ、そうだ。
ライトユーザーの俺は、未だ3-2を突破していない。そのため、キス島撤退作戦攻略のために駆逐艦の育成に励んでいたのだ。
基本は吹雪さんを旗艦にして改二にしようと練度を高めているのだが、時折そうして旗艦を入れ替え、主に演習で得られる経験値の配分をコントロールしている。
いるのだが……ここ最近は仕事が忙しく、なかなかプレイの時間をとれていないのが現実だ。島風のレベルはおろか、吹雪さんやその仲間達のレベルは遅々として上がらず、なかなか攻略に踏み切れていない。
仕事の大一番は乗り越えたから、今日からは早く帰って来れるし、やろうと思えばじっくり攻略に集中できるはずだ。
頭の中の島風が操作まだーと不満気に言い出すのを、頭を振って振り払ってから、目を開く。
ずっと強く目を閉じていたから、少しの間視界が霞んで、それが晴れると、暗い鏡面が見えた。
深く暗い
未だ残る恐怖があった。
だから、目を開けたままお湯で髪を洗い流し、リンスで整え、せかせかと体を洗いだした。
その間ずっと、俺は鏡を見つめていた。俺を映し出さない、不思議な鏡を。
『――こっちに、きて』
はっきりと声がした。
聞き覚えのある声だった。
でも、知らない声だった。
知っている声優さんの声?
知り合いの声?
……姉さんの声?
――叢雲さんがふくよかになっちゃったぁ。
頭の奥で、いつか聞いた、姉さんの嘆く声が響いた。
それのせいかはわからないけど、その時に俺は立ち上がり、一歩、踏み出したんだ。
台を乗り越えた足が鏡の中へ入り込む。肌全体を包み込む、刺すような冷たさ。
伸ばした腕が鏡面を揺らし、ごぼごぼと流れる水の中へ沈んでいく。
体の全てが入った時、ようやく俺は、声の正体に気付いた。
彼女は――――。
◆
――――。
――……。
――。
「ん……」
鈍痛がした。
頭が、中に鉛でも詰め込められてるみたいに重い。
うつ伏せになっているのか、息が苦しい。
腰より下にかかる暖かい物が寄せては引くと、そのたびに恐ろしい程の冷たさが下半身を襲う。
勝手に体が震えた。
そうすると、脳にかかっていた影がさっと引いて、目を開くのと同時、思考も視界も光を取り戻した。
「んぐ、ぅ……」
腕をついて上半身を持ち上げ、細かい泥砂を抉って膝を前に出し、つく。
声が漏れた。
「う、ぎ……!」
苦しいから、どうしても、声が出てしまった。
体中がきりきりと痛む。特に、左足。
なんらかの怪我を負っているのか、と確認しようとついた両腕の合間から覗こうとして、水の波が足にかかるのにうっと顔を上げた。
足が切断されるような激痛。だけど、凄く痛かったのは一瞬だけで、波が引くと普通に呼吸がきるくらいには治まる。でも完全になくなる訳じゃない。
もう一度足を見ようとして――この位置からじゃ痛みのある
痛いのは嫌だ。痛いのは、嫌。
それだけを胸に、必死に腕を動かして、前へ進む。不格好な匍匐前進とでも言うべき移動は、なんとか波に襲われる前に範囲外へと体を移す事に成功した。
「はっ、は、はっ……」
仰向けに寝転がり、目をつぶったまま大口を開けて呼吸する。
息を吐けば口周りについた水滴が口内に入り込み、吐けば塩気の混じる息が空へ
強い日差しがまぶたを刺して、だから、腕を持ち上げて目元を覆うとした。
それがいけなかったのかもしれない。
「――ぐ、ぶ……!」
体を動かすのに反応したのか、胃を持ち上げて、肺も胸も破裂させようかとでもいうように、何かの塊が喉までこみ上げてきた。
体を転がし、腕をつく。猛烈な吐き気に襲われて、耐え切れずに、吐いた。
「っえ、えぐっ……! うぇええ!!」
ドシャドシャと砂浜に落ちて跳ね、染み込んでいく熱い水。
ほとんど胃液の混じっていない何か。喉奥と口の中に錆びた鉄と濃い塩の味が広がると、再びの吐き気に逆らえず、水を吐いた。
激しく咳き込む。そのたびに水滴が飛ぶ。肩にかかる髪が跳ねて揺れ、頭の上で重い二本の何かが踊る。
痛い。熱い。苦しい。
生理的な涙が目じりに溜まると、腕から力が抜けて、どさりと砂の上へ倒れ込んだ。頬や腕に引っ付く砂の感触。頬と地面の間に挟まった髪の感覚。
どれも、遠くて近い。薄ぼんやりとした思考でそれを捉え、ふと、何してんだろ、と現状に疑問を持った。
「くぅ……!」
されど、左足に走った鋭い痛みが思考を許してくれない。
反射的に閉じた目からとうとう涙が零れ落ち、砂へ消えていく。
なんだかわからないけど、辛い。頭も体も重い。
疲れはどこにも感じないのに、痛くて苦しい。
訳がわからなかった。
訳がわからないまま、眠りに落ちた。
◆
冷たい風が肌を撫ぜる。
夜空に瞬く星の輝きを倒れたまま見上げていた俺は、ふっと息を吐いて、ようやく身を起こした。同時に、引き寄せた右足の膝に腕を置き、左手は横について、すぐ傍の海を眺めた。
周囲は暗く、星の光だけが頼りの今では、海の遠くまでは見通せない。寝起きの頭を覚まさせるためにこうして寝転んでいたけれど……さて、これはいったいどういう状況なのだろう、と自分自身に問いかけてみた。
目の前には波を放つ海。座る場所は砂浜。それが左右にずっと続いていて、後ろの方には森林。
……漂流した?
何が、どうして、どうなって。
浮かんだ答えは即座に否定され、しかも、それ以外にこんな場所に一人でいる理由が思いつかなくて、自分の頭の悪さにうんざりした。
そうやって空を見上げると、夜の空は変わらず綺麗で、俺の心を落ち着かせた。
しばらく星を眺めてから顔を戻し、頭を振って思考をリセットする。髪を引っ張って揺れる頭の上の何か。
それがなんなのかを考える前に右手を持ち上げていた。
「ん……?」
手に触れたのは、棒状の……いや、布。細い布だった。
肌触りは海水に濡れているせいかざらざらとしていて、しかし元はかなり手触りの良い物だろうと予測できた。
それが二本。
頭の上で揺れる二本の布。
なんだこれ。
布を掴み、手の内で感触を確かめていた俺は、一思いに引っ張って見る事にした。
すぽん、とあっさり抜ける。引っ張られた髪がばらけて前髪と共に顔にかかるのに、鬱陶しいと手で退ける。それから、布の正体を確かめた。
「……カチューシャ?」
黒い布が二本伸びた、見覚えのあるようなカチューシャ。
……なんだこれ。俺、こんなものをつけてた記憶はないんだけど。
というか、カチューシャなどガキの頃くらいに一度か二度ふざけてつけた事があるくらいで、この年になってつけようだなんて思うはずがない。
なんでこんな物が……?
疑問と、不安。
見知らぬものを身に着けているというのは、それが誰のものかわからないというのも含め、そして、見知らぬ場所にいるというのも相まって、いっそう不気味に思えた。
思わずほっぽってしまう。
地面に落ちたそれから意識して目を逸らし、頬にかかる髪を手の甲で退かす。
怖かった。
夜に、外で、一人。
心細さを感じると、それを辿って嫌な感情が侵食してくる。
それを振り払うために、やたらと腕を動かして髪に触れていた。
「…………」
それで、気付いた。
俺の髪は、頬に触れたり、肩にかかるほど長くなんてなかったはずだ、と。
「…………」
おそるおそる両手を持ち上げ、両耳の下あたりで髪を握る。
そのままゆっくりと下へ。
やはり髪は肩よりも長く、腰辺りまで伸びていた。
さらに気付く。
髪に触れていた自分の手に、何かを着けている事に。
両手を顔の前へ持ってくれば、長い白手袋をしているのがわかった。
腕の方へ視線を移していけば、二の腕辺りで青と白からなる厚手の布に繋がり、終わっている。
「…………」
そこからは連鎖的だった。
肩やお腹や足を露出した自分の体を見下ろせば、コスプレ染みたセーラー服のような見覚えのある服と、ミニスカートと呼称するのも難しいくらいに短い青色のスカートに、太ももの半ばより上辺りから足の先までを覆う縞々の靴下。視線が足を辿って腰元まで戻れば、両足の付け根にかかり、スカートの中へと伸びる黒い紐。それから、胸部の膨らみ。思わず自分の胸に手を押し当て、心臓の音を確認した。
……動いてる。ドッドッと脈動する感触は、一枚の布を隔てても確かに伝わってきた。
生命の躍動を感じて、若干落ち着きを取り戻す。それでも、心臓は強く跳ねて、全身に血を巡らせていた。
冷や汗が首筋を伝う。悪寒が背筋を震わせた。
夢、かな。
投げ出した足には、いつも
胸元から垂れる、カチューシャの物と同質のリボンを握り締めて、海を眺める。
頭が現状を受け入れなかった。
なのに体は、当然のようにこの体を俺の物と認識していて、自由に動かせた。
砂を深く掻く指も、爪の合間に入り込む砂の粒の感触も、開き続けているせいで乾いてきた目の痛みも、舌の裏に広がる苦味も、ふとももをスカートがくすぐるこそばゆさも。
「…………」
立ち上がると、ばらばらと砂が落ちた。まだお尻や背にも、髪にだってたくさん張り付いているだろうけど、払う事無く歩き出す。
左足の痛みはほとんど感じなかった。
引いていく波の中に歩を進めていく。蹴飛ばした水が飛沫と波紋を広がらせる。見つめた地面に、何かの動物のような奇妙な足跡が刻まれていく。
歩ける。バランスを損ない、倒れるなんて事も無く。こんな、つま先立ちに近い足の形なのに。
膝下まで波がかかる位置まで来て、立ち止まって海面を眺めた。
夜闇を映し、波に泡立ち、揺れる海面。
そこに俺の姿は映ってない。
誰の姿も、映らなかった。
「…………」
数歩、下がる。そのさなかに、ざりざりとつま先で泥を引っ掻き、海水を引き込んでいく。
それから、砂浜に膝をついて、穴を掘った。
自分で引いてきた道に繋がるように、広く浅い穴をこの手で、無心で。
泥に淀んだ水が流れ込めば、多少の泡立ちの中に、星の輝きを映しだす水面ができあがった。
自分が影にならないようにして、水面を覗き込む。
「……――」
予想通りの姿が俺を見返していた。
青ざめた顔は小刻みに震えていて。
見開いた瞳は、ブラウンを帯びた灰色に輝いていて。
頬に張り付く髪は数本が垂れていて。
か細い悲鳴が、喉を裂いて飛び出した。
◆
「……ぅ」
蹲って、体をきつく抱きしめていた。
柔らかくて、硬い、自分の物ではない体。
怖かった。
俺を映し出した海が。
意味がわからなかった。
俺が少女へ変わってしまっているのに、すでにそれを受け入れ始めてしまっているのが。
恐ろしかった。
島風という少女を、俺は知っている。
ブラウザゲームに登場する、人気の女の子。
かつての駆逐艦の
でも、それだけじゃない。
それだけじゃなくて、島風がいつどこで何をしてきたか……そんな事さえ、記憶の中にあって。
だから俺は、今この瞬間、誰よりも島風を知っている存在になってしまっていた。
知らないのに、知ってる。
それがこの上なく
自分の知らない内に自分の身に起きた異変に、
こんな年になって泣くなんて。
どこかにある常識が囁く。恥ずべき姿だ。今すぐ涙を止めるべきだ。
俺はそれに従った。膝を抱いて、体と膝の間に顔を
それは成功した。
常識に縋ったから、だった。
それだけだった。
現状は何も改善されてなくて、夜だって明けてなくて。
手の平で頬を擦る。じゃりじゃりと砂の感触。湿った肌の柔らかさ。歪む唇の端に、水。
へぅ、と、泣き混じりの情けない声が出た。
「……意味……わかんないけど……」
声に出してみて、認識する。
ほんとに意味がわかんないけど。
だって、こんな、女の子の声になってしまっているだなんて。
「島風に、なっちゃった……」
子供のような声は、誰に届く事もなく風の中に消えていった。