3日後午前11時、問題の日がやって来た。
「いよいよだね」
「頑張りましょう、樫尾さん」
「あ、ああ」
早馴、樫尾、そして私は、零洸の家の前に立っていた。
「お、押すよ?」
「早馴さん、緊張し過ぎです」
「ここで落ち着いてるニルの方がおかしいって。じゃあ……」
早馴は意を決した様子で、大きく息を吸って――
「いつまでも何をしているんだ?」
「わぁっ!!」
突然の頭上からの声に、早馴は腰を抜かした。倒れそうになった彼女の身体を樫尾が支えている。
家の扉のちょうど上に位置する窓から、零洸が顔を出していた。彼女は小首をかしげてこちらを見ている。
「今行くから待っていてくれ」
数秒経ち、零洸自身によって扉が開かれた。
「さぁ、入ってくれ」
零洸はいつも通りの、無表情ともしかめ面ともいえない表情で私たちを迎え入れた。特別私に対して警戒心を抱いている様子は無かった。
それに対して早馴と樫尾は、どこかよそよそしいというか、落ち着かない態度だった。特に樫尾はしきりに深呼吸を繰り返し、今から戦地にでも赴くのではないかというぐらいの緊張感だ。
私たちは零洸によって、リビングに通された。入口からここまで観察してみたが、どこも掃除が行き届いていて清潔だった。怪獣を倒すことを生業とする彼女からは想像できなかったが、整理整頓が出来ることに関しては不覚にも親近感を覚えてしまった。
「あぁっ! 愛美ちゃん久しぶりっ!」
私たちがソファーに腰を下ろそうとした瞬間、凄まじい早さで何かが私の背後を通っていった。
「うわぁっ!!」
早馴の悲鳴が上がった。
「って、レリアさん!」
「愛美ちゃん……相変わらず元気そうで良かったぁ」
長身の女性(しかもメイド服)が早馴を後ろから抱き締め、頬ずりしていた。百夜や雪宮悠氷とはまた違った色合いの、銀とグレーの中間のような色合いの長い髪が印象的だった。
「レリアっ。少し静かにしてくれ」
零洸がキッチンから走って戻って来て、少し焦った様子でその女性に声をかけていた。
「ご、ごめんなさい、未来ちゃん。えと、私はこの家でメイドさんをやってます。レガール=レリアと申します。レリアとお呼びください」
レリアと名乗った女性はうやうやしく礼をした。
「ニル=レオルトンくんは初めましてですね」
彼女は気持ちのいい笑顔を私に向けた。
「こちらこそ、初めまして。ところで、どうして私の名前を?」
「未来ちゃんから聞きました」
「なるほど」
零洸のメイドか。人間ではないと決めつけるのはあまりにも短絡的すぎるにしても、ある程度警戒しておく必要はあるな。
「未来ちゃんも座っていてください。お茶の用意は私がしますから」
レリアは楽しげに、軽やかな足取りでキッチンへ向かっていった。それから間もなく、ソファーに座る私たちの前には、彼女の手によって紅茶が並べられた。メイドを名乗るだけあって、香りは申し分ない。
「では、ごゆっくり~」
レリアは再びぺこりと頭を下げてから、廊下へ出て行った。
「レリアさんも一緒に居ればいいのに」
早馴がレリアを目で追いながら、そう呟いた。
「彼女は彼女で、少し忙しいからな。ところで、レオルトンと樫尾は何の用があるんだ?」
零洸は、私と樫尾の顔を見比べた。
樫尾、あまり硬い表情をすると零洸が怪しむぞ。こと恋愛に関しては詳しくは無い私だが、この程度の助言はできるというものだ。
「ま、まぁまぁその前にさ。はい、これ」
早馴はバッグから一冊の本を取り出し、未来に差し出した。
「何だ?これは」
「昨日逢夜乃が話してたじゃん。面白い本があるって」
「いや、別に読むとは言ってないが」
「どーしても読んでほしいんだってさ、逢夜乃が」
「まぁ、そこまで言うなら。愛美はもう読んだのか?」
「私が? んなわけないじゃん。字が小さいの面倒だし」
「そ、そうか。じゃあこの本は後で読むことにして、キミ達は――」
「まぁまぁ! 取りあえずお茶飲もうよ、ね?」
早馴が必死に話をすり替えたおかげで、樫尾は安心したようにため息を吐いた。私たちは早馴の言う通りに、出された紅茶のカップに口を付けた。
「美味しいですね」
本心である。人間の真似事で茶やコーヒーを嗜むようになった私でも、これが美味であることは分かった。以前私が『最高の紅茶の淹れ方』という本を真似た時とは比べ物にならない。これは見習うべきだな。
「私も最近よくやるんです、紅茶」
「え、そうなの?意外」
早馴は、待ってましたと言わんばかりに会話に乗ってくる。
「こう見えてもこだわっています」
「ますます意外だわ。『飲めればなんでもいいです』とか言ってそう」
「私の真似、似ていませんね。よろしければ今度紅茶をごちそうしますよ」
私たちはどうでもいい会話で時間を稼ぐことにした。乗りかかった船だ。樫尾の告白と言う任務を完遂させるためにも、私も一肌脱ぐとしよう。
「ところでこの前、駅前の――」
「レオルトン」
「……はい」
「話とはなんだ?」
余程内容が気になるのか、それともいつまでも主題に触れないことに苛立ったのか分かりかねるが、零洸は私の時間稼ぎをすぐに断ち切ってしまった。
「そうですね。では樫尾さんから話してもらいましょう」
「うっ! ごほっごほっ!」
樫尾がひどくせき込み始めた。すまないな、私ももう話すことが無いのだ。
「急に振りやがって……」
「樫尾、話とはなんだ?」
零洸の視線が私から樫尾に移る。
「話!? そ、そうだな…」
樫尾が言葉を切り、沈黙が流れた。
「……愛美、何だっけな」
「私!?」
「何だ、用があるのは愛美だったのか」
零洸の視線は、今度は愛美に移った。
「え、えっとね……」
早馴の目が泳ぐ。
「そう! 買い物!! 未来に付き合って欲しい買い物があるんだよね!」
「買い物? 私とか?」
「そうっ。未来に付いて来て欲しいんだって」
あまりに苦しいいいわけだが、零洸もそれ以上問い詰めはしなかった。
「じゃあ用意をしてくる。ここで待っていてくれ」
零洸は廊下へ消えた。
「早馴さん、なかなか良い手ですね」
「苦しかったって、絶対。でもよく考えたら、突然家に来て告白はハードル高かったよね……」
「済まんな。世話をかけたぜ」
そう言った樫尾の表情に余裕は感じられなかった。他人に自分の気持ちを伝えようとすることがここまで精神負担を強いるものだとは思いもしなかった。
「それにしても、零洸さん遅いですね」
彼女がこの部屋を出て行ってから、既に十分が経とうとしていた。
「女の子なんだから、こういうのは時間がかかるの」
同じ女の子(と言っても零洸は人間ではないが)の早馴がそう言うのだから、そういうものなのだろう。
「やめろレリア! 押すなっ!」
「何言ってるんですか?3人とも待ってますよ?」
扉の向こうから、零洸とレリアの声が聞こえた。何やら騒いでいるが…。
「ほら、開けますよ?」
「待て――」
扉が開かれた瞬間そこには、想像もしなかった光景が現れた。
「こ、これは、その……」
そこには、頬を赤らめて視線を泳がせる零洸未来の姿があった。
その態度だけとっても普段から想像しえないものだが、一番の変化はその服装だった。普段は制服姿、私服も動きやすそうなシンプルな衣装に身を包むところしか見たことが無かったが、今はそれらとはうって変わっている。裾がひらひらしたミニスカートはさることながら、全体的に、街で見かける華やかな女性を思わせる服装だった。
「未来可愛いよ!」
早馴がしきりに、可愛い可愛いと連呼している。
たしかに、早馴と並べば、今時の女子高生が休日に買い物に出かけるというシチュエーションがぴったりの姿である。
「とても良く似合っていますよ、零洸さん。樫尾さんもそう思いますよね?」
「あ、ああ」
「そう、なのか?」
驚きと困惑の入り混じった表情を見せる零洸の背後で、したり顔でにやけるレリアの姿があった。
「だから言ったでしょ? 絶対似合っていますって」
「レリアさんの言う通りだよ。未来が選んだの?」
「そんなわけないだろう。レリアがいつの間にか買っていたらしい」
「いつか未来ちゃんに着せようって思ってたんですよ。さ、一緒にお買い物を楽しんで来てくださいね~」
「はぁ……分かったよ」
すっかりペースを乱された様子の零洸は、早馴に連れられて玄関へ向かった。残った私と樫尾はレリアに別れを告げ、2人に付いて行った。
「うーん……選ぶのがめんどくさい」
早馴が「買い物をしたい」と言ったのはあながち嘘ではなかった。彼女がマフラーを買いたいと言ったため、私たちはファッションビルにやって来た。
「未来、やっぱり選んで」
「それぐらい面倒くさがらずに決めたらいいじゃないか」
「いや、こんなに売ってると逆に困るっていうか」
もう11月になって気温も下がり、冬の衣服が数多く売り出されていた。早馴と同様、マフラーや手袋などの小物を買い求めに来ている若者は多数見られた。
「しかし、この階は居心地が何とも言えねェな……」
「ええ。草津なら喜びそうですけどね」
周りには、私と樫尾以外にあまり男が居なかった。婦人服売り場に来る男など多くは無い。
「なぁ、レオルトン。本当に面倒かけて悪いな」
「何を言っているのですか。この提案は早馴さんと私によるところが大きいです。むしろ見当違いの作戦だったかと、逆にご迷惑をかけたかと思っていたところです」
「相変わらず考え過ぎるヤツだな、お前は」
「そうですか?」
樫尾は気にするなと言って、早馴と零洸に視線を向けた。しかしその眼は、単純に恋愛感情に向けるものとは違う気がした。もっと複雑な感情が込められている……そんな印象すら覚えた。
「私にはよく分からないが、この辺はどうだ?」
「あ、いいかも。じゃあ……これか、これ」
零洸と早馴のマフラー選びは、そろそろ決まりかけているようだった。早馴が両手に一つずつ、二つのマフラーを持って両者を見比べていた。
「未来はどっちがいい?」
「愛美が決めた方なら、それが素敵だと思うよ」
「そう言われてもな……そうだ。ニルと樫尾さんならどっちがいいと思う?」
早馴がこちらに振り返って、二つのマフラーを差し出した。
「俺に言われてもな。ここはレオルトン、お前が選んだらどうだ?」
「私ですか?」
「ま、ニルならこういうのも詳しそうだしね」
いつの間に私は、女性の服に詳しい者になってしまったのか。
早馴が2つのマフラーを、私に向かって差し出す。
「……そうですね。こういうものはただ見比べていても分かりませんから、実際に巻いてみるのが一番です。私としてはこちらの方が」
私は、彼女が右手に持つピンクのマフラーを取り、彼女の首に巻いてみた。人間の衣服文化に詳しいわけではないため、色々な文献で見かけた通りに巻いてみただけだが。
「な、なな……」
せっかく見比べようというのに、肝心の早馴が鏡も見ずに固まっている。
「どうかしましたか?」
「まったくキミは……」
「まぁ、いつも通りだな」
零洸と樫尾が、肩をすくめて私を見ている。
「あの、早馴さ――」
「マフラーくらい自分で巻けるからっ」
彼女は顔を真っ赤にしてそう言った。なるほど、流石にそれくらい私がやってやる必要はなかったということか。
「失礼しました。それにしても早馴さん、とても似合っています」
「そ、そう?」
彼女は近くにあったか鏡の前に立った。
「白い方を巻いてみたらどうでしょう?」
「……ううん。こっちがいい」
確かに、ピンクの方が白よりも、色彩的なアクセントになって全体のバランスが良い気がしていた。そう思って最初に巻いてみたのだ。
「これにする」
「いいんですか?」
「だって、ニルはこっちの方がいいと思ったんでしょ?」
「ええ」
「だったら、こっち買う」
彼女は白いマフラーを売り場に戻した。それから首に巻いていたマフラーをはずし、レジに向かっていく。
誰が見ても、ご機嫌だと分かる足取りだった。
「……いよいよだね」
早馴が、隣を歩いていた私の袖を軽く引いた。
「そうですね。少しゆっくり歩きながら距離を取り、そこのエスカレーターで下の階に降りてしまいましょう」
「了解っ」
マフラー選びを終えた私たちは、昼食を経てデパートの中に居た。樫尾が手帳を買いたいので選んで欲しいという口実で4人で行動し続けてはいるものの、そろそろ樫尾と零洸を2人きりにしようという算段だ。
「さっき、ご飯食べる時にニルと未来が飲み物取りに行ったでしょ? その時樫尾さんには話したよ」
「そうでしたか。ありがとうございます」
「取りあえず、2人きりで遊んできなって言ってある。で、いけると思ったら告白! って感じ」
「なるほど。では、そろそろ」
「よしっ」
私たちはこっそりと、エスカレーターで別の階に移動した。
もちろん零洸はすぐ気付く。1分も経たぬうちに早馴の携帯電話に電話が来た。
「あのね、私急に用事ができちゃったから、ニルに送ってもらって先帰るね。うん、ごめんね~何も言わずに。うん、うん。ううん! いいっていいって! 2人でお買い物楽しんで! え、ニル? ニルは大丈夫でしょ? って、未来ひどいなぁ。あはは。てことで、樫尾さんにもよろしくね。うん、じゃーねー」
早馴は携帯をバッグにしまった。
「2人で買い物するってさ」
「あの、私が大丈夫かどうかという会話は何だったのですか?」
「あれ?ああ、未来ってば心配性でさ。『レオルトンは、いつ心を惑わせるか分からん奴だ。気を付けるように』だって」
「彼女も冗談の上手い人ですね」
「だよねー。あはは」
零洸がどの程度真剣に、その言葉を放ったかは知らないが、私だって分別のある宇宙人だ。無意味に人間を傷つけるような真似はしない。
その代り、お前の知らないうちに仲を深め、いざという時に私の味方にしてやるのだ。
「で、さ。この後どうする?」
エスカレーターを降りる。もう一階で、出口がそこに見えている。
「同じ店内では、向こうのに合流してしまう危険性があります。外に出ましょう」
「そう、だね」
彼女は少し寂しそうな顔をしたが、私に従った。
それから私たちはファッションビルを出て、駅前の商店街に差し掛かった。
「ね、ねぇ、ニル」
「どうしました?」
「……もう、帰っちゃうの?」
「それはどういう――」
「いや、その……私はこの後も暇というか……家に帰ってもやることないなーって思ったり」
「早馴さん」
「は、はい!」
「帰すつもり、ありませんでしたよ」
彼女は呆けたように私を見つめた。
「私も暇なので、一緒に遊んでください」
私は、彼女の持っていたマフラーの袋を持ってやった。
「そんな寂しい顔をしなくても大丈夫ですよ」
「べ、別に寂しい顔なんてしてないもん! ニルが暇って言うなら、まぁ、付き合ってもいいってだけ!」
「じゃあ決まりですね」
「う、うん!」
大袈裟だと言いたくなるくらい、彼女は嬉しそうな笑顔を見せた。
そんな顔をされると、こちらも気分は悪くはない。
「あ、その前に。私お手洗いに行ってもいい?さっきのお店で行けば良かったんだけど」
「戻りますか?」
「ううん。もうそこのゲーセンで借りてきちゃう。ちょっとここで待っててくれる?」
「分かりました」
「うん、じゃね」
彼女は走ってゲームセンターの中へ入った。
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愛美は女子トイレの鏡の前で、軽く深呼吸した。
「今日、髪型大丈夫かなぁ…」
愛美は赤い髪の毛を、指で優しくすいた。
それから、バッグから小さなポーチを取り出し、その中のリップクリームを手に取る。それを軽く唇に塗った。
「……これ、デート、かな?」
愛美は、鏡越しに自分の顔を見ながらひとり言ちた。
――そういえば、ニルと2人っきりは何回かあったっけ。
――あの時もっと、可愛くして行けばよかったな。
「よし、行こっ」
「あれ? アンタ、早馴愛美だろ?」
女子トイレの出入り口に、その声の主は立っていた。
「……吉澤先輩」
「久しぶりだな、早馴」
髪を金色まで脱色し、他校の制服のスカートをこれまでかと言うくらいに短くしている。彼女は、口を歪ませて笑った。
その笑い顔を見て、愛美は思い出したくない記憶を喚起される。
「こんなとこで何してんのー?」
「別に。もう行きます」
「待てよ」
吉澤の隣を通り過ぎようとした愛美の腕を、彼女が握る。
「……なんですか」
「久々の先輩との再会だろ? ちょっと話そうよ」
「話すことありませんし、人待たせてるので」
「何、男?」
「ち、違います!」
愛美は吉澤の手を振り払い、女子トイレの扉を開けた。
「ねぇ! そいつ逃がさないで!」
愛美は足を止めた。
目の前には、3人の男たちと、もう一人の別の女子学生が待ち受けていた。男たちは愛美の身体を舐めるように見た。
「ヨッシー。このコ何?」
「うちの後輩」
吉澤が後ろから近づき、愛美の肩を掴んだ。
「放して」
愛美はもう一度吉澤の手を振りほどく。しかし行く手を、彼女の友人たちが立ち塞ぐ。
「どいて」
「え~。だってヨッシーが逃がすなって言うからさ」
金髪の男子学生が、両手を広げて愛美の前に立った。
「実はさァ、うち、中学ん時にこいつとこいつの友達にヒドイめにあったんだよね」
吉澤が、今度は愛美の後ろ髪を掴んだ。
「痛っ!」
「へぇ。それはムカつくわな」
別の男子学生が、愛美に近づく。
「じゃあさ、こいつにもヒドイめ合わせればおあいこじゃね?」
「それウケるー」
興味が無さそうにしていたもう一人の女子学生も、携帯をポケットにしまって愛美を見る。
「兄貴に車借りてっからさ、それに乗せちまうべ」
3人目の坊主の男が言った。
4人の好奇の視線が、愛美に突き刺さる。
気丈に振る舞っていた愛美も、流石に焦り。いや恐怖を感じ始めた。
――誰か、助けて!!
その時、愛美の目の前に立っていた金髪男の肩に、何者かの手が置かれた。
「そこで何をしているのですか?」
「に、ニル……!」
背の高い金髪男が陰になって、愛美からはニルの姿は見えなかった。
しかし彼女は、彼の声だとすぐ分かった。
「んだよ、てめぇに関係――」
「何か言いましたか?」
「ひ、ひぃっ!」
金髪男は、ニルの方に振り向いた瞬間に、気の抜けた悲鳴を上げた。そして後ずさるようにしてニルに道を空けた。
愛美の眼に、ニルの姿が映る。
「ニル?」
しかし愛美の心に、安心感は訪れなかった。
「何びびってんだよ!」
吉澤が叫ぶと、一番がたいの良い坊主頭が、金髪男に代わってニルの前に立った。
「早馴のカレシだろ? まじうぜぇわ。やっちゃって」
吉澤の命令に、坊主頭がにやけ顔で応える。
「ただやるだけじゃ面白くねぇわ。お前、土下座しろよ」
「さっきの金髪君の方が、まだ賢かったですね」
「んだと――」
「全員、今すぐ家に帰りなさい」
ニルの眼つきが鋭くなった瞬間、彼の目の前の坊主頭はもちろんのこと、他の4人も、そして愛美でさえも言い様の無い“恐怖”を感じ取った。
いや、愛美だけはニルの眼が放つ“恐怖”の正体を知っていた。
「お、俺帰るわっ!」
金髪男を皮切りに、4人は走ってその場を去っていく。
「な、何なんだよ!」
唯一、吉澤だけは彼らと一緒に逃げ去らなかった。しかし彼女も訳の分からない恐怖におののき、目に涙を浮かべていた。しかし愛美の髪の毛を掴んだ手は、そこから動かなかった。
「まだ足りないようですね」
ニルが一歩、彼女に向かって踏み出した。
「やめてっ!!」
愛美は、吉澤の気の抜けた手を振り払って、ニルの前に立った。
「ねぇ、本当に……ニル、だよね……?」
「もちろんそうです。とにかく、もう行きましょう」
ニルは、右手を愛美に向かって差し出す。
「……私の知ってる、ニルじゃないよっ!」
愛美はその手には応えず、ニルの横を通ってそこから走り去った。
彼女は走った。彼女の息と体力が続く限り。最後は、出来るだけ早くそこから離れようという気力だけで走った。
そして、彼女は立ち止まる。
「あの眼……」
愛美は頭をかき混ぜられるような感覚に襲われた。奥に沈んだ何かをすくい出すように、ニルの“眼”が、彼女の古い記憶をまさぐっていた。