GUYS・JAPAN本部『セイヴァー・ミラージュ』内ディレクションルーム。
「初期対応班と私たちで集めたデータよ。充分過ぎるぐらいね」
隊員たちが円状のテーブルを囲み、その中心にモニターが設置されている。そこに表示されているのは、沙流市の全図である。
「ここからは私たちが主導で、敵を追います」
隊長の星川の言葉に、隊員たちは頷いた。
「サクマ君、説明を」
「あい。このデータによれば、逃走者は1名。宇宙船の不時着に伴って出動した地上部隊の目撃証言が根拠だから、完全に断定はできないやで」
ルームの隅に立ち、手に持ったノートパソコンを操作しながらサクマが続ける。
「逃走者は地図に示された住宅街に侵入後、追手をまいたようだから殆んど足取りがつかめない。しかも、深夜の出来事だから目撃者は無し。しかし初期対応班の報告書には面白い結論が出ているんだよな」
モニターには、地図に代わって文書ファイルの1ページが表示された。
「住宅街近辺に単独潜伏している。または……何者かに匿われている可能性あり?」
ホユイカオル隊員が目をぱちくりさせ、隣に座る日向副隊長に顔を向けた。
「地上部隊の証言によれば、逃走者は人間の女性に酷似し、青く長い髪が特徴だった。そして、奴は手負いだった」
「んじゃ、やっぱり誰かが宇宙人だって知らずに助けたってこと?」
カオルの正面の席に座る未来は、その言葉に緊張しながら、黙って会話に耳を傾けた。
「だとしたら大いに危険だな」
「危険どころじゃないよ、ダディ。だってその宇宙人は……」
カオルは一度俯き、言葉を続けた。
「その宇宙人は……地球を滅ぼしに来たテロリストだよ?」
「狂信宇宙人の異名を持つガルナ星人……8年前、カイラン星人と地球との戦争にも密かに介入していたって噂がある」
サクマは、今度はガルナ星人のデータをモニターに映す。
「神の名の元に、争いを生むものを滅ぼす。それが彼らの目的なんや」
「へぇ……侵略者の絶えない地球をぶっ壊しちまおうってことかよ」
オヤマ隊員は軽口を叩いたが、その表情に余裕は無かった。
「だったら逃がしちゃおけねぇよな、うぃ」
ルーム内に、重苦しい沈黙が流れた。
そんな中、未来は震えるほどの強い力で、自らの拳を握っていた。
「……皆さん。実は重要な報告があります」
そして、未来は口を開いた。
第25話「運命の人」
狂信宇宙人 ガルナ星人 アリア
フィガロ
登場
午後11時、CREW GUYSの作戦は開始された。
沙流市内の住宅地の真ん中に、10人を超える隊員たちが配備され、指示を待っていた。
「こちら日向。対象の住居の包囲を完了」
『ええ。各員はメシアにスタンバイさせてある。オヤマ機とカオル機は周辺空域を飛行させています』
「GIG」
日向は星川隊長との通信を切り、隣に立っている男に指示を出した。男は初期対応班追跡部隊の隊長ヒロ=ワタベである。
「日向副隊長」
ワタベが離れて行ったのと同時に、日向の背後に未来が立った。
「私が突入します」
「それは、あの家が友人の家だからか?」
2人の目の前には、月明かりと街灯の光に薄く照らされた一軒家――草津家が建っている。
「……そうです」
1時間前、未来は自分が調べていたことを隊員たちに告げた。
一介の高校生の家に宇宙人が匿われているというのは、彼らにとってはにわかには信じ難い事実だった。だが草津の人柄と能力、何より未来の証言がその信ぴょう性を高めたのだった。
「そうか。ならば任せよう」
「ありがとうございます、副隊長」
「しかし突入はまだだ。見ろ」
日向は、草津家の2階を指さした。その窓はカーテンで引かれ、ここからでは室内は見えないものの、部屋の電気の光がかすかに漏れていた。
「インターフォンの呼び出しに反応しないのは本当に外出中か。それとも居留守で、突入を待って罠を仕掛けているのか――」
「草津は! ……草津はそんな真似をする男ではありません」
「俺だってそれを願っている」
未来が何か言いかけようとした時、ワタベが戻って来た。
「日向副隊長。草津一兆の携帯電話のGPS情報を調べたところ、沙流市郊外に向かって西に進んでいます。速度からすると、普通乗用車と言ったところです」
「彼がターゲットと一緒の可能性もある。よし、部隊を二つに分ける。君は零洸隊員と共に引き続きここを見張っていてくれ。ここに戻ってくる可能性もあるからな」
「GIG」
ワタベが返事をすると、日向は数人の初期対応班のメンバーを連れて車に乗り込み、GPS情報を追って発進させた。
エンジン音を夕闇の中で響かせるワゴン車の後ろ姿を、未来は複雑な思いで見つめていた。
「……草津」
絞り出されるようにして彼女の口から洩れたその声は、誰の耳に届くことも無く声消え去った。
翌日の午前1時を回り、草津宅を警戒する初期対応班員たちは緊張の糸を緩めていた。そんな中未来は、草津宅の前に停められた車の中でその鋭い眼光を保ち続け、暗闇の中で草津宅の玄関の扉を凝視していた。
その時、未来の持つ携帯端末が発信音を放った。
「こちら零洸」
『こちら日向! してやられたっ』
「どういう意味ですか?」
『携帯がトラックの車体の下に張り付けられていた。どうやらまかれてしまったようだ』
「あいつ…!!」
『大した少年だ、草津一兆は』
「こちらは邸宅内に突入します」
『分かった。くれぐれも警戒してくれ』
未来は通話を切り、車のドアを勢いよく開けて外に飛び出した。彼女はそのまま草津宅の庭へ回り、躊躇することなく窓を割って中に侵入した。
未来は家全体に人の気配の無いことを察知したものの、2階へ上がり、一番近くの扉を開いた。そこは電気が付けられたままになった草津の部屋だった。
「零洸隊員! 星川隊長より伝言です。現場は我々初期班に任せ、早急に本部へ帰還せよとの事です」
遅れて駆けつけたワタベが未来に告げる。未来は握りしめた拳をそのままに、悔しさの込められた声で返事をした。
======================================
私がその事実を知ったのは、昨晩午後7時にかかってきた草津からの電話によってであった。着信相手が相手なだけに、またふざけたことをぬかすのかもしれないと思い、半分呆れながら電話を耳に当てた。しかし、そこから聞こえて来た草津の声からは、何か切迫したものを感じ取った。
それから間もなく、奴は一人の少女と共に私の家に現れた。私はアリアと呼ばれた少女を私の家に入れ、家の外で草津から事情を聞いた。
「にわかには信じ難いですが……どうやら冗談ではない様ですね」
草津が連れて来た女を見た瞬間、奴の話が本当だと確信した。
――青い長い髪の女。それは3日前にGUYSのコンピュータに潜入した際に得た“ガルナ星人”の情報と一致していた。
もちろん草津も、アリアが宇宙人であることに気づいていた。アリアが現れた状況、とメディアの報道、零洸の動き……答えにたどり着くヒントは多すぎるくらいだろう。
「それで草津、あなたは彼女をGUYSから庇おうというわけですね?」
「そうだ」
「しかし彼女は……宇宙人かもしれませんよ」
「アリアはそれを知らない。彼女は何も覚えてはいないんだ」
「それが嘘だとしたら、あなたは騙されていることになります」
「そんなことは百も承知だ。だがな、俺は目の前の相手は善良かそうでないか、見極められる自信はある」
この私を前にしてもそれを言えるのか――そんな言葉が私の心にふと浮かんだ。
「草津。私はあなたの友人として出来る限りのことをすると約束します。しかし、それは彼女次第です」
「やはり疑わざるを得ないか、彼女を」
「彼女は宇宙人です。地球に来る宇宙人など……この地球を侵略するか、滅ぼそうとしているに決まっています。ですから、まずは彼女と話をさせてください」
私は草津の返事を待たず、玄関の扉を開いた。
私の姿を認めた彼女の眼には、明確で強い警戒の色が浮かんでいた。
「私は草津の友人のニル・レオルトンです」
「あなたがニル?」
「そうですが」
彼女の表情が、若干柔らかくなった。
「カズトの友達、でしょう? カズトに聞いたわ。キザなライバルだって」
「そ、そうですか」
確かに、アリアという少女は一見ただの人間にしか思えない。むしろこれで腹の内に黒い陰謀が潜んでいるとしたら、大した役者である。
「アリアさん、でしたね?」
「はい」
彼女はほとんど警戒を緩めて私を見つめた。
「アリアさん、草津は頼れる男です。安心して彼に付いて行くと良いです。それに、彼には心強い味方が居ます。もしもの時は……必ず彼を助けるでしょう」
私は、草津に手を出せばただでは済まないと釘を打ったつもりだったが、アリアは要領を得ないと言った感じだった。
「満足したか?」
草津が扉を開けて入って来て、後ろから声をかける。
「はい。それで、一体どういった計画です? 私の役目を教えてください」
草津は一瞬驚いたように目を大きくしたが、すぐに平静を取り戻した。それから私たち2人はもう一度外に出て、草津の口から計画の全容が語られた。
「――というわけだ」
「なるほど。これならGUYSを出し抜けるかもしれない」
「お前には犯罪の片棒を担がせることになってしまったな。本当に済まない」
草津はいつに無く、うやうやしく頭を下げた。
「気にしないでください。あなたの奇行に巻き込まれるのは慣れました」
「ははっ。言ってくれるなよ」
草津は頭を上げた。
「落ち着いたら、何か礼をしなければな」
「期待しています」
「任せてくれ」
それから2時間半後、草津の計画は実行された。
私は、草津とアリアを私の家に残して出た。草津に渡された服で変装し、彼の携帯を所持して、だ。それから私は真っ直ぐ駅に向かい、タクシーに乗車して適当な地名を運転手に告げた。
その車内で私は草津の携帯電話の電源を入れた。やがてこのタクシーが数台の車に追われていることに気付いた。GUYSの追跡部隊が、私が持つ草津の携帯電話のGPS情報を元に追って来ていることは明白であった。私は複雑な路地にタクシーを誘導し、その途中でタクシーを降りた。
それからは、壁を登ったり屋根を走ったり、多少の無茶をしながら一軒のコンビニに到着した。
そこで私は、沙流市とは遠く離れた地名のナンバーのトラックを見つけた。この近くには高速道路のICもある。私はすぐさま決断し、コンビニでガムテープを購入した。
全神経を追手の察知に注ぎながら、私は草津の携帯電話をトラックの車体の下に、ガムテープで固定した。その作業が終わるのと、追手がコンビニに迫って来たのは殆んど同時であった。
私は別の車の陰に隠れ、トラックが発車するのを見送った。追手はコンビニに入った後、すぐさま車に乗り込んでいた。どうやら連中は罠にはまったらしい。彼らはトラックに取りつけられた携帯電話の位置情報を基に追跡を続けるだろう。そうなれば、たとえ私がコンビニで雑誌を立ち読みしていたとしても、彼らにとって、私は未だ逃げ続けている存在なのだ。
私は人通りの少ない路地や裏道を通りながら、適当なところでタクシーを拾って帰宅した。家の中には誰もおらず、「行ってくる」と書かれた草津の置手紙だけが残されていた。
さて。
私は家に置いておいた自分の携帯電話を開いた。その画面には、地図と発信器の位置情報が表示されている。それは私が家を出る前に、密かにアリアの靴の裏と、草津に貸した服に仕掛けた発信器である。途中で服を捨てられてしまえばそれまでだが、追手の心配の無くなった彼らがその行動を取るとは考えにくい。
私は自分の服に着替えてから、時刻を確認した。
午前2時。そろそろ連中が強制確保に乗り出してもいい頃だ。今や携帯のトリックがばれようと問題は無い。こうなってしまえば捜索の糸口は途切れたと言っていい。唯一の情報であった位置情報によって散々振る舞わされるとは、GUYSには気の毒と言わざるを得ない。
私が椅子に腰を下ろした時、机の上に置いてある携帯電話が鳴った。
「もしもし」
『夜分に済まない』
相手は零洸だった。
早速私を疑うか。まぁ、草津が他人にアリアについて話すとすれば、その相手は私だと睨んだのだろう。
「大丈夫ですよ。何か用事ですか?」
『率直に聞く。草津の居場所を知らないか?』
「いえ、最近会っていませんよ」
零洸。私がお前に、草津のことを話すのはもう少し先だ。
「草津がどうかしましたか? 貴女が探しているということは、まさか宇宙人関連の事件に巻き込まれたとか?」
『……いや、違うんだ。それじゃ、また明日』
一方的な調子で通話を切られてしまった。それ程に、彼女には余裕が無いのだろう。
さぁ、お膳立ては完璧だ。
後は、草津がどう立ち回るか。それが問題だ。
夜が明け、午前7時40分。私はいつも通りに通学路を歩いている。
昨夜にはGUYSと宇宙人の“攻防”があったのにもかかわらず、現在は緩慢な空気がこの街を支配していた。
そんな空気を切り裂くようにして、彼女は私の前に現れた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
零洸は制服に身を包み、校門の端に立っていた。
「待ち合わせですか?」
「キミを待っていたんだ」
「そうでしたか」
私と零洸は校門から先を、2人で並んで歩いた。
「どこへ行く気ですか? そちらは昇降口じゃありません」
昇降口へ向かって歩く生徒の列を、零洸は無言で抜けた。彼女が私に話があることは明らかだった。私はそれ以上何も言わずに、彼女に続いて歩いた。
やがて体育館裏に付いたところで、彼女はこちらに振り返り、その鋭い目線を私に向けた。
「草津は、地球に侵入した宇宙人を庇い、GUYSの追跡部隊から逃れた」
唐突な彼女の言葉に、私は多少の驚きを表して見せた。それが彼女にどう映ったかは分からないが、彼女は気にするまでも無く言葉を続ける。
「ガルナ星人。奴らは地球に、惑星を破壊するほどの威力を持つ爆弾を持ち込んだ。その目的は……分かるだろう」
「争いが起こるなら、いっそ壊してしまえ。ガルナ星人の高尚な精神ですね」
「そのガルナ星人を、草津は何も知らずに庇っているんだ!」
徐々に、彼女の言葉に熱がこもり始めた。
「もう一度聞く。君は何か知らないか?」
「……」
「聞いているのか!?」
零洸の声を無視したまま、私はタブレット端末の画面を彼女に向けた。
「……それは?」
「これは草津に取りつけた発信器の位置情報です。今頃新幹線に乗ってどこかへ行くつもりでしょう」
「やはり知っていたんだな」
「はい。彼女がガルナ星人だということも知っています。しかし、彼女はどうやら記憶を失っているようです」
「記憶を?」
「追手を振り切った後、草津の家に居座ったことにも説明がつきます。だからと言って油断はできません。彼女の仲間が別に居る可能性もあります」
「なら破壊工作は、まだ確認できていない仲間が行っている……そういう可能性もあるのか?」
「そうも考えましたが、それにしては何も起こらない。連中は惑星破壊に3日もかける必要はありませんからね。おそらく、記憶を失った彼女に鍵があるはずです」
私はタブレットを鞄にしまい、彼女に背を向けた。
「私は草津を追います。もし本当に仲間が居るとすれば、草津と彼女は格好の餌です。もし目の前に現れれば、私が殺します」
「私も行く」
零洸は、私の前に回り込んで、私の肩を掴んだ。
「零洸さんが行きたいというのであれば」
「……一つ聞かせてくれ。どうして草津たちの逃亡に加担したんだ?」
私は立ち止った。
「昨日、草津の携帯を持って逃げ回ったのは君だろう? しかしその行動の理由が分からない。もしガルナ星人の工作を阻止したいなら……その場で殺せばよかった」
彼女の目からは、怒りとは違った感情――純粋な疑念が伝わって来た。
「友人の頼みを、少しでも聞き入れたかったのです」
「……本当に、その言葉を信じていいんだな」
「はい」
彼女はそれ以上聞き及ばず、私の肩から手を離した。
「では行きましょう。学園には連絡を入れておきます」
私は嘘をついた。
本当は、草津の――人間の底力を試してみたかったのだ。
人間が大事な存在を守ろうとする時、はたしてどれ程の心の強さを見せるのか。
それに興味があっただけなのだ。
========================================
平日、開園直後の遊園地に人は多くなかった。その中でも、高校生2人組はある意味目立ってはいたが、それを別段珍しいと見る者は多くなかった。
「ふはははは!! こうやって人の居ない時に来る遊園地は良いものだ!」
少なくとも、ここで彼が叫ばなければ、であったが。
「カズト、ガッコウはいいの?」
「昨日言ったろう、休みだよ。そんなことより、今日はとことん楽しもうじゃないか」
不安げに問うアリアに笑顔を見せ、草津は彼女の手を取った。
2人は片っ端からアトラクションを体験した。本来は行列ができるジェットコースターも、今日は待つこと無しで乗ることが出来る。2人が全アトラクションを制覇するのは、もはや時間の問題だった。
「回る~!! 楽しいよ、これ!!」
「アリア、一度止めてくれ!! このままじゃ……吐くっ!」
「え? なあに?」
高速回転を続けたコーヒーカップの後、草津は青い顔をしながらアリアの肩を借りていた。
「うっぷ……よくもまぁ、平気だな」
「えへへ。カズトったら、ひ弱ね」
「ふん! これしきで俺がへこたれるものか!」
「その意気!で、次は何に乗るの?」
「そ、そうだな……取りあえず休もう。そろそろ昼食だしな」
「うんっ」
2人は遊園地の中にあるレストランに入った。やはりここも、昼時だというのに客は多くなかった。
「ふぅ……そろそろ落ち着いてきたな」
「ごめんね。さっきはやりすぎちゃった」
「まぁ、アリアが楽しかったなら万事よしとしよう。さぁ、何が食べたい?」
「カズトの好きなものでいい」
「いや、アリアが食べたいものを」
「いいの。カズトが食べたいものを、食べたいの」
アリアが自分の意見を曲げないと分かった草津は、メニューに目を通すと、迷い無くウェイトレスを呼んだ。彼はオムライス二つを注文した。
「カズト、オムライスが好きなの?」
「そうだ。とは言っても、自分が作るオムライスが一番だが」
「私も、今まで食べた中でカズトのオムライスが一番好き」
「そうだろう?」
勝ち誇った笑みを浮かべる一方、草津は複雑な心境であった。
彼女には、回想できる思い出は少ない。草津と会う以前――これまでの人生の大半の記憶は失われてしまっているのだ。
もし彼女が望むなら、草津は記憶を取り戻す手伝いをしたいと思っていたが、その記憶が自分とアリアを引き裂いてしまうのではないかという恐れも大きかった。
――彼女は、人間ではない。
彼女の記憶は、草津とアリアを引き裂くには十分な理由たりえるのだ。
「アリア、忘れてしまった記憶を取り戻したいか?」
それでも、草津はそう問いかけた。
「……別に、そこまでじゃない。カズトは、私に思いだしてほしい?」
「ああ、もちろんだ」
草津はあらゆる不安を振り切り、そう答えた。
「俺には、記憶を失った者の気持ちは分からない。それがどれだけ恐ろしいことか理解出来ない。それでも、俺の言葉を聞くか?」
「……うん」
「分かった。俺は、失っていい記憶があるとは思えない。それは個人にとって間違いなく大切なもののはずだ。たとえその記憶が、その本人にとって忘れたいことであってもだ」
「もし……私が記憶を取り戻して、カズトと一緒に居られなくなっても?」
この時、草津は痛感した。
彼女も、自分と同様の恐怖を抱いていたのだ。
失った記憶への恐怖――自分たちを引き裂く、恐怖を。
「それでもだ。アリアの人生にとって、俺と一緒だった時間はあまりに短い。それをアリアの“全て”にしてほしくは無い」
「……そんなの、勝手よ」
アリアは半ば睨むように、草津を見つめた。
「私は思い出さなくたっていい」
「どうして」
「感じるの……。私、記憶を取り戻したら、カズトを一緒に居られない気がする……」
「……俺だって、そうなることが怖くて仕方がない。しかし、もしアリアが記憶を取り戻しても、アリアは俺と一緒に居られる気がするんだ」
「……自信あるのね」
「もちろんだ。何故ならアリアは――」
「お待たせしました。オムライスお二つです」
草津の言葉を遮るようにして、店員がオムライスを運んできた。
「わぁ……おいしそう」
アリアは目の前のオムライスに目を輝かせている。草津は、先の言葉を胸の奥にしまった。
「で、さっき何言おうとしたの?」
オムライスを半分ほど食べ進んだところで、不意にアリアが言った。
「さっき、とは?」
「オムライスが来る直前。アリアは、って言ったでしょう?」
「……忘れたな」
「そっか。それと、さっきから何見てるの?窓の外に何かある?」
「いや。遊園地なんて久しぶりだと思っていただけだ。って、おいおいアリア」
「ん?」
「ほっぺに付いているぞ、ケチャップ」
「え?」
アリアが卓上のナプキンを手に取る前に、草津が手元のナプキンでアリアの頬に付いたケチャップをふき取った。
「あ、ありがと」
「ははっ。可愛い顔を見れたこっちが礼を言うべきかもな」
「それ、からかってるの!?」
「怒るな怒るな」
恥ずかしさで顔を真っ赤にしたアリアをなだめながら、草津はオムライスを食べ進めた。
「ふん。やはり俺のオムライスの方が美味いな」
それから2時間後、地上60メートルの高さ、観覧車の頂上に近づきながら、ゴンドラはゆったりと風に揺られていた。
「綺麗……」
草津の正面、夜景の光に照らされたアリアの瞳は、初めて経験する美しさに輝いていた。
「あっちの方向が、俺たちの住んでいる家だ」
しかし彼の眼には、その美しい夜景は映っていない。彼は嫌な予感を頭の中から消し去ろうと努力しつつも、アリアの姿を眼に焼き付けようと、彼女の横顔をじっと見つめていた。
「なに? 私の顔に何かついてる?」
「いや、違うんだ。ほら、もうすぐ頂上に到達するぞ」
「まだ高くなるの?」
「ああ。もっと遠くを見られる」
「……もう充分綺麗なのに」
「高いところは苦手か?」
「ちょっとだけ、怖い」
――こんなか弱い彼女が宇宙人? そんな馬鹿なことが本当にあるのか?
動かぬ事実を、草津は必死に否定しようとした。しかしそれは徒労に終わり、結局草津はこの後どう逃げるかという算段に心をとらわれたのだった。
「……何を考えてるの?」
不意のアリアの問いに、草津は一瞬たじろいだ。
「アリアの横顔が綺麗だと思っていたんだ」
「……嘘だよ」
アリアは草津をじっと見つめた後、ぼそりと呟いた。
「どうしてそう思う?」
「だって、カズトは私を見てないから」
「いや、見ているよ」
「見てない」
アリアは反論を許さぬ語気で言った。
「カズト、何か私に隠し事をしているでしょ? ずっと何かを思い悩んでる」
「誤解だ」
「ううん。カズトの目線は……ずっと遠くを見てた」
草津は言葉に窮した。
「私は、もっと楽しむカズトが見たいの」
「……すまなかった。どうやら俺は一番大事なことを忘れていたようだ。今日は、アリアと最高の思い出を作るつもりだったのにな」
草津は、その言葉とともに覚悟した。
もう最後かもしれない、と。
それはアリアも同様だった。お互いに、自分たちがこれ以上2人ではいられないのかもしれない。この小さなゴンドラの、2人きりの小さな空間が最後かもしれない。
「カズト、隣に座ってもいい?」
「ああ」
アリアは立ち上がって草津の隣に移ると、その頭を草津の肩に預けた。ほのかなシャンプーの香りが、草津の鼻をくすぐった。
そして彼女のやわらかい両の手の平が、草津の右手を包み込んだ。
「……こういう気持ち、言葉にできないの。よく分からないから。でも手と手を触れ合っていると、とても優しくて、幸せな気持ちになれる」
「俺も一緒だ。こうしているだけで、幸せだ」
草津は空いた左の手を、アリアの両手の上に乗せた。
「一緒だね」
アリアが微笑みかけ、
「ああ」
草津がそう答えた。
ゴンドラは、ゆっくりと下降を始めた。
二人だけの世界は、ゆっくりと終わりに向かって進んでいった。
―――後編に続く