龍驤が男と再会した翌日の昼、真上に位置する太陽が横浜鎮守府の屋根を容赦なく照りつける中。とある駆逐艦の部屋で、大きな溜息が漏れていた。
「演習……全然勝てないね……」
「私達の練度が足りてないのでしょうか……」
陽炎型一番艦の陽炎は午前中に行われた他鎮守府との演習の結果を受けて、その日十度目の溜息をついていた。それを受けて同じく陽炎型の二番艦不知火は、相方の溜息の多さに溜息を吐く。
「そもそも戦艦や空母の先輩相手じゃいくら練度を高めても無駄っぽいー!」
「もっと作戦を練らないとだめかもね……」
白露型の四番艦夕立は、椅子に座りながら足をバタバタとさせ、相方の白露型の二番艦時雨は、そんな夕立の肩に手を置きなだめる。
「呉鎮の白露や村雨はどんどん勝ってるっぽいのに……」
今は別の鎮守府に所属している同じ白露型の姉妹艦の顔を思い浮かべ、陽炎の溜息がうつったのか夕立も先ほどから溜息を繰り返している。この四人に加え、演習で負った傷を癒すため現在入渠中の睦月型一番艦の睦月、二番艦の如月の二名を加えた艦隊が編成されている。
陽炎達が所属しているのは、艦娘の維持に必要な資源を蓄えるための遠征や、海流の影響から駆逐艦のみでしか進めない海域を攻略するために、駆逐艦のみで編成された艦隊。通称第七駆逐隊は、編成から一ヶ月経つも、演習に勝利したことが無かった。
「大体相手が悪いのよ、どうみても駆逐艦のみで勝てる編成じゃないわよ」
「確かに、艦隊の自信をつけるために呼ばれているとしか思えないわね」
午前中の演習相手は、戦艦が二隻、正規空母が二隻、重巡が二隻と、駆逐艦では到底敵わない編成だった。
「あー……これじゃあ私達のやる気が削がれてくわ……」
陽炎はベッドに倒れこみ、枕に顔を押し付けると足をバタバタと布団に叩き付ける。
「まあこれも駆逐艦の宿命ってやつなのかな……」
「納得いかないっぽいー!」
「…………」
その様子を見ていた不知火は、ある一つのことを考えていた。演習というのは、相手に掠り傷一つつけることが出来なかったとしても、練度自体は上昇する。つまり、演習を続けていれば、練度は必ず、艦娘の力を更に引き上げることの出来る改造まで達するのだ。しかし、負け続けると当然やる気がなくなり、コンディションは最悪となり続ける。それは遠征や出撃にも影響するし、勝てない相手とはいえ、自信も失っていってしまう。自分が見ている限りでも、第七駆逐隊一人一人の練度は決して低くないはずだ、一矢報いるチャンスは必ずある。
「午後から夕方までは自由でしたね、ちょっと出てきます」
不知火は腰掛けていた椅子から立ち上がると、引き出しから外出許可証を取り出し、机に向かい用紙に記入し始める。
「あれあれー、不知火どっか行くの?」
「ええ、少し駄目もとではありますが……演習の勝ち方を朝霧提督に尋ねてみます」
不知火の口からその名前が出た瞬間、その場の空気が少し重くなる。おそらく艦娘なら誰でも聞いたことがあるであろう提督の名前だった。当時深海棲艦に蹂躙され続けていた人類が、反撃の狼煙を上げるきっかけとなった人物。そして、鎮守府設立以来最も悲惨だといわれたLE作戦の中心人物。会ったことはないが、彼の考える作戦は思いもよらないもので、幾度と無く深海棲艦を欺き、葬り去っていったという。不知火は、その当時の主力艦隊唯一生き残りの龍驤が、昨日会いに行ったと聞き、住所を尋ねてみたのだ。断られると思ったが、龍驤はすんなり住所を教えてくれたため、今日の演習がまた負けに終わったなら、昼の休みを利用して訪ねようと思っていたのだ。
「でももう、その人提督を辞めたって聞くけど……」
「それでもアドバイスだけならもらえるでしょう、いやもらうまで帰らないつもりです」
陽炎は、まだ見ぬ朝霧提督を不憫に思い、顔の前で小さく合掌した。不知火は頑固だ、見た目はクールなのだが、実は自分より激情家だったりする。もし朝霧提督の家に行き、話を聞いてもらえなかったら、恐らく話を聞いてもらえるまで家の前に居座るだろう。
「頑張ってねー」
「ボクも一緒に行った方がいいかい?」
「いえ、一人で大丈夫です」
不知火は外出許可証を書き終えると、それをそのまま陽炎に渡し、秘書艦である正規空母の瑞鶴に手渡すよう頼んだ。
「ほい、いってらっしゃい」
自分達、第七駆逐隊の部屋を後にし、玄関前の姿見の前でネクタイなどをチェックし、手袋をはめなおすと、よしと呟き提督の自宅目指し歩き出した。提督の自宅までは、徒歩では少し時間がかかるが、普段から訓練で鍛えている不知火にとってはそれほど苦にはならなかった。久しぶりの外出に心が躍り、少し顔を緩ませ穏やかな笑みを浮かべると、あちこちの景色を見渡しながら歩みを進めていた。
「……こんな顔陽炎には見せられないわね」
気付けば、提督の家の前に到着していた不知火は、緩んだ頬を両手で叩き、いつもの凛とした表情に戻すと表札のない扉の前に立つ。メモを何度も確認し、そこが朝霧提督の住所だということを確認すると、深呼吸しインターホンを押す。いくら話を聞けるまで帰らないと言ったとはいえ、この日差しの中居座り続けるのも流石にしんどい。不知火は一度で出てくれることを祈りながら、ドアノブを見つめる。そのチャイムの音に合わせて、中で少し物音がすると足音が近づいてきた。チェーンとカギを回す音が聞こえると、すぐにドアノブが回転し、ゆっくり扉が開いた。ドアの隙間から覗かせた顔は、不知火は目の前の男が本当に自分が探していた提督なのか一瞬疑問に思えるほど、酷い形相だった。しかし不知火は動じず、背筋を伸ばして敬礼する。
「陽炎型二番艦不知火です。朝霧提督にお伺いしたいことがあり、失礼だとは思いましたが連絡手段がなく、突然押しかけた所存です」
「……龍驤に頼まれたのか?」
「いえ、龍驤さんからは住所を伺っただけです。司令には演習の助言をいただきたいのです」
「…………演習?」
「はい」
「嫌だと言ったら?」
「助言頂けるまでこの場を離れません」
不知火は表情を変えずに淡々と言い続ける。そんな相手の気持ちを知ってか知らずの憮然とした不知火の態度を見て、今は亡き正規空母加賀の姿を重ねる。朝霧は溜息を吐くと、聞くだけ聞いてやると言い、不知火を家の中に通した。
「失礼します」
不知火は部屋に入る前に律儀に頭を下げると、ゴミや脱ぎ捨てられた服が散乱する部屋の中へ足を踏み出す。辺りを見渡し、座れる場所を見つけると、朝霧が腰かけるのを待ち、それに合わせて自分も正座する。
「単刀直入に聞きます」
その時、不知火は今まで眉間に皺を寄せ常に険しい顔をしていた朝霧の顔が、少し緩み、口角がほんの数ミリ上がったことに気付いた。
「……不知火に何か落ち度でも?」
朝霧は不知火には分からない程少ししか表情を動かさなかったが、不知火に一発で見抜かれたことに驚き、眉間の皺を多少緩める。
「いや、昨日からよく単刀直入に話を聞かれるなと思ってな」
「……はい?」
「いやすまん、続けてくれ」
不知火は怪訝な表情を浮かべたが、朝霧の表情がほんの少しだけ穏やかになったのを見て、自分が何か粗相をしでかした訳ではないと安心する。
「駆逐艦六隻のみで、戦艦や空母相手に勝利することはできますか?」
朝霧は少し俯き、考えるとすぐに不知火の三白眼と目を合わせる。
「……出来ないこともない」
「ではご指導いただけませんか?」
「……何でわざわざ勝ちたいんだ?確かにやる気は無くなっていくだろうが、練度は確かに上昇していくだろ」
「他鎮守府の艦娘から、私達はボランティア艦隊など揶揄されていることを耳にしました」
「やる気やコンディションを無償で上げさせてくれる艦隊ってか?」
「非常に悔しかったです。不知火達の第七駆逐隊は決して劣っているとは思えません」
「で、見返してやりたいと?だけど正攻法で駆逐艦が戦艦空母部隊に勝つのは無理だ」
「それでも、何がなんでも勝ちたいんです」
その時点で、不知火は目の前の提督の印象が、数分前より大きく変わっていた。もちろん不知火はLE作戦の概要を詳しく知っているし、それによりその男が提督を辞めたのも知っている。だからあんな形相で日々を過ごしているのも納得ししていた。
(……どうしてなかなか、朝霧司令は思ったよりよく喋るのですね)
対面した時点で無口で不愛想な印象を受けたが、凡そ数分の会話で不知火より多くの言葉を紡いでいた。そして朝霧は深く考え込んでいた。あの日から三年、一度も深く眠れた日はない。別に自分を脅かすものなど存在しないというのに、何故か夢の中では不安に押しつぶされ、あの情景を何度も描き出していた。貯金で生涯を過ごすなどと考えていたが、このまま行けば確実に、天寿を全うする前に病気で確実に死ぬだろう。何かを成し遂げなければ、その悪夢が終わることはない。あの日の、あの海域を攻略し因果を断ち切らない限りは、一生沈んでいった少女達の幻影に追われ続けるだろう。しかし、今更自分に戻る場所はあるのだろうか、人類が立て直そうという時、逃げ出し全てを投げ出した自分に。それにまた少女達を海原へ送ることが出来るのだろうか、死地へ送り出すことが出来るだろうか。
ここで終わったら一生……キミはこのままやろ……。
龍驤のあの言葉が頭に響く。自分は罪を償うべきなのか、だとしたら提督になることによって罪は償われるのか、そもそも自分に罪は何なのか。頭の中で様々な疑問が飛び交い、混ざり合う。
「…………ちょっと外で待ってろ」
不知火はそう言われるがまま、外へ向かうと、ドアの前で照り付ける太陽を見つめていた。
およそ数分でドアは開き、そこには青いジーンズに、黒いシャツ、青い上着を羽織った朝霧の姿があった。
「行くぞ」
「横浜鎮守府にお戻りになるのですか?」
「とりあえず会ってみるだけだ」
朝霧はそれだけ言うと横浜鎮守府へと向かい、不知火はその一歩後ろを歩き出した。
道中、お互い一言も口を開かなかったが、不知火も朝霧も特に気まずいといった雰囲気はなく、気を使って無理に話題を作るということはなかった。
「…………こう言う言い方はなんですが、司令はまだ軍籍は残っているのですが?提督は辞めたと聞いてましたが」
「ああ……俺は辞めると言って辞表を出したが、お上がいつでも俺が戻れるように、俺は自宅謹慎兼療養中扱いになってる」
「つまりまだ軍属の身ではあるのですね?」
「まあな、俺は戻る気はさらさら無かったし、辞めたと思ってもらった方が良かったが……」
「ですが、現に司令は戻られているでしょう」
「そうだな……気持ちの整理はある程度ついていた。しかしキッカケがなかったんだろうな」
「……私が横鎮に配属されたのは、一年ほど前ですが、その時から龍驤さんはいつも司令のことを心配そうに話してましたよ。昨日会いに来られたのでしょう?」
「ああ、いざ会ってみると……なかなかな、素直に戻るとは言えなかった」
あの龍驤の後ろ姿が脳裏に焼き付いている。
そうか、自分は謝りそびれていたのだった。あの日のことを、逃げ出してしまったことを謝りたかった。
「司令の手腕は聞いています。横鎮に戻られることを検討なされては?」
「………気が向いたらな」
不知火は、それはつまり提督に復帰する気が多少はあるのではないのかと考えたが、言葉には出さず、そっと胸にしまった。