―――オペラ座の怪人。
私たちがブロードウェイの劇場で観劇した作品の題名である。
正体を明かせぬままヒロインに恋する怪人ファントム、そしてその怪人の正体を掴まんとする貴族ラウルの間で揺れるヒロインのクリスティーヌ。
私が、人間の本格的な文化芸術作品を直接目にするのは初めてであった。もちろん知識として幾百の作品は頭に入っているが、それは私にとって単なる記号であった。
感情を解する能力に欠ける私は、芸術の素晴らしさを感じることはできない。目の前のものが例え美しいものであっても、それを美しいと感じる“心”を、私は持ち合わせていないのである。
「ニルはどうだった?」
宿泊場所のホテルに向かう途中、他の3人とは少し距離を置いて歩いていた私に、早馴が尋ねてきた。
「とても素晴らしい演劇でした」
「そういうことじゃなくて、どう思った?」
「どう、とは?」
「えっと、そうだな……登場人物のやったことを見て、ニル自身がどう思ったのかなって」
「難しい質問です」
「そうかな?」
「では早馴さんはどう思いました? クリスティーヌの決断を」
「そうだね……でも私は男の子に好かれたことってないからなぁ……よく分かんないかも」
彼女は笑った。
「聞いておいて、私が分かんないって言っちゃ仕方ないよね」
「好かれたこと、無いのですか?」
「な、ないよ……」
彼女が頬を赤らめた。
これまで様々な事件に立ち会い、様々な人間の姿を目にしてきたが、結局理解できない感情ばかりが私の前に現れてきた。家族愛、友情、そして恋愛感情。どれも私にとっては完璧に言語化して理解することが出来なかった。
「やっぱり、こういうのは自分が体験してみないと分からないよね」
「何がですか?」
「何がって、その……恋愛的な気持ち?」
早馴は紅潮させた顔のまま、私を見た。
「えっと、ごめん。変なこと言っちゃった」
「……私も、体験すれば解るのでしょうか?」
「え?」
早馴は目をぱちくりさせて私を見つめた。
「どうしました?」
「え、別に」
「そうですか。それより早馴さん。もう大丈夫ですか?」
「何が?」
「昼間の件です。その、記憶の」
「ああ、うん」
あの時は、何故か零洸が無理やり話を逸らしてしまったが、私は早馴の記憶に関心があった。宇宙人や怪獣に恐怖以上の、怒りに似た感情を抱く彼女の本質が、そこに隠されている気がしたのだ。
しかし早馴は昼間とはうって変わり、明るげな表情で言葉を続けた。
「確かに、思い出したい。でもどこか怖いんだ」
「怖い?」
「何か、思い出したら今の自分が変わっちゃいそうで」
「……なるほど」
「もしかしたら未来の言う通り、思い出さない方がいいのかもしれない。とっても怖くて、生きるために忘れなくちゃいけなかった記憶なのかもしれない」
以前、私は早馴の脳に介入して記憶の一部を消し去った。そのため、二度と彼女の脳を刺激することが出来なくなってしまった。人間の脳は2回目の記憶操作に耐えうるほどの強さを持っていないのだ。
つまり、私の手で彼女の記憶を復元することは不可能なのであり、私は彼女の記憶の秘密を知る手立てが無い、ということだ。
「やっぱり、分かんないよ」
早馴は苦笑いをして、前を向いた。
「あ。もうホテルじゃん」
目の前に現れたのは、かなりの階層があるビルで、大きな看板にGRAND HOTELというネオンの文字が輝いていた。
私たちは学年主任の教師に帰還報告を済ませ、割り当てられた客室に足を運んだ。
「ほぉ……これは満足のいく部屋じゃないか!」
草津は客室の調度品を細かくチェックしながら騒いでいた。
「草津。もうすぐ夕食の時間ですよ」
「……そうだな」
この旅行が始まってからというもの、草津は探るような目つきで私を見ている。いい加減目障りである。
「草津。改めて言わせてもらいますが」
「ほう」
「旅行が始まってからというもの、あなたはどうも私を観察している。いや監視しているように見えます」
「監視、だと?」
「別に私は悪いことをしようだなんて思ってはいませんよ」
「なるほどな……」
正直なところ、彼には私がただの学生ではないという一面を見せてしまった時がある。ガルナ星人アリアとの一件で私は、とても普通の一学生の領分を超えた行動に出ている。しかし私が人間ではないかもしれないと思わせるような節は、確信に至るレベルでは有り得なかったと自覚している。
「食堂に行きながら話そう」
草津は外出を促したが、私は断った。
「どうしても二人きりの時にケリをつけたい……そういうことだな」
「どう受け取って貰ってもかまいません」
もちろん、その通りだ。
もし草津が、私の予想を上回る手掛かりによって私の正体を疑っているのであれば――
私は右手を握りしめた。
「いいだろう。お前に教えてやる」
「ええ」
「俺はお前の親友であるという自負がある。だからこそ、俺はお前に問わねばならないことがある」
「何ですか」
「お前は……」
草津の視線が鋭くなる。
「お前は……愛美のことを好きなのか?」
「……え?」
「好きなのか、と聞いているのだぁぁぁ!!!」
草津が発狂した。
「今日俺は確信したぞ! お前は愛美をいつも見つめている。その瞳は……恋する男!」
「な、何を気持ちの悪いことを……」
「ふっ! 動揺しているな! 図星だな!」
確かに動揺した。
あまりにも杞憂だったと気づき、腰が抜けそうだっただけだ。
「最初はな、お前が何故この俺よりもモテるのか、答えを知りたかったのだ……だが見ているうちに気付いたのだ! お前の、俺への視線の百倍の興味関心が、愛美には注がれている!」
「いや、それは草津に比べれば、見ていて気持ちいいですから」
「し、失礼なぁぁぁ」
ピンポーン
「呼び出しですね」
私は今にも飛び掛からんとする草津を抑えながら、客室のドアを開けた。
「なーに大騒ぎしてやがるんだぁ?」
「樫尾さん。どうも。実は――」
「聞けぇ樫尾! この男はな、愛美に恋しているのだ!」
「やめてください草津!」
「なん、だと……?」
樫尾が固まった。
「お、おいおい……そいつは……めでてェじゃねぇか!」
「ち、違いますってば」
「樫尾、それを認めるのか? 我らが美しきガールフレンドが、こんなチャラ男にアンナことやコンナことをされてしまうのだぞ!」
「そ、そりゃ……男女の仲、だもんな。当然だ」
勝手に話を進めないでほしいのだが……。
「おっと! それより飯の時間だぜ。呼びに来たんだ」
「そうですよね。ほら草津、行きますよ」
「いいだろう! そこで決着をつけてやる!」
私と樫尾は暴れる草津を引っ張りながら、食堂へ向かった。
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――夕食後。
「はぁ……」
シャワーから噴き出る湯が、白い肌を滑り落ちてゆく。
愛美は湯を出したまま、シャワールームの真ん中に立ち尽くしていた。
(お父さん、お母さん)
彼女は声に出さずに呼びかける。
(このままでいいの?)
答えは返ってこない。
(思い出せないままでいいのかな?)
愛美自身、どうしていいか見当もつかなかった。
彼女は蛇口をひねり、湯を止めた。それからシャワールームを出て、水色のバスタオルに身を包んだ。曇りかけた鏡に映る彼女の顔に表情は無かった。
「お待たせ」
バスローブを身に付けた愛美はバスルームのドアを開け、椅子に座って本を読んでいる逢夜乃に声をかけた。
「お帰りなさい。お風呂、どうでした?」
「お風呂ってか、シャワー?」
「日本に帰ったら湯船にゆっくり浸かりたいですわね~。そうだ、今度ご一緒に温泉でも行きませんか? 未来さんもお誘いして」
「あーいいね」
「じゃあ決まりですわっ! 後で未来さんにもお話ししてみますね!」
「うん」
愛美が笑いかけると、逢夜乃もそれに応えて笑みを浮かべた。
「じゃあ、お風呂行ってきますわ」
逢夜乃は小さなポーチをカバンから取り出し、立ち上がった。愛美とすれ違い、彼女はバスルームのドアノブに手をかけた。
「もし温まりたくなったら、入りに来てもかまいませんわよ?」
「何それ、誘ってるのかぁ?」
「そうですわよ~」
「あはは! 逢夜乃のばか」
「ふふっ。ではまた後で」
ドアが閉められる。
愛美は髪をタオルで拭きながら、ベッドに腰掛けた。
その時、客室の呼び出し音が鳴った。
「誰だろう……はーい」
愛美は除き穴からドアの向こう側に立つ人物の顔を確認した。
「こんばんは。愛美ちゃん」
「紫苑先生……こんばんは」
「あのね、ちょっとだけお話があるの。今一人かしら?」
「逢夜乃がお風呂に入っていて、未来はちょっと用事があるってどこかに」
「そう。今大丈夫?」
「お風呂上りなんですけど……それでよければ」
「私は大丈夫よ」
「じゃあ、今開けますね」
愛美はロックを解除し、紫苑レムを客室に招き入れた。
「失礼するわね。あら、本当にお風呂上がり」
愛美は、自分がバスローブ一枚しか身に付けていなかったことを思い出し、恥じらいに頬を染めた。
「ふふっ、可愛い。大丈夫よ。女の子しかいないもの」
「でも……」
「そうだ。大事なお話しする前に、髪を乾かしてあげる」
紫苑は半ば強引に愛美をベッドに座らせ、自分はベッドの傍に立った。
「じゃあ、スイッチオン」
温風が愛美の赤茶色の髪を揺らす。その髪を、紫苑の細い指が優しく撫でた。
「あ、ありがとう、ございます」
「そんな畏まらなくていいのよ? 私こういうの好きだから」
それから5分ほど、紫苑は愛美の髪を乾かし続けた。愛美はその心地よさに若干の眠気を覚え始める。
不意にドライヤーの音が止み、部屋に沈黙が流れた。
「愛美ちゃん」
「何ですか?」
「思い出すのが怖いの?」
愛美が咄嗟に紫苑の方に振り向く。
「先生、今、何て……」
「私、一応愛美ちゃんの先生なのよ? 少しくらいは知っているわ」
「……別に、先生には関係ないです」
愛美の視線が鋭くなる。
「関係なくないわ」
「どうして――」
紫苑は突如、愛美の両肩を掴み、そっとベッドに押し倒した。自身もその勢いで、愛美の横に寝転がった。
「ちょ、先生……」
愛美の顔にかかった乾きかけの髪を、紫苑は愛美の耳にかけた。
「言ったじゃない。私は愛美ちゃんの先生。愛美ちゃんを助けたいの」
愛美は、紫苑の目の端に浮かぶ涙に目を奪われた。
「あなたが何か思い悩んでいること、最初に会った時から察していたわ。何か重荷を心に抱えている気がしたの」
「……」
「辛いのね」
「そんなの……分かんない」
「泣かないで」
紫苑は、愛美の目から溢れた涙を指で拭った。
「泣かなくていの。あなたが辛い思いをする必要なんて無いのよ」
紫苑が愛美を抱きしめる。愛美は紫苑の胸に顔を埋めた。
「愛美ちゃん?」
「分かんない……何も分からないの。辛いのか、悲しいのか……何も分からない。だって、何も覚えてないんだもん……」
小さな嗚咽が漏れて聞こえていた。
「……愛美ちゃん。今あなたは、自分の思い……感情が分からなくなってしまっているのね」
紫苑は愛美の頭を何度も撫でた。
「じゃあ私が、その感情に名前を付けてあげるわ」
「名前?」
そして彼女の手は、愛美の頬に触れた。
「その隠された感情……その名は“憎しみ”よ」
―――その3に続く