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ニルが家庭科室を後にした直後だった。
彼女は、それを狙っていたかのように階段を降り始め、家庭科室の扉を開け放した。
「こんにちは、早馴先輩」
佐滝
「こんな時ですけど、ゆっくりお話しませんか?」
「レイ……!」
外部は衝撃音や叫び声に満ちている。しかしこの場所だけは隔絶されているかのように、愛美にとっては鈴羽の存在だけが全てだった。
「早馴先輩、もしかしてその呼び方――」
「うん。私、もう全部思い出したの」
「本当ですか! それは良かった」
「だから……謝らせて」
愛美が、一歩踏み出す。
鈴羽は、動かない。
「レイが辛い時、何もしてあげられなくてごめん」
「そんな、私こそ……」
2人はその声に、涙を滲ませていた。
愛美は思った。罪悪感に満ちていた彼女の心に、鈴羽の表情が一筋の光をもたらしてくれた――戻れるかもしれない。かつて姉妹のような絆で結ばれていたあの頃に。
「許してもらえないかもしれない。でも私、できるなら――」
「嬉しいです……! もちろんです、仲直りしましょうよ」
鈴羽は、その端正な顔で、お手本のように綺麗な笑みを浮かべた。
「だから昔のように呼んでみますね……愛美ちゃん♪」
「うん……うんっ! レイ!」
愛美が数歩の後に、鈴羽の肩に触れる。
「愛美ちゃん」
鈴羽は愛美の手に、自分の手を重ねる。
「愛美ちゃん」
「レイっ!」
鈴羽の華奢な身体を抱きしめる愛美。
「温かい人ですね。愛美ちゃんって」
「そんなこと――」
「もう気に病まなくて良いんです。愛美ちゃんの事情を知らない私じゃないですから」
「ごめん……ありがとう、レイ」
「ふふっ。でもせっかくだから、一つだけお願いしても良いですか?」
「うん、言ってよ!」
愛美が長年来見ることが出来なかった、いや思い出すことすら出来なかった鈴羽の満面の笑みが零れた。
そして、鈴羽が言った。
「愛美ちゃんの一番大切なもの、私にください」
愛美の全身が、固まる。
硬直した愛美の腕からするりと抜け出す鈴羽。
下から覗き込むような上目遣いは、徐々に引きつっていく愛美の表情を鑑賞しているようだった。
「ニル先輩を、私にください」
愛美は反射的に、首を横に振った。
何度も、何度も、何度も。その瞳に涙を浮かべながら、何度も首を振った。
「ふふっ。まぁ愛美ちゃんが、すんなり認めてくれるとは……流石に思ってないですよ」
「レイ……私、本当に悪かったって思ってる。だけど――」
「でもニル先輩の気持ち次第じゃ、愛美ちゃんもうんと言わざるを得ないですよね」
鈴羽が、冷笑を浮かべたままスマートフォンを取り出す。
「ニル先輩の気持ち、聞いてみましょうか?」
録音された音声が、静寂の中で響き渡った。
『ニル先輩、愛美先輩と一緒に居て疲れないんですか?』
『ええ、たしかに疲れを覚えること……ばかりかもしれません』
『じゃあどうして……』
『一度約束を交わしたからには、勝手に反故には――』
『ねぇ、ニル先輩。本当はもっと別の相手と一緒に居たいんじゃないですか? もっとありのままの自分で居られるような……同じレベルで話し合える相手と』
『……』
『ニル先輩』
『あぁ、いえ……つい、想像してしまっただけです』
『何を?』
『そんな相手との日常を、です』
愛美が咄嗟に、口元を抑えた。
腹部から何かがせり上がってくるような感覚にえずきながら、膝をつく。
しかしその拍子に彼女は耐えることができなくなった。愛美はわずかに震えながら、嘔吐した。彼女が必死に口を閉じ、飲み込もうとしても、身体は応えてくれない。自己を守るために本能の方がより強い命令を下し、身体はその命令に従うだけだった。
「可哀そうな愛美ちゃん」
どうにか愛美が見上げた先にあった鈴羽の顔には、憐みの感情は露も無い。
嗜虐的な悦びを少しも隠そうとしない鈴羽の姿だけが、愛美の目には映っていた。
「でも好ましいことなんですよ。そうやって身体の中身を空にした方が楽になるんです。そして――」
鈴羽は身をかがめ、汚れた愛美の口元を優しく拭っていた。足元や手が吐瀉物で汚れることも厭わず、ただ愛おしそうに、何度も指先で愛美の唇をなぞっていく。
「心も空にしてしまえば、もう苦しむことなんて無いんです」
去り行く鈴羽の背を、もはや愛美は目で追うことはしなかった。
傍らの机で振動するスマートフォンにも、彼女は気づかない。恋人が託した唯一の連絡手段であったはずなのに。
そのスマートフォンを、鈴羽は音もなく拾い上げて持ち去っていった。
自分の吐き出したものを虚ろな表情で見下ろしたまま、愛美はやがて、遠くから聞こえる叫び声や破壊音を次第に認識し始めていた。
「愛美っ!」
勢いよく戸が開かれ、草津と杏城、樫尾、そして唯とリュールが家庭科室にやって来た。
「あ、愛美さん!?」
床に両手をついたままの愛美に、杏城が駆け寄る。何が起きたのかを問われても、愛美は黙ったまま動こうとしなかった。
「愛美さん、レオルトンさんは一体どこに――」
「ニル=レオルトンのことは、もう考えない方が良い」
愛美を除く全員の視線が、滑り込むように家庭科室に入って来た人物に注がれる。
胸元が破れた制服の上から、学園内で拾ったTシャツを被っている星野ルミ。彼女は誰にも有無を言わさずに愛美を軽々と抱え、廊下の方向に顎をしゃくった。
「逢夜乃さん。ニル=レオルトンは来ない。こんな所に留まる理由は無いんだよ。私が皆を、安全な場所に連れていく」
「待て星野嬢! 君も知っているだろう。今学園は封鎖されて――」
「地下に脱出通路がある。この程度のバリアは遮断する特別製だから問題なく外に出れる」
「……君はどうして、そんなものを知っているんだ」
「ニル=レオルトンが作った物は……全部把握してる」
「レオルトンが作ったというのが真実なら、信頼には値する。だが君のことは信用できな――」
そこまで言って、草津は気づいた。
先ほどの『逢夜乃さん』という呼び方に込められた親しみの念――つい最近転校してきた者には到底発せられないような響きの言葉に、草津は違和感を覚えていたのだ。
「まさか君は、俺たちをずっと前から知っているのか?」
「正確には“これから”知ることになる」
星野ルミが愛美を連れて行こうとするのを、草津は咄嗟に食い止めた。
「星野嬢。俺たちはここで待つ」
「ニル=レオルトンを信じるな」
「君にあいつの何が分かるんだ!」
「……なら、これを見て」
ルミが数秒片目を閉じると、再度ニルのスマートフォンが振動する。愛美のメイド服の内側からそれを取り出し、ルミは草津に向けて放り投げた。
そしてその画面に映るものに、草津は驚愕を隠せなかった。
「それは今から5年後に撮影された写真。私も含め、ここにいる全員が映ってる」
「つまり、君は……」
「私は、早馴愛美から生まれた子供。そして――」
ルミが怒りと憎しみに満ちた声色で呼んだその名は――
「――父親の名は、ニル=レオルトン。未来のアイツがこの宇宙を滅ぼすのを、私は止めに来た」
――第7話に続く