恋と賦堂の食戟に決着が付いた直後。
それを見ていた薙切真凪が不意に口を開いた。その視線の先にいたのは黒瀬恋であり、彼女の表情からは伺い知れないが、放たれた言葉からは彼への興味が滲んでいることが分かる。
「お前、名前は何と言ったか」
「! ……黒瀬恋です」
「黒瀬……そうか思い出した……お前、幼い頃にえりなとよく遊んでいたという少年だな? 味覚障害を抱えていたと記憶しているが……よもや此処までの料理人となっているとは驚きだ」
「! 俺のことを御存じで?」
「これでも一応は母親だ。幼かった娘の近況くらいは耳にいれていたさ……まぁ、さほど親らしいことは出来ていなかったがな」
話によると、どうやら真凪は恋の存在を知っていたらしい。とはいえ耳に入った情報程度の認識のようだが、幼い頃のえりなの近況から恋についての情報は記憶していたようだ。
恋の料理を見て一概には信じがたいと思ったようだが、それでも記憶と照らし合わせて考えた結果、同一人物だと確信する。
味覚障害―――その不都合の持つ苦悩や悲しみ。真凪はこの場にいる人々の中で唯一、それをよく理解していた。
神の舌を持つ彼女は、その味覚の
神の舌を持つ薙切母子と味覚障害の恋。
対極の感覚器官をもつ両者は、極端な賞味感覚故に食に対して苦しんでいる。当たり前に常識的な範疇の感覚器官であれば、何も考えずに楽しめたであろう食事。しかし極端な味覚だったからこそ、料理業界において非常に高い能力をもつ存在になった。
「この食戟、何故薊の奴がたかだか遠月学園の一生徒と争っているのかと疑問に思っていたが……なるほどそういうことか……面白い」
「何を理解したのかはわかりませんが……この食戟、貴女も無関係じゃない。神の舌を持つ貴女とえりなちゃんを、今日この場で満足させる」
「ふん……まぁ確かに、お前の調理技術はこの場の誰よりも高いことは認めよう。調理工程や完成した品、そして執行官の評価からしてもそれは明白だ。確かに、もしやすると、この神の舌を魅了するほどの品を作るのは、味覚障害の料理人かもしれぬな」
恋の言葉に笑みを浮かべてそう言う真凪の言葉には、期待の感情はなかった。そうなれば儲けもの程度の感情でしかなく、もしもそうなったのなら、今まで指折りの料理人達が成しえなかったことを、味覚障害の料理人が成すことになる―――その可能性に対する興味でしかなかった。
現に、今回恋が作った料理に彼女は手を付けていない。それが食すに足る料理ではないと既に判断しているからだ。恋もそれを理解している。
「そこで見ていると良いですよ。食べたくなったら、いつでも言ってください」
「ふん、己の宿業を受けて尚その言葉を吐ける精神力は褒めてやる。まぁ小指の先程度には期待をしておいてやる」
「十分です」
「精々頑張るといい。丁度最後の食戟も決着が付いたようだしな」
その言葉に厨房の方へと視線を向けると、執行官達は既に薊と叡山の品を評価し終えており、その勝敗がモニターに映し出されていた。
勝者は、満場一致で薙切薊だった。
とはいえ叡山は動揺や取り乱すようなこともなく、ただ敗北の事実を受け止めるように大きく天を仰ぎながら息を吐き出している。コンサル業にのめり込んでいた自分が、多少料理に真剣になったところで勝てる相手ではないと分かっていたのだろう。
それでも彼が悔しさに表情を歪めていない所を見ると、彼は彼なりにやるべきことやりきったということだ。
その証拠に。
「ふぅ……流石は元十傑というべきか……まさか君が此処まで腕を上げているとは思わなかったよ叡山。だが、結果は結果……君はリタイヤだ」
「……ああ、そうだな。だが目的は果たせた」
そう言葉を交わす両者の額には、じんわりと汗が滲んでおり、軽く呼吸も荒くなっていた。
明らかに消耗している。
高い実力を持った料理人同士の食戟ともなれば、恋と賦堂の時とは違い、互いにぶつけなければならない品の質を可能な限り高めなければならない。大きな力に押されれば、対抗する為に大きな力を出さねばならないのと同じこと。そしてそうするためには相応の技術と集中力を発揮する必要がある。
薙切薊は勝負に勝利したようだが、叡山は薊を大きく消耗させることに成功していたのだ。それはつまり、叡山が薊が消耗せざるを得ないほどの品を作り上げたということの証明に他ならない。
そしてこの消耗こそが、叡山が後に繋げるための一手。
薙切薊はおそらくこの後の食戟では出場してこない。だが黒瀬恋はこの後の戦いでも出場しなければならない時があるかもしれない。戦いを重ねればタフな恋といえど消耗する。
だからこそ、この一戦が唯一薙切薊を消耗させることが出来る戦いだったのだ。
叡山はそのことを理解した上で、己が出来る最大限のことをした。最終戦で戦う際に、恋にとって少しでも対等な条件で戦えるように。時間が経てばある程度は回復するかもしれないが、身体に残った疲労は完全には消えないのだから。
「なるほど……君を切った僕の判断は間違っていたかもしれないな。見事だよ、叡山枝津也」
「は、今更何を言ったところで変わらねぇよ。お前は今日潰される……覚悟しとけ、最後に笑うのは俺だ」
そんな言葉を交わせば、両者はそれぞれの陣営に戻っていく。
最初の創真と寧々の戦いに対し、恋と薊という両大将の見せた戦いはあまりにも静かに決着が付いた。
―――1st Bout 終了……
◇ ◇ ◇
それぞれの陣営の待機場所へ戻ってきた恋達と薊達は、2nd Boutまでのインターバルを前に各々の健闘を称え合い、次の戦いに向けての戦略を練り始める。
やはりというか、その場で話題に上がったのは幸平創真の試合だった。
環境、経験、技術、闘争心、あらゆる要素で圧倒的強者であった十傑の紀ノ国寧々に対し、引き分けたのだ。その事実は筆舌しがたい価値があった。
この連帯食戟は殲滅戦だ。一戦ごとにリタイヤする者が確実に出る以上、一回のBoutごとに両陣営の数は少しずつ減っていく。
今回の結果としては、恋側は一勝二敗、対して薊側も一勝二敗だ。恋と薊がそれぞれ勝利した以上、創真と寧々の勝敗がそのまま互いの有利不利を決めかねなかったのである。そんな中圧倒的優位に立っていた紀ノ国寧々に対し、引き分けた創真の功績は相当大きい。
なにせ先の試合で圧倒的な実力を見せた二年最強の料理人、紀ノ国寧々を引き分けとはいえ共に敗退させることに成功したのだから。
「よくやったな幸平、まさかあの品に対して引けを取らない品を作り上げるとは思わなかったぜ」
「サンキュー葉山。まぁ、負けちまったけどな」
「だが蕎麦や寿司、串打ちなんかの技術は、磨き抜かれたものであればあるだけシンプルに超えるのは難しいもんだぜ。天才であったとしも、どれも十年単位で習熟させるものだからな……それに引き分けたってのは、結果以上の偉業といえる」
「あら、リョウ君がそこまで褒めるなんて珍しいわね」
「事実ですよお嬢……俺が幸平の立場だったとして、闘争心やアイデアだけで勝てるほど、積み上げられた純粋な技術は甘くねぇ」
「負けは負けだ……あとは、頼んだ」
とはいえ、創真はこの引き分けを敗北と捉えていた。
この連帯食戟は遠月の将来を決める戦いでもある。遠月のてっぺんを目指す料理人として、勝ち残り、この戦いを最後まで戦い抜きたいと思っていた。
結果は初戦で引き分けによる敗退。
この上なく悔しく思っていることだろう。幸平創真とはそういう男だ。
葉山と黒木場。二人の料理人は創真にとっても得難いライバルと言える。実力も、才能も認めている。だからこそ、この後を任せることに何の不安もない。
二人の肩にぽんと手を置いて、後方へと下がる。その背中に声を掛ける者はいなかった。
「この後、どうするんだい? 黒瀬君」
創真の背中を見送りながら、あとから戻ってきた恋に振り返りながらそう問いかけるのは一色だ。食戟の結果をみれば、おそらくは最上の成果を出すことに成功した。恋はまだしも、他二戦は配色の濃い戦いにも関わらず互いに欠けた人数は同数。
まだまだ戦力の差はない状態で、この後の戦いを行うことが出来る。だが個々人の実力で言えば、間違いなくセントラル側の戦力の方が勝っているのが現実だ。
であれば2nd Boutでの戦いがこの先の流れを決めるだろう。
慎重にならざるを得ない。
だが恋はその問いに対しても悩ましい表情を見せることはせず、淡々と答えた。
「まず間違いなく、向こう側は最高戦力を出してくるはずです。今の勝負で互いにこの連帯食戟の主導権が握れなかった以上、俺達もセントラル側も2nd Boutは可能な限り勝ち数を得たい。なんなら三戦三勝で終わらせるのがベスト……そしてまだこの戦いが前半であることを考えれば、消耗という点でも終盤に残したい最高戦力を出すデメリットは限りなくゼロに近いですからね」
「司瑛士、小林竜胆、茜ヶ久保ももの最高戦力がそのまま出てくるとなったら、相当厳しい戦いになるね……」
「消耗を重視して、斎藤先輩が出てきてもおかしくはないですけどね」
「それでも勝率は1st Boutの比じゃないわよ? 恋君」
「だ、誰が出るんだべ?」
竜胆はまだしも、司とももに関しては恋の影響もあってその実力は非常に高い領域にある。学生の領域はとうに超えており、得意分野に限れば卒業生にも比肩しうるレベルだ。
特に、茜ヶ久保もも。
彼女は最早十傑第四席という称号すら見劣りするレベルの料理人に成長している可能性がある。スイーツ特化の彼女ではあるが、その力は今や第一席―――司瑛士にも勝るかもしれない。
そうなってもおかしくないほど、全力状態での調理経験と黒瀬恋への想いは彼女という料理人を変えてしまったのだ。
つまり、この時代でなければ全員が第一席となっていてもおかしくはないほどの料理人達が三人相手。
「次は――」
「次は俺が出るよ、黒瀬ちん。司さんとは、俺がやる」
「久我先輩……」
「最高戦力を出してくるとなれば、多分司さんは確実に出てくるでしょ? 後の二人が茜ヶ久保先輩や竜胆先輩、斎藤先輩の中から出てくるとしても、ここは俺に任せてちょ」
「……分かりました、じゃあ一人は久我先輩だとして、もう一人は葉山、任せていいか?」
「ああ、いつでもいいぜ」
「残る一人はどうするの? 恋君」
「残る一人は―――!」
久我、葉山とこのメンバーの中でも高い実力を持つ二人を選出したあと、恋は最後のメンバーを選出しようとしたその瞬間、背筋を走るプレッシャーに振り向いた。
厨房ステージを挟んで向かい側。
薊達の立っている更に奥に設置された椅子に、ぬいぐるみを抱きしめながらジッとこちらを見ている目があった。
―――出てこい。
そう言っているのが分かった。
グリーンの瞳は前髪の奥でぼんやりと確かな眼光を放っており、感情の昂ぶりを抑え込むようにして滲み出る闘志は今にも爆発しそうになっている。
「あと一人は…………俺が出よう」
「!? 黒瀬の連戦だと? 確かに先の戦いでテメェには対した消耗はないのかもしれねぇが、この戦いテメェが負けたら終わりなんだぞ!? 分かってんのか!」
「分かってるよ黒木場……だが、お前なら分かるだろ。あれほどのプレッシャー……無視すればどうなるか分かったもんじゃない」
「……チッ! 勝てんのか?」
「勝つしかない。お題次第ではあるけどな……それに、問題は早い内に解消するに限る」
「…………負けたら承知しねぇぞ」
茜ヶ久保ももが黒瀬恋を呼んでいた。
故に、2nd Boutのメンバーは黒瀬、久我、葉山の三名。こちらも得意分野に特化しており、その分野の勝負であれば学生の領域を超えた料理人達。おそらくは恋側が出せる最高戦力の形の一つだ。
そして恋には確信があった。
おそらく、いやまず間違いなく仕掛けてくる。
茜ヶ久保ももは、この2nd Boutで確実に―――
―――黒瀬恋に対し、食戟を仕掛けると。
1st Bout終了となります!
さて、修羅場始まりますね!
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