「ふふふ……もっと苦しめるつもりだったけれど、死んでしまったかしら?」
消えかかる意識の中、紫苑の声が私の耳に届いた。
「あら、まだ生きて――」
そこで紫苑の言葉が途切れる。
そしてぼやけた視界が徐々に明確になっていく。そこでようやく気付いた。私はゆっくりと、紫苑に向かって歩を進めていたのだ。
「近寄るなっ!!」
紫苑が再び鉄扇を振るった。
何かがこちらに飛んでくる。
かすかな熱さを感じる。
「そうか……痛覚が死んでいるのか」
私は止まらない。温いとも言える熱さを若干感じながら、紫苑の目の前までたどり着いた。
そして彼女の表情を見た瞬間――私の感覚は、一気に研ぎ澄まされた。
「そうだ。私は、お前を殺さなければならない」
私の右手は、恐怖に染まる紫苑の首元に伸びる。
「い、いやっ!」
苦し紛れに突き出された鉄扇の端を掴む。
何と脆いことか、簡単に握り砕ける。
凄まじい力が私の中を駆け巡っているようだった。私は更に手を伸ばし、彼女の首を掴む。そしてそのまま投げ飛ばし、廃材の積まれた山の中に彼女をぶち込んだ。
「何……何なの?!」
紫苑は右手を挙げ、再び火球を放つ。
私はそれらを、今度は全て避けた。まるで火球はスローモーションで私に迫ってくるようだった。私から距離を取ろうとする紫苑の動きすら、私には緩慢な動作にしか見えない。
「捕えた」
私の手は、すぐに彼女の右手を掴んだ。
「やめ――」
彼女の言葉を切るように、私の膝蹴りが彼女の右肘を砕く。紫苑の右腕は肘から分断され、私の手には切れた右手があった。
「あぁぁぁぁ!!!!」
紫苑の悲鳴を聞きながら、私は右手をその辺に投げ捨てた。
「今なら……戦闘狂たちの気持ちが、分かる気がします。これが――」
――快感だった。
紫苑の腕を破壊したあの感覚――
「もっとだ!!」
私は快楽の虜となっていた。
もっと壊したい。もっと壊したい。
もっと壊したい。もっと壊したい。
「これが戦いというものか!!!!」
気づけば、目の前に紫苑はいなかった。ただ、私の足の下に彼女の頭があった。私は彼女の頭を踏みつけているのだ。
「……」
もはや紫苑の口からは、音の一つも発せられていない。全身のアーマーは、私の殴打によってぼろぼろに砕けていた。
それを確認した時、私の体の内側から、何かが溢れてくるような感覚にとらわれた。それは何かが破裂するような――とにかく私は尋常ではない痛みを覚えたのだ。
「ぐあぁっ!!!!」
同時に、気が狂いそうになるくらいの欲求――足元に転がる紫苑を八つ裂きにしたいという欲求――が頭を超えて全身に駆け巡った。
「メフィラス……ゴーデス細胞を……自ら打った、わね……?」
足元の紫苑が言葉を紡ぐ。それによって私の理性が一気に目を覚ました。
「そう……よく、分かりましたね」
「見れば、分かるわ……」
私は自分の左腕を見た。破けた服から垣間見える肌は、醜く変色していた。
「しかし……知ったことではない!!」
私は紫苑の首を掴み、彼女を持ち上げた。
傷だらけの彼女の顔は、何とも美しく思えた。
「この細胞は……非常に面白い。我々が理解できなかった“感情”というものを爆発させる。私は今、感情に従ってお前を殺そうとしている。狂おしいほどの痛みすら、その欲求の前には霞んでしまいそうだ」
「可哀そうね……醜い殺意の奴隷よ……今のアナタは――くぅ……あぁっ」
苦悶に満ちた紫苑の顔を見ていると、得も言われぬ悦びが内側から湧き上がってくるようだった。
こいつの全てを奪ってやりたい――そんな欲求がとめどなく溢れてくるのだ。
「あの鍵も、お前の命も、全部私に寄越せ」
「そん……なこと!!」
紫苑は狂ったように目を見開いた。
同時に、彼女の周りの空間が穴を空け、数発の火球が私に襲いかかった。
衝撃で、思わず腕の力が抜ける。その隙に紫苑は私の手から逃げおおせ、背を向けながらよろよろ離れて行こうとする。
「鍵は私の物よ。地球も、何もかも……全部私の、もの――」
彼女はそれだけ言って、倒れた。
私は数秒、その姿を目にした後に近づこうとした。
しかしその前に、雪宮が立ちふさがった。さすが不死身の宇宙人だけあって、燃やされたぐらいでは死なないのか。
「もう、やめて」
「そこをどけて下さい」
「どかない」
彼女は、私が使った物とは別の注射器を、私に向けた。
「やめろぉぉ!!!」
私は雪宮を蹴ろうとしたが、そこに彼女はいなかった。
気づくと、そこに倒れていたはずの紫苑すら消えている。
「レオルトン。もう十分」
「邪魔をするな」
「レオルトン」
「邪魔をするなぁぁ!!!!!!」
私は雪宮に向かって飛びかかった。
私と雪宮の間に、巨大な氷塊が現れる。私はそれを拳で砕いたが、その隙に彼女が私の懐に潜り込んでいた。
「目を覚ませ」
注射器の針が、私の胸に突き刺さっていた。
私の意識は、そこで途切れた。
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「何故私を……助けたの…?」
ニルの身体を、愛美の眠る寝台に寝せていた雪宮の背中に向かって、紫苑が言った。
「分からない」
「変わったコね」
「レム。裏切ってしまって……ごめんなさい」
「今更? もうどうでもいいわ」
紫苑は立ち上がった。失われた片腕からの出血は止まっていたが、彼女はふらふらとおぼつかない足取りで歩き始めた。
「待ってレム。行く前に“鍵”を渡して」
「何を言っているの?」
紫苑は振り向きざまに高らかに笑った。
「私はこれを使って、この地球を手に入れるわ」
「させない」
「私はね、望むものは全て手に入れないと気が済まないの。全てを自分のものにしたいのよ!」
「地球は、人間たちのもの」
「ねぇグロルーラ。アナタおかしくなっちゃったの? 故郷の無い私たちが、自らの故郷を手に入れるために一緒にやってきたんじゃない。同じ苦しみを共有していたはずじゃない」
「その苦しみを知っているから、止めたいの。彼らから故郷を奪わないで」
「もういいわ。アナタにはがっかり」
心のどこかで、デスフェル――紫苑レムは信じ込んでいた。
グロルーラ――雪宮悠氷は決して裏切ることなどしない。彼女は自分によって救われたと、紫苑は信じていたのだ。
ただ強者と戦うことだけを生きる糧とし、宇宙を彷徨っていた不死の戦士。彼女に新たな生きる目的を与えたのは自分――そう紫苑は思っていたのだ。
だからこそ、視界の中にいたはずの雪宮が姿を消した刹那、紫苑レムは次に起こり得る事を微塵も予見できなかったのだ。
「……まさか、ね」
自分の胸から突き出た氷の刃を見た瞬間、彼女は漠然と自らの“死”を理解し始めた。
「は、ははは……まさか、本当にするとは、ね」
振り向いた紫苑の視線の先――彼女の背後に立つ雪宮は、絞り出すように言葉を紡いだ。
「……止めると、言った」
「この世の全ては、私の、もの……地球も、この力も――」
紫苑レムは、ゆっくりと倒れていった。
いや、雪宮にはそう見えただけだった。紫苑の膝が折れ、上半身が地面につくまでの1秒にも満たない時間が、雪宮には途方にもなく長い時間に思われていたのだ。
「紫苑レム」
雪宮が、その名を呼んだ。
「さようなら」
次の瞬間、紫苑の身体から炎が上がった。
炎は紫苑の肉体を焼き焦がし、ついには黒い灰と銀色の鎧、そして“鍵”だけがそこに残った。
デスフェルは、自らの業火に焼かれて死んだのである。
残された雪宮は、静かにその鍵を拾い上げる。
彼女は、そのちっぽけな石版を握りしめ、ニルと早馴のもとに向かった。
雪宮はふらふらとした足取りだった。思わず手から落としてしまった鍵が、早馴の手に触れた。
鍵は何の光も放たなかった。
「っ!」
突如雪宮は、自分の背後に気配を感じて振り返った。
「どうやら……粛清の手間は省けたようだな」
彼女は全く気付いていなかった。いつの間にか黒い影が、気絶しているニルと愛美の傍に立っていたことに。
「状況は察したようだな、グロルーラ」
「誰」
「それは言えんよ。しかし、大体の察しはつくはずだ」
雪宮は、その人物が持つ、強大な闇の力を感じ取った。そして察した。今の消耗した自分では、奴には勝てないと。
「さすが、歴戦の戦士は引き際をも心得ている」
黒いローブを羽織ったその人物は、雪宮に向かって手を差し出した。
「“鍵”を渡してくれないか?」
「……」
「安心しろ。私は誠実であると自認している。お前が言う通りにしてくれれば、この2人には手を出さずに帰るとしよう」
「……分かった」
雪宮は、鍵を拾い上げ、ローブの人物に向かって投げた。
「ありがとう。賢い者と話すのは楽でいい」
ローブの人物はニルと愛美から離れ、工場の出入り口へ向かっていった。
「さらばグロルーラ。いつか会えることを楽しみにしているぞ」
彼はそう言って、闇の中に消えていった。
―――第34話に続く