なんかもう、凄いことになってしまった。
提督は料理の皿をテーブルに置きながら、苦笑いに笑む。
先程から顔が苦笑いの形に固定されてしまったものの、悪い気分ではないのでこのままでもいいかなと思ってしまう。
艤装の動作テストが終わった後。
提督が落ち込んだ電を励ましているあいだに陽は沈んでしまい、すっかり夜になってしまっていた。
手早く入渠を済ませた暁たちは、更衣室で宣言したように酒盛りを開始してしまったのだ。
夕食という名のつまみは、艤装同期作業前に雷と電がつくり置きしていたものが、まだかなりの量残っている。
提督は暁たち第六駆逐の面々をテーブルに座らせ、つくり置きされた料理に火を通したり温めたりしてテーブルに運ぶ作業を続けている。
今日は提督自らが給仕役に徹しようと、響からこの酒宴の子細を聞いた時点で決めていたのだ。
喧嘩したり、仲たがいしそうになった時に、彼女たちはこうして酒を入れて、有耶無耶にして来たのだという。
決して衝突するに至った問題を解決するわけではなく、お互いの感情を一度フラットにするためのアルコールなのだ。
提督はその説明に、首を傾げざるを得ない。
そんな、諍いに発展するレベルに高ぶった感情に酒を注いだら、余計にヒートアップしてしまうのではないかと考えたのだ。
だがそんな疑問は、今の雷と電を見てしまえば、たちどころに霧散してしまうのだ。
先ほどから提督が浮かべている苦笑いの原因が、テーブルで肩を組んで笑いあっている雷と電なのだ。
艤装の動作テストで出撃不可判定なった雷電姉妹だが、このふたりの呑んだくれて具合が極めて凄まじい。
テンションが激しく上がったり下がったりを繰り返して、今はちょうど上がり傾向に入って落ち着いてきたところだった。
アルコールが入ってからの雷電(肩組んで合体して離れないため、提督は雷電と一括りにした)は、まずは泣き、次に笑い、犬になり、猫になり、そしてまた呑んでを繰り返すのだ。
雷はカルーアミルクやカシスオレンジ等の甘めのカクテルを。
電は焼酎やウィスキー、日本酒といった、酒好き丸出しの選択だ。
呆れ顔の暁と響が頬杖着きながら「雷、牛乳飲めないくせに、お酒に入れるとガンガン呑むのよね?」「次の日お腹下して大変なことになるけれどね」などと言っている。
電に対しては「痛風」「虫歯」「肝硬変」「動脈硬化」「お尻が大きい」「類稀なる安産型」と魔法の呪文で煽るのだが、酔った電は寛大な心で「にゃははは」と笑い飛ばしている。
もしかすると、今の電ならばいつものようなドジを踏まないのではないか。
顎に手を当ててそう勘ぐった提督だったが、酒瓶をひっくり返しそうになって慌てているので、彼女もいつも通りだなと一安心する。
「お酒のような嗜好品も、漂着物の中にはあるのだね?」
自らも席に着いて一息ついた提督が問うと、新しい酒瓶の封を切った響が「もちろんさ」と頷いて見せた。
「この孤島に流れてくる荷は、太平洋を横切ろうとしている貨物船のものさ。その大半が日本のものと言ってもいいくらいだよ。……あれから10年も経つのに未だ危険な海路に頼らざるを得ないのか、それともなんらか意図があってわざわざ海路を選んでいるのかは、定かではないけれどね。まあ、もちろん、酒類は年に数回巡り合うか否か、くらいの確率だけれどね。ただ、輸送品としてコンテナに満載されているわけだから、内容量は察してもらえるかな?」
コンテナの中に満載された酒瓶を想像した提督は、さぞ壮観だろうなとため息を吐く。
「ところで司令官。ウォッカとは、ロシア語でどういう意味か知っているかい?」
「んん? いいや? 知らないね」
突然、響がそんなことを聞いてくるものだから、提督は咄嗟に否と返してしまう。
提督の頭の中に残っていた知識を改める限りでは、彼はロシア語に明るいとは言い難い。
ロシア通の響が口にするワードが時折わからないことがあるが、彼女も気をつかってかなるべく日本語で話すようにしているため、今まで気にならなかったのだ。
疑問を浮かべた提督に、気を良くしたものか、響は酒瓶のラベルを見えるように掲げて得意気な顔になる。
「――水、という意味さ?」
提督が何か反応するより早く、響はウォッカの瓶を角度をつけてあおり始めた。
目を見開いた提督が慌てて止めようとするのを、立ち上がった響はするすると回避する。
踊るようにくるくると回って提督の手を逃れた響は、早速中身を空にした瓶を天に向かって掲げて、叫んだ。
「うううううぅぅらああああぁぁ!!」
腹の底から咆哮した響は、酒瓶を左手に持ち替え、窓の向こうへ敬礼する。
意味がわからず固まっている提督の後ろから、暁が「響、ロシアそっちじゃない」と指摘を飛ばし、響は回れ右して再度敬礼した。
どうやらロシアの方角へ向けて敬礼しているつもりだったらしい。
雷や電のように躁鬱のような感じはなくいつも通りなので、てっきり響は酒に強く、酔いもそれほどひどくはないと考えていた提督だったが、その認識を改めた。
響も結構酔っぱらっている。
まったく顔に出ないだけなのだ。
「大丈夫よ、司令官。響は一応、私たちのなかじゃ一番お酒強いの。それに、体が完全に艦娘になってる今らなら、入渠ドックに放り込んで完全回復しちゃうんだから……」
呆れ顔の暁が言うには、艦娘は入渠することによって、二日酔いすらも「肉体の不調」として調整されるというのだ。
便利すぎやしないかと呆れる提督だったが、緊急時の挙動を考えれば都合が良いなと頷かざるを得ない。
ものの数分かそこらで体内のアルコールを完全に分解して酩酊状態から脱することが出来るのならば、非番の時でなくとも酒が呑めるということだ。
羨ましい者にとってはこれほど羨ましいことはないだろう。
提督がそんなことを口にすると、暁は「どうかしら?」と肩をすくめる。
「だって、お酒が好きな人って、ただお酒を呑むんじゃなくて、雰囲気まで含めて楽しむものなんでしょう? せっかく気分良く酔っているところに出撃警報なんて聞いたら、気分も雰囲気も台無しじゃあない?」
そういうものなのかと提督が感心したように頷くと、暁はしばらく訝しげな顔をして、やがて「ああ」と何事かを思い出したように頷いた。
「そう言えば、司令官は記憶がないから、お酒飲んだことがあるかどうかもわからないのよね?」
「そうなるね。……試してみたい気はするけれど、ちょっと怖いかな」
テーブルに並ぶ酒瓶と、興味津々といった艦娘たちの輝かしい顔を見て、提督は少しだけ身を引く思いだ。
提督がこの島に漂着した際、電が様々な料理を出して、提督の味の好みを割り出すということを行っていたが、その中に酒の類は含まれていなかった。
いざこうして酒宴が始まってしまったわけだが、提督は酒類に口をつける気にはなれなかった。
たったいま暁に言ったように、怖かったのだ。
アルコールの匂いを嗅いでくらりと眩暈がしたので、提督は自分がお酒に弱いタイプの人間なのだと思い込んでしまっているのだ。
ただお酒が苦手な人間だったなのなら、まだいい。
しかし、体質的に一滴でも入れてはならない人間が居るのだと、宴席の前に雷に脅かされていたことも、慎重さに比重を置く結果となっていた。
「司令かーん、無理して呑まなくてもー、いいのよー?」
「なのですー。電たちはー、無理に飲ませたりなんてー、しないのですよー?」
「ねー?」と雷電が互いに頷き合い、優しい顔でそう告げるのを、提督は苦笑いしながら聞いていた。
彼女たちが無理に酒を勧めてくるような性格でなくて本当に良かったと思いながらも、どこか寂しくもあるなと提督は感じていた。
その寂しさを紛らわせるために、提督と同じく飲まずに妹たちを見守っている暁に話を振ることにする。
「みんなは、いつからお酒を? だいぶイケる口みたいだけれど」
「そうねえ……。電は、前の司令官の晩酌に付き合っていたから結構昔からだと思うわ。響はこの鎮守府の酒飲み勢に混ざって飲んでたし、前の鎮守府でも相当やってたんじゃないかしら? 雷は、この島に取り残されてからね。ちょうど今くらいにまで背が伸びで、おっぱいが大きくなって来た頃かしら?」
意外と時期が疎らなのだなと頷く提督に、電と半ば合体していた雷がしゃっくりしながらテーブルに身を乗り出して語り出す。
「ひっく! ……艦娘がストレスを発散したりー、精神の安定を保つためにはー、人間と同様の日常生活を送る必要があるのー。特に、三大欲求は重要よねえ? 美味しいものたくさん食べたり、ぐっすり眠ったり、エッチしたりー。もちろん、お酒もひとつのストレス発散、精神安定の手段なのよー? 私たち駆逐艦はー、体が子供だったからー、味覚や趣向の問題でお酒呑む子少なかったけれどー、ちゃあんとアルコールを分解できるのよー?」
感心したように頷く提督に、雷と入れ替わるように電が前に出る。
「それにもしー、急性アルコール中毒の症状が見られた場合ー、入渠ドックに放り込めばー、さっぱり全快するのですー。昔はこの鎮守府の呑兵衛さんたちがー、夜な夜なドックに放り込まれるなんてことものあったのですよー?」
今の鎮守府の状態からは想像できない光景に「むむむ」と顎に手を当てた提督は、目の前の雷電が翌日げっそりした顔をして、暁と響の手によって抱え上げられ、入渠ドックに放り込まれる姿を幻視した。
思わず吹き出してしまった提督に、笑われた雷電は猫になってにゃあにゃあと抗議を始める。
まあまあと、テーブルの上を這ってくる雷電を手で制して押し留めていると、新しい酒瓶を抱えてきた響が椅子ごと提督の隣に移動して来た。
今までのやり取りを聞いていたのか、酒瓶の封を切りながら話に参加してくる。
「まあ、そうは言っても、駆逐艦の体型はほとんど子供みたいなものだから、世間の眼やら、世論やらがうるさくってね? そんなわけで、私は前の鎮守府でウォッカをちょろまかしたのを咎められて、この鎮守府に送られて来たんだ。素行不良で左遷ってわけさ」
「そんなことがあったのかい? ……ん? 暁の話では、この鎮守府では普通にお酒を飲んでいたというけれど?」
暁に聞けば、ちょうどつまみのフライを口に居れようと大口を開けていた動きを止めてムッとしてしまう。
「この鎮守府は、そこら辺緩かったのよ。艦娘に関する規定は、最低限の事項さえ守られていれば、後は各鎮守府の裁量にゆだねられる部分が大きいわ。響が前に居た鎮守府はがっちがちのきつきつで、ここは緩々ね?」
「なるほどね。そう言うことだったのか……」
むすっとしてしまった暁の皿に自分の分のフライを分ける提督は(暁の機嫌はすぐに直った)、響が服の裾を小さく引っ張って自己主張していることに気付いた。
小さなグラスにウォッカを注いでちびちびと舐めるように飲みだした響は、遠まわしに話を聞いて欲しいと言っているのだ。
「……呑みたい盛りの重巡や軽空母勢が夜な夜な楽しげに宴会を開いているのを、ジュース片手に見ていることしかできなかったんだ。……永久凍土の大地で、私だけボルシチを食べられない苦行に等しいよ」
当時を思い出してか、珍しく悔しげな顔になって力説する響の皿にもフライを分けた提督は、席を立って次の肴を準備しにかかる。
すると、暁が慌てて手伝うと言って席を立った。
半ば一心同体となっている雷電が「逢引!? 逢引なのね!?」「なのです!? いやあん!?」などと煽るのに、暁はいつもとは打って変わって大人の対応でするりといなす。
手慣れた感じがするのは、もう慣れっこになってしまっているからだろう。
去り際、響が名残惜しそうな顔で手を伸ばしていたが、雷電に捕まってもみくちゃにされてしまった。
提督は小さな罪悪感を抱きつつも、手元を休めることはない。
次の料理を持っていったら、ちゃんと話につき合おう。
そうして調理済みの料理を皿に分けていると、暁がため息を吐く音を背後に聞いた。
「無理して酔っ払いの相手しなくてもいいのよ? こんなことまで、提督の義務に含まれていないんだからね?」
「気を使ってくれてありがとう。……その、飲めないと、大変じゃないかい?」
調理場から食堂の方を眺める提督に倣って、暁もそちらを見る。
雷電がちょうど鬱に入ってさめざめと泣きだしたところに響が酒を投入して、躁の方に引き戻そうとしているようだ。
しばらくそんな光景を眺めていた暁は、渋い顔で「うん、まあね」と歯切れ悪く言う。
「……正直に言うとね、私も呑めないわけじゃないのよ? でも、お酒の味って、どうしても好きになれないの。司令官と同じ子供舌だから」
「みんなと一緒に酔えないのは、寂しくはない?」
「それはそうだけれど……。でも、これはこれでいいかなって、思ってもいるのよ?」
提督が用意していた皿をいくつか持ち上げて、暁は言う。
「呑むとみんな、あんな感じになるから、誰かひとりくらいは面倒見る役が必要でしょう? それにね、ひとりだけ素面で、妹たちが楽しそうに酔っているのを見るの、結構嫌いじゃないのよ? 姉の特権ってやつね」
そう語る暁の顔は嬉しそうで、それでいて、どこか不満げでもあった。
「……みんなね、あんなに楽しそうに酔っぱらってるくせに、一番吐き出したいことは絶対に口にしないの。どれだけ酔わせてもボロを出さない。自分が抱えている一番苦しいことを、お墓の中まで持って行く気なんじゃないかしらね」
酔っても口を滑らせないほど、各々の抱えているものは重たくなってしまっているのだという。
「……せっかくお酒飲んだのだから、嫌なことや不安とか、打ち明けられないことなんか話しちゃったとしても、仕方ないって思うのにね? 誰に似たんだか、みーんな変なところで頑固なんだから」
しかし、暁は「でも……」と、両腕に料理の皿を満載したまま立ち止まり、首を巡らせて提督の方を見る。
「司令官が来てくれたおかげで、少しずつだけれど、みんな近くに寄って来てくれている気がするの。ちょっとだけ、ちょっとずつ、昔に戻れている気がするの……」
暁の笑みははにかんでいるようにも、自嘲しているようにも見えて。
提督はそんな暁に、何も言葉をかけることが出来なかった。
暁と料理を持ってテーブルに戻る際に、隣接するテーブルでも宴会が開かれていることに気付いた。
妖精たちの酒宴だ。
電がお猪口やビール瓶の王冠にちょっとずつ日本酒を注いでいき、妖精たちひとりひとりが敬礼してそれを受け取って行く。
つまみは揚げ物やジャーキー類ではなく、チョコレートや飴玉といった甘いお菓子だ。
甘いお菓子で辛口の日本酒を飲むのかと提督が感心したように顎を撫でると、提督の接近に気付いた妖精たちがわらわらと寄って来る。
ほろ酔い気分の顔を輝かせて口々に言うのは、「提督はお酒を飲まないの?」という疑問と、「ご一緒しません?」というお誘いだ。
困ったように頬をかく提督の代わりに、暁が窘めるような口調で提督はお酒が飲めない(かもしれない)ことを告げると、妖精たちは「それは仕方がない」と、残念そうに項垂れてしまう。
しゅんとしてしまった妖精たちを気の毒に思った提督は、何気なくテーブルに置かれたお猪口を手に取ってみる。
むせ返るようなアルコールの匂いにちょっとだけ顔をしかめ、やっぱり戻そうとテーブルに視線を戻したところで、早まったなと身を固くする。
お猪口を手にする提督を、妖精たちは期待を込めた目で見つめていたのだ。
こんな目で見られてしまっては、飲まないわけにはいかないではないか、と。
そんな考えを察した暁が「無理しない方がいいわ?」と少し強い口調で言うが、提督は大丈夫だと笑って、お猪口を一気にあおって見せた。
妖精たちから「わあっ!」と歓声が上がり、暁が呆れたようにため息を吐く中、提督は得意げにお猪口を掲げて見せる。
口の中や喉が火傷したかのような感触を味わったが、それも一瞬だけだ。
余韻は残るものの、それほど辛くはない。
なんだ、大丈夫じゃないか。
そう安堵した直後、提督は右に傾斜して床にぶっ倒れた。
○
提督が目を覚ますと、なんというか、すごい状態になっていた。
時刻は朝で、場所は提督の自室だ。
昨夜は暁たちや妖精と一緒に酒盛りとなっていたはずだが、ここで目覚めるまでの記憶がするりと抜け落ちている。
再び記憶喪になってしまったのかと、じんわり不安が押し寄せてきたが、幸いなことに酒宴の時の記憶はすぐに蘇ってきた。
妖精に勧められた酒を断れずにひと口あおり、すぐに気絶してしまったのだ。
おそらくはあの後、暁たちに自室に運んでもらったのだろう。
せっかくの酒宴に水を差してしまって申し訳ないなと考える提督だったが、しかし、だとすればこの状況も何かの罰なのかと、顔をしかめて唸らざるを得ない。
今現在、提督が寝ている布団には、暁たち4人が潜り込み、ぴったりと密着していたのだ。
各々が昨夜と同じ制服姿(中には随分とはだけている娘もいるが)なので、提督を部屋に運んでそのまま倒れ込むように眠ってしまったのだろうと察する。
それにしても、こうなってしまっては身動きもままならないと、提督は渋い顔で、布団に身を横たえたまま周囲を見回した。
特に酷いのは雷で、提督の頭をがっちり抱きかかえるようにして寝息を立てていた。
普段は抱き枕でも抱いて眠りに着いているのか、昨夜は提督が抱き枕代わりだったようだ。
幸せそうな寝顔のまま、「はい、あーんして? 美味しい?」「痒いところはなーい?」「しれーかんったら、もうダメよ、こんなところで……」と、寝言で新婚生活3連コンボを披露している。
なるべく起こさないように抜け出そうと試みる提督だったが、ホールド具合がまた絶妙なもので、一歩間違えればそのまま首をこきりとやられてもおかしくない、非常に危うい体勢だ。
そう言えば、その前の夜は確か電がこのホールディングの餌食になっていたなと思い出す。
しかしまあ、悪夢にうなされていないようで良かったと、顔に押し付けられる柔らかいものにどう対処しようかと提督が唸ったところで、もぞもぞと脇の下に潜り込もうとしてくる何かが居た。
暁だ。
提督の左側にぴったりと寄り添った暁は、頭をぐりぐりと提督の脇の下に潜り込ませようとしていた。
まるで子猫が親猫の体の下にもぐり込もうとするかのような仕草に、脇の下をくすぐられるような感触を覚えて、思わず身もだえしてしまう。
普段は布団に潜り込むようにして眠っているのだろうなと、提督は子猫の様子を観察しながら苦い顔をする。
脇の下に潜り込もうとするのもそうなのだが、出来ればすんすんと匂いを嗅ぐのも遠慮してほしいところだ。
成人男性の脇の匂いなど嗅いでも心地いいものではないだろうにと思う提督だったが、暁の表情は存外幸せそうだった。
まあ、無意識では仕方がないかと、雷がいる方とは反対側を向くと、少し離れたところに電が居た。
控えめに提督の人差し指を握って眠っている電も、静かな寝息を立てている。
彼女も悪夢にうなされていないようで何よりだと安堵した提督だったが、次の瞬間、電が口を開けて提督の指をくわえてしまい、ぎょっと目を見開く。
力の限り噛み千切ってやる、というわけではなく、甘噛みする程度、咥える程度の力加減だ。
幼い子供などが自分の指をくわえながら寝ているという知識が頭の中から引っ張り出され、電もそうなのだなと、提督は納得してしまう。
ところで、指先という部位は神経が集中していて、人間にとってもっとも敏感な場所のひとつだ。
提督の指先の感覚も鈍いものではなく、電の口内、唇や歯や、舌、唾液の感触まで鮮明に感じ取ってしまう。
気まずさに冷や汗をかく思いだが、無理やり引き抜こうとすれば起こしてしまいかねないので、このままの体勢を維持するしかない。
そして響は――、
「……響。何をしているんだい?」
「やあ、司令官。おはよう。ズドゥラストゥビーチェ」
ロシア語で「ごきげんよう」という意味だよと、ひとりだけ起きていた響は捕捉する。
しかしその体勢は何故か、提督に足四の字固めを掛けている真っ最中だったのだ。
「ああ、これかい? 司令官の上半身が占領されてしまっていたから、仕方なく下半身の方を実効支配することにしたのさ?」
「仕方なくか……。全部位無事に返還してくれると助かるかな?」
響の「共同管理ではどうだい?」という提案に渋い顔で拒否を示して起き上がろうとするのだが、四の字固めがしっかり極まっているため下半身は動かせない。
そもそも上半身は暁たちが拘束しているため、四方八方雁字搦めだ。
何故こんなことに。
そう疑問の表情を響に向けるが、響は空いた足で提督の下半身を弄繰り回すのに躍起になっていてそれどころではないらしい。
「……響? あの、やめてくれないかな?」
「おお、これは……。クセになりそうな不思議で斬新な感触だ。ハラショー」
真面目な顔でお馬鹿なことをのたまう響にどうしたものかと困る提督。
おそらくは昨夜、響の話を聞く前にこうして倒れてしまったので、八つ当たりしているのだろうなということは何となく察することが出来る。
今度酒盛りをする際には、ちゃんと響の話を聞くと約束を取り付け、なんとか足の裏で下半身を弄繰り回すのは止めて貰えた。
四の字固めだけは、どう頼んでもそのままだった。
そんなことをしていると、部屋の扉を開けて、慌てた様子の妖精が入って来るのを、提督と響は視界の端に捉えた。
工廠の、建造ドックを担当している妖精だ。
おそらくは建造ドックの修復が完了したのだろうと察しが着くが、だとすれば何故こんなにも焦っているのかが気になった。
その答えは、妖精自身の口から告げられる。
――建造が完了しました!
告げられた言葉の意味を、提督と響はしばらく理解出来ずに、固まってしまった。
数日前から妖精たちは建造ドックを修復するための作業に入っていたというのに、「建造が終了した」とはどういうことか。
そもそも、艦娘を建造するための開発資材が残っていないからこそ、暁たちは再び艤装を纏い、危険を冒して外海に出ようと計画していたのだ。
「……開発資材もないのに建造が完了? そもそも、建造は提督の承認と、艦娘の立ち合いが必要なんだ。それなのに……?」
響の困惑した声色に、提督は地下の建造ドックの状態を思い出す。
「確か、修復していたのは3号ドックだったよね? それで、1号ドックが圧潰、2号ドックが崩落で地下に脱落……。――10年前の空襲当時、崩落した2号ドックにて艦娘が建造中だった可能性は?」
「私は、そんな話は聞いていないね。そもそも、空襲の時は方々が混乱していたから、私も含めて正確な全貌を把握できている者が居ないんだ。妖精さんたちの証言も曖昧なことが多くて……」
真顔で確認し合った提督と響は、一拍ほど間をおいて布団から立ち上がった。
提督の上半身にしがみ付いていた暁たちを丁寧に引きはがし、急いで建造ドックへと駆け出して行った。