窓から覗く空がいささか明るくなり始めたこの時間(季節によっては真っ暗なときもある)が、現在の奈緒と加蓮の起床時間である。奈緒は眠い目を擦って必死に眠気に抗いながら、ベッドから上半身を起こしてガシガシと頭を掻いた。
「……やっぱ、シャワーを浴びなきゃ無理か」
鏡は無くとも手触りだけで、自分の髪がどれほどひどい有様になっているか奈緒には分かった。元々癖のある髪質なうえに、腰にも届くほどにボリュームのある彼女の髪型では、もはや整髪料やヘアアイロンを使うよりもシャワーを浴びた方が手っ取り早い。
自分でそうしているとはいえ、毎朝の面倒臭いイベントに軽く溜息を吐きながら、奈緒は周りを見渡した。
彼女の部屋は、実に殺風景なものだった。現在自分がいるベッドと傍に置かれた座卓、そして床を傷つけないように敷かれたカーペット以外、目に付く場所には何も無い。クローゼットを開ければ服が一通り揃っているが、壁にはポスターの1枚も飾られていないのだから、年頃の少女が住むには寂しさを禁じ得ない。
しかしそれは奈緒にとって、不可抗力であった。
どうせ1年もしない内に、奈緒はこの部屋を出ていくことになるのだから。
「……さてと、起きるか」
スイッチを切り替えるようにそう呟くと、奈緒はベッドから立ち上がって部屋を出た。そして廊下を数歩進んで隣のドアの前へとやって来ると、こんこん、と短くドアをノックした。
「加蓮、起きてるかー? …………、開けるぞー」
中からの返事を待たずに、奈緒はドアを開けた。
部屋の広さ自体は奈緒のそれと同じだが、ここは奈緒の部屋と比べても物がかなり多かった。可愛らしい棚の上にはインテリア用の造花が綺麗に並べられており、壁を傷つけないようにシールで貼りつけるタイプのインテリアも数多く配置されている。実にカラフルなその部屋は、間違いなく年頃の少女に相応しいと言えるだろう。
しかし奈緒はそのインテリアには目もくれず、その視線はこんもりと膨らんだベッドに注がれている。
「……加蓮、起きろ」
「…………」
「加蓮」
「…………」
「――起きろぉ!」
そう叫ぶと同時に掛け布団を勢いよく引っぺがすと、ピンク色のパジャマに身を包んで体を丸めて眠っていた加蓮が姿を現した。突然肌寒くなったことでようやく意識が覚醒したのか、「うーん……」と身じろぎしてうっすらと目を開けた。
「さっさと起きろ、加蓮。準備に時間掛かるんだから」
「……あと5分」
「はいはい、そんなベタベタなこと言ってないで、さっさと起きろー」
奈緒がそう言って乱暴に加蓮の体を揺さぶると、彼女は「分かったから、そんな乱暴にしないでよー」と文句を言いながら素直に体を起こした。
「はぁ……、何だか奈緒が私のお母さんになったみたいだよ」
「こんな手の掛かる娘を持った憶えは無いぞ」
「あったらスキャンダルどころじゃないけどねぇ」
そんな会話を交わしている内に目が冴えてきたのか、加蓮はベッドから立ち上がるとおもむろにクローゼットの扉を開けた。そして透明の収納ケースに入れていた下着を取り出し、部屋のドアへと足を向ける。奈緒とは理由は違うにしても、加蓮も朝にシャワーを浴びる習慣があるからだ。
と、あと1歩で部屋を出ていくといったところで、加蓮がふと立ち止まって振り返った。
悪戯な笑みと共に。
「何してんの、奈緒。一緒に入るよ」
「……いや、アタシはいいよ。加蓮が先に入れば良いじゃんか」
「時間が勿体ないでしょ! ほら、行くよ!」
渋る奈緒をむりやり引っ張りながら、加蓮は風呂場へと向かっていく。そんな彼女にされるがままになりながら、奈緒は小さく溜息を吐いた。
これがここ最近、毎日のように繰り広げられている光景である。
* * *
「杏ちゃーん! いい加減起きてくれないと、朝ご飯が食べられないじゃないですか!」
「うーん……。ここは杏に任せて、おまえ達は早く朝ご飯を食べるんだ……」
「何を馬鹿なことを言ってるんですか! さっさと起きる!」
杏の部屋から聞こえてくる菜々の叫び声に、朝食をテーブルに並べていた奈緒と加蓮は思わず苦笑いを浮かべた。そしてそれは2人だけでなく、テーブルに着いて朝食を待つ輝子・小梅・蘭子の3人も同じだった。
今日の料理は、イチゴジャムを塗ったトーストにハムエッグ、シャキシャキとした歯応えが気持ちいいサラダにコーンポタージュスープという洋の布陣。奈緒と加蓮が来るまではもっぱら菜々が料理の支度をしていたが、2人が来てからは3人でキッチンに並ぶことが多くなった。今日の朝食も、3人による共作である。
やがて全員分の料理をテーブルに並び終えた頃、リビングのドアが開かれた。
「もう……。別に一緒に住んでるからって、無理に朝ご飯を一緒に食べる必要は無いんだよ」
「放っておいたら、杏ちゃんはすぐに自堕落な生活になっちゃうじゃないですか! 小さい子も一緒に住んでるんですから、そんな生活してたら示しがつきませんよ!」
「杏はそういうキャラなんだから、みんな分かってくれるってー」
「駄目です! 杏ちゃんはナナ達のプロデューサーで、しかも所属事務所の社長なんですよ! 上司がそんなんでどうするんですか!」
おそらく3日に1回の頻度で行われているであろう遣り取りをしながら、よれよれのパジャマ姿で大あくびをする杏と、ごく一般的なファミリータイプのマンションでは明らかに浮いているメイド姿の菜々がリビングに入ってきた。
そしてその2人の後ろを、杏と同じデザインで色違いのパジャマを着たこずえがチョコチョコとついてくる。
「フヒ……。おはよう、杏さん、こずえちゃん……」
「おはよう……。今日も、杏さん達が最後だったね……」
「煩わしい太陽ね! “怠惰の妖精”よ、未だに夢と
「杏さん、こずえちゃん、おはよう。もうみんな待ちくたびれてるよ。特に奈緒なんて、さっきからずっとご飯の方を見つめて――」
「なっ! そんな訳ないだろ、加蓮! ……2人共、おはよう」
「はいはーい、みんなおはよー」
「おはよぉ……」
気の抜けた返事をしながら、杏とこずえがテーブルに着いた。菜々と奈緒と加蓮も、すっかり所定となった席に座る。
「はーい、それじゃ皆さん頂きましょう」
菜々の言葉を合図に、皆が手を合わせて挨拶して朝食は始まった。
最初の5年間は杏1人だけだった食卓に4人が加わり、そして現在は8人にまで増えた。その内6人が現役のアイドルであり、それぞれが違うベクトルで“美少女”(一部“美女”)と称されるような美貌の持ち主ばかりである。おそらく、彼女達のファンでなくとも思わず羨むであろう光景に違いない。
「イチゴジャム、ぬりぬりー……」
「あぁもう、こずえちゃん。またそんなにジャム塗って!」
「フヒヒ……。トーストと同じ厚さになってるな……」
「こずえちゃん……、本当に甘い物が好きなんだね……」
「うんうん、杏もこずえちゃんの気持ちがよく分かるよ。杏もかつて1人暮らししていた頃に、瓶詰めのジャムをそのままスプーンで掬って――」
「ちょっと、杏ちゃん! 子供の教育に良くありませんから、絶対にやらないでくださいよ!」
「昔の話だって。今はさすがにやらないよ」
「甘美なる宝石を、さらに我が手中に……」
「蘭子。限度を超えなければ少しくらい多く塗っても誰も怒らないから、そんなにコソコソしなくても大丈夫だぞ」
「ぴゃっ! ……そ、そう? じゃあ、頂きます」
「奈緒もそんな少ない量で我慢しないで、もっとたっぷり塗っても良いんだよ?」
「何言ってんだ、加蓮。アタシはこのくらいの量がちょうど良いんだよ」
「またまたぁ。劇場のレストランで私と2人っきりで食べるときなんて、ハニートーストの蜂蜜をこれでもかって掛けまくって――」
「加蓮っ!」
しかし大半が騒ぎたい盛りの十代女子、そして残る者も世間一般的に“大人”とは言い難い性格をしているため、時間帯に拘わらず彼女達の食卓は非常に騒がしい。その騒がしさは奈緒と加蓮に、ほんの短い期間ではあったが346プロのアイドル寮で生活していた頃を思い起こさせる。
「あぁ、そうだ。奈緒ちゃん、加蓮ちゃん」
と、2人がそんな感慨に耽っていると、ふいに杏が思い出したように声をあげて2人へと視線を向けた。2人はサラダを口に運びながら、杏へと視線を返す。
「今日さ、ちょっと用事があって劇場に顔を出せないから、2人で現場を回してくれない?」
杏のその頼みに、2人は互いに顔を見合わせた。この頼みは今日が初めてではなく、今回のように杏が所用で劇場を離れなくてはいけないとき、幾度となく頼まれていることである。
最初の内は色々と戸惑うことも多かったが、スタッフ達の役割や仕事内容を憶えていく内にそれとなく回せるようになっていった。もしかしたらこれが目的だったのかも、と2人は考えているが、未だに本人の口から真意は聞かされていない。
「別に良いけど、用事って?」
「仕事の打合せがてら、昔の知り合いとちょっとした食事会。そんな大したものじゃないから、夕飯までには帰ってこられると思うけど」
「分かりました。もし夕飯に間に合いそうになかったら、電話を入れてくださいね」
夕飯の話になったことで、杏の傍に座る菜々が横から口を挟んできた。彼女の言葉に、杏はトーストを囓りながら「はいはーい」と気の抜けた返事をする。
それを眺めていた奈緒と加蓮は、まるで夫婦の遣り取りみたいだな、と一瞬思ったが、それを口にすると面倒臭いことになりそうなので止めておいた。
「ななとあんず、ふーふみたい……」
「なっ――! 何言ってるんですか、こずえちゃん! こんなグータラで手間の掛かる旦那さんとか嫌ですよ!」
「こっちだって、いつもメイド服を着て口うるさい奥さんは願い下げだよ」
「ちょっと杏ちゃん! 口うるさいって何ですか――」
思わぬ所から放り込まれた爆弾に、食卓がまた騒がしくなる。
眠い体には少々堪える大音量に苦笑を浮かべる2人ではあったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
* * *
奈緒と加蓮の2人は現在208プロにおいては“アイドル候補生”という立ち位置であるが、346プロのように日夜レッスンに励むということはない。元々346プロで培われた技術はかなりのレベルであり、改めてレッスンをする必要は無いのである。というより、そういった専門的なレッスンを行う環境自体が208プロに存在しない。
ならばライブの準備などを手伝っているのかというと、そのような作業は専門の派遣会社から雇ったプロのスタッフに一任している。208プロでは役割分担が徹底されており、演出に対してアイドル自身から口を出すことはあっても、実際にその作業に手を出すことはない。
それならば2人は劇場の公演時にどのような仕事をしているのか、というと、
「悪い、晶葉。急に呼び出して」
「別に構わないさ。いきなり奈緒から電話が掛かってきたときは何事かと思ったけどな」
劇場の表にもファンが溢れかえっている中、スタッフ専用入口からこっそり入ってきたのは、こんなときにも白衣姿を欠かさない池袋晶葉だった。346プロ所属のアイドルである彼女は、若干14歳ながら機械技術で素晴らしい才覚を発揮し、208プロにおいても蘭子のライブで使用されるハード・ソフト両方のシステムの開発・管理を任されている。
「それで、いきなり動かなくなったって?」
「ああ。天井のカメラからの映像は届くんだけど、その映像を処理するシステムが急に動かなくなって」
「映像は届くってことは、カメラとそれの指示系統自体に影響は無いってことか。……何か変に弄くってたりしてないだろうな?」
「もちろんだ! 先週のライブでは問題無く動いてたし、それから今日まで一度も触ってない!」
「だとしたら人為的ではない別の要因でハードに何かしら問題が発生して、それがシステムに影響を及ぼしたってことになるが……。とにかく診ないことには何とも言えんな」
スタッフ用の廊下を颯爽と歩きながら、横に並んで歩く奈緒から事情を聞く。その間にも頭の中で様々な可能性を視野に入れながら、2人はステージの袖へと続くドアを開けた。
『皆さーん! まだまだ盛り上がっていきますよー!』
途端、2人の耳に爆音が飛び込んできた。厚手の黒幕の隙間から見えるのは、カラフルな光に照らされながら踊る菜々の姿である。アップテンポなハードテクノの音楽に合わせて、テンションの上がった観客の叫ぶようなコールが聞こえてくる。
まさに大盛り上がりのステージ上とは対照的に、ステージ袖の一画――3台のコンピューターやその他様々な機械が並んだそこに群がる人々は、皆が一様に不安と焦りを如実にした表情を浮かべていた。
「ごめん、晶葉ちゃん。急に来てもらっちゃって」
「あぁ、待たせたな。さっそく診させてもらうぞ」
顔なじみのスタッフと短く挨拶を交わすや、晶葉はすぐさまシステムの点検に取り掛かった。
新しいアルバムと共にストーリーが一新された今回の蘭子のライブでは、新たな試みを幾つか行っている。彼女の同級生である飛鳥をステージに立たせることもその1つだが、観客がより深くライブに参加できるように幾つか“ミッション”を設けている。
その内の1つが、ライブの途中で観客に発光体(今回は雰囲気重視でランタンを使用している)を渡し、それを観客同士がリレー形式で手渡していく、というものだ。ランタンの光を天井のカメラで撮影し、映像をリアルタイムで処理してステージのスクリーンに光の軌道を反映させる。スクリーンには地雷が幾つか映し出されており、それを避けながら目的地まで光の軌道を繋げていく、というミッションである。
しかし今日、本番前の起動テストをしていたスタッフから『光の軌道が映像に反映されなくなった』と報告してきた。よって奈緒はすぐさま晶葉に電話を掛け、忙しい合間を縫って急遽来てもらったのである。
奈緒を含むスタッフ達が固唾を呑んで見守る中、晶葉が突然顔を上げた。
「――分かったぞ。システムのプログラムの一部が書き換えられてる。だからシステムがエラーを起こして反応しなかったんだ」
「……ってことは、ちゃんと直るのか?」
「あぁ、大丈夫だよ。ちょっと直す箇所が多くて手間取るが、30分も掛からないだろう」
それだけの時間ならば、充分に間に合う。真剣ながら実に落ち着いた表情で作業を開始した晶葉の姿に、奈緒は安心したようにホッと溜息を吐いた。
そして思い出したようにポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作してどこかに電話を掛けた。
「もしもし、加蓮? 大丈夫だ、何とかなりそうだよ」
「そっか、良かった。うん、作業が終わったらまた電話して」
劇場の楽屋にて奈緒からの電話を受けとった加蓮は、そう言って電話を切った。ホッと溜息を吐くその表情には、安堵の2文字がありありと滲み出ている。
「後30分くらいで直るって。――良かったね、蘭子ちゃん、飛鳥ちゃん」
「むっ、そうか……。ならば安心だな」
「ふぅ……、一時はどうなることかとヒヤヒヤしたよ。どうやらボクは、こういった不測の事態に弱いらしい」
それを受けて大きな溜息と共にソファーに体を深く沈めたのは、出番がまだなために私服姿でいる蘭子と飛鳥の2人だった。とはいえ蘭子の場合はバッチリ決めたゴスロリなので、そのままステージに出ても違和感が無いように思えるが。
「いやいや、さすがに本番数時間前にライブの大事なシステムに異常が起きたってなったら、さすがの私でも動揺すると思うよ。むしろこうしてソファーに座って待つことができるってだけで、充分に落ち着いているって言えるけどなぁ」
「……そうか。この道のプロである加蓮さんからの言葉なら、ボクも少しは自惚れることができるってものだね」
口では格好付けてそのような台詞を吐く飛鳥だが、つい1分ほど前までは表情を強張らせて落ち着き無く手遊びを繰り返していた光景を見ていた加蓮としては、どうにも“微笑ましい”以外の感想を浮かべることができなかった。
本人にそのことを素直に話せばおそらく拗ねてしまうだろうから、加蓮はそれを口にすることなく、代わりにアイドルの先輩としてのアドバイスを伝えることにする。
「本番までに心を落ち着かせるためにも、2人でご飯食べに行ったら? 甘い物でも食べれば少しは気が紛れるだろうし、意識を集中させるるのにあの個室は最適だと思うし」
劇場の2階に造られたカフェは、他のかな子の店と同じように秘密の個室が造られており、ファンの目に触れることなく裏からその個室に入ることができる。所属アイドル達は公演時間がバラバラなため、それぞれが空いた時間にそこで食事を摂るようになっている。
「……そうだね。正直なところ、今のトラブルで台詞が頭から抜けていないと断言できる自信が無い。――蘭子、悪いけどボクに付き合ってくれるかい?」
「――もちろんだよ、飛鳥ちゃん」
飛鳥の提案に蘭子が笑みを浮かべて頷くと、2人はそのまま仲睦まじげに楽屋から出ていった。
それを見計らったかのように、楽屋の壁に取りつけられている電話が鳴った。ごく自然な動作で加蓮がソファーから立ち上がり、その電話を取る。
「もしもし。――はい、了解です」
短い遣り取りの後に電話を切ると、加蓮は楽屋の奥へと顔を向けた。
「輝子ちゃん、小梅ちゃん。トラブルがあったけど、定刻通りに始めるって」
「フヒ……。分かった……」
「う、うん……」
加蓮の声に反応して、ステージ衣装を身に纏う輝子と小梅がソファーから立ち上がった。今日の2人はソロではなく、ユニット“NiGHT ENCOUNTER”としての出演となる。互いに強烈な世界観を持つこの2人によるユニットは、2枚目のアルバムも視野に入れるほどの人気となっており、既にライブでも幾つか新曲を披露している。
「……えっと、それじゃ、いつものやるか」
輝子の言葉に、小梅がこくりと小さく頷いた。それを聞いた加蓮が、スッと自分の耳を両手で塞ぐ。
すると、次の瞬間、
「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
地響きかと勘違いするほどに低い叫び声と、金属でも切断しているのかと勘違いするほどに甲高い叫び声が、楽屋を飛び出して辺り一帯に響き渡るほどの大音量で鳴り出した。その声はそれぞれ輝子と小梅の口から飛び出したものであり、耳を塞いでいる加蓮の表情に苦悶の色が浮かぶ。
そして10秒ほど経った頃にその声が止み、
「――フヒ。今日も絶好調……」
「うん……。それじゃ、行こうか……」
実に満足そうな笑みを浮かべながら、2人はそのまま仲睦まじげに楽屋から出ていった。
小さく手を振ってそれを見送り、楽屋に1人残った加蓮は、溜息混じりにポツリと呟いた。
「さすがに間近で聞くと、体に悪いわ……」
* * *
多少のトラブルはあったものの、本日の劇場も盛況の内に幕を閉じた。
そして時間は過ぎ、すっかり夜も更けた頃。
杏宅では輝子達中学生組がすっかり寝静まる中、その隣の部屋では、リビングのテレビを中心にL字で配置されている2つのソファーに、奈緒と加蓮がそれぞれ腰を下ろしていた。風呂に入ったばかりなのか頬を僅かに紅く染め、しっとりと濡らした長い髪を背中に垂らしたパジャマ姿という、完全にリラックスした格好をしている。
「なぁ、加蓮。どういう路線で行くか決まったか?」
「ううん、まだ。奈緒は?」
「こっちもだ。――どうしたもんかなぁ」
しかし2人の表情はリラックスとは程遠く、むしろ真剣そのものだった。2人の前にはそれぞれノートが広げられており、様々な文字が書かれては消しゴムで乱暴に消されたり上から二重線を引かれたりしている。黒く汚れたそのノートが、彼女達の格闘を物語っている。
「“トライアドプリムス”を離れて自分の好きなことをやれる、って言うと聞こえは良いけど、いざこうして考えてみると悩むもんだよなぁ」
「せっかく移籍までしたんだし、“トライアドプリムス”のイメージとはかけ離れたことをやりたいよねぇ」
「とはいっても、なかなか『これっ!』っていうのが見つからないんだよなぁ。ただ単にやってみたいってだけじゃなくて、自分の考えでそれを表現できるってものじゃなきゃいけないってのが地味に辛い」
「うーむ……」
と、今日も汚れたノートと睨めっこしながら唸っていると、
プルルルルル――。
奈緒のスマートフォンが鳴り、彼女はポケットからそれを取り出して画面を覗き込んだ。そしてそこに表示されている名前を確認すると、意外そうに目を丸くした。
「杏さん? こんな時間に何だろ……。――もしもし」
『あぁ、奈緒ちゃん? ひょっとして、もう寝てた?』
「いや、まだ起きてるけど」
『良かった。今からそっち行っても大丈夫?』
「今からこっちに?」
奈緒がそう言いながら加蓮へ視線を遣ると、彼女も不思議そうに首をかしげながらも小さく頷いた。奈緒が了承の返事をした1分後、リビングに来客を知らせるチャイムが鳴った。
「いやぁ、ごめんねぇ。急に押し掛けちゃって」
そう言ってリビングに入ってきた杏の右手には、ビニール袋が提げられていた。先程までノートが広げられていたテーブルは既に片づけられており、彼女はそこに袋から取り出したチューハイの缶やらジュースの缶やらお菓子やらを次々と置いていく。
その光景を眺めていた奈緒と加蓮は、杏から電話が掛かってきたとき以上に驚きの表情を浮かべていた。
「杏さん、お酒呑みに来たの?」
「たまには一緒にお喋りしようかなって思ってさー。新しい路線のアイデアに行き詰まってるみたいだし、気分転換に付き合ってくれない?」
「……知ってたのか? アタシ達がさっきまで悩んでたの。ノートは片づけたのに」
「テーブルに消しゴムのカスが散らばってるからね。すぐに分かるってもんよ」
「……さすがだね、杏さん」
杏がソファーに座るのと同時に、奈緒と加蓮が彼女を挟むようにソファーに腰掛けた。そしてそれぞれ缶のプルタブを開けた(もちろん未成年である2人はジュースである)ところで、
「はい。それじゃ、今日も1日お疲れ様でした。かんぱーい」
「かんぱーい!」
最初は渋っていた奈緒と加蓮だったが、杏の挨拶に乗せて勢いよく缶を合わせると、そのままジュースをグビグビと喉に流し込んだ。風呂上がりで渇いていた喉に、ジュースがじんわりと染み渡っていく。
「……こんな時間にジュースとお菓子とか、絶対に太るよね」
「そんなの気にしない気にしない。1日くらいこんな日があったところで、そんな急激に体型なんて変わらないって。菜々さんなんて、毎晩のようにお風呂上がりにビールで晩酌してるからね」
「止めてやれよ。菜々さん、一応17歳ってことになってるんだから」
「もはや“公然の秘密”扱いって感じだけどねぇ。――たくさん持ってきたから、飲みたければ好きに開けて良いからねぇ」
杏はそう言いながら、ジュースのように甘ったるいチューハイをちびちびと呑んだ。
それをじっと見つめながら、加蓮が意を決したように口を開いた。
「それで杏さん、私達と“どんな話題”でお喋りしたいの? わざわざこんな時間に、杏さんの部屋じゃなくてこっちに来たってことは、輝子ちゃん達の耳には入れたくない話なんじゃないの?」
「…………」
ぴたり、とチューハイを呷る杏の手が止まった。
「そうだね。もう夜も遅いし、さっさと本題に入ろっか。――蘭子ちゃんのライブ前に起こったトラブル、ぶっちゃけどう思う?」
真剣な表情でそう尋ねる杏に、加蓮は彼女と同じように表情を引き締め、奈緒は不思議そうに首をかしげた。
「どうって……。大変なトラブルだったけど何事も無くて良かったなぁ、って思ったけど」
「そうじゃなくて。簡潔に言うなら、このトラブルが“人為的”なものかどうかってことよ」
その言葉で杏の言いたいことを察した加蓮は、一瞬だけ顔をしかめながら遠慮がちに口を開いた。
「……ライブが終わってから、晶葉がシステムを一旦引き取って調べてるんだよね?」
「うん、結果はまだだけど。――でもさ、おかしいよね? 先週のライブでは何の異常も無く動いてて、今日まで誰も触ってなかったんだよ? なのに急に異常が起こるなんてさ」
「アタシはコンピューターに詳しくないから何とも言えないけど、そういうこともあるんじゃないのか? ああいう機械ってかなり繊細だから、ちょっとした変化が機械に影響を与えたとか――」
「プログラムが損傷してたり、それこそ丸々消去されてたら、そういう可能性も無くはないけど……。プログラムの“一部”が書き換わってるなんてさ、明らかに人間の意思が関わってるようにしか思えないよねぇ。実際、プログラムを修理していた晶葉ちゃんも『書き換わっていることを隠そうという“意思”を感じた』って言ってたし」
呑気な表情でお菓子を食べながらではあるが、杏の発言の内容はけっして呑気にしていられるものではなかった。
なぜなら、もしそれらが本当のことだとしたら、
「……つまり杏さんは、スタッフさんの中に“犯人”がいると思ってるのか?」
「可能性はゼロじゃないよね。ゼロじゃない以上、疑って掛かるべきだと思うけど」
杏の言葉は正論ではあるが、それを聞く2人はいまいち納得し難かった。2人にとってスタッフは一緒にライブを作り上げる“仲間”であり、だからこそ彼らに疑いの目を向けることが躊躇われるのだろう。
「とりあえず今回の件に関しては杏の方で調べておくから、2人は普段通りにしてくれていれば良いよ。ただまぁ、杏が劇場にいないときは色々と任せてるし、ちょっと頭の中に留めてくれたらなぁって思って2人には話したって訳」
「……他のみんながいるところでこの話をしなかったのは、杏さんがスタッフを疑ってることを知られたくなかったから?」
「まぁね。いくらスタッフが怪しいって言っても、スタッフに疑いの目を向けるのってあんまり良い空気じゃないし。菜々さん達にはそういうのを気にせずに、のびのびとライブしてほしいって思ってる。――まぁ、何か薄々察している子もいるっぽいけどね」
最後に付け足された言葉が若干気になるが、2人としても彼女達に何かトラブルが降り掛かる事態は避けたいのは事実だ。なので2人は杏の頼みに頷いて応えることにした。
「それにしても、杏さんって意外と働き者だよね。いつもグータラ怠けて『働きたくない』って言ってる割には、裏で色々立ち回ってるというか」
「怠けて何もしなかったら却って面倒臭いことになるってときに仕方なく動いてる、それだけのことだよ」
杏はそれだけ言うと、缶チューハイの残りを一気に飲み干した。偽悪的な態度を指摘されたことへの照れ隠し、というのは加蓮達の穿った見方だろうか。
「さてと、せっかく杏の話を聞いてくれたんだし、2人の方から杏に訊きたいこととか無い? 何ならさっきまで悩んでたことについてアドバイスしよっか?」
杏の言葉に、奈緒と加蓮は一瞬だけ互いの顔を見遣り、
「……いや、それに関してはもう少しアタシ達で考えようと思う」
「うん、そうだね。――その代わり、」
加蓮はそこで一旦言葉を区切ると、ふいに立ち上がって「ちょっと待ってね」と足早にリビングを出ていった。
そして1分もしない内に再びリビングに戻ってきた彼女は、その右手に数センチほどの厚みはある書類の束を掴んでいた。
「杏さんも、“これ”貰ってるよね?」
加蓮はそう言って、その書類の束を杏に見えるように目の前に差し出した。
それを見た途端、杏が顔をしかめた。うんざり、と聞こえてきそうなほどに。
「……またその話か」
その書類の表紙には、こんな文章が書かれていた。
『“346 IDOL LIVE FESTIVAL”企画説明書』