「喧嘩しただとォ?!」
月曜日の朝の廊下に、樫尾の野太い声が響き渡った。
「声が大きいです」
「お、おう。済まねェ」
私たちは、図書館前の休憩スペースのベンチに座った。
「それで、昨日は愛美と連絡したのか?」
「いいえ」
「それで、月曜を迎えちまった訳かァ」
樫尾は大きなため息をつき、ベンチの背もたれに体を預けた。木製のベンチがみしみしと音を立てた。
「謝ろうと思ったのですが、何がいけなかったのか、皆目見当がつきません」
「そうかァ。だったら、まずはお前らを仲直りさせねェとな!」
樫尾は拳の骨を鳴らした。
「で、何があったんだ?」
「それがですね――」
私は、早馴と2人きりになってからの一部始終を詳細に話した。
「おォ! そうやってデートに誘うわけか!」
「デートというわけでは……」
「おっと悪ィ。続けてくれ」
それからゲームセンターでの出来事について報告する。それを聞いているうちに、樫尾の表情がどんどんと険しくなっていった。
「どうかしましたか?」
「その他校の女子生徒……名前は聞いたか?」
「いいえ」
「でかい坊主頭と、金髪のヤローと一緒だったか?」
「はい」
「あいつらだなァ!」
樫尾が、怒気の込められた目で自分の拳を見つめた。
「知っているのですか?あの不良学生たちを」
「ああ。あいつらは中学の――」
樫尾が話し始めた時、部活の朝練習帰りの生徒たちが、数人休憩スペースにやって来た。樫尾はそれを見ると、口をつぐんだ。
「これは後で話すぜ。愛美との件は、他の奴らには言うんじゃねェぞ!」
樫尾は立ち上がり、私を置いて去って行った。
不覚にも、樫尾のことが頼もしく見えてしまった。
第19話「大切な人へ」
私が教室に戻ると、既に零洸や杏城、草津、早坂も揃っていた。
早馴の件であれば彼らに相談しても良かったが、樫尾に口止めされている以上、それに従った方が良いだろう。私は軽く挨拶をしながら、自分の席に座った。
「あらぁ? なんだか表情が暗くない??」
視線を上げると、百夜過去の顔が目に入った。長い銀色の髪をかき上げながら、彼女は私を見下すようにしていた。
「平常通りです」
「そう。ねぇ、ちょっとお話しない?」
彼女はまだ不在の早馴の椅子に座り、私の顔を凝視してくる。
「何でしょうか」
「アンタさ、早馴愛美のことが好きなんでしょ?」
私は思わず、目を見開いた。
そして次の瞬間、教室の生徒たちのどよめきが沸いた。
「レオルトン! それまじなのか!?」
「やだー! 私レオルトン君のこと好きだったのに!」
周りのクラスメートが、私と百夜を取り囲んだ。
「誤解ですよ皆さん。百夜さんが私をからかっているだけです」
私は努めて冷静に、作った笑顔を振りまいた。
本当は……今すぐ百夜を殴ってやりたかったが。
「何だよ、びびったぜ」
「私はあと10年は戦える!」
彼らはあっけなく解散していった。
「百夜さん、勘弁してください」
「ちょっと声が大きかったかしら?」
彼女は悪戯っぽい笑顔を見せた。
「でもホントのところ、そうなんでしょ?」
百夜は私の耳に顔を近づけ、耳打ちしてきた。
「本当に、そんな気持ちはありません」
「何よ、つまんないの」
「そもそも、なぜそんなことを言うのですか」
「だってアンタ、この前早馴愛美のことストーキングしてたでしょ?」
「だからそれは勘違いだと……」
「それにさっき教室に入って来た時、最初にこの席見てたじゃない?」
百夜はにやにやしながら、自分の座っている場所を指さした。
「気になってる証拠よ、それ」
「気になってなど――」
「あのさ、そこ私の席なんだけど」
ため息交じりの、しかしどこかぎこちない――そんな声が聞こえてきた。
「あーら。お目当てがやって来たわね」
百夜は、私の肩を小突く。
「……早馴さん。おはようございます」
「……うん」
早馴は、自分の机の上に鞄を静かに置いた。
彼女の目線は、私に注がれることは無かった。
「座りたいんだけど」
「はいはい。お邪魔虫はさっさと居なくなるわよ~」
百夜はけらけらと笑いながら、席を立った。それと入れ替わりに、早馴が椅子に座る。
早馴は黙々と鞄から教科書を取り出し、机にしまってからも一言すら発さず、突っ伏した。
私も彼女に一言も言葉をかけないまま、授業開始のチャイムが鳴り響くのを聞くだけだった。
「ありゃァ、重傷だぜ。結局俺も何もできなかった」
その日の放課後、私は樫尾と一緒に学園近くの公園を歩いていた。もちろん彼からの呼び出しだ。
「一言も話さないまま、一日終わってしまいました」
「お前ら気まずそうだったもんなァ……」
「分かりますか」
「おうよ。他の奴らも、何か勘付いてるかもな」
咄嗟に思い浮かべたのは、零洸や杏城の顔だった。
「しかし今回ばかりは、お前には非はねェよ。あんまり落ち込むな」
「落ち込んではいませんが、気にしないわけにはいけません」
私は一昨日の、早馴の顔を思い出した。
「私はどうやら、早馴さんを怖がらせてしまったようですから」
「怖い、か」
樫尾は静かにため息をついた。
「やっぱり、“あの時”と同じだな」
そして彼は何かを思い出したように立ち止まる。
「ちと長い話になる。あそこに座ろうぜ」
樫尾は親指を立て、自身の後ろに見えるベンチを指し示した。
「お前には聞いておいてほしい話があってよ」
ベンチに座った瞬間、樫尾は真剣な顔つきでそう言った。
「伺います」
「分かっちゃいると思うが、愛美のことだ」
「はい」
「愛美が、その……あんな態度を取った理由が、俺には何となく分かるんだよ」
「それは愛美さんの話ですか?」
「ああ。愛美と、俺たちの昔話だ」
樫尾は、ゆっくり語り出した。
――――――――
――――
――
時は4年前に遡る。
「早馴愛美? 誰だよ、それ」
明日から中学生とは思えないほどの巨体を持つこの男――名前は樫尾玄。彼は自室にやって来た父親に背を向けながら、中学校への登校初日に備えて持ち物を整えていた。
「そう、愛美タンだ」
「何だよ、その呼び方。気味悪ィな」
「それはともかくとして、玄よ。お前は明日から中学生だな」
父親が急に声色を変えたため、樫尾は振り返る。
「お前もいっぱしの男になる。目標は何だ」
「俺は学校の風紀を守るぜ」
「良い目標だな。しかし玄、守るべきは規律だけではないぞ」
父親はゆっくりと樫尾に近づき、その肩に手を強く置いた。
「誰かを守れて、お前は初めて立派な男になれる」
「誰か……か」
樫尾の頭に最初に浮かび上がったのは、母親の顔だった。
「お前の考えていることは、分かる。しかしそれは、俺の目が黒いうちは必要ない」
「じゃあ――」
「だから、愛美タンだ」
「だからやめろよ、それ」
「愛美タンは、俺の仲間、いや親友だった男の娘さんでな。とても可愛らしい女の子だ。しかしご両親は“あの事件”で亡くなってしまい、親の愛情を充分に知らない」
「で、それをどうしろって?」
「お前が守ってやれ」
樫尾は、父の顔を見た。
真剣そのもの――とてもふざけているようには見えなかった。
「……考えとくぜ、取りあえず」
「そうだな。とにかく、明日会ってみろ」
「おうよ」
父親は満足したように頷き、部屋を出て行った。
「親父……相変わらずヘンな奴だぜ」
そう言いながらも、彼の頭の中に、その名前は色濃く刻まれていた。
「早馴愛美、ね……」
明くる日、樫尾は中学校の門の前に立っていた。
彼に緊張感は無かった。代わりに大きな決意があった。
(この学校を守るぜ、俺は)
樫尾は、クラス割が掲示されている場所へ向かいながら、父の姿を思い浮かべていた。4年前、GUYSの一員として大怪我をしながらも仲間と人々を守った男の姿を。
樫尾は、そんな男になりたかったのだ。
「で、デカいな、君!」
後ろから、1人の男子生徒が声をかけてきた。
「先輩ですか。おはようございます!」
「お、おう。ところで君、部活は決めてる?」
「決めてます!」
「分かった、柔道部だろう?」
「いいえ、違います!」
「いや、柔道部に入ろうぜ!」
男子生徒が樫尾の手を握る。
「すんません! 俺はやることがあるんです!」
樫尾は彼に背を向け、歩き出す。
確かに力は必要だ。しかしそれだけが、何かを守る手段ではない――樫尾はそう考えていた。
それから彼は自分のクラスを確認し、その教室に向かった。
1年2組の教室は、新入学生の声で満たされていた。教室の扉を開けた瞬間、何人もの声が溢れかえる。
「うわー! 大きいな!」
「おう。俺は樫尾玄。よろしくな」
樫尾は何人かの男子と挨拶を交わしながら、自分の席に座った。一番後ろの席から、彼は教室を見渡す。すると、見覚えのある後姿が目に入った。
「早坂じゃねェか!」
「か、樫尾さぁん」
樫尾は、呼びかけた相手の席に向かう。
「早坂、久しぶりだな。まさか同じクラスになるなんてよ」
早坂之道は、嬉しそうに頷いた。
「僕もびっくりですよ。樫尾さん、また背伸びました?」
「そうか? 自分じゃァ分からないぜ」
「済まないが、そこを通してもらえないか?」
天井を見上げていた樫尾に、1人の女子生徒が話しかける。
「おっと、済まねェ」
「こちらこそ」
黒髪ショートカットで、真っ直ぐに切り揃えられた前髪が印象的な少女だった。彼女は静かに、早坂の隣の席に座った。彼女の鋭い目線は、真っ直ぐに前方に向かっていた。
「よう、俺は樫尾玄だ。ほら、お前も挨拶しろよ」
樫尾は早坂の背中を、強く叩いた。
「えっと、早坂之道です」
隣に座る彼女は、ちらと二人の方に目を向けた。
「……零洸未来だ」
彼女はそれだけ言って、再び目線を前方に戻した。
「……俺は席に戻るぜ」
「あ、はい」
樫尾が自分の席に再び腰を下ろしてから間もなく、他のクラスメートも同じようにそれぞれの席に座った。ふと樫尾は、空席が一つだけあることに気付いた。
教室の前の扉が開かれる。
「はい、皆さんおはようございます」
入って来たのは、担任の教師だった。彼女は、教室のほぼ真ん中に位置していた空席に目を留める。
「あら、もしかしてお休み――」
その時、教室の後ろの扉が開かれた。
「えっと……早馴愛美さん? 早く座りなさい、遅刻ですよ」
担任のため息交じりの声に、早馴愛美と呼ばれた少女は一瞥した。
「すみません」
彼女はそれだけ言って、空いている席に向かった。
(あいつが早馴愛美か)
樫尾は、席に座ろうとする愛美の表情を盗み見た。
(可愛いけど、可愛げのねェ面だぜ)
前日の父親の話から、弱々しい少女のイメージが樫尾の中にあったが、それとはまるで正反対である。気怠そうながら、どこか大人びた雰囲気を彼女は醸し出していた。
しかし愛美の登場に思う所があったのは、樫尾だけではなかった。
(……愛美。大きくなったな)
窓際に座る零洸未来も、愛美の顔に視線を向けていた。
しかし零洸の眼は、依然として鋭いままであった。
靴が床を擦る音が、空間一杯に響いている。
ここは沙流市立第二中学の体育館である。多くの生徒がスポーツに励み、汗を流している。
その様子を、早馴愛美はぼんやりと見つめていた。
「早馴さんは、部活もう決めた?」
愛美の後ろに立っていた少女が、にこやかに声をかける。
「あー、うん。一応」
「そうなんだ!何部?」
「バスケ」
「そっかぁ。私、何部にするか迷っててさ。ほら、うちの学校って部活強制でしょ? だからどこかには入らなくちゃなんだけど。早馴さんは前からバスケやってたの?」
「まぁね」
話しかけてきた少女から、愛美は再びバスケ部の練習場所に目を戻す。
別に、部活なんてやりたいわけではないけど――愛美はそう思いながらも、バスケ部への入部を決めていた。それはバスケが好きだったというよりは、元々やっていた競技の方が楽だと思ったからにすぎなかった。
(文化系は性に合わないしね……)
次の日から、愛美たち1年生も部活の練習に参加することとなった。
久しぶりに触ったボールの感触は、愛美に複雑な思いをさせた。懐かしさや悲しさ、プラスとマイナスの感情がごちゃ混ぜになったような、そんな感情だった。
「あれ?ボールに慣れてんじゃん」
愛美は突然話しかけられて、ボールを床に落とす。
「そんな緊張すんなって。私は2年の吉澤」
「えっと……早馴です。早馴愛美」
「よろしく早馴。なんか、2年が1年に色々教えてやれって言うからさ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「そんないいって。あたしも適当だから」
吉澤は茶色い髪を結び直しながら、部室棟へ通じる出口へ去って行った。
(……やる気ない人だな)
愛美は小さく笑って、足元のボールを手に取った。
それから1週間の練習を経たところで、愛美は顧問の教師に声をかけられた。
「早馴。君、経験者だろう? 担任の先生に聞いたら、アメリカに居たんだって?」
その言葉に、周りに居た部員たちが一斉に反応した。
「あ、えと……一応」
愛美は居心地の悪さを覚えた。珍しいものを見るような視線が、彼女にとっては不快でしかなかった。
「ゲーム経験は?」
「少しだけ、です」
「よし。今から2年生に混ざってみてくれ」
その日から愛美は、2年生と共に練習をすることになった。
「愛美!」
「はい!」
2年生の中で一番上手いと言われている先輩からのパス。愛美はマークを外しながらそれを受け、流れるような動作でゴール下へ進む。そして無駄の無いフォームでレイアップシュートを決める。
ブザービート。試合終了の笛とほぼ同時に、そのゴールは決まった。
「愛美、ナイシュ!」
「あ、はい」
先輩は愛美の手を握り、満面の笑みを見せた。
それから二人は、並んで座りながら他のメンバーの練習を眺めていた。
「愛美が入ってから、練習が面白くなった気がする」
「そうですかね……」
「そうだよっ! 新人大会も、もしかしたら出られるかもね」
「いやぁ…それは別に」
「もう、相変わらずテンション低いなぁ」
先輩は愛美の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
愛美の顔には、自然と笑顔が浮かんでいた。
それから1時間ほど経ち、練習時間が終わった。愛美は練習着やタオルで膨らんだバックを持ちながら、体育館を出た。
「あ」
校門を通り抜けた所で彼女は、携帯電話を部室に忘れたことに気が付いた。
「……めんどくさ」
そうぼやきながら、愛美は来た道を引き返した。体育館への入り口の前に立った時、この時間では体育館の鍵が閉まっていることに気付いた。
帰ろう――そう思って振り返った時、暗がりから1人の男子生徒がこちらに向かって来るのが目に入った。
「あれ、早馴さん、だよね?」
「……誰?」
「あはは……クラスメートの早坂だよ」
「あぁ、そういえば、いたね」
愛美は、苦笑いを浮かべる早坂の手に握られている物に気付いた。
「鍵!」
「もしかして、早馴さんも体育館に忘れ物?」
「そうなの! 職員室まで行くのめんどくさいなぁって思ってた」
「じゃあちょうどよかったね。今開けるよ」
早坂はリングにまとめられた鍵の束の中から、一本を使って鍵を開けた。
「あ、でも部室の鍵が無いや」
ため息をつく愛美に、早坂は大丈夫と声をかける。
「先生が外すの面倒だからって、鍵全部くれたんだ。女子バスケ部のもあると思うよ」
「ホント!? らっきー」
「じゃあ、先に行こうか」
「ありがと」
2人で暗い体育館の端を歩き、部室の集まるエリアに入る。
「女子バスケは、これかな」
「それそれ」
「うん」
早坂は器用に鍵を外し、愛美に手渡す。それから早坂は、剣道部の部室へ向かった。
愛美は早坂の後姿を少しだけ見つめ、部室の扉を開けた。真っ暗な部屋の壁に触れ、手探りで電灯のスイッチを見つけ、付ける。彼女の携帯電話は、奥の机の上に分かりやすく置いてあった。
愛美はそれをバッグにしまい、部室を後にした。
「早馴さん、もう大丈夫?」
「あ、うん」
早坂が戻ってきて、彼女のもとに駆け寄った。
その時である。野太い男の声が曲がり角の向こうから響いてきた。
「誰だァ?もうとっくに下校時間過ぎてるぞ」
「ひっ」
愛美はその声に驚き、思わず早坂の腕を握る。
「さ、早馴さん!?」
早坂は、彼女の行動にたまげていた。
「誰だ――って、早坂じゃねェか。それに、早馴?」
声の主は樫尾であった。
「何で樫尾さんがここに?」
「見回り中だよ。体育館の鍵が開いてたし、部室の電気が付いてたからよ」
樫尾は“風紀委員”と書かれた腕章に触れた。
「それより……お前らは、そういう関係だったのか……?」
「わっ!?」
愛美が、まるで熱いものに触れた時のような素早さで、早坂の腕から手を引っ込めた。
「いや、別に駄目とは言わね――」
「びっくりしただけだもん!!」
愛美は大声で叫び、鼻息を荒くして歩き始めた。
「お、おう……」
「帰るっ! ばいばい!」
愛美は大股で歩いて行った。
「変な奴だなァ。おい早坂、俺たちも行くぞ。鍵、返しに行くんだろ?」
「あ、え、はい」
「じゃあ行くぞ」
2人も、愛美を追いかける形でその場を離れた。
―――中編に続く