「はっ……はっ……はっ……ふぅ……!」
俺は、ご近所さんからの誤解を避ける為に、息を切らせながら、夜の町を当てもなくひた走っていた。
ちなみに、今現在の時刻は午後11時。真姫と別れたのが午後10時ぐらいだった記憶があるので、かれこれ1時間ぐらい走っている計算になる。
いくら鍛えてるとはいえ、流石にここまで走れば俺でもだいぶ疲れてくる。
そう言えば、凛は休日で暇な時には陸上の長距離の練習も兼ねて、約2時間ぐらい走っているって聞いた事があるけど……流石陸上部、到底俺にはマネ出来ないな。
そして、そうこう思っているうちに、流石に疲れたので、走り始めてからしばらくしたと思われる所で俺は足を止めた。
「はぁ……はぁ……こんだけ走って時間潰したらもういいだろ。これでご近所さんからの誤解は回避できたでしょ……って、ここは……?」
そして周りを見回すと俺は、今いる場所が、俺の良く知っている学校の前だと言う事に気が付いた。
その学校は、古く趣がある景観をしていて、しっかりとした歴史を感じさせる落ち着いた雰囲気を醸しだしている。その校門前に刻まれた、その歴史ある学校の名は――
「……『
穂乃果とことりと海未の、第一志望の高校……」
そう、いつの間にか俺は、穂乃果達の目指す高校の前にまで来てしまっていた。
国立音ノ木坂学院――それは古い歴史を誇った学校であり、その歴史は穂乃果曰く――
『音ノ木坂はね、すっごい古くからあるんだよ正ちゃん!
なんとね、私のひいおばあちゃんも、おばあちゃんも、お母さんもお世話になってるぐらいなんだから! そのぐらい由緒正しい歴史ある学校なんだよ!』
――と、何度も俺が小さい頃から穂乃果に、耳にタコが出来るぐらいに聞かされ続けた俺の記憶が正しければ、それぐらいの歴史がある学校なのだ。
俺が小さい頃は、その学校に入学する人は多く、それこそ6クラスや……場合には、7クラス分の生徒が集まる程の人気校でもあった。
しかし、今の少子化と都市部の人口のドーナツ化現象による、この地域の居住人口全体が減少した効果もあり、その生徒数も、今俺が通っている音ノ木坂中学と同じく減少の一途を辿り、経営難に
聞くところによるとその生徒数は、今現在の3年生が5クラスで、2年生が4クラス。
そして今年入学した1年生が3クラスで――まるで何かのタチが悪いカウントダウンのように、生徒数が減少しているらしい。
しかしそんな噂があっても、穂乃果は小さい頃からこの高校には特別な思い入れがあり、中学三年生となった今、この学校に入学するために穂乃果は猛勉強の日々を送っていたりする。
――まぁ、猛勉強って言っても、大抵俺や海未やことりに泣きつく事が多いんだけどな。
そして、そんな穂乃果と同じく、海未とことりもこの学校を第一志望にしている。
本来、二人の成績ならもっと上の高校を狙えたのに、ここに行くことに最終的に決めたのは、やはり二人とも穂乃果について行きたいっていう想いがあったのと――そして、進路を決める時四人全員でした、ちょっとした話し合いの末の決断の結果でもある。
まぁ、そんな感じで、俺は高校からは穂乃果たちとは、別の道を歩むことが決定しているのだった。
――え? 幼馴染の三人がここに通うのに、なんで俺はこの学校を目指さないのかって?
俺は……正確には“目指さない”んじゃ無くて、“目指せない”って言った方が正しい。
まぁ、俺が三人と一緒にこの音ノ木坂学院を目指せない理由としては、大きく2つほど理由があるが、その2つの内、大きい方の理由を挙げるとするなら――
――国立音ノ木坂学院という学校が、由緒正しい“女子校”だからだろう。
そう、男の俺では、ここは逆立ちしたって入学できない高校なのだ。
「……
俺はそう吐き捨てるように言って、若干不機嫌になりながらその場から走り出す。
……いや、悔しいんじゃない。こればかりは仕方ない事だから、クールでカッコいい男な俺としては、全然気にすることでもなんでも無いんだ。
そう……別に違う高校に行っても、俺達四人の友情はなにも変わらないっていう確信があるから。
ただ……穂乃果達三人が過ごす高校生活は、とっても楽しそうなんだろうなと思うと……どうしてもズルいなと思ってしまうだけである。
「さて、明日は新聞配達のバイト休みだから早く寝る必要もないし、どうせここまで来たんだ。たまにはに少し、
俺はそう言うと、疲れの少しとれた足を再び走らせ、夜の街並みを抜け、秋葉原の駅前を目指した。
――出来る限り、音ノ木坂学院の方から目を背けながら。
■ ■ ■ ■ ■
「しっかし……いつ見てもこの辺りはスゴイなぁ……」
秋葉原の駅前に着いた俺は、辺りを見回しつつ、歩きながら思わずそう呟いていた。
周囲一帯に立ちならぶ大きな建物と、煌びやかに装飾された店舗の数々。
そして、その店の看板には、可愛い猫耳を付けたメイド姿のアニメの女の子や、また有名なロボットアニメの主人公機がでっかく載っていたりして、いかにもそういう趣味の人間を惹きつけるようになっていた。
「流石……オタクの聖地って言われてるだけあるよなぁ……ここが俺の住んでる町の隣なんて、本当に信じられない」
俺の住む淡路町は、こんなにぎやかな場所とはまるで違う。
淡路町は、秋葉原や御茶ノ水……そんな東京の中でも人を特に集める、有名な街に囲まれていて、今もその町には古い建物や、数多くの
そんな古い建物が今も立ち並ぶその町を、『古臭い』とか、『骨董品みたいな町』とか言って馬鹿にする人は多いが、俺はそんな古い街並みに、どこかのんびりとした落ち着く雰囲気を感じていた。
だから、俺は他の人になんと言われようと、こんなギラギラした印象が強い秋葉原より、のんびりとした雰囲気が流れる、変わらないありのままの淡路町が大好きだ。
やっぱり……こういう所に来ると改めてその想いが実感できるな。
「よし……いい運動になったし、そろそろ頃合いだから帰りますか」
俺は最後の一走りのつもりで、歩いていた足を止め、そして勢いを付けて走り出そうとしたその時――妙に騒いでいる大人の二人組の声が、すぐ近くにあるUTXと書かれたビルの前から聞こえて来た。
……ってか、ここはあの『UTX学園』の前じゃん!? いつの間にこんな所に……って、今はそれどころじゃないか、一体何があったんだろう……?
俺は気になったので、何となくその声の方に向かってみる事にした……すると。
「ゆ~てぃ~~えっくすの……ばかやろぉぉーーーーー!!!」
「そうだぁ! その調子だ
「生徒……よこせぇぇぇぇぇぇーーーーー!!!」
「ヨッシャァ! 俺も一緒に行くぜ! UTXのバカヤローー!!!」
そこには、500mLの缶ビールを片手に持った二人組の大人の酔っ払いが、大声でUTX高校に向かって叫んでいるという、シュールな光景が展開されていた。
うわぁ……完全に酔ってるわあの人たち……なんかもめ事だったら何とかしようと思ったけど、ただ酔っ払いさんたちが騒いでるだけだったら、触らぬ神に祟りなしって事で帰りますか……ってあれ? それにしてはさっき知ってる名前を聞いたような気が……?
「わ~い、ありがと~
「わははははははっ! どういたしましてって事よ日与子! ダチの悩み聞く位、俺にとっちゃあ朝飯前! 何時でも飲みに行ってやるよぉ~!」
酔っているのか、顔を真っ赤にしながらそう言いあう二人組。
そんな二人の顔を見て、俺は一瞬で血の気が引く。
おいおいおい……あれ俺の父さんと、ことりのお母さんの
俺は、あの酔っ払いさん達の暴走が、途端に他人事でなくなったので、冷や汗を流しながら二人の元に急いで駆け寄る。
「よ~しぃ……最後にもう一回付き合ってよ響也~! せ~のぉ!」
「「UTXの………バッカヤロォーーーーー!!!」」
「父さぁぁん!! 日与子さぁぁん!! もうやめてくれぇぇぇーーー!!!」
俺は必死でそう叫びながら、酔っぱらう二人を抑えにかかったのだった。
■ ■ ■ ■ ■
そして俺は、二人の酔っ払いさん達を強引に取り押さえた後、『ちょっとぉ!? 正也く~ん!? 邪魔しないでよぉ~!』『正也かぁ~!? 丁度いい、お前も一緒に叫びやがれぇ!』――って言う二人を何とか
はぁ……なんで俺が酔っぱらいさん達の介抱をしないといけないのか……
そうして暫くすると、顔の赤さが少し引いた日与子さんが、おもむろに口を開いた。
「……ごめんなさい正也君、さっきは恥ずかしい所を見せちゃったわね……介抱してくれて、ありがとう」
そう言って、普段の冷静さが戻ったような表情でそう言い、日与子さんはこちらに向かって頭を軽く下げた。
その時、日与子さんの頭のてっぺんにある、鳥のトサカのようなクセっ毛も、同時に上下に軽く揺れる。
俺はその姿を見て、日与子さん自身が年に似合わず若く見えるのも手伝って、ことりとそっくり瓜二つのように思えた。
流石親子、やっぱりいつ見ても日与子さんは、ことりに似てるなぁ……いや、正確にはことりがお母さんに似たって言うのが正しいのかも……?
俺はそう思い直し、11月の寒い夜風の中、酔いを覚ますためにジッとして体が冷えたであろう日与子さんに、さっき自販機で買った暖かいコーヒーの缶を差し出した。
「はい日与子さん。あったかいもの、どうぞ」
「ありがとう正也君……あったかいもの、どうも」
そう言って微笑み、日与子さんは俺からコーヒーの缶を受け取った。
ちなみに、これを買った事で、正真正銘俺の財布の中はカラになって、極寒状態になってしまったが、それと引き換えに日与子さんの身体を温める事が出来たのなら、それで良しとしよう……
「うん……こんな酔っぱらっちゃったおばさんに優しく出来る器量があるなら、いつでも正也君に、ことりの事を任せられそうね……これからは私の事をお
「何言ってるんですか日与子さん、まだ酔ってます?」
「いえ、酔ってないわ~至って私は真面目に言ってるわよ~?」
「もう……日与子さんは冗談が好きですね……」
にこやかに笑ってそう言う日与子さんに、俺は軽く狼狽しながらそう答える。
この人は、こうやって俺に明るく接していて、とっても気楽そうな人に見えるが、その実は、俺がさっき見て来た、『国立音ノ木坂学院』で、立派な理事長として仕事に努めており、バリバリに働く出来る人でもある。
……でも俺は、いつも父さんや母さんと一緒に、明るく笑っている今の日与子さんしか知らないから、そんな話を聞いても信じられないのだが。
「おい、正也……俺の分のコーヒーは無いのか?」
そう言って、ようやく酔いから覚めたのか、父さんはさっきまで寝っ転がってたベンチから上体を起こしてこちらを見ていた。
「『人に施せるものがあるなら、まずは強いものでは無く、弱いものから先に施すべし』って父さんが俺に教えてくれただろ? 俺にとって、父さんは強い人だから大丈夫大丈夫」
「ははっ……息子に過大評価して貰って、父親としては嬉しい限りだっての……畜生、ケチな奴め」
そう言った俺に、父さんは仕方ないなと言う風に笑った。
「そう言えば、父さんと日与子さんは、なんであんな所で騒いでたの?」
「あ……あはははは……あの時の私の事は、忘れてくれないかしら」
俺の問いかけに、日与子さんはバツが悪そうに笑いながら顔を背けた。
――そう言えば母さんから聞いた事がある。
日与子さんは今、音ノ木坂学院の理事長として、今はまだそれほど危機的状況ではないが、それでも音ノ木坂の受験生の減少が止まらない今の現状を何とかするために、毎日遅くまで学校に残って、生徒数増加の為の打開策を会議で話し合っているらしい。
だから、きっと日与子さんは、そのストレスが爆発してさっきみたいに騒いでしまったんだろうと、俺は自分自身で納得した。
日与子さん……毎日大変なんだな……
「それがな、正也……俺が家に帰ろうとした時に、電話で急に日与子に『響也……私が奢るから一緒に飲みに付きあって!』って言われて飲みに行ったら、日与子の口から自分の学校の経営に対する文句が出るわ出るわ……だから、その文句の元凶っぽい所に連れて行ったら――あんな感じになったって訳」
「――
そう言って俺に詳しい事情を説明する俺の父さんに、慌てて叫ぶ日与子さん。
その姿からは、俺の前でいつも見せる、余裕ある大人の姿はすっかり跡形も無く、気の置けない友人に対して、気兼ねなく接する日与子さんの姿があった。
まぁ、この様子から察してもらえるように、日与子さんは、
どうやら、今でもこうやって時々飲みに行く間柄らしいとか……。
……うん、やっぱりこんな風に、中学の時からの親友関係が今も続いているっていうのはとっても良いことだよな。
俺は、仲良さそうに言い合う二人を見ながら、将来、穂乃果達ともそんな関係になれたら良いなと思いつつまた口を開く。
「UTX学園……俺のクラスの皆は、その高校の話ばっかりしてますね」
「……その調子だったら、きっと今年の音ノ木坂の受験生の数もまた減りそうね……知ってたけど、流石に実感すると辛いものがあるわね……」
日与子さんは、ため息交じりにそう呟いた。
『UTX学園』
およそ五年前ぐらいに出来た私立の高校で、古き伝統を貫く“女子校”の音ノ木坂とは正反対に、男女共に入学可能な“共学校”である。
その校内は、最新の技術が沢山使われており、入り口にある駅の改札みたいな所に、ICカードなどをかざす認証方式のゲートを使って出席をとっていると言うハイテクさを誇る。
そして内装がとっても綺麗で、しかも生徒の教育方面にも力を入れており、外国語関連の教育では生徒の海外留学のプランも充実していて、とってもレベルの高い授業が受けることが出来、そして目玉の“芸能科”では――うん、これ以上は話が長くなりそうだからやめておこう。
まぁ、とりあえずこの高校はそんな立派な設備が揃っているおかげか、入学費用だけで100万円、受験料だけでも5万円もかかり、その他授業料と教科書代、それに修学旅行の積立金も加えると容易に目のくらむような大金が必要になるという、超お金持ち高校である。
しかし、それでも年々入学希望者の数は増え続けるという、とんでもない高校だ。
その関係もあり、少子化などで元々減少していっていた音ノ木坂学院の入学希望者だが、この高校の存在でこっちにさらに生徒が流れ、トドメを刺すかのように一気に生徒数が減少していったのだった。
つまり、言ってしまえば音ノ木坂は、UTX学園の所為で入学者が減ってしまったと言っても過言では無いとも言える。
そう思うと、普段日与子さんは、学校の長として落ち着いた対応をしないといけない所為で、いつもは吐きだせない想いなだけで、本当はさっきのUTX学園前で酔った勢いで叫んだあの言葉が、日与子さん自身の本心なのかもしれない。
「……生徒に対するイメージ戦略に、学校の立地条件……そして、
正直、客観的な目で見たら、UTX学園の方が今の若い子供達には魅力的に映るわ。
やっぱり……今更どれだけ頑張っても、もう意味が無いのかもしれないわね……私は一体……なんの為に頑張っているのかしら……」
日与子さんは力なくそう呟くと、両手で顔を覆ってしまった。
まさか……日与子さんがここまで疲れてるなんて思っても居なかった俺は、どうしたら良いのか分からずに慌てた。
こんな時、カッコいい男だったら、迷わず日与子さんの事を励ますべきなんだと俺は思う。
でも、日与子さんが抱える悩みや、国立音ノ木坂学院の理事長として背負っている重責……それら全てを理解してるようで、まるで理解してない俺が何を言ったって、それは励ましの言葉にはならないだろう。
そう思って、まだ俺が、“人生”ってものを何も知らない子供である事を痛感しながら、落ち込んでいる日与子さんを前に、俺は何も出来ずにいた。
しかし、そんな日与子さんの頭に不意に手が、ポンと置かれた。
「…………なんのつもりなの? 響也?」
「全く、昔はもっとお気楽で能天気で、悩みなんてなにも無さそうに笑う奴だったのに……もうそんなに悩む事が出来るような、“大人”になっちまいやがって」
その手の主は――俺の父さんだった。
そのまま父さんは、日与子さんの頭を撫で始める。
日与子さんはそんな父さんの手を払いのけるでもなく、そのまま受け入れながら静かに呟いた。
「……当然じゃない響也、何時までも子供のままじゃいられないのよ、私達」
「でも、それにしては……こうやって頭を撫でられると、口元が緩むクセ、中学生の時から変わってないぜ?」
「――っ!? なに見てるの!?」
そう言うと、日与子さんは、恥ずかしさで真っ赤になりながら、顔全体を覆っていた手を口元の方を隠すように持っていき、父さんを怒ったような目で見つめた。
「……そうだ、それでいい日与子。
俯いて目を覆ってたら、見える
意味があるとかないとか、そんなの考えるのは後にしろ。大丈夫だ、お前ならやれる!
この俺がそう言うんだ……だから全力で頑張れ! そして頑張って疲れたら、またこうやって今日みたいにお前の愚痴……聞いてやるからよ」
「……ふふっ……あはは……そう言う響也も、そんな風に人を励ますのが上手い所……本当に中学の頃から変わってないわね」
「おう! 日与子の事は、俺が何時だって励ましてやるっての! だって俺は日与子の事が大好きだからな!」
「はいはい――“親友”としてでしょ? そんな事を私に言ってたら、ひかりちゃんに殺されちゃうわよ?」
「あああああっ!? 確かにそうだ……頼む日与子! 今のセリフ、ひかりには内密しておいてくれ!」
「ええ~……どうしようかしらね~?」
すごい……父さん。あんなに落ち込んでた日与子さんが、もう笑ってる。
俺は父さんと話しながら、いつものような笑顔にって笑う日与子さんを見て、改めて父さんの凄さを思い知った。
俺の父さんの凄い所は、落ち込んでいる人や悩む人を必ず放っておかない……そして、それが親しい人なら尚のこと放っておかない程の……少し度を超すぐらいに、お人好しな所だ。
そんな父さんは、いつも誰かの支えであろうとし……そして、落ち込み悩む人を励まし、そして迷いなくその背を押して勇気づける事が出来る。
――それが、
やっぱり、この背中を俺が追い越せる日は……まだまだ遠そうだな。
俺はそう思いながら、ポケットから真姫の家で充電させて貰って復活した携帯を取り出し、そして俺が今、電話をかけないといけないと思う相手の電話番号をプッシュする。
「――もしもし? 母さん? 俺今、父さんが日与子さんの事を口説いてた現場を押さえちゃったんだけど、どうしたら良いかな?」
『…………報告ご苦労……我が息子。――響也に、帰ったら“人体解剖学”って言っといて』
「正也ァァァーーーーー!!?? ひかりに報告したなお前っ!? 父さんが死んでも良いってのか!?」
父さんの叫び声が聞こえるが、いくらカッコよくてもそれはそれ、これはこれ。
日与子さんの事を大好きっていうのは余計だっただろ父さん……。
息子として、父さんのこういう、女の人を素で口説いていく天然タラシな所は矯正しないといけないって思ってるからな……父さんには家庭を持つ父親だって事を自覚してもらわないと……。
「ふふふっ、正也君は監視員さんとして優秀ね……頑張って生き残りなさい、響也」
「うおお……飛んでくる……帰ったら医学書が俺の頭に飛んでくる……」
「父さん、後悔するなら、今後はよく考えてから発言した方が良いよ」
「これでも毎回反省してんだけどなぁ……どうにもなんねぇよぉ……」
父さんはそう言って頭を抱えてしまった。きっと……もうこの手の発言は父さんにとって癖なんだろう……迷惑な話だ。
でも今回は、まだ厚みが薄い方の人体解剖学の本で許してもらえるだけ、まだ母さんの怒りもマシな方だろう……本気だったら、分厚い医学事典が飛んでくるしな。
「――うん、今日はスッキリしたからそろそろ帰るわね響也。今日は付き合ってくれてありがとう、これで来週の月曜日からの会議漬けの生活と闘えるわ。正也君……ことりの事をこれからもよろしくね、じゃあ私はこれで……」
日与子さんはそう言って微笑むと、この場から立ち去る為に歩き始めた。
「……そうか、それなら良かった。でも……本当に大丈夫か? まだ抱えてるもんあるなら、俺の事なんか気にせずに吐き出しちまえよ?」
しかし、父さんの日与子さんを気遣う発言に、日与子さんは帰る足を止め、立ち止まる。
そして、こちらを振り返った日与子さんの表情は、強いやる気と活力に満ち溢れていた。
「大丈夫よ。実はね……私は今、音ノ木坂学園の受験者数を増やすために、教育方針の大きな“改革”に取り組んでるの。正直、それは博打に近い物があるけれど……でも、どんな事をしても私は……私の学校を守りたいって思うから、私は頑張れる。
だからこれからも……弱音吐きたくなった時は、私に付き合ってね、響也」
「ああ……頑張れよ、理事長さん!」
日与子さんは、父さんと最後にそんなやりとりをした後、ついに行ってしまった。
強い足取りで帰る日与子さんのそんな背に、俺は心の中で精一杯のエールを送った。
やっぱり、何かの目標に向かってひたすらに頑張る大人って、全員カッコいいよな……将来俺もあんな風に、何かにひた向きになれるような大人になれるのだろうか――いや、なれるの“だろうか”じゃない、“なる”んだろ俺っ……!
俺は、そう思って自分に気合を入れた。
「……なぁ、正也」
「え? どうしたの父さん?」
そんな俺に対する父さんの突然の呼びかけに、俺は少し不思議に思いながらそう聞き返す。
――そんな俺に、父さんは真面目な顔を向けてこう言った。
「そう言えば正也は……進路の事を『自分に任せろ』の一点張りで、全然相談してこないが……ちゃんとしっかり考えてるよな?」
「………………当たり前だろ、父さん。急に俺の進路の事なんか聞いてどうしたんだよ?」
「いや、日与子の事見てたら、俺もしっかりしないとなって思ってな。
いいか正也――行きたいなら、どんな高校でも遠慮せずに言えよ……金なら俺がなんとかしてやるから……“絶対”何とかしてやるから! だから……
言葉を強めてそう言う父さんに、俺は少し苛立ちを覚えたが、何とかそれを抑えながら父さんにこう返す。
「…………わかったよ、志望校決めたら言うから、気にしないで父さん」
「――本当だろうな? 担任の先生からも、志望校決めるのがお前だけ遅いから、何か家庭で問題でもあったんですか? っていう心配の電話が来たんだぞ……いいか? 本当に遠慮なんてするなよ……“アレ”は俺とひかりの責任だからな? だからお前が気にする必要なんて――――」
「――――ッ!! だから、わかったって言ってんだろッ!!?? 同じ事ばっか……いい加減うるさいんだよ父さん!! 自分の進路ぐらい自分で決めるって言ってるだろッッ!!!」
俺は何回も同じことを言う父さんに、ついに苛立ちを抑えきれず、俺はそう叫んでしまった。
全く、俺の気も知らないで父さんは……!!!
一体俺がどんな思いで……“今の進路”を進む事を決意したと思ってるんだ!!
俺はさっきの言葉に続くように、思わずそう叫んでしまいそうになった心を、なんとか押さえつけて父さんを睨みつける。
父さんはそんな俺に何か言いたいような表情を見せるが……結局、それ以上掘り下げるようなことはせず……
「……そうか、わかった。正也がそう言うんなら、俺は何も聞かねえよ……」
そう言うと父さんは、前を向いて歩き始めた。
俺は、そんな父さんの後を追うように歩き始める。
「……さっきは、怒鳴ってゴメン……父さん」
「――え? 何のことだ正也? あんなモン……俺にとったら怒鳴った内に入らねぇよ、だから謝る必要なんてこれっぽっちも無いぜ~」
そう言って、俺を何も咎めるような事をせずに笑う父さん。
そんな父さんの笑顔に、俺は自分とは全く違う、器の大きさと確かな強さを感じた。
――全く、父さんには本当に敵わないよ。
「さて……俺達も家に帰るとするか」
「そうだね、家に帰ろうか父さん……母さんが待つ家にね」
「ああああああああーーー!!! そうだったぁぁぁーーー!!! 正也、頼むからお前が俺のフォローしてくれ! それだけでなんとか首の皮一枚は繋がるかもしんねぇ!」
「残念でした。俺は明日の朝から穂乃果達と一緒に勉強会する予定だから、帰ったらすぐ寝るつもりなんだよね」
「くっそぉぉぉーーー!! この親不孝ものがぁぁぁーーー!!!」
俺と父さんは、そんな事を言いあいながら家まで帰った。
――――こうして、俺の予定ずくめの忙しい土曜日は、ようやく無事終了したのだった。
※ ※ ※ ※ ※
愛する娘の元に帰る為に、日与子は一人、夜の町を歩いていた。
そして、おもむろに日与子は、その手に持つ少し大きめの手提げカバンから、A4サイズの封筒を取り出しながら呟く。
「あ~あ……今日は響也に、“この話”をするつもりで飲みに誘ったのに……結局話せなかったわ。……けど、まぁ良いわ」
日与子はその封筒を片手で持って、夜空の満月に向かって翳す。
「うん……これで良いのかもね。だって……今日もこんなに励まして貰っちゃったから。
これ以上響也の事を頼りにしちゃったら……きっと私、罰が当たるわ」
そう。とても仲が良くて……そして、とっても感謝している存在だからこそ……頼れない……頼るわけにはいかない。
「よし……とりあえず月曜日にある、最終の職員会議で頑張らないと……教師達からは大体、過半数の支持は得てる筈だけど、少なからず“反対派”も居るから、その人達に対するフォローもしっかりしないと。
それに、職員会議を通っても、肝心の理事会で過半数以上の支持を貰わないと意味が無いわ……何とかして、こっちの改革案の正当性を主張出来るようなスピーチ内容も考えないと……ふふっ、やる事はいっぱいね……響也に励まして貰わなかったら、きっと、折れちゃってたかもしれないわね私……」
日与子はそんな事を呟きながら、フッと微笑む。
「……ありがとう、響也。ひかりちゃんと旦那様には悪いけど、私は一番の心の支えは響也ね、間違いないわ。きっと、響也が居なかったら、この“改革案”を押し通そうなんて事……私には出来なかったわ。
だからこそ、もうこれからは響也に頼らなくても私は1人でやれるって事……証明してみせるわ! 頑張りなさい……私!」
――そう、意志を貫く強さなら貰った。
――そして、心が折れないようにと支えても貰った。
――これで出来ないなら、私は響也の親友失格だ。
そんな意志を固め、日与子はしっかりと進むべき方向を見据えた。
「――――大丈夫。これからは……私一人でやれるわ」
そう強く言い聞かせる日与子の手には、カバンからとりだしたままの封筒が、右手に握られている。
その封筒には、こんな文字が記載されていた――――
【国立音ノ木坂学院における経営改革案】
『国立音ノ木坂学院の共学化における、男子生徒の音ノ木坂学院受け入れに関する要項』
ここまで読んで下さってありがとうございました。
今回も前回に引き続き、お気に入り登録してくださった方、感想をくださった方全員に感謝を……
では、誤字脱字や感想などがございましたら、是非感想欄にお気軽にどうぞです。