お止めくださいエスデス様! 作:絶対特権
見よ、貴様等の拠る最後の邑は赤く燃えている。
そんなエスデスの世紀末的発言の後、ナジェンダ軍の捕虜とエスデス軍の捕虜は狩りでもするかのように帝国兵に追い回された。
城郭都市たる最後の邑を失い、この大陸に最早逃げ場をなくした彼らは全軍で勢子となった帝国軍に追われ追われて、目の前に断崖絶壁があるとも知らずに自ら崖下へと雪崩をうって飛び込んでいく。
絨毯のように敷き詰められた同胞をクッションとして助かった者もチョウコウの河水を流しこまれた末に水槽の如く崖の壁上のみを凍らされ、一人、また一人と水死していった。
ここにバン族に加担した周囲の異民族を含む五十万近い人が一挙に地上から姿を消したのである。
「見えるか、貴様等の同胞が手も足も出せずに塵芥のように死んでいくざまが」
「この人屠が……!」
人を屠る者。人非人にして、異常者。その思いを一語に込めた彼の罵声は、戦闘民族のバン族らしからぬ鮮やかな表現力を持っていた。
恨み骨髄に達して色々感じるところがあったのか、人を豚のように狩っていくその姿を見過ぎたのか、或いは天が最後に憤怒を示すことを認めたのか。
ハクの玄人めいた用兵で首都を殆ど瞬時に落とされたバン族の王は、氷の魔神を憎々しげに睨みつける。
「いい眼だ。だが、所詮は豚だな」
こちらを睨んでから目の前の惨状に目を背けるように俯く王の背骨にヒールを刳りこませ、首にかけた首輪の鎖を上へと引いて無理矢理に視界に入れさせた。
「目を離すな。この世の原理が顕現した、何とも素晴らしい光景だろう?」
「異常者……が……」
「異常者?馬鹿言え。私が正常だ」
自分こそがこの世の原理の肯定者であり、履行者であり、順法者である。彼女はそれを信じて疑わない。
この世の原理は弱肉強食。弱い者は淘汰され、強き者の糧となる。
親に教えられ、北の異民族との戦争に於ける敗走で実感した鉄の原理は、彼女の根幹となっていた。
「貴様等が弱かったばっかりに、守るべき者までもが死んでいく」
遠くに見える煌々と燃え盛る邑を心底愉しげに睥睨し、再び踏み敷く弱者へと視線を向ける。
歯を砕かんばかりに軋ませる男に更に体重を掛け、彼女は肉書獣の如き獰猛な笑みを浮かべた。
「弁えたか、豚。弱者は強者に楯突かず、ただ虐げられていればそれでいいのだ」
嗜虐的な笑みを浮かべ、氷の魔神は嘲笑う。
闇夜でも見えるように松明で崖の周囲をわざわざ照らし、後方から背骨を踏みつけ続けながら回した刃の無い軍刀で無理矢理に顎を持ち上げさせて、滅びをその目に焼き付かせる。
「貴様に、情けはないのかッ!」
「弱者へ掛ける情けはなどない」
一般の捕虜とは違う一郭に捕らえておいた少年兵にも容赦の手を加えることなく氷と水と死骸の地獄へと誘うように命を下す非情さと、残酷さ。
あまりの無力さに歯噛みしながら血を吐くように糾弾した王の言葉に、エスデスは一片の躊躇いも言い淀みもなく言い切る。
変えようのないほど強烈な自我はハクにも根底から変えることはできず、彼女の自身に変えてもらう他ない。
しかし、その変わらなさこそが理不尽なまでの力の根源だった。
「……着いて行けん」
もう一人の将、ナジェンダはこの世の終わりのような惨状にそう呟く。
声を静かに呟くことしか、彼女にはできないのだ。
「そうでしょうね」
情けなさと無力さ。自分もこの地獄を作り上げるに一役買っていたとあらば、その心中の無念は如何ばかりか。
軍議で帝都からの命令を伝えた早々に顔を僅かに歪めたことから、ハクはこのもう一人の将が普遍的な良識ある人間であることに勘付いていた。
「……エスデス将軍の副将か」
「はい、ナジェンダ将軍」
最優先すべきは他人の命令であって自分の感情ではない彼にとっては情よりも命令を優先させるべき軍人という職業は天職だったし、必要とあらばいくらでも怜悧になれる分、こういう虐殺をやるにあたっても有用な人材だといえる。
が、こう言った良識を持ち合わせた人間は―――正直なところ、軍人には向いていなかった。
「着いて行けませんか、お嬢―――エスデス将軍には」
「…………ああ」
一片の気配も掴ませずにいきなり現れ、無表情でこちらの心境を確認するように問うてきたこの白面の武者に、思うところはないでもない。
しかし警戒以上に、エスデスのストッパーである彼を説き伏せればこの地獄も多少はマシな物になるのではないか、という希望の方が勝った。
「弱肉強食は、獣の世の掟だ。人の世に於いてそれを行使するならば、人と獣は何ら変わらないということではないのか?」
「…………」
「人には言葉があるし、理性がある。弱者が一方的に嬲られ、善しとする世などはあっていいはずがない」
獣の世の掟。即ち、人が獣であった頃に正しいとされた掟。
それは今の世において高らかに謳い、使われるべきものなのか。
ナジェンダは、彼にそう問うていた。
「正しいと思います」
そも、エスデスは戦いからして獣である。誇りなどは斟酌しないし、無用な拘りはない。血を流せばそれを目潰しに使うだろうし、拳を振るうならば大地に振り下ろすようにして敵に喰らわせ、地に倒れたところを蹴り上げて追撃する、といったことを平気でやるのだ。
追撃狂、とでも言うのか。彼女は弱った敵を踏み潰すよりも蹴り、嬲り、穿き、斬り、踏みつけて殺す方を好むだろう。
「では、何故糺さない」
「私は思想の否定者ではありません。弱肉強食と言う掟を否定することはその掟を是とした数千万の人々を否定すること。私にそんなことができようはずもない」
「では何故、それと相反する私の思想を認めた?」
ある思想を是とし、それと相反する思想をも是とすれば、それは節操なしということではないのか。
定まっていないからこその流れやすさ、というのではないのか。
その意を含んだ鋭い舌鋒を受け、ハクは少し困ったように頭を掻く。
そもそも彼は定まっていないのではなく、定めようとしていないのだ。どちらかに偏った見方をすれば客観性を失う。偏移を起こさずに中庸さを保ち、主が従僕を省みたときに何かを覚ってくれるような在り方こそが従僕のあるべき姿だと、彼は思っていた。
思想の熱烈な肯定者であり、強硬な否定者であるエスデスを主として持つならば、全ての思想の肯定者か全ての思想の否定者であることが望ましい。他者を鏡にするより、違った姿を隣に映してやったほうが時には欠けたところがわかり易くもある。
「……私が思想の肯定者だからです」
「肯定者?」
「頭ごなしの否定はせず、受け入れ、よく知ることで見えてくるものもあるのではないか、と。私はそう思います」
顎に手を当てて考えるナジェンダから発される言葉を待つハクの頭もまた、回転していた。
この世で頭を使うやり取りとは、自分を知ってもらうことであろう。他人から見える自分と自己が認識した自分を擦り合わせ、本来の像に近づけなければならない。
言葉では足らないような情報を、伝え切らねばならないのだ。
「……だが、矛盾した思想もある。矛盾を矛盾のまま受け入れることなく、解きほぐさねば理解することはできまい?」
「矛盾した思想は、矛盾したままに捉えた方が真実の像に近くなるのではないでしょうか。即ち矛盾点とは相反する思想の争点であるとも言い換えることができますから、そこを自分の理解で崩してしまえば『何故争っているのか』と言う眼が潰えるのでは、と危惧します」
つまり理解とは思考の固定であり、探求の終着点である。自分の理解というものは自分で自分の終着点を固定してしまうものであり、その固定は他者を理解させるにあたっては諸刃の剣であるといえる。
固定せずに考え続け、周りに順応せねば強靭な意志の持ち主の考え方を是正することもできず、矯正することもできない。強靭な意志は別な強靭な意志とぶつけて糺すものではなく、傍らを省みて自ら糺すものなのではないか。
ハクの思想の要はそこにあった。
「……なるほど、よくわかった」
「拙き弁論で将軍の御耳を汚しましたこと、お赦しください」
ナジェンダもまた、強靭な意志の持ち主であろう。彼女は他者に屈することなく、自らの正義と意思を貫くことのできる勁さを持っている。
だからこそ、その思想の異質さをすんなりと受け入れることができた。
「……エスデスのあの行為も、是か」
「はい」
「……それに対する私の否定もまた、是か」
「はい」
瞑目し、風が頬を掠って通り抜ける如き自然さで一礼を返した彼を、ナジェンダは得難い人材であると見た。
思想の順法者にとって、諌められるまでもなく傍らを省みるだけで自戒できる存在は、貴重だろう。エスデスが変わっているかどうかはわからないし、変わっていてあれならばある意味大したものだが、兎に角。
「名は?」
「ハクと申します」
ハク。白か、薄か。どちらにせよ、流されやすく、染められやすい。が、自分を消して染められるのではなく、内に自分を秘めながら染められるのだろう。
「私の軍に来ないか、ハク。副官相当の待遇で迎えよう」
「私はエスデス将軍の為に死ぬと十年前から決めております。勿体無いお誘いではありますが、辞退させていただきたく―――」
丁重な姿勢を崩さずに断りを入れようとしたハクの身体が少し固まり、無言で世紀末な所業が繰り広げられる右方へと向く。
「楽しそうだな、貴様等」
「…………あぁ、お嬢。いつから?」
そこには彼の予想通り、文字通り周囲を凍らせるような殺気を放つ氷の魔神が降臨していた。
「お前が節操なく誘いをかけられたあたりからだ」
「なるほど、それは絶妙な―――」
いくら革製とは言っても、鎧が靴の形に凹むほどの無言・予備動作なしの一撃を喰らい、微妙に眉をしかめた、二秒後。
「―――タイミングでしたね、お嬢」
尋常ならざる耐久力を遺憾なく発揮し、ハクは素早く再起動を果たす。
氷を蹴り砕くほどの一撃を殆ど無傷で耐え抜いた彼の右腕を思いっ切り下に引っ張って身長差を縮め、エスデスはナジェンダに視線を向けた。
「ナジェンダ」
「なんだ、エスデス将軍」
「これは私の物だ。私のハクだ。私だけのハクだ。誰にもやらん。いいな?」
両手を肩辺りまで上げながら無言で頷いたことを確認し、エスデスは腕よ千切れろとばかりに強く引っ張る。
「何を怒ってらっしゃるのですか」
「黙れ浮気者」
「……あぁ、離れるとでも思ったのですか」
浮気者という言葉をいつもの通り解釈したハクは、図らずとも耳元で囁くように呟いた。
「私は望まれる限りはお嬢の隣に居ます。離れるときは死ぬ時か、必要とされなくなった時です」
隣に居ろと言われたのは、お嬢でしょう。
そんな一言を暗黙の了解と言う隠れ蓑の中に隠しながら、ハクは何でもないように言い切った。
一言で不機嫌から上機嫌へとメーターが振り切り、その振り切り具合を無理矢理に戻す。
赤面した顔を隠すように帽子を目深に被り直し、彼女は少し体重を掴んでいる右腕に掛けながら、言った。
「……………騙されんぞ」
「騙しませんよ」
これ以来、エスデスの拷問好きはかなり頻度を落とすことになる。
それは天秤にかけるまでもなく、他の女に取られたくないものがあるからであり、自分が側に居ないと安心できないからであった。
嗜虐の矛は、僅かに納まりを見せたのである。