UBW~倫敦魔術綺譚 (未改訂版)   作:冬霞@ハーメルン

103 / 106
久しぶりの更新。あと一話と、エピローグで完結だと思います。
今回かなり説明を省略してる部分があるんですが、それは次話で説明させて頂きます。
あと若干以上にプロット変わってて、矛盾ばっかりなのも修正しなきゃ‥‥。
修正してしまうか、改訂版として出すか、悩みますね。
四月から執筆できる環境じゃないので、この半年間で完結目指します!


第九十話『操人形の覚醒』

side AOZAKI Sisters 

 

 

 

 カチャン、とコーヒーカップとソーサーが触れ合った。

 コトン、とマグカップが重厚なテーブルへと置かれた。

 二人の女性が大きなダイニングテーブルを挟んで座っている。互いに向かい合っているのに同じ空気を共有する気が全くない。それぞれ勝手に、したいことをしているようだ。

 片方は赤みがかった、すこし煤けたくせ毛の女性である。長めで、ウェーブがかった茶髪は適当におろされており、オフの雰囲気を醸し出している。しかし新聞に落とす視線からは贔屓目に言っても穏やかな印象は受けない。

 もう片方の女性は、卓上のランプの灯を反射して赤く光る、長く艶やかな黒髪をストレートに下ろしている。完全に時代遅れ、下手すると時代錯誤のカセットテープレコーダーを弄くり回しているが調子は悪そうだ。

 本来ならこの部屋にはもう一人、目付きが悪い方の女性の事務所で働いている男性がいるはずであった。が、生憎と今は外出中である。家事が出来るのか出来ないのか、とりあえず自分達でやる気は全くないこの二人を養うための買い出しだった。

 

 

「‥‥ちょっと姉貴、足当たってんだけど」

 

「知らんな」

 

「知らないわけないでしょ。じゃあ何よ、この足は」

 

「幻だろう」

 

「へぇ、じゃあ踏みつぶしてもいいわけ‥‥ねっ!」

 

「ほら、幻だったじゃないか。喧しい奴だ、新聞ぐらい静かに読ませろ」

 

 

 上半身は悠々と、タップダンスを踊るかのように床がダンダンと音を立てる。ちなみに彼女達の家ではない、赤の他人の家である。配慮はない。

 誰がどう見ても不仲に見えるこの二人、発言から察する通り姉妹である。但し見て分かる通り、恐ろしく仲が悪かった。具体的には殺し合いをするぐらい。比喩ではなく、マジである。

 しかしそれも十年ぐらい前までの話。義理の弟を拾ってからは今までとは打って変わったように不仲は解消され、今ではこのように仲の良い姉妹だ。

 

 

「おい足癖が悪いぞ愚妹。悪さばかりする足だ、他人様の迷惑になる前に切り取ってしまってはどうだ?」

 

「姉貴こそ拗じ曲がった性根してるくせに、よく言うわ。他人に悪さする前に‥‥あぁ残念、もう十分すぎるぐらい迷惑よね。今直ぐ自害したらどうかしら? “ストック”は日本なんでしょ? そしたら戻って来た紫遙は私で独り占めできるわけだし」

 

「馬鹿を言うな、先ずはお前の足を切り落としてからだ。安心しろ、私が新しく素直で品の良い足を作って挿げ替えてやる。タコでいいか?」

 

「いいわけないでしょ。塵も残さず消し飛ばして欲しいなら、そんなに遠慮しないでハッキリと言ってくれていいのよ?」

 

「ご免被る、塵になった粒子の一つでもお前の身体に触れたら魂が汚れてしまうだろうが」

 

「私だって御免よそんなの!」

 

 

 この通り、非常に仲が良い。

 実際この二人が同じ空間と時間を折半出来るようになった、というのは昔の二人を知る者からしてみれば仰天動地の事態だろう。顔を合わせるのは殺し合いをする時、というのが二人の中の常識だったのだから。

 封印指定の人形師、蒼崎橙子。第五法の到達者、蒼崎青子。姉がオレンジで妹がブルー。どちらも魔術教会では厄ネタの一つであり、あまりお目にかかりたくない存在であった。

 ついでに言うと二人が我が家のようにくつろいでいるのは、これまた厄ネタの一つである遠坂の屋敷。正確に言えば、倫敦にある遠坂別邸。

 家主と縁者が全員出払ってしまった其処の留守を任された、のだったらどれほど穏便だったことか。実際に留守を任されたのは先程も話に出て来た姉の事務所の従業員であり、この二人は勝手に押し掛けてきたに過ぎないのである。

 いくら家主が留守でも、魔術師の屋敷だ。直々に託された従業員‥‥黒桐幹也ならともかく、よくもまぁ普通に出入り出来るものだ。家主がうっかりなのか、二人の実力か。どちらも、が正解かもしれない。

 

 

「それに、紫遙がまともな状態で帰って来られるかは分からん」

 

「‥‥フン」

 

「分かってるじゃあないか」

 

「当たり前でしょ。分かってないなんて口が裂けても言えない。そんな無責任なことするつもりはないわ」

 

「責任は、とるさ。‥‥分かっていながら、欺いていた分の責任はな」

 

 

 レースのカーテンの隙間から僅かに射し込む陽射し。外は風が強く、雲が多い。薄暗かった部屋も雲の切れ目から太陽が覗く度に少しだけ明るくなる。

 二人揃って同じことを考えていた。超一流の魔術師と正真正銘の魔法使いという比較的長命な部類に入る彼女達も、ここ暫くは同じものへと興味と意識を集中させていた。

 名前が出ていた、義理の弟。蒼崎紫遙。

 長姉も次姉も、実家から勘当同然の身である。特に姉の方は当たり前のように実家のある界隈への出入りが禁じられており、妹は当主であるはずなのに実家へは碌に帰っていない。しかし、名字へはしっかりと拘りが残っていた。

 その名字を名乗らせてもいいと。弟とはいえ義理ならば全く別の名字を名乗らせてもいいのに、自分たちの名字を名乗らせてもいいと、そう決めた弟。

 名前すら与えた弟。自分たちの名字と、自分たちが与えた名前で縛った弟。大切な存在‥‥なのだろう。そうなのか、と聞かれたら即答する。しかし自問自答するとなると話は別。戸惑っている、迷っている、わけではない。自分がそういう定義に当てはめていいモノを得るに相応しい人間なのか、存在なのか、悩むだけ。漠然と、理解できないだけ。

 しかし気にかけている存在だった。だからこそ、彼の成長を見守った十ウン年、それだけの時間が経過した今、大きな転機に立たされていることを二人は自覚していた。

 

 

「‥‥貴方は不倫相手の子なのよ、って告白するみたいな」

 

「バカらしい喩えをするんじゃあない愚妹。‥‥何も問題はないんだ。問題は、な。“それ”は只の事実に過ぎない。そして私達は」

 

「別に心境の整理をするようなタマでもないし」

 

「していいわけでもない」

 

「つくづく魔術師って難儀よね」

 

「魔法使いもだろう」

 

「同情してんの? 似合わないわね、姉貴こそ」

 

「そういうタマじゃあないさ」

 

 

 そうだ、魔術師とは難儀な人種だった。

 一般人の抱えるだろう悩み事と無縁の人種だった。種族、と言い換えてもいい。長姉も次姉も、一般的な魔術師の枠に当てはまる存在では断じてないが、むしろその部分に限っては、どんな魔術師よりも魔術師らしかった。泰然としていて、超越的だった。

 義弟への、世間一般的な親愛。それは十分以上にあった。が、本物なのか不明だった。他人には断言できても自分自身には断言できない、そんな確信と理解だけはしっかりとある。

 つまるところ、やっぱり戸惑っているのかもしれない。自分達が対外的にとるスタンスが定まっているくせに、どう折り合いをつけていいかは分からない。しかも、それがありきたりなものではなくて。

 

 

「やること、考えること、は変わらないはずなんだけど。ていうかさぁ姉貴、どんな顔してあの子の前に立てばいいと思う? ちゃんと帰ってきたら、さ」

 

「今まで通りさ。ちゃんと帰ってきたなら、な」

 

「何も気がつかないまま、ちゃんと帰ってくるって可能性あり得る?」

 

「あり得ない。‥‥らしくもなく怖がってるのか?」

 

「魔法使いだって人間よ」

 

「嘘をつけ」

 

「じゃあ魔術師は?」

 

「アイツも魔術師だよ」

 

「違うでしょ」

 

「違わない。アイツ自身がそう定めた。そう定めて、アイツはアイツになったんだ。だから、アイツはよく分かってるはずさ。そう悩むことはない」

 

 

 そんなことを口に出しながら、ポケットの中の煙草をまさぐって、やめた。このコーヒーを淹れてから何度目かになるか分からないが、流石に他人様の家で煙草まで吸うほど図々しくはないつもりなのである。

 この話、やめない? 堂々巡りだし、意味ないし。という妹の提案に、彼女は快く賛同した。実のところ、何もすることがないのである。

 

 

「何かするつもりなら、とうの昔にしてるしね」

 

「それは許されるのか? いや、私には無理だが、お前なら」

 

「許されないわ。私は秩序を破壊する側だから、秩序の側から殴り返されちゃう」

 

「のわりには元気に飛び回っているが」

 

「破壊する側だって、破壊を強要されてるわけじゃないもの。ていうか、そういう仕組みから解き放たれた自由人なわけだし」

 

「根無し草、か。私とは大違いだな」

 

「秩序の走狗にされたこと、あるもんね姉貴は」

 

「腹立たしい、まったく。‥‥アイツも、そうだからな」

 

 

 結局取り出した煙草をクルクルと長くて繊細な指で弄び、それを箱に戻す気も起きなくて、最終的には真っ二つに折ってゴミ箱に投げ捨てた。

 なんなら箱ごと潰してしまえばよかったか、どうせ暫くは吸うつもりがないのだ、とイライラと呟く。

 そんな長姉の様子に、次姉は目を丸くした。

 

 

「‥‥呆れた。なんだかんだ気にしてるんじゃない」

 

「幸い人並の感性は残っているらしくてな、お前と違って」

 

「‥‥やっぱり消し炭にされたいわけ」

 

「トンデモない」

 

 

 心を満たしているのは無力感、ではない。彼女達にとっては、遥か遠くの国で名前も知らなければ境遇も知らない誰かが、事情すら分からないまま窮地に陥っているような感覚だった。

 義理の弟とはいえ、親族が相手でもそうだった。つまるところ心配もするし、助けも出すが、この期に及んでは何もすることがなかったのである。

 

 

「あーあ、失敗したわ。ここに幹也君でもいれば、色々と質問とかしてくれるはずなのに。答え合わせはしてあげられないし、解説も出来ないけど」

 

「お前と私だと空しくなるぐらい話が進まんな」

 

「答えを知ってるのに議論なんて出来るわけないじゃないの。ホント空しいっての。ていうか私、なんで姉貴と二人でこんなとこいるのかしら」

 

「私が知るか」

 

「私が知らないのに姉貴が知るわけないじゃない」

 

「やっぱり足をタコにされたいらしいな」

 

「トンデモない」

 

 

 もういっそ別の仕事でも入れてしまえば良かったのだ。バカンスにでも行ってくればよかったのだ。しかしどうにもそれが出来なくて、ここに残っていた。

 二人とも、一番ここにいてはいけなくて、しかしここにいる始末だった。もう何と表現していいのか分からないが、わりと色んなことが出来るだけに、自分たちがこの世で最も可哀想な存在であるような気がした。

 クイズの答えを知っている解説者。しかしクイズの最中だから、それらしいことすら言えない。解説すべき相手がいないし、解説してもいけない。二人だけなら好き勝手に喋ればいいくせに、誰にも見えないが観客がいるのである。

 しかしそんなことは十分に承知していたはずだ。あの日、義理の弟が弟になる前。彼がカレである以前、いや、彼が定義される前に、彼を拾った時から分かりきっていたことだったのだ。

 もう本当に惨めな気持ちだった。やるせない、でもなくて。空しい、でもなくて。焦っているわけでもなくて。ただただ只管に無様で惨めな気分だった。

 奈落の底に落ちるしかないトロッコを送り出して、それをずっと見続けているような。あるいは一本道を進んだ最後に「おめでとう! 君は何事もなくゴールした!」なんて巫山戯たテロップが出てくる馬鹿みたいな映画の脚本を押し付けられた監督のような。

 それが許されるなら全てが終わるまで意識を落としていたい。しかしそれは矜持が許さず、こんなザマであった。

 

 

「植物になりたいわ」

 

 

 吐き捨てるような妹の言葉に、彼女は心の中で頷いた。

 本当に、もう何もかもが惨めに思える、そんな一時だった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「‥‥ッ! ‥‥ッ?! ‥‥?」

 

 

 カッと目を見開いて、俺は呼吸の仕方を忘れてしまったかのように呻いた。

 身体は燃えそうなぐらい熱くて、背筋は一面に針が突きつけられてるみたいに冷たかった。何が何だか分からないけれど、今直ぐ身体中をかきむしって肉を刳り出し、頭蓋をかち割って脳みそをぶち撒けたい気分だ。

 なんだか凄く悪い夢を見ていたような。いや、悪夢は山ほど見たけど、これはそんな感じじゃあない。わけもわからず理不尽な何かを押し付けられているみたいな、そんな感じだ。

 紐が切れた操り人形(マリオネット)を何とか動かそうとしているみたいに、自分の身体から意識が乖離している。自分を律する、自分を制御する、自分を支配するのが魔術師の基本。初めて魔術回路を開いた時、こんな感覚じゃなかったかしら。

 何とか、指一本一本を数えて、俺はゆっくりと身体に意識を通していった。つま先から頭のてっぺんまで、順番に「これは俺の身体だ」って確認しないと動けなかった。

 

 

「どうした、悪いユメでも見たか」

 

 

 身体中を浸している泥の中、ゆっくりともどかしく動く首を回すと、オレンジ色の髪をポニーテールにしている女性が自分のデスクに座ってこっちを見ていた。彼女のお気に入りの、100円ショップで買って来た真っ白いマグカップからはコーヒーの湯気が見える。煙草は吸っていなかった。ちょうど切れ目にでも、当たったのかもしれない。

 伽藍の堂。埃っぽくて、無味乾燥な事務所。廃墟に無理矢理、本棚や机や椅子やソファーを詰め込んだような場所。一つ一つ、机の上のペンすらも確認して、俺は漸く安心した。

 どうやらここは俺にとっての敵地ではない、と当たり前のことを確認しないと人心地つかなかったのである。不思議なことに。

 

 

「夢を見てたわけじゃないはずなんだけど‥‥。ていうか、俺さっきまで何してたの?」

 

「分からんのか」

 

「さっぱり。そもそも今日っていつで、今って何時、って感じだ」

 

「用事があるとは聞いてないが?」

 

「じゃなきゃ、のんびりしちゃいないか」

 

 

 腰が抜けてしまってるらしくて、立ち上がれない。それが分かったのか、軽快に笑いながら彼女は俺の分のコーヒーを淹れて持って来てくれた。

 インスタントだ‥‥。いや、まともなコーヒーもあるけど、俺はそもそもコーヒーはあんまり飲まない。つまるところ、味の違いが分からない。今はダラダラと汗を流しながらも、この堪らなく冷たい不安や恐怖を何かで紛らわしたかったから、温かいコーヒーは実にお誂えだった。

 受け取ったコーヒーには波紋。手が小刻みに震えている。ボロボロだけどクッションの利いたソファーに座っていることすら、現実味がないぐらい。

 口に含んだ真っ黒な液体の苦みが少しばかり脳の覚醒を助けてくれた気がしたけど、どうにも震えが止まりゃしない。

 ポケットに突っ込んだままだった、グシャグシャの箱から煙草を取り出して火をつけた。

 

 

「顔、真っ青よ。汗ダラダラだし、どうしたの?」

 

「分からない,さっぱり。あー、もう寝ちゃおうかな今日は」

 

「それは困るな、暫く起きていろ。どのみち、起きたばかりでは寝られんだろう」

 

「‥‥まぁ、それはそうだけど」

 

 

 いつの間にか、目の前には別の女性が座っていた。

 長い長い黒髪が、申し訳ばかりに据えられた照明の加減で赤く反射している。真夏の盛りでもあるまいし、Tシャツ一枚というのは如何なものだろう。寒い時はもちろんそれなりの格好をするんだけれど、この人に関して言えば、どんなに寒くてもこの格好で押し通るような浮世離れした印象があった。

 最近この二人が一緒にいるのは珍しい。犬猿の仲に限りなく近いのはさておいて、少なくとも俺の前では殺し合いまで至ったことはない。しかしどちらも、特に目の前の彼女は忙しくて、ここ暫くはあちらこちらと飛び回っていたらしい。

 

 

「やっぱりユメでも見てたんじゃない?」

 

「そうなのかなぁ、やっぱり。寝てた、んだよな、俺。夢ぐらい見るか」

 

「身体は平気なのか? 何か変な感じはしないか?」

 

「変じゃないところがない。俺、ヤバい寝方してた?」

 

「さぁな。しかし問題がないなら、いいさ」

 

 

 俺の目の前が占拠されてしまっているからか、窓辺に腰掛けて煙草に火を点ける。ジッポーの、キンという小気味いい音が響いた。

 ジッポーは一見俺のとお揃いに見えるけど、向こうの方が年期が入っている。俺のも新品じゃなくて倫敦の骨董市で買ったものなんだけど‥‥あれ、てことは今はいつだ?

 

 

「熱くない? 痛くない? 平気?」

 

「過保護だなぁ、大丈夫だよ。でも、こんだけギクシャクするって変だな。うたた寝にしちゃ長い時間意識が落ちてた、のか?」

 

「風邪を引くから、もうやめろ。寝るなら自分の部屋に行け」

 

「ただのうたた寝でしょ、気にするほどのことじゃないよ。いつの間に意識が落ちてるからうたた寝っていうんだよ」

 

「ソファにまで移動して寝ていた奴が言う事か」

 

「そりゃそうだけどさ」

 

 

 倫敦じゃ手に入れられない日本の煙草の味で段々と思考がクリアーになっていく。いつの間に煙草を吸うようになったんだっけ。高校出る前には、もう吸っていた気がする。その辺りをわざわざチェックするような学校じゃなかったし、保護者もとやかく言わなかったから。

 吸うようになった理由まではさっぱり思い出せないけれど、十中八九、義理の姉の真似だろう。そう言ったら相棒の少女は苦笑いをして、悪友となった奴は訳知り顔、その師匠の同級生には生暖かい目を向けられたっけ。 

 

 

「さて、主役が起きたことだから始めるか」

 

「‥‥始める?」

 

「なぁに寝惚けてるのよ。朝ちゃんと打ち合わせしたでしょう? 日が落ちてから、始めるって。ホラ早く準備して」

 

 

 下の義姉に促され、工房へと移動する。この廃ビルは作りかけの状態で放置されていて、一階に玄関がなく三階からしか出入りできない。

 そして三階が上の義姉の、表の顔の事務所。四階が私室。二階部分が工房になっていて、一階は車庫やら物置やらと化している。後輩たちの修行には事務所を使うけど、俺の修行は工房で行われていた。

 一見無防備に見える廃ビルの二階には窓がなく、二重三重の魔術的防護が施されている。俺も何気なく出入りできるのはごく一部の区画で、こと“破壊”の腕に関しては当代一と噂される下の義姉すらも、上の義姉の断りなく押し入りを行えば生きては帰れないだろう。

 魔術師の工房とは守るための要塞ではなく、侵入者を必ず殺すための罠のようなもの。生きては入れないし、生かしては出さない。特に上の義姉や同級生のような、ものづくりや礼装の扱いに長けた魔術師にとっては完全に武器庫である。

 

 

「さぁ、寝ろ」

 

「そんな、いきなり寝ろって言われても何が何だか。‥‥俺、朝なんの話してたっけ?」

 

「なんだ本当に覚えてないのか、仕方がない奴だな。お前が倫敦に行くにあたって、修行の最後の仕上げをするんだろうが」

 

 

 その、俺が立ち入りを許された唯一の区画。人形の整備をするための手術ベッドのような作業台が置かれた部屋で、俺はまるで患者のようにベッドに縛り付けられていた。

 上の義姉が何やら怪しげな器具を山ほど用意していて、俺の記憶が確かならば精神干渉系の魔術儀式に用いる礼装だ。礼装は魔術師の象徴の一つでもあるけれど、もちろん簡単なものから一品ものまで様々なものがある。今日はかなりがっつりと何かを行うつもりだったようだ。

 

 

「まぁ安心しろ。お前がやるべきことは大して存在しない。黙って寝て、話を聞いていればいい」

 

 

 てきぱきと道具を用意し、決められた場所に設置していく。

 注射器に薬品を注入し、銀のトレイに置く。電気ではなく蝋燭で灯りを用意する。俺の体の輪郭をなぞるように、鉱石を砕いて作った粉とルーン石で魔法陣を用意する。

 精神干渉系の魔術には二つの流派があって、一つは神話の時代から連綿と続く、魔力や術式を用いて強引に頭の中に潜り込む方法。そして現代魔術に近い、薬品や催眠を用いて精神を無防備にする方法だ。ただし前者には一つ問題点があって、相手が能動的に協力してくれない。今回は被験者である俺が身内だから、後者を主にした方法をとるらしい。

 

 

「さて、簡単に講義だ。いいか、魔術師を構成する要素の中で、一番大事なものは何だと思う?」

 

 

 下の義姉はおよそ一般的な魔術の知識こそあれ、少しでも専門が絡むと全く分からない。なので相当に手持ち無沙汰にしていて、俺が脱いだジャケットのポケットから埃を見つけるという遊びを始めていた。

 あのジャケットは一応れっきとした礼装で、俺の防御の最後の砦。そう簡単に破れたり解れたりということはないはずだけど、あまり乱暴に扱われるとソワソワしてしまう。

 

 

「‥‥魔術回路の質と量?」

 

「違う。そんなものは外付けの礼装で事足りる。大事なのは否定しないが、どのみち歴史の浅い家では話にならん」

 

「じゃあ知識?」

 

「違う。知識をつけるのは魔術回路を作った後だ。だからそもそも一番大事なものというわけではない」

 

「神秘を扱う魔術師として、十分な覚悟をしているかどうか?」

 

「根性論だとか精神論の話をしているわけではない。違う」

 

「‥‥だめだ、さっぱり分からない。降参するから、答えを教えてよ」

 

 

 俺の魔術回路は左右合わせて14本。初代の魔術師としては破格に近い。超一流の魔術師である上の義姉と、現代に生きる本物の魔法使いであるしたの義姉の指導は十分で、知識も技術も一人前にはあるはずだ。そして覚悟も、俺自身では出来ていると思っている。実際どうかは、よく分からないけど。

 じゃあ魔術師にとって一番大事なものって何なんだ? 神秘の探求者、超越者、保護者として大事なものって何だ?

 

 

「お前に答えられないのは、ある意味では当然だが‥‥。呆れるぐらい簡単なことだよ」

 

 

 万が一に備えて縛り付けられた俺を見下ろして、上の義姉が嗤う。

 久しぶりに見る、本当に意地の悪い笑み。その肩越しに見える下の義姉も、同じように嗤っていて‥‥。俺は不思議と背筋が凍りつくような感覚を覚えた。

 義姉たちが意地悪そうな顔するなんて、特に変なことじゃあないはずなのに。始めて見た顔のような、そんな気がして。

 何も知らない一般人が魔術師に怯えるように、義姉に怯えた。

 

 

「――起源(ルーツ)さ。自分の起源(ルーツ)を把握すること。それが魔術師にとって最も大事なことだ。だから、お前には答えられなかったんだよ。お前は自分の起源(ルーツ)を直視できないんだから」

 

 

 起源とは流転し続ける魂の原点。存在の因子。始まりの混沌に於いて生じ、その魂を縛り続ける方向性。起源とは衝動にして絶対命令なのだ。

 起源は魔術師にとって最も大事なこと。そう言われれば、成る程と思う部分は多い。

 魔術師は自分の起源に従って自らの魔道を定めなければならない。起源は属性とは違う。例えばある魔術師の起源は静止であり、その起源に従って結界術の大家と成った。魔術師は己の属性によって魔術を縛られ、起源によって魔道を定める。

 魔術師の多くは五大元素を属性として持つが、起源に近しい者は特殊な属性に目覚めると上の義姉の講義で聞いたことがある。例えば倫敦で出会った悪友は義父から起源に近しい魔道へ導く修練を受け、剣という稀有な属性を目覚めさせた。彼の起源は埋め込まれた聖剣の鞘により後天的に変化したものらしいけど。

 起源を覚醒させる、という術もある。俺は見たことがないけれど、起源を覚醒させることにより肉体と性質は変化し、超人へと進化する。しかし人間の一生程度で得た自我は、原初の衝動によってかき消されてしまうのだとか。義姉は苦々しげに、これらについて話していた。

 

 

「お前を倫敦に留学させるにあたって、師として最後に施す講義。それがお前の起源(ルーツ)の切開だ」

 

 

 その嗤いを止め、途端に無表情になって、上の義姉は言った。

 聞いた俺の顔が強張るのを確認して、今度は少し優しげに笑う。一方で、俺のジャケットを弄るのを止めた下の義姉はゾッとするぐらい透明な顔をしていた。

 俺の起源(ルーツ)の切開。そんなことをしていいのか。やってしまっていいのか。

 想像するだけで恐ろしくなる。一瞬で足場が崩れ落ちてしまうかのような感覚。絶対に触れてはいけない禁忌(タブー)。今まで一度たりとも、俺が二人の義弟になってから言葉にも出さなかったことなのに、なぜ今頃。

 

 

「まぁ落ち着いて話を聞け。大きく息を吸って、吐け。ひどい顔をしているぞ」

 

「‥‥誰のせいだと、思って、るんだよ」

 

「お前自身の問題で、それは私には関係のないことだ。お前自身がやらなければいけないことなのだから、ここ一番と思って耳を研ぎ澄ませろ」

 

 

 思えば今の俺の起源(ルーツ)は目の前の、この意地悪で厳しくも優しい義姉だった。

 俺にとっての過去とは、二人の義姉の義弟となった瞬間が最初。それ以前にどういう生活をしていて、どういう人間だったのか。そんなことは考えちゃいけないことで、そう教わってきた。

 二人の義姉は俺にとことん“それ”について考えさせないようにしてきた。例外は殆どない。思い返せば、蟲の翁の討伐へと出発したときの、あれぐらいだ。俺を題材にした物語があるとすれば、劇的な変化を起こすような、そんなとき数回だけ。

 何故なら其れに触れてしまえば、俺は俺じゃなくなってしまう。膨大な過去が、膨大な力が俺を塗りつぶしてしまう。まるで起源覚醒者が人格を、混沌衝動に塗りつぶされてしまうように。

 だから俺がこんなに震えているのは当たり前のことなんだ。今まで味方としか思えなかった義姉が、俺を殺して喰らう化け物のように見えるのも当然のことなんだ。俺の首にずっとずっと懸かっている紐を絞めようとしているんだから、怖がるのは無理のないことなんだ。

 

 

「生き物は多かれ少なかれ起源に影響される。例えばお前も知っているだろうが‥‥、禁忌という起源を持っていれば、人間であっても畜生であっても、その種において禁忌とされる何某かを求めるようになる。閉鎖という起源を持っていれば、どうだろうな。自らを閉ざし、交流を絶つか? 或いは其れを他者に強要するか‥‥」

 

 

 もう口を開くこともできずに、俺は話を聞くだけの木偶と化していた。

 起源とは混沌衝動。前世でも、何代前でも、この衝動は変わらない。一番最初、魂が生まれた原初の混沌で生まれた方向性だからだ。この方向性に、わずかに性格の違いなどが加わって人格は形成される。逆に言えば、同じ魂を持つ者はある程度性格が似通うわけだ。

 じゃあ俺の起源について考えると、こんなに動悸が激しくなるのは何故なんだろう。前世程度なんて、混沌衝動には何の関係もないというのに。

 

 

「多かれ少なかれ、とは言ったがな、稀にいるんだよ。起源を色濃く発現させる者が。あまりにも起源に近しく、魔術師ならば属性すら其れに近づいてしまう者が。段階を進み、覚醒まで至った者の多くは人格をその衝動に飲み込まれてしまうが、さらに稀に、起源と己の人格を適合させてしまう者もいる。‥‥私の知り合いにも、一人いてな」

 

 

 聞いてはいない。しかし知っている。

 “静止”を起源とする魔術師、破戒僧。おそらく其奴のことだ。この事務所の用心棒、始末屋、人間台風みたいな同僚に喧嘩を売った大馬鹿者。

 その破戒僧の話を前に聞いた時、義姉はこう言っていた。奴は己の目的のために彼奴を得ようとして、その実、彼奴のために動いていたのだと。そして奴のために動かされたであろう己もまた、同じくらい腹立たしいと。

 抑止力に動かされそうになったのだと義姉は笑った。しかし抑止力は働いていなかった。抑止力は誰にも意識されないものだから、もっと別の大きな流れがあったのだと言う。それを運命(Fate)と呼んでもいいのかと聞いたら、お前の好きに呼べばいいと言われた。

 厳密な定義が存在する。アラヤやガイアは俺たちでは計ることすらできない大きなものだから、逆に分かりやすい法則で動く。それは何かと今度は聞いたけど、上手く説明できないと彼女は溜息をついた。俺からすれば上の義姉は知らないことのない人だ。そういう認識だったので、とても驚いたのを覚えている。

 

 

「では起源に近しい、とはどういうことだと思う? 何故彼らは起源を自覚し、ある境界線を踏み越えて、己の根源衝動に喰らいついた? 虚無の混沌に逆に喰われ果てることなく、喰い尽くすことができた者は彼らと何が違っていた? そこに在るものを、何と呼ぶ?」

 

 

 だが少し頭を動かした方がいいな。運命とは何だ? と、確か義姉は続けて言った気がする。

 運命とは覆せぬ何かだと、決められた道だと、誰かに強制された選択肢だと答えたんだっけか。でも今になって考えたら、それって原初の混沌で生じた衝動のことなのかもしれない。

 じゃあ、仮にそれを運命と呼ぶとして、何にそう決められたんだ? 一人の人間の一生の営みを超えて、何代も流転する魂に何を決めて教え込もうというんだろう。誰かが死んで、また誰かが生まれて、そうして繰り返す中でその魂に決められたものって何だ。

 

 

「何代も何代も続く魂から、その代の持ち主が意味を見出し、御し、役割を果たす。運命とは、使命さ。我々はその代で果たすべき役割を果たすとき、己の魂の本質を引き出さなければいけない。抑止力の後押しも、ある意味ではそれと等しい。逆に言えば知覚した時点で既に抑止力ではなく、決められた運命の輪の中の事象だったということだな」

 

 

 ただの予定調和。

 抑止力が、例えば突発的に起こった事故に対処するための方法だとしたら、もはや延々と時間の概念すらなく、定まった台本の一部であるかのように。やらなければならないことが一部の人間にはあるのだと。そう義姉は言った。

 因果を操る魔術が存在するなら、あらゆる因果を遡求し解析し拡張すれば理解できる人理の礎も証明される。未来を定めるなら過去が定まり、過去が定まれば未来が定まる。現在から未来と過去を手繰り寄せることは容易である。ならば自分のやるべきことは、ストンと何処かに当て嵌まる。そんな役者が必ずいる。

 それが、俺か。

 あるいは、彼奴か。

 

 

「そうだ。‥‥さぁ、どうする? お前の原初(ルーツ)は何だ?」

 

「俺の‥‥ルーツは‥‥」

 

「勘違いするな、蒼崎紫遥。お前のルーツじゃあない」

 

「――アンタが喚ばれてるのよ、“村崎嗣郎”」

 

 

 瞬間、沸騰した。

 困惑も、恐怖も、あらゆる余分な感情は消え去り、冷たい湧き水を飲んだときみたいに脳髄はクリアーになる。

 身体の芯は熱湯よりも熱く煮えたぎり、氷を差し込まれたかのように思考は冷たく澄み渡る。

 

 

「誰だッ!!!!」

 

 

 ぎしりと手足を縛り付けていた革のベルトが軋み、俺はすぐさま親指の爪で掌に勇猛(ウルズ)文字(ルーン)を刻んで引き千切った。

 引きちぎった革に、続けて一瞬で氷棘(スリサズ)を。凍りつき、刃と化したベルトで足を縛っていたものを切り裂き、間髪入れずに目の前の魔術師に投げつける。

 

 

「ッ透けた?! 実体がないのか!」

 

 

 その棘は、防がれるでもなく躱されるでもなく。ただ何も其処になかったかのように、その影をすり抜けて飛んで行った。

 ‥‥はじめからおかしかったんだ。なんで俺は、当たり前のように衛宮や遠坂嬢、ルヴィアのことを考えていたんだ。今が倫敦に留学に行く前だってんなら、三人のことなんか知るはずないじゃないか。

 俺の起源について、橙子姉や青子姉が直接的に触れたことは一度もない。それどころか、自分で考えていたじゃないか。俺が二人の義弟(おとうと)になる前のことだって、早々触れなかったじゃないか。それがどれだけ危険なことか、知ってるんだから。

 あまつさえ“あの名前”を呼ぶなんて、絶対にありえない。

 俺は“蒼崎紫遥”なんだ。そう言ってくれたのは二人だったじゃないか。それを否定する言葉を、義姉さん達が口にするわけがない。コンラート・E・ヴィドヘルツルの作り出した、過去の虚像。あるいは俺に催眠をかけているのか、奴の傀儡か――

 

 

「それは違うぞ、紫遥」

 

「俺の名前を呼ぶなッ!」

 

「‥‥ええい喧しい。実体がなくても耳に響く」

 

「落ち着きなさい紫遥。貴方が今どうしたって、そんなに事態は変わらないわよ。ちょうど“外が騒がしくて”チャンスなんだから、先ずは話を聞きなさい」

 

 

 ぐ、と呻き声を漏らす。虚像とわかっていても、やっぱり俺はこの二人の姿形には弱い。

 もともと精神干渉への防御を怠っていないからか、催眠の類はほとんど経験がなかった。たとえ義姉達が相手でも。

 その分だけ、どうにも調子が狂ってしまう。偽物なんていうものを目の当たりにしたことがないから。あの黒い弓兵だって、一応は本物みたいなものだったわけだし。

 

 

「お前のもう一つの名前を呼ばなかったのに理由は山ほどある。そして今、呼んだことに理由は一つしかない。指名を果たす、解号のようなものさ。だからあまり時間はない。手短に理解し、その身を委ねろ」

 

「‥‥どういうことだよ」

 

「最初に勘違いをただしておくが、私達は事前にお前に仕込んでおいた魔術によって精神に展開された使い魔のようなもの。お前が私たちのおとうとになってから、ことあるごとに更新(アップデート)していたんだよ。最後の更新(アップデート)は」

 

「俺が出発する前の夜か」

 

「あら、勘がいいわね。姉貴に細かいところ任せてたから私の再現率が不安なんだけど、大丈夫かしらね」

 

「‥‥腹立つぐらいソックリだよ」

 

「おいどういう意味だ」

 

「そのままよ。それよりホラ早く」

 

 

 ちっ、と舌打ちを一つ、橙子姉は見慣れた仕草で取り出した煙草に火をつける。

 どう見たって本物だ。逆にいうと、あの真っ白々の変態野郎はさておいて、橙子姉達がこの幻像を作ったというなら、やっぱり俺の義姉達は化け物なのかもしれない。

 そして俺はさっきまでのクリアーな思考は完全に消え失せ、もう頭の中は滅茶苦茶だった。怒りだってとうの昔に消え去り、今は困惑しか生じていない。いったい何が、どうなってるんだ。

 

 

「講義というのは嘘ではない。私達が、お前の起源(ルーツ)の覚醒が本当に必要なときに備えて、こういう状態になることを想定して、こうやって術式が発動するようにしておいた。つまり私達がいるということは、お前がその起源(ルーツ)に従い、使命を果たさなければならない時が来たということだ」

 

「‥‥‥‥」

 

「だんまりか。普段なら考える時間を与えて回答を待つところだが、時間がない。急ぐぞ」

 

 

 橙子姉の幻像は続けた。

 抑止力は人間に知覚できない。知覚した時点で抑止力とは違う、運命の輪の中の事象へと堕落する。ある意味では、そちらの方が安全で、何も歪めず何も奪わず、ただ人理の侭に全てが収束すると。

 

 

「それが私と両儀式、荒耶宗蓮の顛末だった。お前は“知っている”な?」

 

「‥‥あぁ」

 

「荒耶宗蓮はガイアの抑止力を懸念していた。しかし本当に懸念すべきはアラヤの抑止力で、アラヤは知覚の妨害というやり方で抑止力の一つ目を用意していたと私は見ていた。真実かどうかは、知らんがな。‥‥そして総じて人間の後押しという形で顕れるが、私が先んじて荒耶宗蓮に敵対し、両儀式は己を以て荒耶宗蓮を打倒した。結果、それが抑止力だったかどうかは分からない。知覚されている時点で抑止力ではないかもしれないし、つまるところ、それは両儀式と私に課せられた小さな使命だったんだろう」

 

「抑止の力がどういうときに顕れるか、知っているわよね? 惑星の破壊、人類の滅亡、あとは――」

 

 

 根源への到達。

 荒耶宗蓮は十分に抑止力を警戒し、根源への到達を試みた。実際、それは成功しかけた。

 しかしそうはならなかった。抑止力への警戒は不十分だった。そも、その生涯からして、荒耶宗蓮は根源に到達し得ないように仕組まれていた節がある。

 それを抑止力と呼ぶべきなのか。荒耶宗蓮のように、最初から根源に到達できない障害が用意されていれば、それは抑止力の影響なのか。

 仮にそれを抑止力と呼ばずに使命と呼んだとき。

 

 

「‥‥全て、仕組まれていたのか」

 

 

 俺のやるべきことは、決まっていたのか。いや、俺自身すらも、そうなることが決まっていたのか。

 根源に到達することを防ぐために、抑止の化け物として俺は定められていたのか。今このとき、この瞬間に、抑止力として機能するように定められていたのか。

 

 

「いいか紫遥。お前は下宿人で、大家がいる。大家に家賃を払わなければいけない。だから私達は、お前がそうなるように、この術式を用意した」

 

「貴方が世界から排斥される原因だと、そう思い込んでるもの。それは本当はたいしたものじゃないのよ。本当の本当に必要なもの。貴方を滅ぼす毒にして、抑止の武器はそれじゃない」

 

「だがたいしたものでもない」

 

 

 グラグラと頭が揺れる。けれど、だんだんと最初のクリアーな思考が戻ってきた。

 うまく言葉にするのは難しい感覚だ。まるで操り人形のように、頭の中にさえも操り糸が通っているように。一挙一投足を丁寧に教えてもらっているように。

 凄まじく、合点がいったというか。腑に落ちたというか。自然に頭と体が動く。

 

 

「お前がやるべきことは、もう殆ど残ってないんだよ。お前がお前のまま、この時この場にいることが大事だ。あとは勝手に事態が進む」

 

 

 段々と全てがおぼろげになっていく。俺以外の全てが。

 煙の匂いも、見慣れた工房の風景も、静かな夜の音も、そして二人の義姉の幻像も。

 自分だけが明瞭明確に此処に在って、そして彼処で己の役目を果たそうとしている。多分、終わりは紐を引くよりも簡単だ。奴も俺も、すぐさま舞台から降りなければ。

 

 

「そうだ紫遥、最後に質問しよう。魔術師にとっては起源(ルーツ)が大事。なら役者にとって大事なものは何だと思う?」

 

「‥‥そんなの、決まってるだろ」

 

 

 真っ暗闇に落ちていくような感覚の中で、その声だけが鋭く俺の耳の中へ入ってきた。

 役者にとって大事なもの。

 それは監督から見た、役者に要求することだろうか。脚本を書いた奴にとって、大事なことだろうか。だったらそれは決まってる。

 演技力? 違う。

 容姿? 違う。

 小道具や大道具? 違う。

 人気? 違う。

 情熱? 違う。

 

 

「――脚本に書いてあることを、しっかり演じてくれることだろ」

 

 

 まるで自分のものじゃないように頭と体が動き、俺は闇の中から抜け出した。

 ただ目の前に見えるのは脚本に書かれた俺の相方。

 そして俺のやるべきことはただ一つ。誰かが十云年前から用意してくれたアホらしい脚本をなぞるだけ。

 ばかばかしいぐらい簡単で、ばかばかしいぐらい情けなくて。

 ‥‥ただ一つだけ、ばかばかしいぐらい、嬉しかった。

 

 

 

 

 90th act Fin.

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。