十話
―――遠月学園 宿泊研修。
それは、この遠月学園高等部の入学して最初の学校行事にして、第一の篩だ。
日程は五泊六日、その間幾つもの料理課題が出され、それを達成出来なければ即退学という凡人を蹴落とす気満々の恐ろしい行事である。
そしてその審査員として歴代遠月学園で戦い、無事に卒業していった卒業生達を呼ぶというサービス精神満点の駄目押しさえあった。遠月において入学した全生徒の中、卒業まで到達出来るのはほんの数%、彼らは一桁の人間しか到達出来ない場所に立った、超一流の料理人なのだ。
一学年の中に存在する凡庸な石は、この時点で退場して貰うということなのだろう。
事実つい先程男子生徒が一人、整髪料の匂いが原因で退学を貰った。
その退学を言い渡した卒業生は、四宮小次郎。
かつて遠月十傑第一席を手にし、卒業後はその年のフランス料理の発展に最も貢献した者に与えられる『プルスポール勲章』を手に入れた男。
フランスに自分の店を持ち、肉料理に重きを置きがちなフランス料理において、
だが恋はそんな彼を見て、すぐに分かった。
―――まるで八つ当たりだな。
実力は確かに超一流なのだろう、大勢の生徒の中整髪料の匂いを嗅ぎ分ける嗅覚も凄まじい、ほんの些細なことですら店の不評に繋がるなら排除するストイックさも確かに一流だ。
けれど感情を形にする料理人である恋は、四宮の心境に僅かな陰りを感じていた。
その姿はまるで八つ当たりをする子供の様で、何処か痛々しい。これが超一流の料理人の姿なのかと、疑問を抱いてしまう。
とはいえそんなことは今、関係ない。
まずはこの宿泊研修を生き残ることが最優先であって、卒業生の一人の様子がおかしいという要素など、恋にはなんら問題ではない。
「黒瀬君、この宿泊研修では並の生徒が全員落とされる。貴方の技術は一級品ではあるけれど、技術だけなら宿泊研修なんてする必要はないのは理解してるわよね?」
そう思考を打ち切った恋に、えりなが話し掛けて来た。
先日の様子とは裏腹に、今日はどこかシリアスな雰囲気を纏っている。まさしくお嬢様然とした佇まいだ。まぁ、その言葉の裏には恋が退学にならないかという不安があるので、どこかそわそわしているのだが。
「まぁな……おそらくは料理人に必要な能力が試されるんじゃないか。調理技術は勿論、現場での対応力、知識……技術だけ持っていても現場で活かせないなら意味がないからな」
「その通り。あの卒業生の先輩方は超一流の料理人、少しでも下手な姿を見せれば即座に退学にされる……精々気を引き締めた方が良いわよ」
えりなの言葉に心配の色を感じた恋は、クスリと笑みを浮かべる。
気の強い、ともすれば見下している様な台詞を言うえりなだが、恋はえりなの表情や声色から、心は字面通りではないのだろうと察していた。素直になれないえりなお嬢様は、本性では優しいのだ。
そしてえりなも、恋が自分の心を見透かしたように笑うので、うっ、と気恥ずかしそうに目を逸らす。
イチャイチャするな、同期達の心が一致した瞬間だった。
◇ ◇ ◇
課題は、卒業生の人数分生徒達をグループ分けして、卒業生のグループごとに行われる。
恋が振り分けられたのは極星寮の面々とは別のグループだった。創真と恵は同じグループとして別の場所へ向かっていったようだが、恋の知り合いは同じグループには見当たらなかった。
そして恋のグループを担当する卒業生は、
「おはよう諸君、79期卒業生の四宮だ。俺のグループではチームは組まない、個人個人の能力を測らせてもらう……課題は俺の指定した料理を作ること、ルセットを配るから回せ……ちなみに、ルセットの内容は公言禁止だ」
四宮小次郎だった。
彼が入って来てからピリついた調理場、同じグループの生徒達の表情に緊張感が走っている。まぁ、紹介されて早々に一人を退学にした男だ、恐れるのも無理はないだろうが。
張りつめた空気の中で、四宮のルセットが回されてくる。
フランス料理の野菜料理を得意としているだけあって、ルセットの内容は当然の様に野菜料理。
公言禁止というからには、おそらく全グループに同じメニューで課題を与えるつもりなのだろう。まだ課題を受けていないグループに対して、事前情報を与えるのは禁止ということか。守秘義務を守るのも、料理人には必要な心得だ。
「食材はまとめてあそこに置いてある。開始の合図と共に好きな材料を確保して調理に入れ……制限時間は三時間、では――取り掛かれ」
開始の合図が出た瞬間、その場に居た全員が食材に向かって走り出した。
恋も例外なく食材の確保に臨んでいるが、他の生徒達よりも幾らか早く食材を確保し終えていた。食材に近い場所にいたというのもあるのだろうが、スタミナを付けるために身体を鍛えている恋にしてみれば、他の生徒達の動き出しや移動速度は遅かっただけだ。
後はルセットを見て、いつも通り調理するだけ。
「さて……やるか」
恋は袖をまくって調理を開始した。
◇
そしてそれから少しして、恋は一番最初に四宮の下へと完成した料理を持って行った。
課題料理はテリーヌ。各野菜の色と甘みを楽しむ料理故に、見た目の華やかさは勿論、調理工程一つ一つを丁寧に仕上げなければ、味と色のハーモニーは生まれない。
だが、そこは恋の得意分野だ。
現に四宮に差し出されたテリーヌは、完璧な色合いで仕上げられている。四宮もその見た目の良さに内心では感心していた。
「(見た目は
食材選びの段階から頭一つ抜き出た動きを見せていた恋、当然四宮もそれを見ていた故に、一番最初に調理に入った恋に注目もしていた。しかも掛かった調理時間も十分早い―――ミスのない調理なだけでなく、調理工程にほぼロスタイムがない。つまり調理において無駄な動きがないことも理解出来た。
この段階で四宮の恋に対する評価は高い。
「では審査しよう」
そして実食。四宮はテリーヌをナイフで切り、フォークで上品に口に運んだ。
とはいっても、四宮は実食するまでもなく合格点であると予想していた。ミスのない調理、完璧な見栄え、これで味が伴わないというコミカルな現象が起こるなら、まともな料理人はいない。
四宮は少し咀嚼してから、自分の予想が当たっていたことを確認して頷いた。
「合格だ、お前……名前は?」
「黒瀬恋です、四宮シェフ」
「覚えておこう」
恋は無事合格。
余談だが、この後同じグループ内の生徒達の約30名が退学を言い渡された。
◇ ◇ ◇
ホテルに帰って来た恋達を待っていたのは、次なる課題だった。
合宿中のボディービル部の皆様に、牛肉ステーキ御膳を五十食作るというシンプルなもの。ただし、制限時間は一時間という鬼のタイムアタック。
終わった者から自由時間になるということで、第一の課題を終えた全員が、疲労の中死にもの狂いでステーキを焼き続けた。
そんな中、恋は真っ先に課題をクリア。
調理工程にほぼロスタイムの無い恋にとって、こういう課題はお手の物だ。しかも身体を鍛え、スタミナの多い恋は、何食かを同時進行で作ることも可能だ。正確に、精密に、一切の無駄なく調理をこなせる恋にとって、この宿泊研修の課題は相性抜群と言えた。
恋は課題をクリアしてから、早々に風呂へと向かう。
全員がステーキを焼いていた調理場は中々に暑い。だから少なからず汗を掻いたのだ。部屋に戻って浴衣や入浴セットを持ってきた恋だが、大浴場が何処か分からず少し迷っていた。
「此処か?」
そして少し歩いて辿り着いた大浴場。
露天風呂もあるようで、遠月リゾートに相応しい豪華な作りに圧倒されてしまう。恋も風呂は嫌いではないので、脱衣所で服を脱ぎながら期待に胸を膨らませる。
脱衣所を抜けて浴場に入ると、そこには広々として空間に大きな浴槽が待ち構えていた。大勢の宿泊客を迎えるためか、身体を洗うスペースとシャワーの数はかなり多く、浴槽もプール並に広い。
「おお……凄い」
手早く身体を洗って、浴槽に浸かる。
「あぁ~……これは気持ちいいな」
ほぅ、と息が漏れる。
身体の疲れがじんわりと溶けていくような感覚に、得も言われぬ快感を感じた。身体の芯から温まるこの気持ち良さには、中々抗いがたい魔力が秘められている。流石遠月リゾート、癒しの施設には力が入っていた。
ふと見ると、露天風呂に繋がる扉が目に入る。
屋内の浴場でもこの豪華な作りなのだ、露天風呂がどれほどの物か期待してしまうのは、仕方がないことだろう。
「露天風呂~」
広いお風呂に気分を良くした恋は、腰にタオルを巻いて鼻歌交じりに露天風呂へと足を踏み入れた。期待通り、そこには広い露天風呂が広がっている。
満天の星空を見上げながらお湯に浸かれば、これもまた趣きのあるお風呂の楽しみ方だ。満足満足、と恋は露天風呂を堪能している。
すると、竹で作られた仕切りの向こうから、露天風呂に入ってくる音が聞こえた。
「ん? 女湯にも課題クリアした奴が入って来たのか……早いな」
どうやら女湯にも恋と同じ位早く課題をクリアした人間がいるらしい。女性は髪を洗うのに時間が掛かる故に、もしかしたら浴場に入ったのは恋よりも早いかもしれない。
「はぁ……気持ちいい」
仕切りの向こうで浴槽に浸かったのか、そんな聞き覚えのある声が聴こえてきた。
「まさか薙切か?」
「ふぇ!? く、黒瀬君!?」
どうやら仕切りの向こうにいるのはえりなだったようだ。
まぁ、これほど早く課題を終える女生徒と言えば、えりなくらいしか思いつかない。当然と言えば当然だと恋は納得した。
仕切りがあるとはいえ、声の届く範囲にお互い全裸で風呂に浸かっているというのが、なんだか変な感覚だった。
えりなは見られる心配などないというのに、何故か身体を自分の腕で隠してしまう。やはり気恥ずかしいのもあるのだろうが、相手が恋だというのもあるのだろう。
「課題クリアしたんだな、流石、早いな」
「え、ええ……あれくらいの課題、当然よ」
仕切りを挟んで会話する二人。他に誰もいないからこそ、憚られることなく出来ることだ。
「……」
「……」
なんとなく、お互い気恥ずかしくなってしまう。
「あー……風呂あがったら、ちょっと散歩でもしないか?」
「そ、そうね……良いわ、付き合ってあげる」
「ああ……じゃあ、俺は先に上がるから……ゆっくりしてくれ」
「ええ……ありがとう」
結局、気恥ずかしさに耐えられずに黒瀬は露天風呂を去るのだった。