「……はぁはぁ」
可能性として極めて低かったが、大家さんが俺の部屋に異物を持ち込んでないか確認しているのではないかと危険ではないと自分に言い聞かせるように、鞄を持って恐る恐る自室へと向かったが、自室へと繋がる鍵穴は潰されており、おそらくピッキングか何かで抉じ開けたのだろう。音を立てないようにそっと人影が見えたリビングへ向かう。そこで目にしたのは大家でもなく、知人でもない。ただの他人――。
思わず絶句して呆然としてしまった俺だったが、ふとした瞬間に物音を立ててしまい侵入者と目が合ってしまう。
そいつが何を言っていたのかわからない。
けど、そいつが手にしていた物は見えてしまった。
つい先日、身に着けていた女性物の下着だった。それを見た途端に、頭を過ったのは怒りでも、呆れでもなく。恐怖。
見つかって何をされるかわからない女性にしかわからないであろう恐怖を感じた。
逃げないと――。
そう思ってからの行動は早かった。少しでも荷物を減らして逃げれるように、手に持っていた鞄を投げ付けるように侵入者に当てて、全力で逃げる。
財布もその中に入っていたが、自分の身より大切なものなんて何もない。
「ここまで来れば、大丈夫かな」
こんなところには逃げて来ないだろう、そう思える場所に逃げ込んできたが邪魔になったりしないかな。走って向かった先は、『神田明神』。『μ’s』の練習場所でもあるこの場で物陰となる場所で息を殺す。
人に迷惑を掛けたくないなという思いが頭を駆け巡ったが、とりあえずは逃げ切ることだけを考えることにした。
時間が経つにつれ、一つの足音が近付いて来た。
「……っ」
思わずあげそうになった悲鳴を必死に押し殺し、口元に手を当てて堪える。
目尻には水滴が溜まり、今にも漏れ出しそうになったが、我慢する。
すぐ近くまで足音が近付いて来た瞬間――。
急激に天候が悪くなり、雨が降り始めた。
今いるこの場所付近は雨を防ぐものが何もなく、雨曝しになる。思わず追ってきていた侵入者も諦めたのか足音が遠ざかっていく。
けど、今の俺は緊張感が解けて、身動き一つ取れない。
大雨の中、地面に蹲るように座り込んで、数時間が経っただろうか。必死に抑え込もうとした嗚咽が涙が出始めてから何十分が経っただろうか。
自身に当たっていた水滴が突然、なくなったことに気付き、涙か雨かわからないぐらいグシャグシャになった顔をあげる。
「……何してるん? そんなとこにいたら風邪ひくよ」
「の、希……先輩」
百パーセント善意だけで行ってくれるその行為だけで、私は救われた気分になり感極まって希先輩に抱き着く。
土砂降りの雨で全身濡れたままの私だけど、希先輩は優しく抱き締めてくれた。
現在進行形の大雨と比例するかのように、瞳からは永遠に涙が流れ続ける。
精神的に落ち着くまで数十分を要し、安定してから簡単に事情を説明して、希先輩の自宅でゆっくりと落ち着いた空間で話すこととなった。
「……ごめんなさい。さっきも、今もここまでしてもらって」
希先輩の家――私と同じくマンションの一角だけど、通して貰った直後、雨でびしょ濡れになった体を温めなという一言によって、お風呂まで借りさせて貰った。
現在もシャワーで体を温めている最中の私だけど、脱衣所で希先輩の気配がしたので懺悔するような声音で呟く。
おそらく今は私が着ていた制服を洗濯してくれているのだろう。
下着類はネットを貸してくれたので、それに入れて自分の手で洗濯機の中に入れた。別に希先輩が実行しても怒らなかったのに、あんな変態に触られるよりよっぽどマシだ。
「ええよ。あの状態で光莉ちゃんを放置しちゃったら、それこそ自分が許せへんし」
『μ’s』のみんなにも怒られるしな。と苦笑交じりに言う希先輩。
「……他人事のように思えるかも知れんけど。ほんま、災難やったな」
「ええ、まぁ」
「これからどうするん? あの家に戻るのは嫌やろ」
「……そうですね。取り敢えず、警察に連絡して、引っ越しすることにします。セキュリティ面が頑丈なところに」
脱衣所で壁に凭れながら話しているのだろうか。
彼は親身になって話を聞いてくれる。たったそれだけで、心は温かくなるし、安心させられる。
階段で転落しかけた時も、『神田明神』でのさっきの出来事の時もだけど。希先輩はそこにいてくれるだけで、安心感を与えてくれる。
「そっか。……光莉ちゃん。もしかしたら、もう男なんて信用出来ないかも知れないけど、光莉ちゃんさえ良ければ、ここにいてもいいよ」
「えっ……」
「こう見えても一人暮らしって結構寂しいんだよね。だから、一緒にいてもええよ。まぁ、一人暮らししてて恐怖を感じてしまった光莉ちゃんの弱味に付け込んでるみたいやけどね」
最後に一言付け加えたけれど、本当に希先輩がそんなことを考えているはずがない。実際に狙っていることを口に出す行為を行う人はただのバカだ。だけど、希先輩はそこまでバカじゃない。おそらくそういう考え方もあるということだけ言いたかったのだろう。
希先輩はいつも、そうだ。
会話している相手が本能的に欲している言葉を、あったかい言葉をくれる。
「あり、がとう……ございます」
「うん。だから、ゆっくりしていってね。着替え、うちのやけど、ここに置いとくから」
そういって足早に去っていく希先輩。
きっと今回の件で男性恐怖症になっているかも知れない私のことを気遣ってその場から離れていったのだろうと考える。
……あそこまで誠実な人になら、恐怖を感じないんだけどね。
今はまだ希先輩しか知らないけど、下心剥き出しな男じゃなかったら大丈夫だと思う。なんか、そんな気がするんだ。
(希先輩のように包容力のある人になら、自分の全部を曝け出せるんだけど、ね)
「……本当にありがとうございます」
シャワーを終えた私は、希先輩に貸してもらった衣類を着用してリビングに佇んでいた。
さすが男子といったところか、彼の衣類は大きくシャツ一枚でも、太もも辺りまでは隠せるんじゃないかと思ったが、あの事件の後だからかそんなことは出来なかった。藍色のジャージもきちんと穿かせてもらいましたよ。
希先輩が寛いでいる場所の前の席に座り、口を開く。
「え、えっと、事情は既に簡単に説明させてもらったはずなんだけど、詳しくした方がいい……かな」
不審者に追われている所を助けて貰っただけでなく、衣食住まで提供してもらって尚、なんでこんな状況に追い込まれたのか説明しないなんて許されないよね。
机の下で希先輩にバレないように拳を強く握って、苦痛に塗れた表情を出さないように気を張る。
「ええよ。言わんでも」
「えっ?」
「……そんな我慢して、無理して言わんでもええよ。うちは男やけど、一人暮らししてる身やから、そのニュース知ってたし。最初から心配してたぐらいやし」
頬杖をつきながら、少しムスッとした表情で告げる希先輩。
何に対して怒っているのかわからない私は、頭の上にハテナマークが浮かんでいそうなぐらい頭がこんがらがっていた。
「はぁ……。“俺”はお前が心配だったんだよ。一人暮らしだって情報は聞いてたし、何より可愛いと思ったお姫様なんだからさ」
急に真剣な顔付きで一人称までも真面目モードに変貌していたので、対策を取っていなかったが故に心がドキっとしてしまった。
守られたい願望が女性全員にある気持ちなのかはわからないけれど、今の私はそう思ってしまった。希先輩なら温かく、そして優しく守ってくれるのではないかと。
「……ありがと。希」
ずっと気を張っていたからか、安心感を与えられた瞬間。
私の体からすぅっと力が抜けていき、瞼が次第に開けられなくなっていた。そして、重力に従うかのように机に突っ伏すようになり、意識は白く濁っていく。
最後の言葉が聞こえてたらどうしようかな。
目を覚ましたら取り敢えず、謝罪しないとね。年上なのに、呼び捨てで呼んでしまってごめんなさいって。
「お疲れ様。今はゆっくりお休み……。お姫様」
主人公のピンチに颯爽と登場したのは、東條希でした!!
嘘ですよ。それだけの為に希にしたわけじゃないですからね!!
……正直に言うと、後書きを書いている際に気付きました。これ、ダジャレじゃんって。
まぁ、それはさておき、いかがでしたでしょうか。第10話。
フラグ回収が早いって?
仕方ないじゃない! 忘れちゃうんだもの!!