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「早坂のやつ、愛美から鍵を返してもらうの忘れててな。2人で追っかけて、3人で鍵を返しに行ったんだよなァ」
樫尾は、懐かしそうに夕焼け空を見上げた。
「レオルトン?」
「3人が話している姿を想像していました」
「そうかそうか」
「それが早馴さんと早坂くんの、いわゆる初恋だったわけですね」
「そういうことじゃねェ!」
「違いましたか?」
「早坂とは、別に何もねェよ。ただ、愛美にとっては初めての友達だったかもしれねェな」
「随分大人びていたんですね、早馴さん」
「大人びてたと言うか……冷めてたのかもな」
幼い頃に両親を失っていた早馴――私は小さな彼女を思い浮かべた。
「それがきっかけだったのかねェ……たまに教室で3人で話すようになった。愛美は他の連中とはあんまり馴染まなかった気がするぜ」
「しかし樫尾さんや、早坂くんとは仲良くなったのですね」
「早坂とは、部活終わりによく一緒だったみたいでな。俺は何と言うか――」
樫尾は少しの間何も言わず、やがてぽつりと言った。
「放っておけなかったのかもな。って、話しが逸れちまった。続きを話すぜ」
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「新人大会?」
「そう!愛美も選手候補だよ」
いつも通りに愛美が部活にやって来ると、待ち受けていたように先輩が言った。
「でも私、1年ですし……」
「関係ないって! 愛美がいればうちのチーム、もっと強くなる気がする」
愛美は、気の無いような返事をしつつも、内心は嬉しかった。元々バスケットは大好きというわけでもなかったが、身体を動かしている間は色々なことを忘れることができた。家族のこと、記憶のことを。
「まぁ、頑張ります」
その日から、愛美は益々バスケットボールに打ちこむことになった。
まるで逃げるように――前だけを向いてひたすら走るように、バスケだけを見て、彼女は走っていた。
「早馴!!」
ある日の練習終わり、体育館を出ようとしたところで愛美は、後ろから呼び止められた。
「吉澤先輩。えっと、お疲れさまです」
2年生の吉澤は、男子バスケット部の3年生2人と一緒だった。
「今日のゲーム、あんたウチの足思いっきり踏んだよね?」
「ごめんなさい。マーク外そうとしてて……」
「ふーん」
吉澤は薄ら笑いを浮かべながら、愛美に近づく。
「なに? ウチのことケガさせようとしてたわけ?」
「ち、違います!」
「ウチがケガしちゃえば、アンタ、メンバー入り決まりだもんね。同じポジションだし」
「そんなの関係ないです!」
「ウソだね。アンタ、1年と3年からちやほやされて調子に乗ってるんでしょ?」
「……乗ってません」
愛美は、吉澤に向けていた視線を逸らし、背中を向けた。
「もう帰ります」
「っ!お前――」
「早馴さん?」
早馴と吉澤の目が、別の方向に向けられる。
「早坂、くん?」
「早馴さん、どうかした?」
早坂は愛美を気遣うような言葉をかけつつも、その眼光は吉澤たち3人を捉えていた。
「何だよ、何見てんだよ」
男子生徒の1人が、一歩踏み出す。
「おい、止めとけって」
もう一人の男子が止めに入る。
「帰ろう、早馴さん」
早坂は愛美の手を取り、2人は足早にその場を去った。校門を抜けて、少し歩いたところで早坂が口を開いた。
「……あの人たち、何か怖かったね」
「……うん」
「とにかく、早く帰ろ――」
早坂は、顔を真っ赤にして固まった。
愛美はそれを不審そうに見つめたが、やがて気づいた。
「ご、ごめん!」
早坂は、握ったままだった愛美の手を離す。
「えっと、ごめん! その、何かよく分からないけど思わず……」
「う、うん……」
2人は顔を赤らめたまま、暗い夜道を並んで歩いていった。
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「きゃぁー!! それが愛美さんの初恋ですの!? まさかお相手が早坂さんだったなんて!!」
「だーかーら! さっきも言ったけど、之道とは何にも無いから。そうだよね? 未来」
「いや、私はその頃の愛美を知らないぞ」
「とにかく、違うのっ!」
ニルと樫尾が2人で話しているのと、ちょうど同じ時間。逢夜乃、愛美、そして未来は駅前のファミレスに来ていた。
「それにしても、お2人の中学生の時のお話……前に愛美さんから伺った時は大分違いますわね」
「違うって言うか、軽くしか話してないだけ。逢夜乃には、多分そこから先のことしか話してないし」
「そうでしたっけ?」
「てか、話さないとダメ? だんだんめんどくさくなってきた」
「無理強いはしませんけれど、愛美さんの今日の様子が気になってしまって……」
「私も同感だ」
逢夜乃と未来は、愛美をじっと見つめた。
「いやホント、大したことじゃなくて……」
「まさか、レオルトンに何かされたのを庇っているのか?」
「違う違う! 何もされてないって」
愛美は、土曜日の出来事について話した。
「で、ニルから逃げてきちゃって……」
「あの後そんなことが……」
未来は驚いたようにため息をついた。
「で、話の続きだよね」
愛美はふと、自分の手元に視線を落とした。
逃げるようにして打ち込んだバスケ――いや、私は逃げてたわけじゃなかった――愛美は、あの頃何かを追い求めて、追い求めて、ボールに触れていたのだ。
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「……」
愛美は、びしょびしょに濡れているバスケットシューズを片手に、体育館を抜け出した。
「ん? 早馴じゃねェか」
愛美が見上げると、段ボール箱を担いだ樫尾が立っていた。
「樫尾さん……」
「おい、どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
「……ううん。何でもない」
愛美は樫尾の横を通り過ぎて水道に向かった。蛇口をひねり、シューズを濡らす。牛乳のような、雑巾のような、不快な臭いが愛美の鼻をつく。
「……」
泣きそうだった。しかし愛美は泣かなかった。
ただ無言で、シューズを見ているだけだった。
その日から愛美への嫌がらせは続いた。次の日は部室に置いておいた上履きを隠され、その次の日は彼女のロッカーにゴミが詰められていた。ゲーム中のラフプレーが愛美を襲い、一度派手に転んで膝を擦りむいた。膝から流れる血を気に留めるでもなく、彼女はプレーを続けた。
初めは、部員の誰かがやっているというぐらいの認識だったのが、そのうち全員から避けられているという認識に変わっていた。
しかし愛美は、毎日練習にやって来た。荷物は教室の、早坂のロッカーに隠していた。早坂本人には一言も言わなかった。
そんな数日が過ぎて、彼女は新人大会のメンバーに選ばれた。次々と名を呼ばれる2年生、そして最後に、顧問は愛美の名前を呼んだ。
その日の夕方、樫尾は校内の見回り中に先輩から“そのこと”を聞かされた。
「噂ってだけなんだが、放っておけなくてな。確か樫尾、早馴愛美さんと同じクラスだっただろう?」
樫尾と同じくらいの巨体の2年生が何気なく放った一言に、樫尾は言葉を失った。
「先輩! 俺今から体育館に――」
樫尾が振り返った時、その目の先には見知った顔があった。
彼女は鋭い視線を突き刺すように樫尾に向けながら、速足で迫ってくる。
「今の話、どういうことだ?」
零洸未来は、今にも掴みかからんとする勢いで樫尾に迫った。
「お前、同じクラスの――」
「愛美がいじめられているとは、どういうことなんだ!」
「や、やめないか!」
2年生の先輩が2人の間に割って入る。未来は黙ったまま樫尾を見ていたが、やがて背を向けた。
「おいっ! お前早馴のこと知ってるのか!?」
「キミには関係無い」
未来は歩き出す。
「おい、待ちやがれってんだ!」
「放せ!」
「少し落ち着きやがれ! 何の証拠もねェぞ!」
「そんなもの――」
「下手したら、早馴が傷つくぞ!」
未来は急に立ち止まった。
そしてゆっくりと樫尾の方に振りかえる。
「俺が先に確かめる。何かあったらお前にも話す。それでいいだろう?」
「……分かった」
「ふぅ……おっかねェ奴だぜ、まったく。そうだ、俺は樫尾玄。お前と同じクラスで――」
「知っている。愛美の話し相手の1人だ。早坂之道も」
「そうだ。俺がそれとなく愛美に聞いてみるから――って、お前が直接聞けばいいじゃねェか」
「……それは」
「まァいいぜ。明日聞いてみる」
次の日、樫尾はそれとなく愛美に部活の様子を聞いてみた。しかし、愛美は作ったような笑い顔で「いつも通り、練習めんどうだよ」とだけ答えた。それは早坂が尋ねても同じであった。
その十日後の土曜日、女子バスケット部は新人大会の会場にやって来ていた。
「スタメンは、村野、山岡、高橋、木谷、早馴でいく!大事な初戦だ、張り切ってやろう!」
顧問の檄を背に、愛美はコートに立つ。
「……何でだろう」
愛美の呟きと同時に、ホイッスルが鳴る。
「愛美!」
愛美が相手陣地の中央で、ボールを奪った。それに呼応するように味方が走りながら、パスを呼ぶ。
しかし愛美はボールを離さなかった。それを奪いに迫る相手チームの選手を1人ずつかわしながら、一気にゴール下に突撃する。
コートが一瞬、静寂になったように、誰もが錯覚した。それぐらい、その場に居る誰もが愛美のプレーに見入っていた。まるで吸い寄せられるように、愛美の右手にあったボールはゴールリングをくぐる。
そんな場面は、何度も何度も続いた。
愛美がボールを持つ、愛美が1人でドリブル、愛美が1人でゴールを決める。そんなルーティン作業のような一連の流れは結局、その日途絶えることなく続いていた。
チームを勝たせれば、皆の勝利に貢献すれば、何かが変わるのではないかと、彼女はひたすら考えていた。
それから短い一日は終わり、閉会式。愛美は表彰台に立っていた。
「優秀選手賞。早馴愛美。おめでとう!」
大きな拍手。愛美は表彰台から降りながら、チームメイトの並ぶ列を見た。
誰も笑っていなかった。
その時彼女は気づいた。私は、きっととんでもない間違いをしてしまったのだと。
「え?!バスケ部辞めるの!?」
月曜日の朝、愛美はたまたま早坂と通学路で鉢合わせた。
「うん」
「樫尾さんから聞いたけど、一昨日の大会で優秀選手に選ばれたんでしょ?それをどうし――」
早坂は、途中で口をつぐんだ。それからもう一度何かを言いかけたが、愛美が右手で早坂の口を押えた。
「もういいの。もう終わった事だから」
愛美は力なく笑って、歩みを止めた早坂を置き去りにして歩いて行った。しかし早坂はそれを追わず、樫尾の携帯に電話をかけた。
「樫尾さん! 早馴さん、部活辞めるって言ってますよ。それにあの様子じゃ……」
『分かってらァ! しかし証拠がねェンだよ! 俺は今日も体育館を見張るからよ、お前も何かあったらいつでも連絡よこせ』
「分かりました」
早坂と樫尾、そして未来も何も出来ないまま、放課後がやって来た。
愛美は体育館には向かわず、職員室にやって来た。しかしバスケ部の顧問は不在だった。隣の席の教師が、先生は体育館に行ったと愛美に教えてくれた。
愛美は重い足取りで、体育館に来た。その出入り口で立ち止まり、遠くから女子バスケ部の練習を眺めた。
どうやったら“欲しかったもの”を手にできたのだろうか?
バスケのように、自分と誰かを繋げてくれる共通項があれば、手に入るのではないのか?
「私は、どうすれば良かったの?」
消え入りそうな声でそう言って、愛美は歩みを――
「よぉ、早馴」
「吉澤、せんぱ――」
愛美は腕を引っ張られ、体育館裏まで連れて来られた。大きな体育館の影になった場所で、殆ど生徒が立ち入ることは無い所だった。
「な、何ですか」
「何? なんも心当たりないわけ?」
「心当たりって……」
「そういうところが、ムカつくんだよ!!」
吉澤の掌が、愛美の頬を弾いた。
「調子乗りやがって。お前のせいで、ウチはメンバーになれなかった。ま、もうどーでもいいんだけどね」
嗜虐的な笑みを浮かべる吉澤の背後に、5人の男子が現れる。愛美には見覚えの無い、他校の制服だった。
「皆、そこに空いてる倉庫あるからさ、好きにしていいよ」
「ヨッシーまじ!? ここまで来た甲斐あったよ~」
髪を茶色に染めた男子は、姿勢を崩した愛美の左腕を掴む。
「は、放してっ!!」
他の男子に右腕をも掴まれ、愛美は引きずられるようにして空き倉庫に入れられた。何度叫んでも、誰もそこにはやって来なかった。
薄暗く埃っぽい倉庫の中は、それだけで愛美の恐怖心を掻き立てた。
「止めてよ……止めてっ!!」
愛美は灰色に汚れた運動マットに身体を投げ出された。そして、倉庫の引き戸が軋みながら閉じていく。金属製の引き戸は外光を殆ど遮断してしまう。倉庫に差し込んでいるのは、天井近くの排気窓からの細い光だけだった。
その頼りない光すら、愛美にとっては救いの神のように思えて、彼女は必死でその光の先を見ようとしていた。
その5分ほど前、樫尾は1人で体育館に向かっていた。その途中、学園の敷地と外を隔てる柵の向こうに立っている2つの人影が目に入った。
彼らは、何か面白いものを見るように、学園の中を覗いていた。しかし片方が携帯を取り出し、誰かとしゃべっている。電話が終わると、2人はそこから離れた。
「……お前ら、待ちやがれっ!!!」
樫尾の勘が騒いだ。
彼は上履き靴のまま信じられない速さで柵まで走り、それをよじ登って超えた。へらへらと笑いながら歩いている2人の男子生徒の肩に、樫尾は手を置いた。
「おい、お前らここで何してたァ!?ウチの学校の生徒じゃねェよな」
「はぁ? てめーに関係ねぇだろ」
1人の男子生徒が樫尾の手を払おうとする。しかし樫尾は恐ろしい力で肩を掴んでいる。
「おい、この中坊! 生意気だぜ」
「ここに居た理由を言わないなら、お前ら……痛い目見るぜ」
樫尾の目は本気だった。それに恐れたのか、先手必勝とばかりに片方の男子が強い力で樫尾の手を払いのけ、樫尾の顔面に拳を叩き込む。
鈍い音が響く。
しかし樫尾、微動だにしない。
「よォし……覚悟はできたってことだよなァ」
樫尾は拳の骨を鳴らし、両手を上げた。
「ゴラァ!!」
巨体を活かした身長差、高所から振り下ろされた拳が、2人の男子生徒の脳天に炸裂する。まさに“ゲンコツ”である。
一発で、2人の男子生徒は情けなく倒れ伏した。樫尾はその片方の胸ぐらを掴み、顔を近づける。
「ごごごごめんなさい! 話しますから許してぇっ!」
「言ってみな」
「ここに通ってる吉澤って子が俺の友達の彼女で、その子が高校生集めて何かやろうとしてんすよ!!」
「吉澤……確か女バスの2年だな。で、何かって何だ」
「えっと……」
「言わねェのか?」
「い、言いますっ!! なんか、可愛い子がいるからいじめに来いとか……ここの体育館裏の倉庫で…」
――早馴か!
樫尾は手を離し、再び走り出した。
『零洸未来』へと発信している携帯を片手に。
「もしもし、俺だ!!」
『樫尾。何か――』
「体育館裏だ! 今すぐ!! 愛美があぶねェ!!」
『すぐ行く』
樫尾は近道をするため、柵に沿って走った。そして柵を越え、体育館の壁を左手に走る。その途中、体育館で部活動をする生徒たちの一団に姿を見られた。
「樫尾さん!」
そこに、早坂も混ざっていた。胴着姿に竹刀を携えている。
「来い早坂!愛美が!!」
「はい、すぐ行きます!」
―――後編に続く