「ニル?」
草津について思案していた私を、早馴が不安げに見つめていた。
「そんな怖い顔して、どうしたの?」
「いえ」
最近の私は、どこかおかしい。思考の内容がわずかに表情に出てしまい、それをよく早馴に指摘されている。彼女はどうも、人の表情を読むのが上手い。
「いえ、久しぶりに飛行機に乗ると思ったら、少し緊張――」
「ひぃっ!!」
突然、私の背後で杏城が小さく叫んだ。
「どうしました?杏城さん」
「いえ、いえ。何でもありませんのよ」
杏城は硬い表情でそう答えた。
何故だか皆の様子が少しだけ、いつもと違う。そんな違和感を抱えながら、私の修学旅行は始まった。
全生徒は滞りなく電車に乗り込み、そのまま空港へと向かった。修学旅行は取るに足らない行事だと思っていたが、考えを改めなければならない。
まず興味深かったのは空港だった。私の惑星は高度な文明と知能によって完璧に近いシステムを構築している。それを用いてあらゆる物が管理されているが、人間は違う。不完全な文明、不完全な知能によって支えられるシステムは所々に脆さを露呈している。しかしそれを補おうと、一人一人の個体が努力によって不完全を克服しようとしている。その姿はある意味興味をそそる。こういう努力も人間の“強さ”の一因なのかもしれない。
「レオルトン、早く進んでくれ」
「おっと、そうですね」
私は零洸に背中を押され、初めて人間の飛行機に乗り込んだ。なるほど、非常に窮屈な場所だ。いかにも“移動手段”といった感じである。(ちなみに、私の惑星の移動は空間転移装置を用いる。惑星内の移動なら所要時間は5秒に満たない)
しかも席も狭い。学生に与えられる席ならば仕方無いか。
私は三席が連なっているうちの、真ん中の席だった。左側には早馴、右側には杏城が着席した。
ちなみに私の後ろの席は草津であった。奴の視線は駅から今の今まで、私の背中に突き刺さっていた。
「なんでニルが真ん中なの」
早馴は何故か文句ありげであった。
「逢夜乃の隣がよかったのに。ねー、逢夜乃。そうだ、交換しちゃおっか?」
早馴が楽しげに声をかける。
「……」
しかし、右隣の杏城から返事はなかった。
「逢夜乃、何か暗くない? もしかして……ニル、何かしたの?」
「滅相もありません(何故私を疑うのか)」
「あ、あの……わたくし、忘れてましたわ」
やっと返ってきた杏城の声。しかし、その声は震えていた。
「忘れ物? 私持ってれば貸すけど」
「そ、そうじゃ、なくて……」
『乗客の皆様。間もなく離陸いたしますので、シートベルトを着用願います』
機内アナウンスが流れる。言われたとおりにシートベルトを着けるが、隣に座る杏城は全く動かなかった。
「はぅっ!!」
そして、珍妙な悲鳴を上げた。その上彼女の顔が青ざめている。一体どうしたんだ?
「じ、じじ実は、わたくし……飛行機、苦手でしたの!」
一瞬、私も早馴も黙ってしまった。
「そ、そうだったの!? でもさ、オーストラリア行ったことあるって…」
「その時は船でしたのよっ!! 嫌です! わたくし帰ります!」
「ちょっと、ニル! 逢夜乃を止めて!」
杏城は突然立ち上がり、席を離れようとした。私は仕方なく、彼女の手を握った。
「杏城さん、お気を確かに。大丈夫です。飛行機が落ちることは絶対ありません」
「そんな、こと、分かりませんわ! バードストライクって知ってます? エンジンのファンに鳥が入ってしまうだけでエンジンは止まってしまいますのよ! それだけじゃありませんわ! もしエアジャック犯が潜入していたら大変です! ビルに突っ込むことになったら嫌ですわ!うぅ……」
杏城は今にも泣いてしまいそうだった。普段の気丈さが完全に失われてしまっている。
「大丈夫、落ち着いて」
「あ、え?」
「私の手を握っていてください。そのまま座って」
「は、はい」
彼女は目にいっぱいの涙をためながら、大人しく座った。彼女は強い力で私の右腕を握った。私は一旦立ち上がり、彼女のシートベルトを着けてやった。
「あの……」
「何でしょう?」
「少しだけ、手を握って下さいませんか……?」
「もちろん」
私は彼女の手に、自分の左手を重ねた。少しだけ力を入れて、ぎゅっと。
人間は誰かに手を握っていられると安心すると聞いたことがある。これで大人しくなればいいが。
「……ずるい」
隣から、早馴の小さな声が漏れた。
「はい?」
「何でもないっ」
彼女が勝手にそっぽを向いたので、無視することにした。
「とにかく、杏城さん。深呼吸しましょう」
飛行機は滑走路を走り始めた。間もなく飛ぶはずだ。
「きゃぁっ!」
「杏城さん?」
彼女は、思いきり私の腕にしがみついた。
「ちょっとだけ……このまま……!」
手を握るどころか私の腕にしがみつく始末。この後13時間弱、本当に大丈夫なのだろうか…。
「……レオルトン!」
その時、後ろから草津の憎らしげーーいや怒りの込められた声が聞こえた。
「すー…す…」
離陸後すぐ、杏城は私にしがみ付いたまま眠ってしまった。今も状態は変わらず、私の右腕は完全に拘束されているようなものだ。
「逢夜乃、ぐっすりだね」
左の席に座っている早馴が、愛おしそうに杏城の寝顔に目を向けていた。
「よほど怖かったのでしょう」
閉じた瞼から涙が溢れているが、拭ったりすればまた早馴に「女たらし」と言われかねないので、止めておいた。
「……ニル」
「はい」
「ううん、何でもない」
早馴はそう言って小さくあくびをした。出発してから5時間。眠くなったとしてもおかしくは無い。
そして10分後、やはり早馴も眠りについた。うとうととしているなと思ったら、彼女はすぐに寝息を立て始めた。やはりやることが無いと眠くなるようだ、人間は。
「すー、すー……」
早馴の寝顔を見る。人間にとって、睡眠は非常に重要なものである。睡眠は脳の機能を助けるだけではなく、精神的にも安らぎを与えてくれる。
だから、早馴の眠る表情は安らぎに満ちているのだろうか?
若干の幼さすら感じられるあどけない表情。
――無防備な、唇。
何故か、それに美しさを感じてしまう。この感性は人間と生活するようになってから得たものだろうか。
「ニルぅ……」
「はい?」
「すー、すー……」
寝言か。
「私も……」
ちょっと待て。
いくら寝ているとはいえ、何故早馴までもが私の腕にしがみ付こうとするんだ。
こうして、私の両腕は完全に塞がれてしまった。
それにしてもこの時間は不毛だ。観察対象の学生たちは殆ど寝てしまっているし、この席を動けない以上行動もできない。
「あら、レオルトンくん。まだ寝てなかったの?」
顔を上げると、薄紫色の扇子を仰いでいる紫苑レムの姿が目に入った。
「早く寝ないと、明日疲れちゃうわよ?」
「そろそろ寝ようとしていました。紫苑先生はよろしいのですか?」
「私は見回りしてからよ。それにしても、ここ暑いわよね~」
彼女は扇子をぱたぱたしながら、シャツのボタンを上から二つ外した。
「……ねぇ」
紫苑が屈みこみ、私の席の肘掛けに手をついた。彼女の顔が早馴越しに、ぐっとこちらに近づいてくる。すやすやと眠る早馴のあどけなさと対照的に、大きく胸元をちらつかせる紫苑の妖艶さが際立って映っていた。
「愛美ちゃんとは進展あった?」
彼女は悪戯っぽく微笑んで、私と、隣の早馴の寝顔を見比べながらそう言った。
「何の話です?」
「もぉー、とぼけなくってもいいでしょう? いい加減付き合っちゃえばいいじゃない」
「教師の貴女が、それを言いますか……」
「それとも……もっと積極的な方がお好み?」
紫苑は広げた扇子を使って、私たちと早馴の顔の間を遮った。まるで通路側から、私と紫苑の顔を隠すような形となった。
そして次の瞬間、彼女の唇が私の頬に触れた。
「……からかわないで下さい」
「本気だって言ったら、どうする?」
彼女の吐息が頬をくすぐる。
紫苑レムの真意が、私には何も理解できなかった。
「……なんちゃって」
彼女は扇子を閉じて、身を起こした。
「今のはちょっとした冗談だけど……レオルトンくんと愛美ちゃんがあんまりにお似合いだから、邪魔したくなっちゃいそう」
紫苑は挑戦的な視線を投げかけ、おやすみと言い残して離れて行った。
何がお似合いなのか、その意味はまったく分からない。だがあの女の言うことだ、大した意味は無いのだろう。
さて……まだ起きていると知られると教師たちから何か言われそうだ。
私も試しにやってみるか、睡眠というものを。
「レオルトン」
突如背後から、草津の声がした。周りは眠っている生徒ばかり。ここで下手な話をされても聞こえることは無いが、一体何を話すつもりだ。
「……目的は何ですか?」
「この観察のか?」
「ええ」
「観察対象に話してしまっては意味がないだろう?」
「それもそうですね」
「それにしても、どんな気分だ? この修学旅行は」
草津の真意が分からない以上、こちらからは何も言ってはならない。
「無視、か。いいだろう。一つだけヒントをやる」
「ヒント?」
「ああ。この行為の目的のヒントをな」
草津は小さく笑い、言った。
「お前の持つ能力、そしてその正体をこの目で確かめてやる。誤魔化そうとしても無駄だぞ」
草津の不敵な笑みが、見えずとも私には伝わってきた。
―――その3へ続く