エースは後悔した。その日、ルフィとユアンの2人を置いて、1人で町に行ったことを激しく後悔した。
事の起こりは、ルフィが怪我をしたことにある。意地を張って単身で猛獣に向かって行った挙句、返り討ちにあったのだ。
命に別状は無かったものの、しばらくは動かさない方がいいだろうということで周囲(エース・ユアン・ダダン一家)の意見が一致したため、ルフィは独立国家で安静を余儀なくされている。
看病係にユアンを残し、エースはゴア王国の町まで薬の買出しに行ったのだが……ほんの半日で、一体何があったというのか。
「生まれ変わったら……ナマコになりたい……」
一体何があったらこんなことになるのか……。
いつでも元気、超ポジティブ思考のルフィが、暗黒を背負いながら布団に突っ伏して泣いているのを目の当たりにし、エースの口元が引き攣った。
『おれは海賊王になる!』と毎日のようにキラキラとした笑顔で夢を語っていた弟が……ナマコになりたい、だなんて……ムゴイ……ムゴすぎる……。
エースは既に、この状況を作り出したであろう人物が誰なのか予想がついていた……というより、1人しかいない。
そろそろと、ルフィを見ないように慎重に動きながら、エースはユアンを探した。
「エースぅ……」
涙に濡れた瞳で自分を見上げるルフィに、エースの肩が揺れた。
正直、今のルフィには関わりたくなかったのだ。
「おれ……生きててゴメン…………」
勘弁して欲しかった。一体何があったらここまでネガティブになれるのか。
しかし。だがしかし。
エースには長兄としての責任感があった。無駄にあった。弟が落ち込んでいる時には助けてやらねば、と思うぐらいには。
そう思ってしまうからこそ、極力関わりたくなかったのだが。
内心で涙を流しながらも、エースはルフィに向き合った。
いつもなら『泣き虫は嫌いだ』と喝を入れるのだが、流石にここまで重苦しい暗黒を背負われては言えない。止めを刺すことになりかねない。
「どうした? ユアンと何があった?」
何『か』ではなく何『が』と聞く辺り、エースは既にルフィをこの状態にした犯人を特定している。
できるだけ優しく聞いたのだが、ルフィはユアンの名にあからさまに怯えた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! ゴメンナサイ!!」
泣き叫び、布団に潜り込むルフィ。
だめだこりゃ、とエースは早々に匙を投げた。ユアンは一体どんな攻撃、いや口撃をしたのか。
1つ溜息を吐くと、エースは再びユアンを探し出した。
「………………………………ユアン」
正直、回れ右をしてその場から立ち去りたかった。刺激したくなかった。
しかし。だがしかし。
エースには長兄としての矜持があった。無駄にあった。弟の怒気に気圧されて逃げるなんてできない、と思うぐらいには。
「何? エース?」
答える声は明るく朗らかだ。その顔にはとても穏やかな笑みが刻まれている。
しかし、感じるのだ。この末弟の底知れない怒りが。何だか笑顔の後ろに般若が見えるのだ……尤も、それはエース自身の心が生み出した幻だろうが。
何故ならエースは知っている。
ユアンが目に見えて怒っている時は、実はそれほど怒っちゃいない。彼が本当にブチ切れている時は、それはそれは穏やかな、しかし見ている者の背筋を凍らせるような笑顔を浮かべるのだ……今この時のように。
そしてこの状態になったときのユアンの口撃は、凄惨を極める。淡々と途切れることなく毒を吐き続け、相手の精神を地獄に叩き落とすのだ……今のルフィのように。
3歳の誕生日にダダンに向けていたのが、エースが初めて見るユアンのマジ切れだった。以来、滅多に見られることではなかったが、年々その笑顔は凄みを増し、口撃は鋭くなっていっている。
今現在、ユアンの怒りはエースには向けられていない。しかしもし下手に刺激したら……今度は自分がルフィのような状態になってしまうだろう。そう思うとエースは逃げたかった。だが。
(1度向き合ったら……おれは逃げない!)
心底憎んでいるはずの父親から受け継いでしまったその気質が、エースから逃げを奪っていた。
「ルフィと何があったんだ?」
瞬間、室温が何℃か下がった気がした。実際に下がったわけじゃないだろうが、ユアンの醸し出す空気が冷たくなったのだ。
それでも、その怒りとエースは無関係であり、それをエースにぶつけるのは悪い、と考えるだけの理性は残っていたらしい。
「………………実は」
静かにユアンは語ったのだった。
話を纏めるとこうだ。
エースが出かけてすぐ、ルフィは安静に飽きた。元々じっとしてるのが苦手な子であるから、それは仕方が無い。
当然のごとく、ルフィは傍にいたユアンに退屈しのぎを求め……結果、ユアンがいつも読んでいる日記に行き着いた。あんなに熱心に読むぐらいだから、何か面白いことでも書いてあるんじゃないか、と。
もう何年も一緒に暮らしてきて、今更とも言える発言だ。だが、活字に滅多に興味を示さないルフィだ。それも仕方が無い。
ユアンはあの日記を大事にしてはいるが、流石に『兄弟』に対してそこまで出し惜しみはしていない。現に、エースも過去に何度か興味を覚えて読ませてもらったことがある。あまりに量が多いので到底読みきれなかったが。
……読みきれなかったが、とにかく、ガープへの悪口がかなり多かったのは解った。というより、ざっと見た感じ、他にそうそう個人に対するあからさまな罵詈雑言は……あぁ、そういえば1人いたかとエースはふと思い出した。とはいえ、名前も書いてなかったから、誰なのかは解らなかったのだが……ガープに対するある種の身内の気安さとはまた別の容赦のなさが印象的だった。
(何なんだよ、『白ひげのトコのでっぷりとして脂ぎった変な笑い方する最低最悪なヒゲ野郎』って)
その時の記述は筆跡も荒れていて、書き手が相当に立腹していたらしいことが見て取れたが……今考えることじゃないか、とエースは気を取り直した。
とにかく、だからルフィに強請られたときも大事に扱うことを条件に貸し出したらしい。
ルフィは読み始め……しかしすぐに飽きた。元々読書を好むタイプじゃないし、人の日記から得るべき情報のみを抜粋して噛み砕くという技術も無い。
飽きたのならそれはそれですぐに返却すればよかったのが……あまりに退屈だったので、つい悪戯を考えてしまったらしい。
弁解するなら、ルフィに悪気は無かった。ただ、運が悪かったのだ。
ルフィは、ユアンの宝である日記を人質(物質?)に、自身の外出を要求した。
ルフィとて麦わら帽子という宝物があるからこそ、本当に日記をどうこうするつもりは無かった。ソレに何かが起きてしまえばとても悲しいということが解っていたからだ。ユアンだってそんなルフィの内心は理解できていた。
安静にした方がいいとはいっても、動かしてはいけないというほどでもないのだ。苦笑いでほんのちょっと外出を許可し、少しエースに叱られる。それで済む話のはずだった。
ルフィが『うっかり』手を滑らせて、日記を落とさなければ。そして、その日記が落ちた先に、水の入ったコップが無ければ。
しかも更に運の悪いことに、そのコップに入っていた水は量が多かった。日記は水に濡れ……すぐに取り出して拭いたものの、濡れたという事実は変わらない。
結局、水に字が滲み、数ページは完全にオシャカになってしまったらしい。他にも、危なくなってるページがあるとか。不幸中の幸いだったのは、濡れたのがごく一部だったということだろう。
不幸な事故だ。それは解っている。けれど、解ってるからといってルフィに怒りを覚えないわけもない。そもそも、大事に扱って欲しいと最初に忠告したはずなのだ。
瞬間的に頭に血が上ってしまい……後は、エースの想像通りだ。ユアンはルフィにすさまじい口撃を仕掛けた。『宝物』を傷物にしてしまったことで自分でも悪いと思っていたルフィは、いつもの楽天さからは想像もつかないほどに落ち込んでしまった。
その結果がアレである。
エースに言わせれば、どっちもどっちだ。
ルフィは余計なことをしたが、悪気は無かった。
ユアンは宝物を傷つけられたが、それが事故だということを理解している。しかも、ルフィにした仕返しはあきらかなオーバーキルでもある。
そもそも、ユアンの基本的なモットーは『喧嘩両成敗』。ついこの間、ゴムの技の有用性を巡ってエースとルフィが対立した時もそう言って2人を殴っていた。
とにかく、どちらが一方的に悪いという話ではないのだ。
多分、しばらくすればユアンの頭も冷える。そうしたらこの割と合理的な末弟は、ルフィに謝るだろう。ルフィはいまや完全にユアンに怯えているから、謝られれば飛びつくはずだ。
つまりは、放っておくのが1番だろう、という結論にエースは達したのだった。
それにしても、とエースはふとルフィに憐憫の情を覚えた。
これまで、何の因果かユアンがマジ切れした現場にルフィが居合わせたことはなかった。初めて目にしたソレが、自分に向けられたものだなんて……と、ルフィのその時の心境を思い、エースは内心で涙した。
(ルフィが立ち直ったら、肉を分けてやろう……)
珍しく、本当に珍しく、エースはそう決意したのだった。
ルフィとユアンが『今後ルフィは日記に触らない』という条件の元仲直りしたのは、この2日後のことであった。
なお、仲直り後ルフィは一気にケロッと元の楽天家に戻ったが、これまでよりもユアンの機嫌に気を遣うようになったことを、ここに追記しておこう。
ルフィとユアンの初喧嘩です。……喧嘩、と言えるのか? むしろ一方的にトラウマを植え付けただけのような。
ユアンがどんな口撃をしたのかは、あえて明記しません。とにかく、ルフィにトラウマを残すぐらいに凄まじく胸を抉る言葉たちであったことは確実です。
というか……ユアンはマジ切れするとネガティブホロウ化するみたいですね(笑)。相手をネガティブに追い込む。
そしてこの1件で、兄弟間の裏のヒエラルキーが確立されました。普段は兄ちゃんたちを立てる弟が、実は最も怒らせてはいけない存在。航海に出た後、フリーダムすぎるルフィの手綱を握るのに役立つことでしょう。
途中出てきた『日記に書いてあったヤツ』に関しては、おそらく想像がつくと思います。