孤島の六駆   作:安楽

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5話:

 時刻は深夜。照明を落とした超過艤装・伊勢型の艦橋にて、駆逐艦・電はこれまでの航海を振り返っていた。

 水無月島を発ってもう2週間が経つ。敵襲は止むことがないものの、現状それらを危なげなく撃退出来ている。

 敵勢力に航空機の姿が見られないこともあるが、何より大きいのは“指輪付き”となった暁の驚異的な性能だろう。

 同じ駆逐艦として、そして姉妹艦としては羨ましく思えるほどの活躍だ。それを素直に喜べるのは、やはり指輪によって“白落”の症状を抑えることが出来たからだろうか。

 強大な力を安定して発揮出来るからと、いささか張り切り過ぎな部分もあるが、燻っていたこれまでを想えば諌める気も起きない。自分の分まで戦ってくれていると思えば、尚更だ。

 

 ただ、あれだけの駆動を続けて、揺り返しが来ない無いわけがない。

 現状は補給も整備も行き届いてはいるが、艦娘としての寿命は確実に損なわれるだろう。

 当直として隣りに座っている霞とて、“指輪付き”として戦い続ける道を選んだものの、たった数ヵ月でその寿命を使い切っている。

 次に出撃したら、もう二度と海面には立てないと診断されたがゆえに、専属の秘書艦として旗下に発破をかけて来たのだ。

 海上で戦えずとも、艦娘としての本分を失っても、やれることは幾らでもある。

 知己が自分たちと同じように考えていたことを、電は嬉しく思う。

 

「生き急いでいるのよ。あんたたち」

 

 小声で告げる霞に、電は顔も向けずに頷いて見せる。ご最もだ。

 確かに自分たちは生き急いでいる。その自覚はある。

 そして、暁に関して付け加えるならば、彼女は甘えん坊なのだ。

 自分たちを本土に送り届け、そして水無月島に帰るまで戦う力が有ればいいと考えているはずだ。自分たちの本来の目的さえ果たせればいいと。

 戦えなくなったらそこで終わりだと考えていて、戦えなくなった身で彼と共に生きようとは、考えていないのだ。

 自分たちの司令官は、暁がそんなことを考えているとは露も思わないはずだと、電は嘆息を隠さない。

 

 彼の下で自分を終わらせたいのだと考えてしまうのは痛いほどに共感できるが、ならばなぜ霞の様に彼の下で在り続けようとは考えられないのか。

 折角指輪までもらったのだ。姉妹の中で一番甘えん坊なくせに一番上の姉なんてやっている彼女が、ずっと彼の隣りに在り続けることが出来ればと考える電は、自らの肩を抱いて足をじたばたさせる。

 霞に白い目で見られるが構わないし、気にしない。

 得られた幸福に満足するべきだと思うが、それがもっと良い形に、望む形にならないかと考えてしまうのは、傲慢か。

 幸せの中にもやもやしたものを抱えていると自覚する電は、艦橋に新たな人物が入ってくる姿を見る。

 

「木村提督? 眠れないのですか?」

 

 人前に出る時はいつもしっかりと襟元を正していた木村提督だが、今は軍装を着崩した姿だ。

 元々口数が少なかったものがさらに寡黙になってしまい、顔色も悪く見える。

 投薬によって極地活動適正を維持している身もそろそろ限界に近いのだとは雷談で、連日連夜、猫の幻覚に悩まされているのだとか。

 先日も霞に猫耳と尻尾が生えた姿を幻視したらしく、目頭を押さえつつ何度も霞の顔を見るという行為を繰り返していた。

 まあ、見るだけならばよかったのだが、あろうことか猫耳の輪郭を触り出したもので、なにやらお互い新境地に至った様子だ。

 そんなふたりが、こうして目の前で一緒にいるものだから、電としては口元に手を当ててにまにまするしかない。

 何か言いたげな顔までお揃いな提督と秘書艦の姿に、自分ももう少し提督といちゃこらすれば良かったなと、電は今さらに後悔の念を膨らませる。

 

「……いや、あんたたち、こっちから見ても異常なくらい散々いちゃこらしていたでしょうに。あれで足りないの?」

「全然足りないのです! もっとあんなことや、こんなこと……、やっぱり足りないのです!」

 

 鼻息荒く反論する電。身を引く霞は自らの提督の方を見て「何か助けろ」と目線で訴える。

 

「辛抱しろ、電。まだ熱田までの先は長い。望み通り水無月島に戻るには相当の時間を要する。今からそんな調子では身が持たんぞ?」

 

 呆れた様子を隠そうともしない木村提督の言に、電は頬を膨らませてそっぽを向いていしまう。

 体は大きくなってもそういうところは変わらないのだなと、しみじみといった風に頷く霞に対して何か言い返そうとした電は、歴戦の秘書艦が怖気に体を震わせる様を見た。

 此度の襲撃にいち早く気が付いたのは、霞だった。

 

 電は急いで艦橋の窓に張り付き外界の様子を探る。

 だが、その時にはもう直感が「遅すぎた」と告げていた。

 迫りくる悪意から身を守らんと姿勢を低くした瞬間、艦橋の天井部が爆発した。

 

 

 ○

 

 

 これはしてやられたと、伊勢型の後部甲板を目指して駆ける高雄は、黒い海に向かって吐き捨てる。

 敵は航空機を用いた夜襲を行ない、それは向こう側にとって多大な有利をもたらす結果となった。

 敵機が艦橋に衝突した当時、そこに居たのは当直の霞と電、そして木村提督だ。

 電と霞は事なきを得たが、霞を庇った木村提督が重傷を負ったのだ。

 破片と火傷との処置を行うために医務室へ運ばれ、その時点で艦内の皆は、敵の狙いが木村提督であったことを確信する。

 提督が重篤な状態にあれば、艦娘に出撃の命令を下せる者がいなくなる。

 夜襲を行った敵航空機群は既に全機が海の藻屑となったが、そのタイミングを見計らっていたのだろう、軽巡・駆逐級からなる敵艦隊が続々と姿を現している。

 敵は網を張っていたのだ。

 

 新たに艦娘が出撃できない今、頼みの綱は哨戒中だった那智と足柄、そして曙と潮だけだ。

 木村提督の手当てと並行して、水無月島への救難信号もすでに発している。敵の“統率者”にこちらの動きを知られることになるが、もうそんなことに構っていられる段階ではない。

 提督たちの準備が、“艦隊司令部施設”が起動するまでの時間を稼げればそれでいいのだと、高雄は伊勢型後部甲板のエレベータ前に辿り着く。

 高雄は提督の命令無しに単独で出撃可能な数少ない艦娘だ。

 この局面を切り抜けさえすれば、後は皆が繋いでくれるはず。

 そう意を決して、エレベータで昇ってきた自らの艤装を立ち上げていると、視界の端を先客が走り抜けた。

 

「青葉!? どこへ!?」

 

 艤装状態の青葉が、長大な補完艤装を片手で引きずって後部甲板を駆け抜ける。

 そのまま勢いをつけ、手すりを蹴って、カタパルトを使わずに海面へと飛び降りたのだ。

 わけがわからず手が止まるが、まあ青葉だということで首を振って作業に戻る。

 元々彼女の身の回りには謎が多い。今さら、青葉も提督の命令無しに出撃できると聞いても、それほど驚くことではないだろう。

 問題は、彼女が1隻で行った、という部分だ。

 

 確かに彼女は強い。

 高雄は“ソロモンの狼”が実際に戦う姿を見ているからこそ、そう断言できる。

 水無月島や熱田島の艦娘たちの中で、単艦で最も強いのは、恐らくは彼女だ。

 暁や榛名といった例外もあるが、それすらもやり込めるだけの力が有るはずなのだ。

 だからこそ危ういと、高雄は艤装の診断時間にもどかしく爪を噛む。

 

 青葉は強い。というよりは、その場面・状況に合った働きを隙なく出来るのだ。

 艦隊を組めばその編成の弱点を埋めるような立ち回りで底上げするし、それが複数個艦隊ならば全体の弱点を補強するように働き続ける。

 彼女の支えがあったからこそ、第二艦隊はおろか、水無月島の艦隊がこれまで戦って来れたのだと、高雄は考えている。

 買いかぶり過ぎかとも思うが、彼女が抜けた場合を考えると、上手くいく像が見えなくなるのも事実なのだ。

 

 しかし青葉は、単艦で出撃した際には、そうした立ち回りを一切捨て去るのだ。

 己の全力を持って切り抜けられる局面ならば、隙なく全力を根こそぎ使い切る。

 命がけでなくては切り抜けられない局面ならば、考える時間も取らずに真っ先に命を放り投げる。

 この水無月島に来た彼女は、そういう艦娘だ。

 だから、単独行動をさせられない。艦隊に編成して見張っていないと、危なっかしくて見ていられないのだ。

 提督が彼女の下に現れることが出来ない今は、尚更だ。

 

 艤装の出撃前診断が終わる。

 搭載する燃料・弾薬は最低限に留め、提督が顕現した後にコンテナに搭載したものをカタパルトで射出してもらうように妖精たちに言い付ける。

 己の補完艤装も同じく後回しにして、その分燃料タンクの増設などを行って、長期戦に備える構えを。

 今は1隻でも多く出撃して戦線を維持することを、そして先走った馬鹿が沈まないように見張らないと。

 そう考えた高雄が後部甲板から飛び降りて着水した瞬間、己の行動が裏目に出てしまったことを悟る。

 険しさを増した高雄の視線の先。

 そこには補完艤装のほとんどを破壊され、流血と火傷で全身を真っ赤に染めた青葉が、敵戦艦級と対峙していたのだ。

 四つ又尾の怪物。戦艦レ級、個体コード“バンシィ”が、既に間合いを詰めていた。

 

 

 ○

 

 

 迫りくる砲火の音を耳に、暁は焦りを帯びていた。

 最近の戦果を振り返り、もはや自分に敵はいないと密かに思い上がっていたものが、1秒ごとに打ち砕かれてゆく。

 この力は提督の命令無しに振るえるものではないと、改めて思い知らされた。

 わかった、もう充分だから、早く出撃の許可を。

 身に纏うのを待つばかりの自らの艤装を前にして、暁は拳を握って崩れ落ちる。

 

 外の状況は拡声器を手にした伊勢と日向が声を張り上げて艦内に知らせてくれている。

 超過艤装の操舵に集中しなければならず、戦線に加われないのはさぞ辛いだろうとあの2隻の内心を悟る。ここでこうして立ち止まっている自分などとは大違いだ。

 哨戒中だった那智と足柄たちはまだ戦線を維持しているが、自分たちに先んじて出撃した青葉が“バンシィ”とぶつかって重症だ。

 今は高雄が持ち堪えているが、それも長くはないだろう。

 提督が出現するまではただの娘と変わりなくなってしまった艦娘ではあるが、それでも出来ることはあるはずだと、皆消火活動や見張りや破損個所の修復に回っている。

 

 それだというのに、暁は真っ先にここに来た。

 自分にはこれしか出来ないと思い込んだのか、それともこれこそが最優先だと考えたのか。

 暁の他にも艦娘たちはこの場を訪れていたが、焦れたように他の場所へと駆け出して行った。

 どの道、提督が現れなければ艤装状態にもなれないと知って、早々に自分を切り替えて行ったのだ。

 切り替えられない暁は、未だここに留まっている。

 

 提督の命令を無視できるまでに深海棲艦化が進んだとはいえ、自ら艤装状態となれるかどうかは、また別の話だ。

 最初から艤装状態であるのならば、セイフティも提督の命令も、一切無視することが出来ただろう。

 しかし、艦娘が艤装状態となること。この一点に関してだけは、提督の許可が不可欠だ。いくら自分の艤装だからと言って、あるいは命令が強制力を失っているからと言って、それが覆ることは、決してない。

 肉体と艤装とを分離できることが、最大の安全装置なのだ。

 

 高雄のような一部の艦娘には自ら艤装状態になる権限が与えられているが、そういった艦娘たちは即座に戦場へ飛び出している。

 そして、ここに留まっている暁には、そう言った権限はないのだ。

 

「司令官……!」

 

 早く早くと願い、指輪のある左手を覆うように右手を被せて祈り続けていた暁は、そこでひとつの可能性に気が付く。

 しかしそれは、暁の司令官や僚艦たちに対する裏切りではないかと、それをすることは躊躇われた。

 躊躇ったが、それも一瞬だけだ。

 きっともうすぐ司令官はやってくるが、自分はそれを待ってはいられない。

 誰かが敵を抑えなければ、この伊勢型は航行不能となる。

 青葉が即刻対応しなければ、そしてそれを高雄が引き継がなければ、こちらの懐に入り込んだ“バンシィ”は既に伊勢型の横っ腹に大穴を開けていたかもしれない。

 そうなれば、皆を熱田まで送り届けることが出来なくなる。

 亡き人たちの遺物を、故郷に届けることが出来なくなるのだ。

 ここで終わりだ。

 

「そんなこと、させない……!」

 

 勢い任せに指輪を引き抜けば、目の前で待ち構えていた艤装がぐにゃりと歪む。

 思った通りだった。もうこの力を纏うことに、誰の許可もいらない。

 生き物のようにうねる鋼が体に食い込んでくる痛みに涙目になる暁は、視界の端に言葉を失って立ち尽くす妹の姿を見付ける。

 色覚が狂って白黒となった視界の中、まだ自由が利くうちにと、手の中の指輪を投げ渡す。

 

「預かって。お願い」

「暁!」

 

 響の制止を振り切って、暁は力任せに抜錨した。

 

 

 ○

 

 

 “艦隊司令部施設”を起動し妖精化した提督が伊勢型の艦内に出現した時、状況は一応の落ち着きを見せたところだった。

 電や霞たちから状況を聞きつつ、空母系以外の艦娘たちに出撃許可を下してゆく。

 情報収集と諸々への許可を並行して行う提督は、暁の下に顕現できないことに息を詰め、焦り、取り乱しそうになる。

 体の中から溢れ出そうになる不安を押し殺して、カタパルトで次々と射出されて行く艦娘たちを見送っていると、憔悴した顔の響がやって来た。

 許可が出ているにも関わらず艤装状態にもならない響。訝しる提督は、ふらふらとした足取りの主の手に、見覚えのある指輪を見付ける。

 

「響、出撃だ。皆を支援しつつ、各艦の位置を再確認しよう。誰もはぐれてしまわないように……!」

 

 提督の言葉に幾度も頷く響だが、ふら付いた体を思うように動かせないらしい。

 出撃準備中だった阿武隈に介添えされてようやく立っていられる姿に、響の出撃は見送るべきかと迷いが生じる。

 

「提督、大丈夫。私が付いています」

 

 そう阿武隈が告げる。背中を押してくれる頼もしさに、安心して響を任せることが出来る。

 響を阿武隈に任せた提督は、妖精化した己をさらに複数に分け、稼働中の全艦の下へと現れて各艦毎に指示を下してゆく。

 駆逐艦たちに曳航されて帰還する途中の重巡たちに話を聞いて、ようやく暁の行方を知ることが出来た。

 

 暁が指輪を外して出撃する直前、救援に現れた潜水棲姫“ルサールカ”が“バンシィ”を惹きつけてくれたお陰で、強力な敵を伊勢型から引きはがすことに成功したのだ。

 いざ着水して目標を見失った暁は伊勢型に迫る敵艦隊を片っ端から叩いていったかと思えば、背部艤装に搭載されていた探照灯を照射、伊勢型の護衛を放棄して離脱している。

 それを最後に、彼女の姿は確認されていない。

 

 そこまで聞いて、提督と阿武隈は頷き合い、すぐに行動を開始した。

 阿武隈が右腕部のカタパルトを展開し、夜偵を射出。

 彼女以外にも夜偵を搭載した艦娘はそれぞれカタパルトを起動、伊勢型周辺の索敵と暁の捜索とで編隊をふたつに分ける。

 そうして空からの捜索を行ったことにより、暁が伊勢型から離脱した意図はすぐに腑に落ちることになる。

 伊勢型の前方は二時の方向、数キロ先に青い炎を上げる敵艦の残骸を見つけたのだ。

 

「破片の形状と大きさから、PTたちだと断定。暁はこれを食い止めるつもりだったんだ……!」

 

 そう声を上げるのは響だ。

 息を吹き返したように表情を引き締めた駆逐艦は、敵の残骸と炎を辿って暁の行先をなぞる。

 残骸の中には重巡級や戦艦級の姿も幾つか見られ、これだけ多様な艦種をたった1隻で退けたのかと感嘆するも、ではその分の弾薬類はいったいどこから捻出したのだと、恐ろしい疑問を呼び起こした。

 予備ストッカーの分と含めても、撃沈した敵の方が遥かに多いのだ。

 最悪の事態を察して表情を陰らせる阿武隈は、先を急ぐ響の背中を見て、さらに沈痛な顔になる。

 肩に乗った提督が頬を優しく叩かなければそのまま泣き出してしまわんばかりの心境だったが、全てを見届けるまではそれも出来ないと、力任せに頬を張った。

 

 

 果たして、響たちは暁の姿を見付けることが出来た。

 小鬼たちの残骸が青い炎を上げて燃え盛る向こうに、彼女の姿はあった。

 しかし、全身を覆うように纏ったマントの下が不気味に蠢いている様を見て、阿武隈はその足を止めてしまった。

 間に合わなかった。全身から力が抜けて、足元から崩れ落ちそうになるのを堪えるのが精いっぱいで、暁に向かって速度を上げた響を止めるのが、少しだけ遅れた。

 

「指輪を……! 今ならまだ……!」

 

 普段の余裕や慎重さを欠片も失った行いはしかし、暁の側から放たれた砲弾が小鬼の残骸を直撃、引火した疑似燃料が爆発し火柱を上げたことによって足止めされる。

 海面に尻もちをついた響。追い付いた阿武隈は、力の抜けてしまった駆逐艦が再び動き出さないようにと後ろから抱きかかえ、もはや敵となってしまったかもしれない彼女に対して砲を構える。

 自らの行為に吐き気を堪える阿武隈は、それでも砲を下ろすことはしなかった。

 響がこうなってしまった現状、暁を終わらせることが出来るのは自分しかいない。

 だからお願いだと、炎が遮る向こう側に居る彼女を想う。

 御願いだから討たせないでくれ。自分たちの提督に、そんな命令を下すような真似はさせないでと。

 そして、彼女を討つ命令を下さないでくれと、肩の上の提督と視線を合わせられず、さらに思う。

 

 その思いが通じたものか定かではないが、暁は反応を示した。

 自分たちに対して右掌を向けた姿。

 卯月から譲り受けた単装砲を人差し指にひっかけ向けられた掌は、青白い燐光を内部に灯し、変異の真っ最中だった。

 

「近付いちゃ駄目……!」

 

 暁がノイズ交じりの声で告げる言葉の意味を、阿武隈は即座に理解する。

 深海棲艦への変異はもう止められない。そして今の彼女は、自分の装備では沈めることが出来ない。

 暁の体を覆うマントの隙間から見える姿は、魚雷の炸裂や砲弾の直撃によって欠損した箇所が驚くべき速度で修復・変異を繰り返しているというものだった。

 手持ちの全砲弾、全魚雷を用いても、変異途中の彼女を沈めることは適わない。響の分を用いても結果は同じだ。

 

 ではこのまま、彼女が変わり果てるのを見ているだけかと歯噛みする阿武隈は、咳き込み体を折った暁の、その言葉の先を聞く。

 言いつけを守らず勝手して御免なさいと、子供の様に謝る暁は、逡巡し、そして怒られることを恐れるかのような様子で続けるのだ。

 

「司令官、お願いがあるの……」

 

 命令して。

 暁はそう、提督に願った。

 

「最期まで暁として戦いたい」

 

 もはや提督の命令などなんの強制力も持たない身となって、それでも暁は艦娘として振る舞うことを欲した。

 提督は逡巡もしなかった。返答を待つ間など与えずに、暁に対して声を張り上げたのだ。「駆逐艦・暁!」と。

 

「命ずるよ。僕たちの障害となり得るすべてを退けろ。敵を倒し、そして救い、それを終えることが出来たのならば、必ず水無月島に帰還せよ!」

 

 変異途中の暁の目が、提督の姿を捕らえた。

 小さな妖精となった体で、提督は再度、帰還までが命令だと声を張る。

 

「待っているよ。暁が帰ってくるのを」

 

 提督と2隻の艦娘は、炎の向こう側に居る彼女が笑った姿を、確かに見た。

 肉体の変異に苦しむ彼女はそれでも立ち上がって体勢を立て直し、はっきりと了解を唱える。

 顔の左側を覆う眼帯を引きちぎるように外せば、そこには変異を終えた新たな瞳があった。

 その瞳は既に、新手の襲来を補足している。

 

「暁、出撃します――」

 

 そうして、炎の向こうにあった彼女の姿が消えるのを、提督たちは見送った。

 変異した探照灯を敵に向けて照射し躍動する、彼女の後ろ姿を。

 

 

 ○

 

 

 暁の離脱にばかり心を奪われている時間は、提督たちにはなかった。

 彼女の背中を見送った正にその瞬間にも、伊勢型へ迫る脅威が途切れることはない。

 それどころか、“ルサールカ”が惹き付け引き離したはずの“バンシィ”が、再び姿を現したのだ。

 まさか彼女がやられたのかと艦娘たちの間に緊張が走るが、安否を確認している時間は無い。

 即座に陣形が整えられる。重巡たちを前に、駆逐艦たちを後ろに置いて、“バンシィ”を迎え撃つ構え。

 反攻戦と言うよりは正面衝突に近い形となるだろう。

 

 対する“バンシィ”は、此度は自ら艦隊を率いての再来だ。

 敵重巡級以下が前面に出て、その後ろには戦艦級が控えた布陣。

 暴力的な数だが、それでも現在展開している彼女たちならば充分に対応可能な戦力差だ。

 ただし、“バンシィ”を除けば、という大前提が必須だが。

 

 その“バンシィ”自体は艦隊の中間に位置取り、各艦隊の指揮と、なにやら伊勢型の様子を気にする素振りを見せる。

 何を気にしている。木村提督の生死か。

 こうして妖精化した提督が艦娘の下へ顕現している以上、向こうも木村提督が無事ではないと確信しているはずだ。

 ならばこれ以上、伊勢型の何を気にする。

 

 重巡たちが敵艦隊の前衛と接触した直後、バンシィ”は動きを見せた。

 今まで艦隊の指揮に徹していたものを突如として放棄、尾を海面に叩きつける跳躍を見せたのだ。

 そこまでは皆予想済みであり、対策は既に用意されている。

 

「熊野」

「高雄から操作権限の譲渡を確認! 射出してくださいな!」

 

 熊野の裏返り気味の叫びと同時、カタパルトに準備されていた高雄の補完艤装が射出される。

 弧を描いて伊勢型へと飛来する敵を正面から迎え撃つ軌道。“バンシィ”は宙で己の軌道を変えること無く、自らに向かって放たれた鋼の塊を打ち砕く勢いで尾を展開しようとする。

 その動作を迎え撃つように、熊野の声は響く。

 

「補完艤装、決戦形態へ移行ですわ!」

 

 

 ○

 

 

 “バンシィ”は眼下の熊野が叫ぶ言葉の意味を理解していた。

 先々月の榛名との一戦で見た艦娘の補完艤装。

 その決戦形態は艦艇としての形状から艦娘が纏うような変化を生ずるものであったはずだ。

 

 自らに迫りくるのがそれだと理解しているし、もちろん対処法も用意してある。

 主のいない補完艤装はこちらを捕食するサメの様に展開して、“バンシィ”の本体を捕らえんとする。

 その挙動に、“バンシィ”は抗わなかった。

 敵の鋼にわざと捕獲され、こちらから侵蝕して生態艤装に変貌させる。

 その目論見よりも少しだけ早く、眼下の駆逐艦たちが砲を空に掲げた。

 

 提督が指示を下すまでもなく、駆逐艦たちは対空装備で飛翔体となった敵を撃ち落とさんとする。

 長10センチ砲に機銃にと、弾幕となって降り注ぐ先は、補完艤装の増設燃料タンク。

 高雄が自分の補完艤装を後出しにしてまで燃料・弾薬を限界まで詰めさせていたものだ。

 “バンシィ”が補完艤装を乗っ取るよりも早く、火薬庫と化していた鋼の塊は爆発する。

 誘爆に次ぐ誘爆で宙に火の玉が生ずるが、それでも駆逐艦たちは砲を下げない。

 この敵がこれだけで終わるなどとは、誰も考えていないのだ。

 

 その予測通り、“バンシィ”は火だるまになった状態から次の動きに繋げてきた。

 本体へのダメージは痛手も痛手だが、障壁によって致命傷にならない程度に緩和されている。

 そしてこれ以上の攻撃を身に受けることはないと判断し、戦闘行動を継続。

 本体は未だ宙にあったままで、爆発でひしゃげた補完艤装の装甲板を尾の咢で引きはがすと、複数枚を同時に、伊勢型へ向けて投じたのだ。

 狙いは複数箇所。そのうちひとつが艦橋に向けて飛来したことで、“バンシィ”の狙いを、あるいは彼女を従える“統率者”意図を、艦娘たちは察しただろう。

 “バンシィ”に課せられた最優先課題は、艦娘側の命令系統を断つこと。

 そして、それをただ黙って見過ごすほど、この艦娘たちは大人しくはない。

 

 もう誰も居なくなった艦橋に向けて飛来した装甲板こそ無視し、それ以外の箇所に飛来したものは、ことごとくすべてが艦に到達する前に撃ち落とされる。

 

「させると思うてか! 貴様……!」

 

 驚異的な速度と正確さで飛来物を撃ち落とした利根が、最前線をプリンツたちに任せ、姿勢を低く保ったまま“バンシィ”に向けて殺到する。

 空中での爆発によって大幅にズレた“バンシィ”の着水地点へと向かうのは、至近距離で砲撃を叩き込まんとするためだ。

 目を見開き歯を剥くその姿は、僚艦の負傷に憤怒したものであるのは確かで、こうなってしまうと阿武隈でも提督でも諌めることは困難だ。

 しかし、そんな激情の中にあっても、動作は普段よりも正確無比であり、単独で敵戦艦級を複数沈める働きをしたことを、僚艦たちは知っている。

 

 上空から降り注ぐ疑似機銃からの射撃をカタパルトを盾にして防ぎつつ、左腿の魚雷発射管より魚雷を2本、左手で引き抜く。

 “バンシィ”が4つ尾を用いて宙で軌道を変え、着水地点をずらすであろうことは、先の戦闘データより知っている。

 だから利根は、その場所を割り出して先回りし、軌道修正不可能なタイミングで砲撃する構えだ。

 

 着水時を狙われると判断した“バンシィ”は、最早避けようとはしなかった。

 爆発の衝撃と炎に焼かれながらも、身に纏わり着いた補完艤装の残骸のお陰で重巡の砲撃程度ならば容易に防げる。

 至近距離で砲撃を食らうのは確かに痛手だが、艦娘たちの布陣を一瞥した限りでは、前回のような予測不能な脅威は無いと判断したのだ。

 

「目と耳、貰うぞ……!」

 

 盛大な水柱を立てて伊勢型の右弦付近に着水した“バンシィ”は、タイミングを合わせて接敵した利根がそう呟くのを耳にする。

 直後、利根が砲撃したのは三式弾。補完艤装の残骸ごと“バンシィ”を打撃し、瞬発信管によってさらに炸裂。未だ直撃を避けていた燃料タンクや弾薬庫に盛大に着火させる。

 炎と爆音と衝撃とを身に受けながら、“バンシィ”は前回の戦闘と同じ流れに傾きつつあると予感を得ていた。

 この航巡はこちらを詰めに来ている、戦艦レ級こと“バンシィ”をここで終わらせる手段を用意している、と。

 確証は足りないが、だからこそ“バンシィ”は演算機構をフル稼働させて、艦娘たちの次の手を予測する。

 

 同時に、手の届く距離にやって来た獲物を確実に捉えることも視野に入れる。

 着水からのトップスピードは利根を追いつめることなど造作もなく、尾の咢を使えば捕獲は確実だ。

 本体に纏わり着いた補完艤装の残骸を引きはがし、尾を伸ばして、艦娘を捕らえる直前で、咢を展開。そこへ、カタパルトが突っ込まれた。先の機銃の攻撃によって損壊したカタパルトだ。

 役割を果たせなくなった艦娘の艤装を噛み砕き、根元から引き千切り、その間にも三式弾の砲撃は仰角零度で叩き込まれる。

 それ自体には大した威力がない攻撃だが、確かに目と耳を、レーダー類が次々と損なわれる。

 鬱陶しげにそれらを振り払う“バンシィ”は、歯を剥いた航巡が叫ぶ姿を見る。

 

「筑摩あぁぁ!」

 

 咆哮と同時、“バンシィ”の背部に砲撃が着弾する。

 どこからの砲撃かは、すぐにあたりが付いた。

 深海棲艦と艦娘が衝突する最前線、そこから大きく離れた場所からの砲撃だ。

 距離から予測するに、重巡級の砲撃がぎりぎり届く距離。

 艦隊の頭上を越えての砲撃はなるほど、利根型2番艦の得手であったものだ。

 思考がそこまでたどり着いて、“バンシィ”の次の行動は決まった。

 

 抵抗する利根をようやく咢の内側に捕らえ、持ち上げて、砲撃のやってくる方向へと掲げるようにする。

 主砲群を積載した艤装が引っかかって咢が閉じ切らなかったが、この航巡の右腕を巻き込み、内臓を確実に潰した。

 艦娘が戦場で本体を再生する術を持たない以上、この航巡が戦線に復帰することはもう不可能だ。

 先程この航巡がカタパルトでそうしたように、“バンシィ”は艦娘を砲撃に対しての盾にする。

 すぐに圧潰させても良かったが、対象が存命ならばこちらへの砲撃を断念せざるを得ない。

 自らが導き出した解答ではなく“統率者”の受け売り通りの行動ではあるが、状況としては有用であると判断したのでそうしておく。

 

 そして、フリーな咢を即座に爆雷投射機へと兵装転換して、爆雷を足元にばら撒く。

 重巡の遠間からの砲撃は、こちらに障壁がある以上決定打にはなり得ない。

 電探やソナーが機能を損なっている現状、脅威となるのは海中からの攻撃だ。

 艦娘側の潜水艦の総数は把握していないが、確かランチャーでこちらの動きを妨害して来たのがいたはずだ。

 先ほどの潜水棲姫が健在で、身を潜めて機会を伺っている可能性も捨てきれない。

 

 次点での脅威は航空機。現在は夜間、艦娘側から航空機の発艦はなく、空母系の艦娘も戦線に姿を見せていない。

 夜間飛行の訓練を積んだ高練度の艦載機を艦娘側は持っているかもしれないが、この状況ならば確実に“バンシィ”を狙ってくるだろう。

 そうした空からの攻撃にも、この“盾”は有効なはずだ。

 

 そうして対応を整えたところで、彼方からの砲撃が止むことはなかった。

 向こうはこちらの状況を正確に把握しているのかと思いきや、砲撃は幾度か盾にした利根に直撃して、彼女の艤装の破損を招く。

 この艦隊は味方を犠牲にして戦果を得るという選択肢を持つものたちだったかと、そう考えを改めようとした“バンシィ”は、自らが捕らえた航巡の表情に危機感を覚える。

 

「……あれは良く出来た妹じゃ。例え提督の命令に背けるようになろうとも、吾輩の命令には逆らえんよ」

 

 血の塊を吐き出す航巡の言に、そして先に一戦交えた青葉型の行動とを照らし合わせ、“バンシィ”はようやく思い違いを自覚する。

 この艦隊は味方を犠牲にして戦果を得るという選択肢を持たない。

 自らを使い潰して得た有利を味方に引き継ぎ、勝利を得んとするのだ。

 この航巡の肩に提督の姿をしたあの妖精がいないことを、即座に判断基準に加えるべきだった。

 水無月島の艦娘たちは、提督の目が無いところではこうした手段を選ぶのだと、先の戦いで見ていたはずではないか。

 

 艦娘側は今、ふたつの指揮系統で動いていると、“バンシィ”は判断した。

 提督の命令に従って動いているものと、それに従わず独自に動いているものたちと。

 

 ならば、この航巡の狙いも見えてくる。

 尾の咢に捕らえている利根を砲撃すれば、彼女の存在と引き換えに咢ひとつを潰すことが出来るだろう。

 しかし、それは代償として等価以上の益を艦娘たちにもたらすのだろうか。

 疑問しながらも“バンシィ”は利根を圧殺する判断を下す。

 そして、そのタイミングで艦娘側から新たな動きがあることも予見していた。

 予見していたが、まさか夜偵が接触すれすれまで接近して、機銃で攻撃して来るとは予想外過ぎた。

 

 かすり傷にもならない攻撃、そして1秒にも満たない思考停止から復帰した“バンシィ”は、珍しい艦種が戦線に出たことに注意を向ける。

 千歳だ。空母から水上機母艦へと艦種を変更した姿は、新たな夜偵を次々と発艦させている。

 爆撃能力もない夜偵を増やすためにわざわざ出て来たのかと、千歳から注意を逸らそうとする“バンシィ”は、自らの内側から届く声に対して、ひとつ頷いた。

 爆雷の数を追加して、投射範囲を拡大。密かにこちらの隙を伺っていた甲標的からの雷撃を阻止する。

 あの水上機母艦は甲標的母艦でもある。わざわざその姿で出てきたと言うことは、この戦場に対する支援だ。決定打の投入では、決してない。

 だからこそ、それらを決定打に変ずる手段はあるのか、内側の仮想人格に問いかける。

 

「……一足、遅いのじゃ」

 

 利根の左腿の魚雷発射管が、咢の内側で駆動する。

 即座に咢ひとつを放棄する判断を下した“バンシィ”は、内側から響く声が囁き程の声量から一喝レベルに跳ね上がったことに、これまでの思考がリセットする。

 『向こうの動きに乗るな、合わせるな』と、そう告げる声に頷き、尾を振って利根を放り捨てた。

 そして尾で海面を打って跳躍する“バンシィ”は、艦娘たちの仕込みを上空から目の当たりにする。

 魚雷の軌跡が幾つも、“バンシィ”の進行経路を通過したのだ。

 それは艦娘が発射したものもあれば、深海棲艦側から放たれたものも数多く、旗下が疑似魚雷を放つように仕向けられたことは明白だ。“バンシィ”自身が、その進路へと誘導されていたことも。

 艦隊への命令権は“バンシィ”が保持しているが、細かな指示までは与えていない。

 駒を動かすよりも自らが直接対処する方が多かった経験上、旗下に細やかな指示を与えていなかったものが、こちらの動きから推測されて、逆手に取られたのだろう。

 

 本当に利根ごとこちらを沈めるつもりだったのか思えば、放り出した航巡はすぐにまるゆが回収して離脱している。

 こうなると、利根が本当に提督の命令を無視して動いたのかは疑問が生ずることになるが、内側の声が『敵に合わせるな』と一喝した以上、もう余計なことは考えない。

 

 そして、こうして宙に離脱したのだから、当初の目的に方向修正することが叶う。

 幸いと言うべきか、艦娘たちに対応していた間に並行して進めていた演算が完了して、目標地点を割り出すことに成功したのだ。

 第一目標はここからだと遠いため、突入するのは第二目標。

 宙で重心を尾の方へ移し、回転によって落下軌道を変更。

 “バンシィ”は伊勢型の船体後部へと突入した。

 

 

 ○

 

 

 木村提督への処置を行なっていた雷は、急に体の自由が利かなくなったことに息を詰めた。

 艤装の操作性悪化と、軽微な深海棲艦化の他には、これと言って異常などなかったはずの身だ。

 それがこうして異常を感じたと言うことは、敵の何らかの攻撃によるものだと推測。

 拡声器を通じて伝えられた「“バンシィ”が超過艤装・後部格納庫に侵入」との報で確信に至った。

 後部格納庫は艤装類の保管庫でもある。

 

「わたしの艤装、壊されたんだ……!」

 

 諸々の感情が溢れ出そうになるのを堪え、雷は手元の処置に戻る。

 艤装が破壊された影響だろう、たった今まで傍らに居たはずの提督が消えてしまったことに不安や恐怖が込み上げてくるが、それで手元を疎かに出来るほど、雷は弱くない。

 艤装が破壊されたからどうしたというのだ。

 駆逐艦・雷として在れないからと言って、“雷”に取れる手段がなくなったわけではない。

 

「こっちはね、それを10年以上、考え続けてきたのよ! 積み上げてきたの! いっぱい、いーっぱい! これくらいで……!」

 

 処置完了まであと少しという時になって、目が霞んで来た。

 眼鏡をしていてもこれかと笑い吐き捨て、震えの収まらない手で処置を続ける。

 ここが敵の支配海域内でなければ、最新の医療機器によって木村提督の処置は危なげなく済むはずだったのだ。

 艦娘の艤装に纏わる諸々では、生きた人間に対して手を加えることが出来ない。

 こういった状況に対応出来ないのだ。

 あるいは病院船の艦娘が乗船していればとも思うが、彼女たちは絶対数が少なく、その所属のほとんどは本土に集中しているため、望みは薄い。

 

 だからこそ、伊勢型に乗船してからの雷は、艤装と同期を行っていない。

 あくまで同じ“人間”として処置が行えるように、艦娘としての在り方を半ば放棄したのだ。

 

 胸を張って誇るべきだとは思うが、どうしてもそういう心境にはなれなかった。

 今、医務室には雷ひとりだ。

 電も霞も、木村提督の安否を気にしながらも現状に対応するために艦内を駆けまわっている。

 ここは雷が居れば大丈夫だと、信じているのだ。

 たったひとりでいることへの不安はどうしても拭いきれない。

 それでも、応えなくてはならない。その信頼に。

 

 しかし、体は限界を形にしてくる。

 左手の指先が消失を始めた。

 艤装を解体した鳳翔が消えた時と同じ現象だ。

 歯を食いしばって涙を堪え、早く早くと手元を進める。

 

「わたしはまだ何も、満足してないんだからね! こんなところで、こんなところで!」

 

 誰にも看取られず終わりたくない。

 それは雷が艦娘として始まった日からずっと抱え続けていた恐怖だ。

 こんな最期になることを考えない日など、1日としてなかった。

 それでも、だからこそ、この処置だけは完遂する。

 この縫合さえ終えれば、後は霞たちや自立稼働型砲塔たちが後を繋いでくれる。

 自分の役割を完遂できる。

 

「……そうすれば、きっと」

 

 皆、きっと褒めてくれる。

 

 

 生まれて初めての手術は無事に終了。

 処置の全工程を完遂して、ほっと一息付いた瞬間、雷の視界は闇に覆われた。

 一寸の光も見えぬ暗闇に囚われた恐怖は、自らの役割を完遂したという誇らしい気持ちを瞬時に葬り去った。

 取り乱して余計なものに触れてはならないと、膝を丸めて小さくなる雷は、ふと体を包む暖かさをその身に感じる。

 見えずともわかる。電が戻って来たのだ。

 途端に安堵を覚えた雷の耳に、外界の音が遠退きかけた耳に、囁くような声が届いた。

 

「よく頑張ったね、雷。偉いよ」

 

 雷が知る彼の声。欲しかった言葉。

 それらを聞いて、雷は安心してしまった。

 同時に、こんな最期になって、皆に申し訳ないとも。

 だから口を突いて出るのは、震えを隠せもしない、強がりの言葉ばかりだった。

 

「寒くないの。怖くない。怖くないわ。大丈夫なんだから……」

 

 

 ○

 

 

 悲鳴のような叫びが速度を持って敵に叩き付けられた。

 叫びの主は秋津洲。格納庫で大暴れする“バンシィ”に半ば抱き着く形でタックルを強行。

 そして己の艤装のクレーンからフックを射出して、“バンシィ”の開けた大穴の外へ。伊勢型の船外は外壁に固定する。

 艤装のウィンチまで悲鳴のような駆動音を発し、秋津洲ごと“バンシィ”は伊勢型の外へと放り出された。

 足場が固い床面であったことで、あるいは狭い格納庫内という場所であったことから“バンシィ”に対して有利を得たが、ここから先はそうではなくなる。

 海上に出ればその有利は瞬く間に無に帰す。いくら怒ろうともそれを忘れる秋津洲ではない。

 だからこそ、新たに錨鎖を射出して己と“バンシィ”を強固に繋ぐ。

 接触距離にあれば、尾の咢は秋津洲の体を捕らえ難く、“バンシィ”自身がその肉体を用いて引きはがすしかない。

 そこから先の工程は、正直考えていない。

 だが、一刻も早くこの敵を外に放り出さねばならなかった。

 

 “バンシィ”は伊勢型の格納庫に侵入し、待機状態にあった艦娘の艤装を幾つか破壊した。

 誰の艤装が破壊されたかまでは、正確に把握できているわけではない。

 しかし、確実なことが3つある。

 破壊された艤装の中に、木村提督の処置中であった雷のものがあったこと。

 その艤装の核が、尾の咢に呑みこまれる光景も確かに見た。

 そして、被害を最小限に食い止めようと隔壁類を操作していた天津風が、暴風のような破壊に巻き込まれ、成す術がなかったことも。

 

 宙に投げ出され、時間の流れを遅く感じる中、秋津洲は敵の顔を至近距離で見る。

 この敵はこちらを沈めることに対して何の感情をも抱いていないのだと、怒りを込めて睨む先はしかし、鏡写しの憤怒ではなかった。

 それで噴き出した怒りが治まることはなかったが、この敵が前回の交戦から何らかの変化を得た可能性に思い至る。

 しかし、それに対して思いを馳せる余裕は、今の秋津洲には残されていなかった。

 着水までのわずかな時間。こちらに残された有利とされる時間をどう使い切るか。

 

 加熱する高速演算は半ばで途切れることになる。

 “バンシィ”の腹部に増設された機銃が発射され、接触距離にあった秋津洲の腹部に全弾余すことなく叩き込まれたのだ。

 口元まで上がってきた血の塊をどうにか飲み下し、見下ろす海面から投げ渡される凶器に右手を伸ばす。

 魚雷だ。艤装も肉体も大きく損壊して海中に没しかけている利根が、まるゆに支えられながらもこちらに投げ渡したもの。

 意図は理解している。わざわざ信管を弄って、直接叩きつけるだけで爆発するように仕込んでいたのだろう。

 ただ、秋津洲には受け取ったそれを、“バンシィ”に叩きつけるだけの力は残されていなかった。

 だから、組み付いた“バンシィ”の脇下から腕を回して、魚雷の位置を敵の後頭部に固定する。

 この距離で爆発すれば、致命傷にならずとも修復に時間と余力を割かなければならないはずだ。

 

 こちらの意図を察したのだろう。“バンシィ”が下方へ、そして戦線とは無縁の方角へ向けて砲撃を開始。

 駆逐艦たちの、あるいは遠間から機会を伺っていた筑摩の砲撃を遮るものであろう手段に、秋津洲は勝利を確信する。

 本命は千歳の夜偵部隊だ。こちらと“バンシィ”に接触せんばかりの距離まで接近して、機銃の一撃を叩き込むことが出来れば……。

 

 その時を待つ秋津洲は、魚雷を掴んだままの自分の腕が宙に舞う様を見て表情を凍らせる。

 砲火を受けて煌めくのは掃海具のワイヤー、先の戦いで“バンシィ”に奪われた艤装だ。

 その強靭さはこちらの艤装とは段違いで、彼我を拘束した錨鎖も易々と断ち切られ、秋津洲は改めて宙に投げ出された。

 そもそも空中に投げ出された時点で、もうこちらに有利などなかったなと自嘲して、自分など破壊して余りある暴力が油断なく振るわれんとする様に、薄目を閉じる。

 背中に、幼い罵声が叩き付けられたのはその時だ。

 

 “バンシィ”と秋津洲の直下で機会を伺っていた夕雲型たちの声だ。

 朝霜と清霜が射出したアンカーが宙にある秋津洲の艤装を捕らえ、引き寄せる。

 それでもぎりぎり、尾の一撃の届く範囲からは逃れられないかと思われたが、彼方からの砲撃によって“バンシィ”自体に余計な回転が加わり、飛行艇母艦を救い出すことに成功する。

 宙で身を回して追撃をかけようとする“バンシィ”に対しては、そうはさせぬと巻雲が主砲と噴進砲で妨害。

 よって、行き場を失った敵の力は、着水地点から逃げずに留まった巻雲に叩き付けられた。

 水柱と共に、破壊された艤装の破片が高々と舞い上がるなかへ、両腕に主砲を構えた朝霜が咆哮し吶喊。

 “バンシィ”に接敵するも、翻ったワイヤーによって主砲を両腕ごと切断される。

 

 それでも叫び、前のめりに行こうとする先を、横合いから体当たり気味に時雨が弾き飛ばした。

 敵が待ち構える射程距離に勢い良く突っ込む形となった時雨は、自分の得手でもあるはずの技に身に纏った艤装を寸断されて、終いには首に切断の力が巻き付いた。

 

 清霜に支えられながらその光景を見ていた秋津洲は、落ち着いた面持ちの時雨の目が、真っ直ぐ“バンシィ”を見据えている姿に、言い知れぬ焦燥感を覚える。

 意識が断たれるその時まで、真正面から敵に相対する姿勢なのだ。

 頼むから逃げてくれと、加勢したい気持ちに、体も艤装も付いてこない。

 彼方からの砲撃も止んでしまっている。筑摩に何かあったのか、それとも撃つのを躊躇っているのか。

 自分を放って時雨の援護をと清霜を見るも、秋津洲を抱えたまま固まっている駆逐艦には、それ以上掛けるべき言葉が見つからない。

 

 仲間の最期となるはずの光景はしかし、敵が動きを止めたことで、最期の瞬間が引き伸ばされた。

 速度を緩めず、それでいて攻撃の手をすべて止めて微動する“バンシィ”。様子がおかしいのは明らかだ。

 彼女の表情からはその意図を読み取れなかったが、それは明確な形となって現れた。

 “バンシィ”の腰部から、四つ又に分かれた尾の他にもう1つ、新たな尾が出現したのだ。

 

 深海棲艦特有の変異によるものかと、出血多量で意識が遠退きかけている頭で思考する秋津洲は、提督を経由した夕張の声を聞く。

 

 

 ○

 

 

「……時雨と“ナックラビー”の一件から、天津風と考えていた計画があったの」

 

 破壊され、周囲から炎が昇る艤装格納庫にて、動かなくなった天津風を膝に乗せた夕張が、虚ろな目で語る。

 

「複数の艤装核を保有すると言うことは、そしてそれを機能拡張に用いると言うことは、それだけ保有艦の寿命と自我を損なうものよ。“バンシィ”が複数の艤装核を保有していることは、前回接触した時に収集したデータからも明白。だから、仕込んだの」

 

 天津風の頬に触れて、互いの温度差を確かめる連装砲くんから視線を外し、夕張は大穴の空いた格納庫の外、炎と音が止まない戦場を見る。

 

「艤装核に、対抗プログラムを付与したわ。もしも“バンシィ”が再び私たちと接触したら、そして誰かの艤装核を鹵獲するような真似をしたのならば、変異を誤動作させて、暴走するように……!」

 

 深海棲艦の変異パターンの解析は暁や時雨という症例があったため、ほんの一部だけではあるが、しかし重要な基礎部分を解析することは出来た。

 対抗プログラムの内臓先は、発案である夕張と天津風と、そして艤装に新たな刷り込みが必要だった雷と時雨だ。

 艤装核に手を加えるという禁忌に手を出した代償は高く付いたが、検体である4隻はそれを今まで隠し通せた。

 

 そして“バンシィ”は、雷の艤装核を鹵獲した。

 今回こちらの艤装核を鹵獲した意図が、情報収集であったのか機能拡張のためだったのか、またはそれ以外の目的があったのかは、定かではない。

 そういった敵側の事情はさて置き。格納庫を破壊し、天津風に致命傷を与えるその瞬間、彼女がしてやったりと笑んだ姿に、果たして敵は疑問を覚えただろうか。

 

 

 ○

 

 

 5つ目の尾が暴走して、“バンシィ”自らに喰らい付く。

 全生態艤装の操作が甘くなり、緩んだワイヤーから時雨は脱出を果たした。

 ワイヤーに引っかかったお下げが左耳ごと持っていかれたが、それを気にする余裕はない。

 遠ざかろうとする駆逐艦を追おうと手を伸ばした“バンシィ”は、その手に刃が突き立つ様を見る。

 駆逐艦・叢雲の伸長展開式の長槍だ。それを投射した主は今、宙にあった。

 

 伊勢型のカタパルトで射出された葛城の補完艤装。全長およそ4メートルのそれは、兵装のほとんどを撤去して船体としての役割しか持たない通称“桟橋”。

 突貫で機関を内蔵し、現在は不安定ながら航行能力を得たものだ。その飛行甲板上に、片膝を付いた叢雲と初春の姿があった。

 補完艤装の主である葛城は、艦橋部が船体後方にスライドしたことで生じた空間に自ら納まり、腰部艤装と補完艤装とを接続した姿。

 弧を描いて落下軌道に入るなか、かの敵が行ったように全身を使って宙で方向をずらし、斜め上から“バンシィ”に突っ込む。

 打撃と着水が同時に起こり、間を置かずにフル回転となった仮想スクリューが速度を生んで、艦首に張り付けとなった“バンシィ”を伊勢型から大きく引きはがす。

 

 敵が暴走状態の今、障壁は機能していない。

 砲雷撃でも致命打を与えることが出来ると、叢雲の一撃が通ったことで確証は得ている。

 だが、もうそれを行えるほどの艦娘は、海上に展開していない。

 敵艦隊を抑えている重巡たちはもちろん、補完艤装の速度に着いてこれる駆逐艦はもういない。

 伊勢型に残っていた空母勢も負傷した艦を救助するために出撃したが、攻撃に加われる程夜に慣れた艦はいないのだ。

 つまりは、この3隻で決めるしかない。

 

「出来るの? 私たちに……」

 

 補完艤装を操作する葛城が青ざめた顔で呟く姿に、飛行甲板に乗った叢雲と初春は顔も向けずに薄く笑む。

 言葉も掛けず、気遣う仕草も無く、ただ表情が「出来る。今からそれを証明する」と語る。

 

 状況の把握を済ませた“バンシィ”が復帰する。

 “桟橋”の艦首に胸部から下を密着させた体勢から、尾の咢を砲撃仕様に換装して、開口。

 その瞬間を狙い、甲板の前方に位置していた叢雲が、タイミングを合わせて己の主砲を敵の咢に突っ込んだ。

 即座に砲撃。己の主砲ごと咢ひとつを潰し、こちらを捕獲しようと開いた咢に対しては、その口内に向けて予備の長槍を放る。

 咢の内側で展開した長槍は閉口をわずかに遅延させ、やはり叢雲はそのまま砲撃を叩き込んだ。

 全身に汗をかき体の震えが止まらないが、敵の動きに対応出来ているぞと、叢雲は呼吸すら忘れて追撃する。

 暴走する5つ目の咢が3つ目の咢を押さえているため、“バンシィ”の取れる手段は大きく制限される。

 尾のひとつを抑えたため跳躍は不可。取れる手段は戦艦級としての膂力に頼ったものか、その他の生態艤装によるものか。

 あるいは、この“桟橋”を侵蝕して、向こうの生態艤装に造り替えるか。

 

 “バンシィ”が選んだのは、まず速度を削ること。

 無事な咢で海面に噛み付き、“桟橋”の速度を殺さんとする動き。

 体感できるほどに速度が落ちたことを悟った葛城は、仮想スクリューの回転を更に上げて対抗するが、不安定だった機関が焼き付き、限界を向かえる。

 内部から煙が上がり、“バンシィ”に持ち上げられる形となった補完艤装を、葛城は放棄する。

 腰部の接続をパージして離脱。船体後部が持ち上がり、つんのめった叢雲がどこかへ飛んでゆく中、それでも甲板上に身を置く初春の姿を葛城は見る。

 

「妾は正直、もの事を考えるのが苦手じゃ」

 

 時間の流れを遅く感じる中、いったい何を言っているのかと疑問する葛城は、初春が止めを決めるのかと、宙に投げ出されながらもその動向を注視する。

 

「それでも、わかることはあるぞ? この瞬間のために、皆が布石を積み重ねてくれたことくらいは……!」

 

 声を張る初春は、懐から取り出した扇子を広げてひと扇ぎ、それを“バンシィ”に向けて放る。

 「お主にはこれが、何らかの意味がある所作に見えるかえ?」と問いかける先、“バンシィ”はゆらりと舞う扇子に目を奪われる。

 “バンシィ”は宙に舞う扇子に注意を惹き付けられるも、それを対して意識はしなかった。

 材質こそ艦娘の艤装と同質のものを使用してはいるが、それだけだ。先の叢雲の槍のように攻撃力を秘めているわけではない。

 注意を向けるべきは、目の前の艦娘の次の挙動だと、扇子の向こうの初春に注視する。

 そして気付く。初春の艤装から、二門あったはずの主砲が消えていることに。

 

 すぐに、どこかへ飛んで行った叢雲がその主砲を手にしたのだと“バンシィ”は判断した。

 しかし、その叢雲は視界の端で、うつ伏せの姿勢で海面にへばり付いている。

 では、消えた主砲はどこへ?

 その答えは、左弦側に感じた気配によって明らかになる。

 レーダー類を根こそぎ駄目にされていた“バンシィ”にとって、そうした直感の類は未知の感覚であり、新鮮で、そして恐怖に値するものだった。

 初春の主砲が、宙に浮いていたのだ。

 

 ――艦娘の素体となった少女たちの中には、所謂超能力や霊能力を有する者が数多くいたそうだ。

 そういった娘たちの多くは空母などの艦載機運用能力を有する艦艇との相性が良かったとされているが、一部は駆逐艦たちに振り分けられた。

 それ等が初春型であり、特に一番艦である初春には、最も能力の高かった娘が選ばれたそうだ。

 クローン体でもその能力を発揮できるのか等の懸念はあったが、それは空母系の艦娘たちが巻物等で艦載機の発艦を成立させることや、今の初春の姿こそが、その答えだ。

 

 左舷側に突如出現した主砲に、“バンシィ”は左腕を掲げて対応した。

 接触距離での砲火は“バンシィ”の左腕部を破壊し切れず、余波で主砲の方が損壊する。

 そして本命と見られる攻撃は、“バンシィ”の背後を確実に取った。

 背後に回り込んでいたもうひとつの主砲。

 砲撃にタイミングを合わせてブレーキにしていた尾を跳ね上げて、それをも破壊する。

 これで目の前の駆逐艦の攻撃の手はすべて潰した。

 見たところ、この初春型は魚雷発射管を装備してない。

 先ほどの様に魚雷を投げ渡すような存在も、もう近くには居ない。

 そう、“バンシィ”は判断しただろう。

 

 それどころか、力を使い切ったのだろうか、初春の頭上に浮いていた艤装が光を失って、糸が切れたかのように落下する。

 背部の艤装類も同様で、ランプが赤く明滅したかと思えば、光を失って停止してしまう。

 艦娘からの攻撃を凌ぎ切ったと、“バンシィ”は確信しただろう。鼻先に何かが接触する、そんな予感を得るまでは。

 それは、ここにあってはならないもの。魚雷1本。1秒もせずに接触する。回避は不可能だ。

 補完艤装が着水して加速を得る瞬間に、初春が利根から受け取ったもの。

 秋津洲に投げ渡されたものと同様に、信管を操作して接触するだけで炸裂するように仕組まれたものだ。

 どこから取り出したものだと疑問する“バンシィ”は、それがずっと目の前にあったものだと悟る。

 扇子から注意を外す際に、その後ろに隠れていた魚雷からも、注意を外してしまっていたのだ。

 

「奥の手じゃ」

 

 血の気が失せて唇まで真っ白になった初春の声は、かすれた小さなものではあったが、“バンシィ”には明瞭に聞き取ることが出来た。

 対応は間に合わず、魚雷は“バンシィ”の顔面へと吸い込まれ、炸裂した。

 

 

 ○

 

 

 何でこんなことになったのだろう。

 電はそう、未だ夜明けの遠い黒い海を虚ろに眺め、呟いた。

 たった2時間だ。たったそれだけの時間で、どれだけのことが起きただろうか。

 木村提督が重症を負って、僚艦が何隻も居なくなった。

 負傷艦も数多く、皆現実を受け入れ難く俯いている。

 電自身もそうだ。これまでの長い艦娘としての生の中で、幾度もあったはずの出来事だ。

 前線を退いていた時間が長すぎたのかと考え、それは違うと首を振る。

 こんなこと、慣れるはずがないのだ。

 

 顔を上げるといつの間にか隣りに霞が居て、とても見れたものではない酷い顔をしていて。

 ぼそぼそと呟くように、纏め上がった伊勢型の現状を報告してくれる。

 超過艤装・伊勢型は、損傷こそあったものの健在で、このまま航行可能だ。

 敵が格納庫で暴れたために、一部機能の復旧に時間を要するが、それ以外は支障なし。

 支障をきたしたのは、乗員の方だ。 

 

 木村提督はなんとか一命を取り留めた。

 今のところ容態も安定しているが、意識は戻らない。

 もちろん、提督として艦娘に命令を下すことは出来ない。

 負傷の度合いで言えば主力であるはずの重巡たちが特に酷く、那智と足柄は再起不能だ。

 元々ここまで持ったのが奇跡であった彼女たちだけに、再び目を覚ますことなく艦娘としての生を終えるかもしれないとの診断は心が痛い。

 駆逐艦たちの消耗も著しくはあるが、負傷の度合いは重巡たちほど酷くはないし、深海棲艦化の影響で回復速度は格段に上がっている。

 最も酷いのは、無事だった彼女たちかもしれない。

 戦いに出て帰ってきたものも、戦いに出られずにいたものも、一様に生気を失って動かなくなってしまった。

 以前の様に皆が無事であったのならば、生きてさえいれば、違っただろうかと電は思う。

 

 今回は違う。

 仲間が居なくなったのだ。

 

 雷が消える瞬間を看取った。

 冷たくなった天津風の姿に呆然とする夕張と連装砲くんの姿を目の当たりにした。

 そして、提督から暁の離脱を伝え聞いた。

 

 姉たちが、再会した古い友が、一度に居なくなってしまった。

 略式の葬儀を終えても、未だにその現実を受け入れられずに居て、頭が考えることを拒んでいる。

 これは罰か。幸せの、さらにその上を望んだ罰か。

 

 そうして自責の念に駆られる時間を、敵は与えてくれなかった。

 哨戒中の夜偵が敵襲を知らせる。

 手すりを握ってしゃがみ込んでいた体が跳ね上がるが、そのまま動かなくなる。

 現状対応可能な戦力はどれくらい残っているか。

 伊勢型の速度を上げて逃げ切ることは可能か。

 判断材料を洗い出すところまではいつも通りに出来るが、そこから先はぴたりと止まってしまう。

 いつもの様に判断が下せない。答えが出せない。

 敵が迫っているというのに。

 

 考えが同じ地点をループする。

 敵襲は此度も多段。第一波と接触し交戦する間に第二派が到達する。

 伊勢型付近での交戦は流れ弾が当たる危険性が高く推奨できない。

 かと言って、距離を取っての迎撃は艦隊の足を止めることになる。出撃した艦娘たちと、伊勢型の両方をだ。

 ならばルートを再計算して、交戦を避けて逃げの一手はどうだと光明を見出すが、続報は3方向からの挟み撃ちだとダメ押し。

 それに、伊勢型の速度を上げ過ぎればスクリューがいかれて航行不能のリスクが生ずる。

 徹底抗戦しようにも戦力が足りない。ここまでの航海を暁に頼り過ぎていたのだと、改めて思い知らされる。

 

 言葉を発せず、口を開くことしか出来ない電の隣りを、誰かが駆け抜けた。

 助走をつけて、手すりを蹴って跳躍し、眼下の黒い海面に着水する。

 提督と共に幾度も見送った後ろ姿は、艤装状態の阿武隈のものだ。

 これまでと異なる点がひとつあるとすれば、こちらに振り向いた彼女の瞳が、綺麗な空のような青から、血のような赤に変わってしまっていたこと。

 何故、艤装状態で伊勢型から飛び降りたのかは、聞かずともわかる。 

 敵を抑えるつもりなのだ。

 たった1隻で行くつもりかとの電の叫びは、甲高い調子はずれの叫びにかき消される。

 熊野だ。先ほどまでブレザーのほつれを縫っていたものを面倒くさそうに放り投げて、阿武隈に倣うようにして飛び降りたのだ。

 彼女たちだけではない。清霜に風雲に、浜風に磯風。筑摩、鳥海と、出撃可能な艦娘は次々と飛び降りてゆく。

 敵襲に備えて艤装状態のまま待機していたのが裏目に出た。艤装を纏ってさえいれば、彼女たちはもう、独自の判断で出撃可能なのだ。

 

 提督に彼女たちを止めてくれと願う電は、しばらく前からその提督の姿がないことに、今さら気付く。

 木村提督の代役を担うため、提督はこれから再度妖精化して、伊勢型の指揮を執る。

 長時間運用の負荷を抑える設定変更のため、一度“艦隊司令部施設”をオフにしている現状を、敵は再び狙ってきた。

 だが、もう2時間前とは違う。もう何隻もの艦娘が、命令の楔から解き放たれてしまった。

 海上に集まった艦種と編成を再確認した阿武隈は、自分たちを見下ろす電たちに伊勢型はこのまま行けと指示を送る。

 

「……そんな、置いてなんか行けないのです!」

 

 悲鳴のような電の言葉に、阿武隈は苦笑いで違うと告げる。

 

「伊勢型を狙う敵を退けたら、私たちはそのまま水無月島に帰投します」

 

 馬鹿なと、霞が血相を変えて吐き捨てた。

 現在位置は水無月島から2週間かかって辿り着いたのだ。艦娘たちが無補給で帰れるような距離ではない。

 叱りつけるように戻るべき理由を数挙げて行く霞に対して、阿武隈はわかっていると笑って見せる。

 悲鳴のような言葉に背を向け、再編成した艦隊のひとつを自ら率いて、敵の初動を抑えに行く。

 あとで提督にも叱られます、とも言い残して。

 

「確かに、ここで立ち止まってしまっては良い的だな」

 

 血が滲むほど手すりを握りしめた日向の言を、霞は黙れと一喝する。

 

「どいつもこいつも勝手なことばっかり! 提督に変わって指示は私が出すから、勝手に動けるからって、勝手に動くな! 停止! 一旦停止!」

 

 後部甲板上に居た面々も、海上に降りてしまった面々も、一様に動きを止めて霞の方を注視する。

 顔を真っ赤にした朝潮型は、先ほどまでの青ざめた様子を微塵も感じさせない剣幕で、拡声器も無しに声を轟かせる。

 

「私は秘書艦よ? 現状、全責任は私にあるの、わかる!? 行くなら行く、残るなら残るでいいわ! ただし、それはあんたたちの判断じゃない! 私の指示よ! 持ってくのは燃料と弾薬だけで充分! 責任とかそういう余計なものは、全部ここに置いて行きなさいな!」

 

 一息に言った霞は息を吸い直し、今度は伊勢型艦内に向かって声をつくる。

 

「伊勢、日向! 速度上げて、離脱急いで! くれぐれもスクリューやらないように! 千歳は水上機母艦モードのまま夜偵運用! 空母たちは夜明けに備えて、艦載機の確認は万全に! あと格納庫! “隼”2隻の投下準備、急いで!」

 

 涙目でまくし立てる霞の前に、いつの間にか熱田の阿武隈が立っていた。

 

「何よ、あんたも行くっていうの? あんたは水無月島の阿武隈じゃないのよ? 練度も低いし第二改装じゃない。あんたが行ったところで、何が出来るって言うのよ!?」

「それでも頭数は多い方が良いです。“隼”の操舵も訓練しました。それに、こんな私でも強くなれるって、教えてくれた人がいますから……」

 

 熱田の阿武隈が海上を見やれば、水無月島の阿武隈が困った様に笑んで見せる。

 その姿に、霞は拳を握りしめ、わなわなと全身を震えさせる。

 怒りが爆発するのかと焦る電と阿武隈は、秘書艦の消え入りそうな声を聞く。

 

「必ず皆で、生きて島に辿り着きなさい。そして私たちがあの島に戻るまでに、もう誰も沈ませないくらいに、強くなりなさいな……!」

 

 笑んで頷いた阿武隈は手すりを飛び越えて、海上の面々に加わった。

 それらを見送る霞の小さな後ろ姿に、電はやはり、慣れるものではないと涙を堪える。

 何も出来ずに仲間を見送るしかない心境など、どうして慣れようと言うのだ。

 

 

 


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