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「……」
玄関の扉を開き、逢夜乃は黙ったまま、真っ直ぐ階段を上って自分の部屋に向かった。「ただいま」の一言を言わなくなって、どのくらい過ぎたか――彼女は考えもしなかった。
彼女は部屋に入ってドアを閉めるなり鞄を床に放り投げる。制服を脱いで下着姿になると、飛び込むようにベッドに倒れ込んだ。
「……」
普段は優等生らしく振る舞っている逢夜乃だが、一人でいるときは緊張の糸が切れたようにガサツな行動に出る時がある。下着姿のまま動こうとしない今の状況が良い例であった。
「ふわぁ~」
口も押さえず大あくびをして、逢夜乃は目を擦った。このまま寝てしまおうか、きちんとご飯を食べようか――彼女は迷った末、そのまま寝ることを決め込んだ。
ガシャーン!!
「っ!?」
部屋の外――下の階からけたたましい騒音が響いた。これは庭にある植木鉢が割れた音だと、逢夜乃はすぐに判断した。
特別風が強いわけではない。ましてや何か、例えばボールなどが飛んでくるような場所ではない。彼女は家着を身に付け、警戒心を強く持って部屋を出た。
逢夜乃はキッチンからフライパンを手にした。これ以上に武器になりそうな物を彼女は見つけられなかったのだ。彼女は玄関の扉に手をかけた。
「誰っ!!」
薄闇の庭の木の陰――逢夜乃は見た。
「……だ、誰?」
その影が人だと分かった瞬間、逢夜乃は語気を弱めた。もし犯罪者の類ならば、という不安がそうさせたのだ。
彼女はフライパンをバットの様に構えながら歩を進める。なんとも情けない光景ではあるが、状況は切迫していた。
「助けてっ!!」
「きゃっ!」
木の陰から、飛び出してきた何者かに、逢夜乃は思わず腰を抜かして尻もちをついた。自分が怖がらせてしまっていることにも気付かずに、小さな少年は逢夜乃のもとに駆け寄った。
「こ、子供……?」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「リュール!」
少年と同じく、木の陰から出てきたのは、それもまた普通の人間と思わしき青年だった。
ただ2人とも、宇宙服に似て、それを少し細身にしたようなスーツに身を包んでいた。
逢夜乃は目をぱちくりさせてその光景を見つめた。
「だ、誰ですの?」
しかし口調がいつも通りになるくらいには落ち着いていた。それは2人に敵意が無さそうだと判断したこともあるが、何よりも、リュールと呼ばれた少年に理由があった。
「お姉ちゃん、ごめんね。脅かしちゃって」
「え、えっと……どちら様?」
「驚かせてしまって申し訳――まずい!」
男は何かを察知したように背後に目をやる。そして、その拳を固く握りしめて逢夜乃に詰め寄った。
「ひっ!」
「お願いがあります。人間のお嬢さん。息子を、リュールをここで匿ってもらえませんか?」
「か、匿うって……追われていますの?」
「はい」
その切迫した様子が、男の話に信憑性を持たせていた。逢夜乃もそれを信じたものの、それに巻き込まれる気は一切なかった。
「そんなことできるわけ――」
しかし、逢夜乃は言葉を詰まらせた。彼女はリュールの顔を見た瞬間、口をつぐんだのだった。
彼は弱々しい光を眼に宿し、不安げに、しかし真っ直ぐに逢夜乃を見つめていた。
「……分かりました」
「お姉ちゃん、本当にいいの?」
「え、ええ。とにかく……息子さんは私が……護ります」
「本当にありがとう。私は敵を巻いたら、チャンスを見つけてすぐに戻ってきます。お嬢さんを危険には巻き込みません。では」
男が庭を囲む塀を軽々と越えていったことで、一連の嵐のような出来事は終わりを迎えた。
「……父ちゃん」
「……」
リュールの寂しげな表情。それを、逢夜乃は自分と重ね合わせた。
いつであったか自分も、こうやって行ってしまう背中を見つめていたのだろう。逢夜乃はそう思わさざるを得なかった。
第20話「家族ごっこ」
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「カレーのルー、あとニンジンと……」
「じゃがいもっ!」
「そうですね」
日曜日ということで買い物出た私は、家の前でばったり出くわした長瀬と共にスーパーに来ていた。
今日の夕食は、私が長瀬に振る舞うと強制的に決められてしまったので、彼女の要望通りにカレーライスの材料を買い集めている。
「あれ? あそこにいるのって、愛美センパイじゃないですか?」
「早馴さん?」
スーパーの外に設置されたベンチに、腰を下ろしてうなだれている早馴が居た。
「あ、今表情変わりましたねっ! なんか……獲物を見つけた目になりました!!」
「なってません。だいたい獲物って……」
「だって、ニルセンパイって愛美センパイのこと、いっつも狙ってるじゃないですかぁ~」
「狙ってません」
「あぁっ! 私、用事思い出して今すぐ帰らないとダメになっちゃいました!!じゃあ、買い物は愛美さんと2人っきりでお願いしますね! それじゃ、すぃ~ゆぅ~!」
彼女は手に持っていたタマネギを私に押し付けて、出口の方へ直行していった。
「肉はポークで――って、行ってしまいましたか」
一人残された私は、取りあえず買い物を続行した。
必要な品物を買い揃えてスーパーを出ると、まだ早馴はベンチに座っていた。今日は割と肌寒い日であるというのに。
「早馴さん」
「あれ……ニル」
彼女は寝ていたわけではないようだ。気落ちした様子で足元のコンクリートに目線を落としていた。
「ニル、ちょっと話があるから座って」
「あ、はい」
早馴は言葉の通り、真剣な面持ちだった。
「……逢夜乃に子供がいるみたい」
「……はい?」
「ホントだって! さっきスーパーで見たの! 知らない男の子と手を繋ぎながらお店を回って、色々買い物してた……」
「落ち着いてください。その子が杏城さんのお子さんである確証はありません」
もし本当なら、14歳の母以上に若い母ではないか。あの杏城の性格から考えてそれは無いだろうと思うが。
「兄弟とか親戚、あるいは単なる友人同士かもしれません」
「そ、そっかぁ。逢夜乃は一人っ子だけど、親戚とかは普通にあり得るよね。はぁ……私ばっかみたい」
「落ち着いてくれましたか」
「うん。って、何ニヤニヤしてんの!?」
「にやにや? 私がですか?」
一応自分の顔に触れてはみるが……正直分からない。
「へぇ、そうやって私をバカにしてるんだ……」
「えっと、すみません」
「もうニルとなんて話さない」
「お願いですから許して下さい。この通りです」
私はうやうやしく頭を下げる。すると、早馴は急にけらけらと笑いだした。
「あははっ! 冗談だってば」
早馴は急に、頭を上げた私に向かって手を伸ばし、額を小突いた。
「ばーか」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。その時私の目に、彼女に首に下がっているペンダントが目に入った。
「ん?」
早馴は私の目線に気付いたようで、同じようにペンダントに目線を落とした。
それは不思議な輝きをしていた。人間には、高価な宝石を身につけて己が権力を誇示するという奇妙な風習があるらしいが、そのペンダントの輝きにはそういった卑しさを感じない。
そしてそれは、早馴が身体を動かす度に変わる輝きの印象は、私の長い人生の中でも感じたことが無いものだった。
「どうしたの?」
「素敵なペンダントですね。早馴さんにお似合いです」
「なんか、そういうニルにもう慣れちゃった自分がちょっと怖い……」
「どういう意味です?」
「何でも無いー。これね、お母さんの形見なんだって」
「形見?」
「あ、いや……何でも無いの。何でも、無い」
彼女は誤魔化すように、私に背を向けた。しかしそうする前の一瞬だけ、彼女は寂しげな表情を見せた。
私は話題を変えることにした。
「早馴さん。実際に彼女に聞いてみてはどうでしょう?」
「男の子のこと?」
彼女はこちらを振り向き、それから斜め上に視線を向けた。その思案顔には、先程の陰鬱さは無い。
「いいや、止めとく。聞かれたくない事だったら、逢夜乃に嫌な思いさせちゃうし。じゃ、私帰るね」
「私も帰ります。途中までご一緒しましょう」
「うん。じゃあ、行こっ」
それから10分ほど私たちは肩を並べて歩いた。
別れ際、彼女は笑って手を振った。
お互いに背を向けて歩き出した時も、彼女の視線はまだ私に向けられている気がした。
明くる日、私が席に着くころには既に早馴がいた。
「おはようございます」
「おはよ。あのさ、昨日のこと逢夜乃に言ってないよね?」
「もちろんです」
私がそう答えると、早馴は杏城の席を見つめた。
「逢夜乃、来るの遅いなって。もしかしてニルがしゃべって、それを気にしちゃったのかもって。なんか、疑ったみたいでごめん……」
「いえ。しかし気になりますね。確かにいつもより――」
「うわぁ〜ここがガッコウ? すげー! すげー!」
小さな少年の声だった。その大声と共に、小さな身体が弾丸のような勢いで教室の入り口を通り抜け、私の近くまでやって来た。早馴は私の肩を叩き「昨日逢夜乃と一緒にいた子!」と耳打ちしてきた。
「リュール! 走ってはいけないと言いましたのに……」
少年に遅れて教室に入った杏城は、あせあせと少年まで駆け寄った。
「いいですこと? ここは勉強をする場所ですの。騒いだらいけませんのよ?」
「アヤねーちゃんがそう言うなら、そうするよ」
少しばつが悪そうな表情をする少年の頭を、杏城は優しく撫でた。
「良い子ですのね。わたくし嬉しいです」
「へへへっ」
その様子を見て唖然としているのは、私の隣にいる早馴だけではない。教室中の視線が逢夜乃と少年に注がれていた。
「あ、ああ逢夜乃。その子は?」
そんなクラスメートを代表するように、早馴は恐る恐る尋ねた。彼女の質問に、杏城ははっとして周りを見渡す。
「え、えぇっと……こ、この子は、わたくしの――」
「へぇ~。随分若いママなのねー」
「ま、ママ!? 誰の子だぁぁっ!!」
やはり事態を引っかき回すのは、百夜と草津だった。百夜は自分の席で髪の毛の先をいじりながら笑っている。草津はというと、床に寝そべり、この世の終わりを見ているような顔で天を仰いでいる。
「うそぉ……逢夜乃ちゃん、この年でママ?」
「ヤンママどころの話じゃないね……」
「お嬢さまってのは、色々すげぇな」
驚くクラスメートたちに、杏城は急いで弁解を始めた。
「勘違いですわっ! この子はわたくしの……いとこです。ですわね?」
「うんっ! リュールっていいます!」
少年は慣れない動作で深々と礼をした。
クラスメートたちは未だあっけにとられたままだったが、少年の名前を聞くと杏城が母親であるという考えを捨ててため息を漏らした。
「び、びっくりしたぁ……」
同様に安堵感によって、早馴は自分の席に戻り、脱力したように机に突っ伏した。
「みんなおはよう――な、なんだこの騒ぎは」
床に倒れた草津を起こそうとしている男子たちを見て、零洸は訝しげに教室を見渡したが、やがてリュール少年の存在を認めるとますます眉間にしわを寄せた。
「未来さん、お騒がせして申し訳ありません」
「その子は?」
「わたくしの親戚のリュールです」
「それは分かったが、どうしてここに来ているんだ?」
零洸は不思議そうに杏城と顔を見合わせた。
「はっ! わ、わたくしとしたことが……口実を考えていませんでしたわ…」
彼女にしては不用意なものだ。杏城は思い出したようにあたふたし始める。
「家に置いてこれなかったのか?」
「一人にさせておくのは不安ですから……」
「じゃあ、良いんじゃないか? 一人にさせて何かあったら困るからな」
零洸は少年に歩み寄り、その手を少年の頭の上にポンと乗せた。
「良い子にしているんだぞ?」
「あ、うん」
「どうした?」
「ううん! 優しいんだね、ミクねーちゃん」
「ああ。ありがとう」
そのやりとりは何となく微笑ましかった。
私にとって敵であり、いずれ殺し合いをする相手でもある零洸の、慈愛に満ちた穏やかな表情を見られたからであろうか。
―――後編に続く