お止めくださいエスデス様! 作:絶対特権
駆けた。
繰り出した黒い穂先が敵の右側の眼球を貫通した瞬間、少年は自分が半歩前に駆け出したことを自覚した。
勇気とは人より半歩前に踏み出すことであり、踏み出さねば臆病者に終わり、一歩踏み出してしまえば無謀に終わる。
槍が増えたかのようにすら思える連続した刺突が敵兵の無防備に過ぎる柔らかな肉の部分を貫き、血飛沫を上げて紅い霧を作り出した。
血の霧は、彼の動きを僅かに鈍くする。そしてその鈍化は、一息のうちに繰り出せる無謬の刺突、その回数が心理的な息苦しさによって減少さしめた。
「おい、あんま無理すんなよ!」
未熟な少年を軽く窘める長は大柄な戦斧を自在に振るい、一息に五、六人を葬っていく。
パルタス族は、思いの外強かった。
「はい」
呼吸が止まってしまいそうな息苦しさの中で、やっとそれだけを搾り出す。
しかし、鍛練を積んだ少年の槍は止まることを知らずに半ば反射的に刺突を繰り出し、北の兵たちの喉や腹を貫いていた。
(この息苦しさはなんだ)
降り掛かる剣刃を半歩横に身を翻して避け、その動作に連動させて槍を繰り出す。
それだけで、何やら高そうな鎧を纏った戦士は斃れた。
(体力的にはまだ戦えるはずだが)
その戦士が斃れたことに激昂したのか、何人かの兵たちが一斉にこちらに向かって駆け出す。
しかし、彼らの持つ剣の間合いに少年が入る前に槍が彼らの喉輪を喰った。
身体の動きの鋭さは、鈍化していない。一時的に鈍化したが、再び砥がれた。
ならば、何がおかしいのか。
「フゥ――――――」
一息、大きく溜まった息を吐く。
肺腑に詰まったような感覚が幾分か軽減されたことを、少年は感じた。
無論、その隙を逃がす敵では無かった。思い思いの言葉で目の前の少年を罵倒し、そのことによって自らを鼓舞しながら剣刃を振るう。
自分なら殺せるという認識を無理矢理に植えつけて、彼らは吶喊した。
「疾ッ―――!」
口から漏れる、烈迫の気合。
一息つき、息苦しさを解消させることによって精妙さを増した槍技は、再びその猛威を奮う。
「――――」
黙々と積み上げてきた鍛練を土台に、分裂したかのようにすら見える神速で槍を繰り出した。
一本の幹となった槍と両手から枝と言う名の刺突が産まれ、敵を貫いて花を咲かす。
「連枝、とでも呼びますか」
穂先を死肉で絡め取られることを恐れて深入りをせず、適確に急所を射抜いて戦うその姿に北の兵たちは恐怖の眼を向けた。
連枝と呼ばれたその技は精度を少しずつ落としつつも連続して繰り出され、少年に立ちはだかる敵を無作為に殺す。
喉から外れて頸動脈を纏めて断ち切ることもあれば、狙い違わず喉輪に穴を開けることもある無作為殺傷の『連枝』と名づけられた技は、北の兵たちにとって恐怖の対象になりうるものだったのだ。
少年の眼前に立ちはだかる敵が怯みはじめ、戦う意志に欠けさせ始めた頃。
「長!」
後方で奮戦する仲間から悲鳴のような声が鼓膜に届く。
疲労の溜まった腕は、今日だけで百を越える回数繰り出した突きの型をはっきりと憶えていた。
目の前と左右の敵を処理し終えると、ハクはチラリと背後に視線をやる。
(長が斃れたか)
意識を他所に回したことを悟ってか、或いは無我夢中だったのか。
新たに目の前に出てきた北の兵が怯みを捨て、右肩に向けて剣を振るった。
それは危なげなく捌いた物の、三時間もの間指揮と鼓舞、殺戮を担当していた長の負傷は大きい。だれかがそれに変わる役割をこなさねばならないことは、ハクの頭にもわかった。
「長を後方に。砦は放棄し、隘路で敵を迎え撃つ」
精神的主柱である討たれれば崩れる。そんなことは誰もがわかっている。
故に十になったばかりの餓鬼の支持をスラスラと聞き入れ、パルタス族の戦士たちは撤退を開始した。
殿は現在前線をこなしていた十五人が半ば自然に努め、戦士たちの個人的武勇によってかなりの被害を受けていた北の兵たちも体勢を立て直すために一端退く。
拠点である砦を落とされたものの、百倍以上の敵に耐え切ったと言う点ではパルタス族は善戦したと言えた。
が。
「死者は二十人、負傷者が十五人、か……」
「どうしますか?」
「戦わなきゃなんねぇだろうが。当たり前のこと聞くな、ハク」
仲間の一人を庇って肩に矢を、腿に槍を受けた長は、無理矢理に起きようとしながらそう言い切る。
まだ南方に撤退し終えたと言う報告はない。或いはもう終わっているかもしれないが、その確証がないのだ。
「わかりました」
最初からここを使えば他の道を開拓して回り込まれる可能性があったから一当てして注意を引くまでは使うことはできなかったが、できて一対二が精々なこの隘路を使えば勝機はないまでも時間稼ぎができる。
南に撤退している非戦闘員と戦士たちがどの程度で移動し終えるかは知らないが、最早北の兵たちと最初に刃を交えてから一日が経っていた。
「入ってください」
長の交戦の意志は固い。そう判断した場合は、こうしろ。
副族長から言われていた通りに幕舎の入口付近に向けて声を掛け、入ってくる戦士たちに驚きを隠せない長に向け、一言一言を区切るようにして、言う。
「長が討たれたら、パルタス族は最早パルタス族ではなくなります。そこにあるのはパルタス族残党です。長と負傷者には十人の護衛を付けて南方に撤退している一団に合流していただき、纏めて下さい」
「なっ―――」
見事な手際の良さで後方に護送される長を副族長と共に見送り、ハクは少年らしからぬ覚悟を決めた相貌で、振り返った。
「さぁ、死ぬか」
恩人と妹のように懐いてきた小さな暴君を守って戦い、死ねるならば本望だろう。
神がそう言って誂えたような舞台に感謝を捧げ、少年は昨日だけで百を越す敵の血を吸った黒槍を手に持った。
無論、死ぬ気はない。戦って時間を稼ぎ、残った仲間と逃げるつもりである。
「副族長、行きましょうか」
「ああ」
戦士としての花道へ、五人の戦士は駆け出す。
彼らの粘りがいつまで続くかに、この戦いの帰結はかかっていた。
南方に避難していく一団の中に、エスデスは居る。
彼女は見るからに不満たらたらであったし、何度も脱走して戦場へと行こうとした。しかしそのたびに熟練の戦士に止められて連れ戻され、ついにはくどくどと諭されて引き戻されることになる。
その繰り返しが五度に及んだ時、エスデスはやっと諦めた。
その程度のことでは到底諦めそうにない彼女があっさりと諦めた理由さ定かではない。が、最早追いつけるような距離ではなかったこともあるし、脱走して行軍を一々遅らせるのは得策ではないとわかったからであろう。
ともあれ。多分普段の困ったような顔をしながら飄々と生きて帰ってくるであろう少年のことを考えながら、エスデスは自身も馬に揺られながら脚をふらふら揺らしていた。
脚を揺らし、馬に揺らされる度に澄んだ水のような綺麗な蒼髪が揺れる。
エスデスは、暇だった。
「長たちが合流されたぞ!」
遠くで響く、歓呼とも悲嘆ともとれない一言を聞くまでは。
「ハクも帰ってきたんだ」
二十五人しか居ないという報告を聞いてもなんの疑いもなく少年の生存を信じたエスデスは、馬から降りて雪の上を駆ける。幼い彼女の脚では短すぎて馬には乗れないから、この判断は妥当だと言えた。
「エスデス……か」
「お父さん、大丈夫?」
「……まぁ、な」
到底大丈夫ではない怪我だが、峠は越していると彼女が一目見た瞬間に本能が告げた為、彼女の関心事はそこにはなかった。
「ハクは?」
むしろ現在に於ける関心事は、そこにある。
「ハクは殿だ。まだ戦ってるか、死んでるかだろう」
「じゃあ、まだ戦ってるんだ」
既に死んでるというもう一つ結末を考慮にすら入れず、エスデスはそう即断した。
顔色一つ変えないその強靭極まりない精神をどう受け取ったのか、溢れ出る緊迫感を隠そうともしない戦士たちが口々に何事かを呟く。
「何故、そう言い切れる?」
それを片手で制し、エスデスの父であるパルタス族の長は痛みを堪えながらゆっくりと口を開いた。普通ならば、五人で殿をして生還するなどは希望的観測でしかない。そしてエスデスは、希望的観測をするタイプではない。
娘の思惑を測りかね、長は前言を翻して問うた。
「死んだら赦さないって言ったから、ハクは死なない」
「まぁ、そんなようなことは言ってたが……」
一寸の心配も見せない娘になにか鼻白むものを感じながら、長は静かに目を閉じる。
自分に出来るのが祈るくらいなものだと、彼はよくよく知っていた。
そして、七日後。後世に異様なしぶとさと地獄からも這い出てくるとまで謳われた生還能力を遺憾なく発揮し、パルタス族一の槍使いは仲間二人を担いで満身創痍で帰還する。
皆が口々に快哉を叫ぶ中、エスデスが発したのは―――
「おかえりなさい」
の一言のみであった。