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快晴のアメリカ合衆国、東海岸。どこまでも続いていく空――
雲一つない完璧な紺碧の青空は、人間の描く絵画的な美しさを宿している。だが足元に広がっているのは、粉塵にまみれた灰色の瓦礫だった。それは瓦礫の“山”ではなく“平原”と表現する方が近いかもしれない。元々その場に立っていた建造物が、巨大な力で上から押し潰されたように破壊された跡なのだ。
その建造物が何であったかの面影を一目で判じるのは難しい。だが注意深く観察すれば、周囲には破損したパイプベッド、汚れ破れた白衣、踏み潰されたような救急車が認められる。
ここにはかつて、病院が在ったのだ。
「……」
私の目の前には、一人の少女が居る。そこら中に散らばった鋭利な破片など気にする様子も無く、彼女は膝をついたまま身じろぎもしない。
「鈴羽!」
がちゃがちゃと足音を立てて彼女に近づいたのは、初老の男性である。その表情は年齢以上の疲れを感じさせるが、濃紺のスーツはこの廃墟には似つかわしくない清潔さを保っていた。
「避難所に帰るんだ」
「……」
「鈴羽」
「ママを、探しているの」
「それはレスキュー隊に任せよう。君がどうしたところで――」
「佐滝司令! 間もなく大統領との会談のお時間です。ヘリを待たせていますので……」
同じくスーツ姿の男性に呼び止められ、彼は渋々振り返った。
「お父さん。私は一人で帰れるから、お仕事頑張って」
「……鈴羽、無理をしていないか?」
「大丈夫。いい子で待ってるから。ね?」
「……分かった」
佐滝司令はきつく拳を握り締めながら、迎えのヘリに向かって早足で去っていった。
そうしてまた一人になった少女――佐滝鈴羽は、父親の背を見送ることを途中で止めてから瓦礫に視線を落とす。
再びの沈黙。しかし何かを探している様子はもはや無い。その虚ろな瞳には何も映っていないかのようだった。
「やぁ。とても悲しいことがあったみたいだね」
“それ”は、どこからともなく彼女の前に現れた。
初めは小さな黒い靄のような物体だったものが、徐々に形を成していく。姿をはっきりと捉えることは出来ないが、人間の手の平に乗れるほどの妖精といった具合である。
「ママを探してるんだっけ? もしかしてこのゴミの下に居るのかなぁ?」
「……え?」
「あはは。この下に居るとしたら、とっくに死んでるでしょ~」
「や、止めてよ!」
「止めるのはそっちでしょ? こんな所でウジウジしてないで帰ろうよ」
「だ、だれなの?」
「ワタシはリンネ」
黒い妖精の口元だけが、妖しい笑みを浮かべている。
現代よりも更に過去の時点で、リンネはこの宇宙に現れていたのだ。未来宇宙のリンネが現代に遡り、そこで佐滝鈴羽の身体に入り込んだと考えていのだが、そうではなかった。
「あなたに生き方を教えてあげる。その代わり、あなたの身体を貸してちょうだい」
「……もう死んだっていい」
「悲しいこと言わないで。あなたはまだまだ大きく、綺麗に成長できるでしょ? こんなところで死んじゃったら勿体ない」
「そんなのどうだって――」
「“いい子”になりたいんじゃないの?」
深紅の瞳に、顔を上げた佐滝鈴羽が映った。
「そうじゃないと……お父さん、もう帰って来ないかもよ?」
「……どうすれば、良いの?」
「ふふふっ。じゃあ、教えてあげる」
黒い炎が、ふっと消える。
それと同時に、佐滝鈴羽の瞳が血のような紅に輝いた。
「心を空っぽにするの。何も好きにならないように、誰のことも愛さないように」
佐滝鈴羽の声が、静かに、水が染み渡るように響いていた。
そこから場面は変わる。
どこかの病室に入院する、幼き日の愛美。
日本に新たに建てられた佐滝家の邸宅。いつまでも帰らない父を待つ佐滝鈴羽。
後にそこを訪れる女性――かつてソルが地球での仮の姿としていたヤガワユキナの去り行く後ろ姿。
「よくできました、鈴羽ちゃん。あなたは本当にいい子」
寝室の鏡に向かって、佐滝が呟く。
「誰からも好かれる、誰も愛さない女の子。私だけの鈴羽ちゃん」
自らの手で自らの頭を優しく撫でながら、紅い瞳の少女は何度も呟く。
「いい子、いい子、いい子」
だがその声は、鏡の前の少女が発した言葉ではなかった。
いつの間にか私の背後に現れた、もう一人の佐滝鈴羽――いや彼女の意識が形となった、現在の彼女そのものの声であった。
「レオルトン先輩。こんにちは」
リンネとは完全に切り離された、元来の彼女である。私と初めて出会った時と全く変わらず、たおやかな微笑みを崩さない作り物のような顔だった。
「私の記憶を覗き見るなんて、ちょっと破廉恥ですよ」
「それは失敬。しかし貴女本人と話すためには必要ですので、ご容赦を」
「ご用は何です?」
「連れ戻しに来ました。リンネの支配から」
「お優しいんですね。でも――」
「誤解しないでください。私は貴女にさほど関心がありません」
佐滝はわずかに顔を赤らめ、私から目を逸らした。
「貴女を連れ戻したがっているのは、彼女です」
私は自身の能力によって、場面を佐滝の記憶から現在の外界を周囲に映し出す。
月面に建造された巨大な城。その一角にあるリンネの居室。ある刹那の時を切り取ったその場の光景を、私は佐滝に見せてやった。
「愛美ちゃん。唯ちゃんまで」
「ここには映っていませんが、零洸――かつてヤガワユキナと名乗っていたソルも来ています」
「……みんな揃って、なんてことを」
「ちなみに、あれが見えますか?」
偶然にもリンネの居室の窓から見える黒い空に、GUYSの宇宙基地が浮かんでいる。今回の戦闘においては、その前線基地の役割を担っていた。
「あの基地には、貴女の父親がいるようです。職務上前線に出る必要のない人物のはずですが」
「……」
「どうです? こうして何人もの方が言っているのですから、一緒に帰りませんか?」
私が差し伸べた手に、彼女も手を伸ばす。
「……結構です」
しかし彼女はそう言って、そっと私の手を押し下げてしまった。
「レオルトン先輩、私の記憶を見たのなら分かりますよね? 私は自分でリンネを受け入れました。その方が生きやすいと思ったからです」
「……なるほど」
「それに、リンネが私の身体を好きにしていても構わないんです。もう自分で生きるのにも疲れて――」
「さぞ気持ちが良いでしょうね」
「……はい?」
「失礼。実に気分が良さそうだと思いましてね。自身は求めていなくとも、周りが勝手に世話を焼くのですから」
平時は余裕の笑みばかり貼り付けている彼女の表情に、ようやくかすかな変化が認められた。
「ともかく、貴女の返事を聞けたので良しとしましょう。私は帰ります」
私は外界の場面をシャットアウトする。そうすると私たちは、何もない真っ白な空間に立つだけとなった。
「しかし愛美さんたちは、貴女のことをいつまでも諦めないでしょう。またそのうち追いかけてくるでしょうね」
「あの、ですから、私の言ったこと分かりますよね? 何度やっても無駄だって」
「……これ以上私に面倒をかけないでもらえますか?」
私はため息をつきながら、白い壁に扉を描く。これは佐滝鈴羽の意識から抜けるための出口である。
「いい加減理解してください。愛美さんの頑固さは貴女も知っての通りです。また私が駆り出されるでしょうが、その時は貴女にも付き合っていただきます」
「そんな……」
「佐滝さん。貴女のような面倒な方と関わったのが、私の運の尽きだったようです」
私はノブを回し、扉を開いた。
「――ま、待ってください!」
だが私の腕を、佐滝鈴羽が掴んでいた。
「め、面倒って何ですか?」
「言葉の通りです」
「私のどこが面倒ですか?」
「先ほど言いましたよね? 冷たく応じておきながら、本当は周りからの好意を確認して悦に浸っているところです」
「そ、そんなことは、ありません!」
「自覚が無いとは厄介ですね。あの草津以上の厄介者が宇宙に存在するとは驚きです」
「そ、そんな酷いこと……誰にも言われたことないのに」
「そうして優等生を自任しているあたりも面倒さ極まります。放してください」
私は手を振り払う。
だが佐滝はしつこく私の腕を掴み、食い下がる。
「面倒ってなんですか! 面倒なのは愛美ちゃんの方じゃないですか! あんなに酷いことしたのに……わざわざ月にまで追いかけてくるなんて」
「はぁ」
「だからレオルトン先輩からきちんと説明してください! もう……二度と私の前に現れるなって」
「では――」
佐滝が掴む腕にエネルギーを込め、彼女の手を弾き飛ばした。
そして指先に再びエネルギーを込め、尻もちをついていた佐滝に向ける。
「貴女の意識を消し去るとしましょう」
「……え?」
「外界の愛美さんたちには、貴女が自ら命を絶ったと説明しておきます」
佐滝は、自分に向けられた殺意を明確に感じ取っていた。
そして迫る死に、はっきりと怯えを露わにしていた。
「……私の何がいけなかったんですか」
「……」
「しくしく泣いていたら……誰かが助けてくれたんですか?」
「……」
「手がかからないように……ずっと……いい子にしてたのに」
半ば拗ねたように、しかし半ばでは何かを乞う様に、佐滝鈴羽は問う。
「……誰かが貴女に、いい子にしろと言いましたか?」
「……」
「母親に死なれ、一時は友人にも忘れられて絶望した貴女に、現実を受け入れて大人しくしろと誰が言ったのですか?」
「……助けて、とでも言えば良かったですか?」
「貴女が助けて欲しいのか、それとも本当に愛美さんたちの想いが鬱陶しいのか、私には分かりません。ですが――」
私は指先のエネルギーを霧散させ、扉を開け放した。
その向こうに、外界で佐滝の身体を前に何かを叫ぼうとする愛美の姿があった。
「貴女が何を思っているのか、直接彼女たちに話すべきだと思います」
「……」
「好きも嫌いも、言葉にしないと伝わらないのでしょう? 人間同士というのは」
佐滝は立ち上がった。
彼女が愛美や友人たちに何を伝えたいのか、私には予測できない。もしかすると良い結果をもたらさないかもしれない。
全ては佐滝鈴羽の“心”次第であろう。
――その3に続く